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佐藤虎美は藤沢市女子高生殺害事件の犯人
佐藤虎美(事件当時25歳)は、1967年1月13日に発生した「藤沢市女子高生殺害事件」の犯人で、死刑判決を受けて1982年に死刑執行された男です。(死刑執行時41歳)
佐藤虎美は、声をかけた見ず知らずの女子高生(事件当時19歳)に声をかけるも、あしらわれて逃げられた事に腹を立てて、後を追って強姦の上殺害し遺体を崖下の荒地に埋めて隠滅をはかりました。
佐藤虎美は逃走をはかるも数日後に逮捕され、1972年に死刑判決が確定。それから10年後の1982年に死刑が執行されましたが、死刑執行の際に大暴れして抵抗し、現在もネット上で話題にされています。
なお、佐藤虎美の名前は正確には「佐藤虎“実”」であるとする情報もありますが、ネット上では佐藤虎美の名前で定着しているためこの記事ではこちらで統一します。
佐藤虎美の生い立ちや家族① 横暴な父親のためまともな教育を受けられず
藤沢市女子高生殺害事件の犯人の佐藤虎美は、裁判記録によると1941年7月10日の生まれで、出身地は岩手県西磐井郡花泉町大字永井字東狼ノ沢(一関市花泉町)。実家は農家で家族は父親と母親、弟が1人いる2人兄弟の長男でした。
父親は頑固で横暴な性格で、佐藤虎美は幼少期から農作業の手伝いに駆り出されて、学校は早退させられたり休まさせられたりした上、勉強用具も与えられず、まともな教育を受けられなかったようです。
家自体も裕福ではなく、佐藤虎美は永井中学校時代には非行に走り自転車窃盗などで3度少年院に入院しています。
佐藤虎美の生い立ちや家族② 力士を目指すも叶わず3度の逮捕で懲役
佐藤虎美は1956年3月に永井中学を卒業するも進学は叶わず、力士になろうと考えて地元出身の力士の及川を頼って単身上京し、海産物問屋の店員をしながら生活するも結局入門は叶いませんでした。
その後は一時故郷へと戻って実家の農業手伝い、土工や炭鉱夫などの肉体労働をして生活していますが、1957年に窃盗で、1958年に強盗・婦女暴行致傷事件、さらに別の暴行・窃盗事件を起こし合計で3度逮捕されています。
そして、1958年12月、佐藤虎美は窃盗罪、傷害罪、強盗強姦罪などで裁かれ、懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決を言い渡され山形刑務所に収監されています。
佐藤虎美の生い立ちや家族③ 出所後は寿司屋の従兄を頼るも続かず犯行へ
佐藤虎美は収監から約7年半後の1966年10月に仮出所を許され、1度は岩手県の実家に戻るも父親との折り合いが悪くなってすぐに家を出ています。
それから佐藤虎美は神奈川県川崎市建設会社で日雇いの土工として働くようになり、実家には寄り付かなくなります。そんな佐藤虎美を案じた従兄に自分が横浜市で経営していた寿司屋で働くように勧められ、佐藤虎美は1966年12月30日から従兄弟の寿司店で住み込みで働き始めています。
しかし、佐藤虎美は自分に前科がある事に負い目を感じていた事もあって従兄の店での生活に馴染めず、藤沢市女子高生殺害事件を起こす前日の1967年1月12日に寿司飯を炊き損じるミスをし、それを従兄の妻に叱責されたのを、「自分は前科者で煙たがられている」と邪推し、その夜に店を飛び出してしまいました。
そして佐藤虎美は再び建設会社の飯場へと戻って土工作業員として住み込みで働く事を決めています。その翌日に同僚に作業用ズボンを買いに行くと言って宿舎を出て、その帰宅の途上で藤沢市女子高生殺害事件を起こしています。
佐藤虎美の藤沢市女子高生殺害事件を起こしてから逮捕されるまでの経緯については後述します。
佐藤虎美の結婚
佐藤虎美は結婚はしておらず独身でした。過去に結婚歴もなく生涯独り身でした。
佐藤虎美の顔写真
出典:https://chie-pctr.c.yimg.jp/
佐藤虎美の顔写真で現在ネット上で確認できるのは上の1枚のみです。上の顔写真は佐藤虎美の逮捕時に新聞や週刊誌に掲載されたもののようですが、当時もこれ以外の顔写真は出ていなかったようです。
佐藤虎美の生い立ちを見る限り、写真を撮るような事はほとんどなかったと思われ、顔写真自体がほとんど存在していないようです。
佐藤虎美の起こした藤沢市女子高生殺害事件の経緯と動機
佐藤虎美の起こした「藤沢市女子高生殺害事件」の裁判記録などで明らかになっている詳しい経緯と、犯行の動機についても見ていきます。
藤沢市女子高生殺害事件の発端(襲撃の動機)はナンパを無視された事
佐藤虎美は1967年1月12日の夜、住み込みで働いていた従兄の経営する寿司屋(横浜市内)を飛び出し、その夜は、以前働いていた神奈川県藤沢市石名坂にあった某建設会社の飯場(作業員宿舎)で宿泊し、翌日から再びここで働く事に決めています。
翌1月13日、佐藤虎美は昼前頃に飯場を出て、作業ズボンを買うために藤沢駅前の商店に赴いた後、映画を観るなどして時間をつぶしてから徒歩で飯場へと帰宅を開始。
その途中、佐藤虎美は藤沢市藤沢5961番地(現在の本藤沢2丁目17番)にあった、江ノ電自動車学校手前の道で後ろから歩いてきた当時19歳の女子高校生Aさんに声を掛けました。
裁判の記録によると、佐藤虎美はこの時「自分は修道院前の飯場で働いている佐藤だ」などと名乗った上で、「今晩は寒いですね」などと話しかけたと供述しています。これに対して、Aさんは「寒いのは当たり前じゃないの」などとあしらいつつ避けようとしたようです。
佐藤虎美はこのAさんの反応に対して「愚弄された」と思い、怒りを感じたと供述しており、これが佐藤虎美が被害者のAさんを襲撃しようと決める直接的な動機になったと裁判で認定されています。
激昂した佐藤虎美がAさんを追い強姦の上殺害
ナンパを断られた事に激昂した佐藤虎美は、逃げようとするAさんの後を追いかけました。
周辺は両側に田んぼが広がり人家も離れて人通りもない道であったことから、佐藤虎美は「この際この女を強姦してしまおう」との考えに至り、背後からAさんの肩を掴み、悲鳴をあげるAさんの口を手で塞いで首を腕で絞めあげるようにして、逃げようとするAさんと揉み合いになり、道路沿いの土手から一緒に転げ落ちました。
転落した後もAさんは悲鳴を上げ続けたため、佐藤虎美はAさんは通行人に気づかれる事を恐れてAさんの口を再び強く手で塞いでいますが、なおもAさんは強く抵抗しました。
裁判記録によると、このタイミングで佐藤虎美は「Aさんを死に至らせてもやむを得ない」と考え、両手でAさんの首を強く絞めて失神させた上で、下着を引き裂いて強姦しています。
佐藤虎美は強姦後に現場を立ち去ろうとしますが、ここでAさんが意識を取り戻して叫び声を上げたため、通行人に気づかれるのを恐れてすぐにAさんの口を塞ぎました。
ここで改めて「Aさんが死にいらしめてもやむを得ない」との考えを抱いた佐藤虎美は、両手で首を強く絞めてAさんを殺害しました。さらに、佐藤虎美はすでに息絶えて仰向けに倒れていたAさんの上に馬乗りになって、確実に殺害する目的で5分間にわたってその首を絞め続けています。
佐藤虎美が1度離れた後現場に戻りAさんの遺体を埋め隠蔽をはかる
Aさんの首を絞めて殺害した後、佐藤虎美は一旦は土手を上がって飯場へと帰宅しようとするも、再びAさんの遺体の元へと戻って念を押すように死亡している事を確認しています。
それから佐藤虎美は急いで飯場へと戻り、工事用のスコップを持って再びAさんの遺体の場所まで戻り、遺体を担いで約300メートル離れた荒地(現在の藤沢市本藤沢2丁目11番と16番あたり)へと移動し、穴を掘ってAさんの遺体を埋めました。
佐藤虎美は犯行後に従兄のもとを訪れ自首を勧められるも拒否
佐藤虎美は、藤沢市女子高生殺害事件を起こした翌日の1月14日の午後、従兄(佐藤虎美を寿司店で働かせるようにはからった従兄)のもとを訪れています。
この時、従兄が、佐藤虎美が泥だらけの格好をしているのを不審に思って問い詰めたところ、佐藤虎美は事件を起こした事を自白しています。当時の中日新聞によると、佐藤虎美はこの時に「女を宅地造成現場近くで殺して枯れ草を被せた」、毎日新聞によると「昨晩、藤沢で若い女性を殺してきた。どうしても田舎に帰りたいから、金を貸してくれ」と訴えたという事です。
当初、従兄は話半分に聞いたようですが、金の無心を断った上で自首を勧めています。しかし、佐藤虎美は「現場に証拠になるものは何も残していないから捕まらない、(前科のある)自分はどうせ捕まれば最高の刑(死刑)を受けるに決まっているから逃げたい。時効は何年だ」などと言って、自首を拒否して逃走を宣言しています。
佐藤虎美はその後、いったん飯場に戻り、翌1月15日には同僚と公衆浴場に行っていますが、それを最後に飯場からも姿を消し、行方をくらませました。
また、従兄は翌日の新聞に殺人事件の記事が掲載されなかった事から、佐藤虎美の自白を信用せず嘘だと思っており、すぐに警察に通報する事はしていません。
被害者のAさんの親族の届出と従兄の通報により事件が発覚
Aさんが佐藤虎美によって殺害された翌日の1月14日の13時30分頃、帰宅しないAさんの身を案じた母親が自宅周辺を探していたところ、自宅から西へ約70メートル離れた市道の脇でAさんが当日履いていた靴を発見。
その日の夜にAさんの父親が神奈川県警藤沢警察署に捜索願を提出。これを受けて警察は、翌15日からAさんの自宅付近の山中を捜索していますが手がかりは得られませんでした。
翌1月16日(事件発生から3日後)、神奈川県警察は公開捜査に踏み切って情報を公開。翌1月17日の午後に、この報道を見た佐藤虎美の従兄が「従弟の佐藤虎美が、13日の夜に藤沢市内で女性を殺して埋めたと言うので、自首を勧めたが、その後行方をくらましている」と届け出ています。
これを受け、警察は17日18時頃からAさんの自宅周辺(靴が発見された周辺)を捜索し、22時過ぎになって、Aさんの自宅から約300メートル〜500メートル(報道によって微妙に異なる)ほど離れた西方の造成地(水田とも)の地中からAさんの遺体を発見しています。
佐藤虎美が逮捕
神奈川県警察はAさん殺害の犯人を佐藤虎美と断定して全国指名手配し、佐藤虎美はその翌日の1月18日の午前3時30分頃、横浜市鶴見区の親族(寿司屋とは別の従兄)の自宅に現れたところを、張り込んでいた捜査員によって緊急逮捕されています。
佐藤虎美は翌1月19日には、Aさんに対する婦女暴行、殺人、死体遺棄の容疑で横浜地検に身柄を送検されています。佐藤虎美は容疑を認め犯行を自供しています。
佐藤虎美のAさん殺害自体の動機については、強姦後に被害者のAさんが悲鳴を上げたため、事件発覚を恐れて口封じのために殺害したと裁判で認定されています。
佐藤虎美の起こした藤沢市女子高生殺害事件の被害者の女子高校生について
藤沢市女子高生殺害事件後の報道では、被害者のAさんの生い立ちについても若干触れられています。
それによると、被害者Aさんは当時19歳で、神奈川県立湘南高等学校の定時制の4年生でした。家族は両親の他、兄と姉が1人ずつ、弟が3人いる大家族で裕福ではなかっため、海老名小学校を経て藤沢市立長後中学校を卒業後にすぐに働き始めており、1965年から藤沢市女子高生殺害事件当時まで藤沢市立明治中学校の事務員の仕事をしながら定時制高校で学んでいました。
Aさんは、苦労しつつも「心の豊かな女性になりたい」との思いから高校の文芸部に入り、読書や詩作に励んでいたとも報じられています。
藤沢市女子高生殺害事件当日は、21時まで定時制高校で授業を受けた後、同校で開催する全国定時制芸術大会の打ち合わせ会に参加し、21時20分頃に会議を途中で抜けて帰宅しました。
Aさんはクラブ活動や会合で下校が遅くなる場合はタクシーで帰宅していましたが、その日はタクシーが見つからずに徒歩で帰宅していました。いつもであればそうした場合は長兄(事件当時26歳)が迎えに行っていましたが、その日に限って長兄も遅くまで働いていて迎えに行けなかったという事情があったようです。
なお、藤沢市女子高生殺害事件の被害者のAさんの実名や顔写真などは公開されていません。
佐藤虎美の判決は無期懲役が覆されて死刑に
佐藤虎美は、藤沢市女子高生殺害事件での逮捕送検後、起訴され最終的に死刑判決を受けて確定しています。
佐藤虎美の第1審の判決は「無期懲役」も検察側が控訴
佐藤虎美は裁判では、当初は強姦致死と殺人の容疑を認めつつも、殺意のみ否認しAさんを殺すつもりはなかったと主張しました。
1審は一旦結審しましたが、判決公判を待つタイミングで、佐藤虎美が突然、弁護士に「事件当日、自分は被害者のAさんと同じ道ではなく、そこから約400メートル離れた別の道を同僚と2人で通っていた」などと訴え始めました。
そのために判決公判は1度見送られて、やり直しの公判が開かれ、佐藤虎美は罪状認否にて「Aさんを殺した事も死体を埋めた覚えもない。自分は本事件には全く無関係だ」などと無罪を主張し始めました。
最終的に横浜地裁は検察側の死刑の求刑に対して、佐藤虎美に無期懲役の判決を言い渡しています。
無期懲役の判決の理由は、強姦と殺人がともに当初から計画されたものではなく偶発的に起きたと認定された事と、佐藤虎美の不遇な生い立ち、前科(窃盗罪、傷害罪、強盗強姦罪での懲役)での仮出所から今回の事件までに更生しようと努力していた事(創価学会に帰依して信心を深めていた事など)が考慮されたためでした。
1審では強姦については、佐藤虎美は最初から強姦をしようと考えていたわけではなく、被害者のAさんが自身を拒絶して逃げようとした事に憤慨した上、周囲が人家が離れて暗く人通りもなかったために突発的に強姦を決意したとして、「強姦は偶発的な犯意によるもの」と認定されています。
また、殺人についても1審では、佐藤虎美はAさんを殺害するつもりはなく、Aさんが悲鳴をあげたために通行人に見咎められるのを恐れて「死んでも構わない」と考えた事、さらにその後、Aさんが意識を取り戻した際にも再び声を上げたため、同じく発覚を恐れ、首尾よく逃走をはかるために「死んでも構わない」と考えつつ気絶させる目的で首を絞めたとして、「殺人は未必的故意に基づく犯行」と認定されています。
しかしこの判決に対して検察側は「判決が軽すぎる」として控訴しました。
控訴審で死刑判決が言い渡され確定へ
控訴審では、1審判決で佐藤虎美の犯行は未必的故意と認定された事に対し、検察側は犯行当時の佐藤虎美の心情や首を絞める方法、そこまでの経緯や犯行後の状況などを挙げて、「確定的殺意を持って(殺人を)実行した事を明らか」だとして、1審判決は事実誤認に基づくものだと主張しました。
東京高裁はこの検察側の論旨を退けますが、その上で、佐藤虎美の残虐かつ執拗な犯行内容を挙げて「天人とも許す事ができないもの」と糾弾し、佐藤虎美が従兄に自首を勧められても拒否した事や公判でも供述を転々と変化させた事などを挙げて「いささかも改悛の情がない」などと指摘。
さらに、佐藤虎美の犯行が社会に与えた重大な影響なども理由として挙げ、「慎重に考慮を重ねても、被告人佐藤虎美には極刑をもって臨むべき」との結論を下して、死刑判決を言い渡しました。
佐藤虎美はこの判決に納得せず、最高裁に上告しますが、最高裁はこれを棄却する判決を下し、1972年に死刑が確定しています。
佐藤虎美は死刑執行時に大暴れをして抵抗
佐藤虎美は死刑判決の確定後もそれに納得せずに何度も再審請求を繰り返すなど悪あがきし、教誨師にも全く耳を貸しませんでした。
佐藤虎美は1審判決で無期懲役の判決が出たのに、控訴審でそれが覆されて死刑判決が確定した事をどうしても諦めきれずに再審請求を繰り返していたとされています。
そして、死刑判決確定から10年4ヶ月後、もう1度再審請求をしようと準備をしていた1982年11月25日の朝、佐藤虎美は所長室に連行されて即日の死刑執行を言い渡されます。
佐藤虎美はこれに「なんでだっ!」と激昂し、「俺は今再審の手続きをしようとしていたところだ。その事で呼びだれたと思って来たんだ。なんで今執行するんだ!」(大塚公子「死刑囚の最後の瞬間」より)などと叫んで大暴れをしています。当時、佐藤虎美は身長180cm体重100kg超の巨漢で、刑務官が数人がかりで取り押さえてどうにか手錠をかけ腰縄をつけて大人しくさせたようです。
それから刑場までの約150メートルを引き立てられる際も、佐藤虎美は大暴れして抵抗を試みるも、刑場に引きずり込まれると一旦大人しくなったようです。
しかし、腰縄が解かれて手錠が外されると、再び佐藤虎美は猛り狂って大暴れを始め、獣のような咆哮を上げ、取り押さえにかかる刑務官を投げ飛ばし、腕を振り上げて床を踏み鳴らして実に50分にもわたって大暴れを演じています。
刑務官はどうにか佐藤虎美を取り押さえると、カーテンの向こう側に直接引っ立てるようにして、無理やりに首に縄をかけて吊り下げるという、あまりにも壮絶な死刑執行となったという事です。
まとめ
今回は、1967年に発生した「藤沢市女子高生殺害事件」の犯人で、死刑執行時に大暴れしたとして現在も話題にされている佐藤虎美についてまとめてみました。
佐藤虎美の生い立ちについては、1941年7月10日生まれ、岩手県西磐井郡花泉町大字永井字東狼ノ沢(一関市花泉町)の貧しい農家の出身で、家族は両親と弟で、幼少期から家業の農作業を手伝わされてまともな教育を受けられずに育った事などがわかっています。佐藤虎美は結婚はしておらず生涯独身でした。
佐藤虎美は中学時代から非行を繰り返し、窃盗罪などで3度少年院への入院歴があり、中学卒業後すぐに働きに出た後、1957年から58年にかけて窃盗、強盗、婦女暴行致傷などで合計3度逮捕され、懲役の実刑判決を受けています。
佐藤虎美は出所から1年後に藤沢市女子高生殺害事件を起こしています。この事件は、たまたま見かけた当時19歳の女子高校生に声をかけたのを冷たくあしらわれた事に腹を立てた佐藤虎美が、執拗に後を追って強姦の上に殺害したという極悪非道なものでした。
佐藤虎美の犯行動機は、ナンパを断られた事と被害者が叫び声を上げたため事件発覚を恐れて口封じのために首を絞めて殺害したと裁判で認定されています。
その後の裁判で死刑判決が確定していますが、佐藤虎美はこの判決に納得せずに再審請求を繰り返しました。しかし、死刑判決確定から10年4ヶ月後に死刑執行が言い渡され、この際に佐藤虎美は大暴れして50分間にわたって刑務官と格闘した上、最後は無理やり縄を首にかけられて吊るされるという醜悪な死に様を演じました。