横井庄一さんはグアム島でみつかった残留日本兵で、28年に及ぶ潜伏生活が話題です。
今回は横井庄一さんの経歴、どうやって帰還したのか、穴での生活、海外の反応や名言、結婚した嫁や子供、小野田寛郎さんとの違い、死因を紹介します。
この記事の目次
- 横井庄一のプロフィール
- 横井庄一の経歴① 生い立ち
- 横井庄一の経歴② 第二次世界大戦でグアムに配属される
- 横井庄一の経歴③ グアムで”残留日本兵”となり、穴で28年間生活
- 横井庄一はどうやって日本に戻ったのか?
- 横井庄一発見に対する海外の反応
- 横井庄一の帰国後の名言「恥ずかしながら帰って参りました」
- 横井庄一の帰国後の生活① 人々の注目を集める
- 横井庄一の帰国後の生活② イベントや講演などで活躍
- 横井庄一が結婚した嫁は12歳年下・子供はいる?
- 横井庄一と同じく長年潜伏していた残留日本兵・小野田寛郎とは
- 横井庄一と小野田寛郎の違い① 潜伏目的
- 横井庄一と小野田寛郎の違い② 潜伏中に知りえた情報の量
- 横井庄一の死因は心臓発作
- まとめ
横井庄一のプロフィール
生年月日:1915年3月31日
出身地:愛知県
所属:大日本帝国陸軍
横井庄一さんは日本の陸軍軍人(最終階級:陸軍軍曹)で、評論家でもあります。
また、太平洋戦争終結後から28年間もの間、グアム島に潜伏していた”残留日本兵“として知られています。
横井庄一の経歴① 生い立ち
横井庄一さんは1915年、洋服屋を営んでいた父親と母親の間に長男として誕生。
しかし、わずか生後半年で両親が離婚。1926年に母親が再婚し「横井」姓となりました。
旧制小学校卒業を卒業後、愛知珠算学校へ進学。1930年になると、軍服作りをしていた洋品店に奉公として出ており、5年ほど勤務しました。
横井庄一の経歴② 第二次世界大戦でグアムに配属される
出典:https://pixabay.com/
横井庄一さんは1935年、20歳のときに徴兵されて第一補充兵役(補充兵)となり、1938年5月に召集を受けて帝国陸軍として中国へと送られて、1939年3月までその職務を全うします。
軍務を終えて洋服の仕立て屋を開業するも、1941年8月に再招集され、今度は中国の満州へと送られます。
その後の1944年、グアム島に歩兵第38連隊に陸軍軍曹として配属されると、すぐにアメリカ陸軍が上陸して日本軍は壊滅状態になり、横井庄一さんが所属していた中隊は解散。
横井庄一さんは同年8月に、グアム島内で戦死したものとみなされました。
横井庄一の経歴③ グアムで”残留日本兵”となり、穴で28年間生活
グアム島内には横井庄一さんのほか、一部の日本兵が生き残り、他の4名と行動を共にしていたそうです。
生存した我々5名は、何より水と食料を確保できる地点が潜伏の第一条件だろうと考えました。昼間はジャングルにひそみ、朝夕は警戒しながら食べ物を探し廻る野良犬生活を始めたのです。
引用:横井庄一
ジャングルや竹藪に穴を掘り、自ら作った地下壕などで生活していたといいます。
横井さんの「穴」は一番深いところで3メートルは掘り進めている。
換気口や井戸、トイレも。穴の入り口は普段は草で隠し、息を潜めての暮らし…。
居住スペースとしては、高さ1メートルあまり、奥行き3メートルといったところ。
妻・美保子さんも「人間が住むようなところではない」と、1973年に実際に訪問して話している。
1945年に日本がポツダム宣言により無条件降伏すると、グアム島では残留日本兵へ投降を促す放送が流されましたが、横井庄一さんはそれを信じず、山中に潜んでゲリラ戦を継続しました。
その放送を聞いても私たちは敗戦を信じられず、相変わらず敵の襲撃を恐れてジャングルの中をさまよい続けたのです。長くとも十年待っておれば、必ず日本軍は力を盛りかえしてこのグアム島へも攻め寄せてくると固く信じておりました。
引用:横井庄一
その後、1946年に行動を共にしていたうちの2人が投降。1964年には残る2人が台風によって亡くなり、横井庄一さんはグアム島のジャングルで1人になってしまったのです。
横井庄一はどうやって日本に戻ったのか?
横井庄一さんは日本の敗戦を信じず、日本軍が力を取り戻したら再びグアム島へ攻め入って助けにくると疑いませんでした。
また、横井庄一さんのグループ以外の残留日本兵は、アメリカ軍によって防空壕に手りゅう弾を投げ込まれたり、火炎放射器で焼き殺されたりと無残な死を迎えています。
そんな極限状況では、投降を呼びかけられたとしても、おいそれと信じることは容易ではありません。
そんな横井庄一さんが無事に日本に帰還できた経緯をここでは紹介します。
現地住民に確保され、身柄を引き渡された
横井庄一さんは、グアム島に派遣されてから約28年もの歳月が経った1972年1月24日、鹿の猟に来ていた現地の住民たちに遭遇し、確保されました。
食料としていたエビやウナギを獲るために罠を仕掛けようとしていたところ、横井庄一さんが日本兵だとわかると、1人が横井庄一さんを殴りつけ、ライフルで撃ち殺そうとしたといいます。
実はその住人は、1950年に横井庄一さんのようにジャングルに潜伏していた残留日本兵に弟と甥を殺害されており、恨みから横井庄一さんを殺そうとしたそうです。
実は義兄は日本兵をひどく恨んでいた。1950年にジャングルに潜んでいた残留日本兵に弟と甥を殺されていたんです。殺され方もあまりに無残だった。銃殺されたり、ナタのような刃物で切り殺された。肉親を奪われた義兄の怒りはすさまじく、『絶対に犯人を捜し出してやる』とよく言っていたものです。それに2人の遺体は、横井さんを発見した場所の近くで見つかっていたんです
しかし、ほかの住人から「彼(横井庄一さん)を殺せば、我々も殺人者となってしまう!」と止められたことで我に返り、殺害を思いとどまりました。
なお、横井庄一さんにこの住人の弟と甥を殺した疑惑がかけられていましたが、真犯人はわかっておらず、真相は明らかになっていません。
そして住民に拘束された同年2月2日、横井庄一さんは満57歳で日本に帰還。
その際、1964年に台風によって亡くなった2人の部下の遺骨も、一緒に日本に戻ってきました。
横井庄一発見に対する海外の反応
残留日本兵に身内を殺された恨みを持つ現地住民は、横井庄一さんに殺意をむき出しにしましたが、「それでも殺してはいけない」と怒りを内にとどめる住人が多かったようです。
また、残留日本兵に家族を殺された母親は、横井庄一さん発見に際し現地警察から事件の再捜査を希望するかを問われ、「(犯人を)許す」と答えたため、再捜査は行われませんでした。
カトリックでは「罪を赦(ゆる)す」と説いており、島民の75%がカトリック教徒だったグアム島では「あくまで戦争がもたらした結果」として、横井庄一さんに復讐はしなかったのです。
まさに主イエスは、十字架の主として「あなたの罪は赦される」と語りかける。罪の赦(ゆる)しの言葉を聞く者は、神に義とされ、神の愛のうちに生きるようになる。その時、貧しさ、病気、老い、死は、恵みと希望に気づく機会へと変えられる。罪の赦(ゆる)しは、新しい生活を始めさせる神の恵みである。
また、諸外国では28年間という潜伏期間に対する適応能力の高さと、その忠誠心に対して驚きと称賛の声が数多く寄せられていました。
横井庄一の帰国後の名言「恥ずかしながら帰って参りました」
横井庄一さんは軍事教育を受けて育ち、「生きて本土へは戻らない」と決意して出国したといいます。
そのため、日本に生還した際も空港で出迎えた当時の厚生大臣・斎藤邦吉さんに対し、ただひたすらに恐縮した様子を見せていました。
また、「何かのお役に立つと思い、恥をしのんで帰って参りました」、「グアム島敗戦の状況をつぶさに伝えたく、恥ずかしいけれども帰って参りました」と伝えたといいます。
さらに、その後に行われた記者会見では「恥ずかしながら、生きながらえておりました」と発言。
これら発言から「恥ずかしながら帰って参りました」という名言が流行語となりました。
当時の日本は、東京オリンピック・大阪万博と華やかな催しが続き、高度経済成長の真っただ中。
浮かれつつあった日本に「戦争は完全には終息していなかった」という事実は、とてもセンセーショナルなものだったと言えます。
横井庄一の帰国後の生活① 人々の注目を集める
日本に帰国後、横井庄一さんは体調や健康状態を調べるために入院しています。
入院時には、横井庄一さんの異様なまでに短い睡眠時間や要求水準の低さ、心の不安定さなどが問題視されたそうです。
退院後は、母親の養子夫婦が暮らす愛知県名古屋市の家を住まいとしていました。
当時の報道によれば、横井庄一さんを一目見ようと名古屋駅に5000人もの人が集まったそう。
また、住まいにたどり着くまでにもみくちゃにされ、ようやくたどり着いた家の屋根にまで人が押しかけていたとのことです。
横井庄一の帰国後の生活② イベントや講演などで活躍
横井庄一さんは帰国後、周囲の心配をよそにすぐに戦後の日本に順応していきました。
また、全国から集まった寄付金のほか、帰国を機に巻き起こった「軍人ブーム」で数多くのイベント・メディアからオファーがあったため、金銭的な問題ななく過ごせていたようです。
さらに、1973年に起きた小説家・小松左京の「日本沈没」ブームや、オイルショックの影響から横井庄一さんの元には”耐乏生活”に関する講演のオファーが殺到。
日本唯一の「耐乏生活評論家(生活評論家)」として、グアム島での経験を交えた節約生活やサバイバル術などを語りました。
その翌年には著書『明日への道』を出版。グアムのジャングルで経験した出来事を綴り、ベストセラーとなっています。
また同年「第10回参議院議員通常選挙」に無所属で立候補しています。ただし、こちらは落選したようです。
ブームは徐々に落ち着いていきますが、1982年放送のテレビ朝日系サバイバルバラエティ番組「ザ・サバイバル」に出演すると、再び人気を博した横井庄一さん。
1991年には春の園遊会に出席し、当時の天皇・皇后からもお言葉を賜ったそうです。
横井庄一が結婚した嫁は12歳年下・子供はいる?
帰国した横井庄一さんの元には、生活費などを心配した全国の人々から多くの寄付金が集まったといいます。
しかし、当の横井庄一さんはその状況を「人寄せパンダみたいだ」と感じ、一時は人間不信にまで陥ってしまったそうです。
そんな中、横井庄一さんは1972年にお見合いをし、幡新美保子さんと結婚。幡新美保子さんは12歳年下で、当時京都に住んでいた女性でした。
幡新美保子さんは、横井庄一さんとの見合いを以下のように振り返っています。
彼はちょっとひねくれていましたね。いきなり、初対面の私に「わしを見に来ただけだろう」と言うんです。ずっと見せ物扱いされ、結婚話も実らず、悩んでいたようです。私は思わず、「失礼な」と声を上げてしまいました。私なりに「戦争で苦労された方なら」と心を決めて見合いにきたんですから。京大生だった私の兄も海軍で特攻隊を志願させられそうになっています。当時、私は毎日神社で無事を祈ったものです。
横井庄一さんは「怒ってくれるような人が好きだ」と幡新美保子さんの反応に喜び、見合い後すぐに結婚の話が進んだそうです。
常に孤独と不安、そして怯えるグアムでの生活に加え、帰国後は好奇の目に晒されてきた横井庄一さんは、素の感情をぶつけてくれる幡新美保子さんの態度に安心できたのかもしれません。
そして、2人は同年11月に熱田神宮で結婚式を挙げ、翌年の2月から名古屋市内に建てた家で一緒に暮らし始めました。
なお、横井庄一さんの帰国前後で円の貨幣価値が大きく変化していたことから、前述の寄付金やそのほかの財産の管理は、嫁である幡新美保子さんが担っていたそうです。
その後の2人は仲睦まじく暮らしたようですが、結婚した年齢からも子供は誕生していないようです。
横井庄一と同じく長年潜伏していた残留日本兵・小野田寛郎とは
横井庄一さんは”残留日本兵”として知られていますが、横井庄一さんのほかにも残留日本兵として有名な人物がいます。
それが、小野田寛郎さんです。
小野田寛郎のプロフィール
生年月日:1922年3月19日
出身地:和歌山県
所属:大日本帝国陸軍
小野田寛郎さんは、日本陸軍軍人(最終階級:予備陸軍少尉)で、のちに実業家になった人物です。
横井庄一さん同様、第二次世界大戦終結から29年間もの間、フィリピン・ルバング島に潜伏していた残留日本兵として知られています。
小野田寛郎の経歴
小野田寛郎さんは1942年、上海の商事会社で働いていた時期に徴兵され、和歌山歩兵第61連隊に陸軍二等兵として入営しました。
その後、転属や久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校などを経て、第14方面軍情報部付となり、フィリピン防衛戦を担当。
フィリピンでは、陸軍中将・横山静雄さんから「玉砕してはならない、必ず迎えに行くので頑張れ」と声をかけられたといいます。
また、日本軍が占領された後も連合国軍と戦い続ける計画だと伝えられていました。
実際の戦闘が開始されると、ルソン島へ上陸しようとする米軍を阻止すべく、ルバング島に着任するも、アメリカ海軍艦艇に撃破され山間部へ追いやられます。
その後まもなく米軍によってフィリピン全域が制圧され、小野田寛郎さんは他3人とルバング島に取り残されました。
しかし4人は作戦を継続し、日本軍が再び制圧にかかる際に備えて、情報収集・諜報活動を続行していたといいます。
小野田寛郎さん以外の3名のうち、2名は亡くなり、1人は1950年に投降。この投降を機に、小野田寛郎さんら残留日本兵の存在が明らかになりました。
幾度となく投降が呼びかけられるも、小野田寛郎さんは「敵国による嘘の呼びかけ」だと疑い続けます。
1974年、フィリピンにおける残留日本兵騒動に触発された23歳の”自称冒険家”・鈴木紀夫さんがジャングルで小野田寛郎さんとの接触に成功。
その際、小野田寛郎さんは「上官の任務解除命令がなければ任務を解かない」と語ったため、後日上官だった元陸少佐・谷口義美さんが小野田寛郎さんの元に出向き、任務解除を伝えました。
当初は、その命令すら嘘ではないかと疑っていた小野田寛郎さんでしたが、しばらくして納得し、帰国したといいます。
横井庄一さんと小野田寛郎さんの大きな違いは、横井庄一さんが「生き延びるための潜伏」であったのに対し、小野田寛郎さんが「勝利するための潜伏」であったことです。
2人はいずれも、日本敗戦後の投降の呼び掛けを嘘の情報だと疑い、日本軍が再び状況を好転させるであろうと信じていました。
しかし、”敵から逃れるため”にジャングルに潜伏した横井庄一さんと、”日本軍が勝利するための準備”としてジャングルに潜伏していた小野田寛郎さんのマインドは大きく異なります。
実際に、小野田寛郎さんは島内に残されていた銃や弾丸を駆使し、フィリピンに在留していたアメリカ軍に襲撃・狙撃・攪乱作戦をくり返し実行。
その数は合計数百回にものぼり、放火戦術なども用いました。また、略奪もしていたそうです。
また、フィリピン兵士やアメリカ軍兵士らを民間人を含め30人以上殺傷しており、その大半が武器をもたない現地住民だったとも言われています。
そのため、小野田寛郎さんが投降する際には、現地住民の恨みからくる襲撃を阻止するために、フィリピン軍の将校が同行していたといいます。
その後、フィリピン大統領フェルディナンド・マルコスと対面した際に恩赦を与えられていますが、日本はフィリピン国民の反発を避けるため、見返りとして見舞金3億円を拠出しています。
横井庄一さんは、投降を呼びかける放送は聞こえていたものの、そのほかの情報はほとんど耳に入っていない状態でした。
しかし小野田寛郎さんの場合、住民から奪った短波トランジスタラジオに自作アンテナを取り付け、BBCやラジオジャパンなどが聴けていたため、ある程度の世界情勢を知っていたようです。
さらに、仲間が投降したことで捜索隊が出された際には、その捜索隊が現地に置いていった日本の新聞・雑誌なども読んでいたそうです。
小野田寛郎さんはそれでも「今の日本はアメリカの傀儡政権だ」と信じて疑わなかったといいます。
横井庄一の死因は心臓発作
横井庄一さんは1997年、82歳の時に亡くなりました。死因は心臓発作でした。
過去にはヘルニアや胃がんも患っていたようです。
嫁の横井美保子さんは、横井庄一さんが亡くなった後も、名古屋の自宅を改装して記念館を開くなど、横井庄一さんの生涯を伝える活動に尽力していました。
美保子さんは横井さんの遺言に従い、2006年に名古屋市中川区の自宅の一部を改装し「横井庄一記念館」を設立。横井さんがジャングルで暮らした地中の穴を再現した模型を展示したり、横井さんが晩年にかけて作った陶器を展示し、終戦を知らされないまま1人戦い続けた夫の「悲劇」を訪れる人たちに伝え続けた。「戦争はだめ。平和がどれほど尊いことか・・・横井の戦争から少しでも感じていただきたい」と言い続けた。
そして、2022年5月には横井美保子さんが94歳で死去しています。死因は脳溢血でした。
まとめ
横井庄一さんは第二次世界大戦で徴兵された元日本軍軍人で、任務地であるグアム島に取り残された”残留日本兵”です。
仲間の死や、敵に見つかれば殺されるという不安がつきまとう過酷なサバイバル生活を28年間も送り、心身ともに辛い状況下に置かれていたといいます。
現地住民に発見され、日本に無事に帰還した後は、大衆の見世物と化して人間不信に陥った時期もありましたが、美保子さんという素晴らしい伴侶と出会い、結婚しています。
また、イベントやメディアに多数出演したほか、サバイバル経験を活かして評論家としても活躍しました。
悲惨な戦争の犠牲者とも言える横井庄一さん、そしてその生涯を世に伝え続けた嫁の美保子さんも現在では亡くなってしまいました。
ですが、戦争がもたらす恐ろしい影響を決して忘れてはならず、この世から戦争というものがなくなることを願いたいですね。