全日空機雫石衝突事故のパイロット断末魔やその後!犠牲者の遺体と生存者・慰霊碑の現在・慰霊の森の心霊の噂まとめ

1971年の「全日空機雫石衝突事故」は航空機史上でも最悪と言われる航空機事故です。

 

この記事では全日空機雫石衝突事故の詳細や発生場所、原因、生存者と犠牲者の遺体、パイロットの断末魔やその後、裁判の判決、現在の慰霊碑や慰霊の森の心霊の噂などについてまとめました。

全日空機雫石衝突事故は1971年発生の162名が死亡した大規模航空機事故

 

出典:https://www.ibc.co.jp/

 

「全日空機雫石衝突事故」とは、1971年7月30日14時頃に岩手県岩手郡雫石町上空で発生した航空機同士の衝突事故です。

 

衝突したのは、全日本空輸所属の旅客機(ボーイング727-281型機)と、航空自衛隊所属のジェット戦闘機(F-86F)で両機ともに墜落しました。

 

旅客機の乗員7人(機長、副操縦士、航空機関士各1名、客室乗務員4名)と、乗客155人の合計162名が墜落により死亡しました。航空自衛隊ジェット戦闘機に搭乗していたパイロット(訓練生で当時22歳の2等空曹)は、空中で脱出しパラシュート降下をして生還しています。

 

民間人162人の死亡は当時の時点で、全世界でも史上最悪の被害規模であり、日本国内だけでなく世界中で報道されました。現在も全日空機雫石衝突事故は航空機史に残る凄惨な事故として語り継がれています。

 

ここではこの全日空雫石衝突事故についてまとめていきます。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の詳細な経緯

 

まず最初に、「全日空機雫石衝突事故」の詳細な経緯についてみていきます。

 

 

衝突事故発生までの経緯

 

1971年7月30日13時33分、千歳空港発羽田空港行きの全日空58便(ボーイング727-281型旅客機)は、定時より45分遅れで千歳空港を離陸しました。当日の天候は雲がほとんどないほどの晴天でした。

 

この全日空58便機には、機長(川西三郎さん、当時41歳)、副操縦士(辻和彦さん、当時27歳)、航空機関士(ドン・ミカエル・カーペンターさん、当時30歳)、客室乗務員4名(22歳から24歳、いずれも女性)の計7名の乗員と、乗客155名の合計162名が搭乗していました。

 

全日空58便機は、ジェットルートJ10L(航空路の名称)で、13時46分に函館NDB(空中での位置を知るための無線標識)を、飛行高度22000フィート (6700m)で通過しています。

 

ここから、全日空58便機は高度を上げつつ、松島NDBに向けて変針し、13時50分に全日空58便は高度28000フィート(8500m)に到達した事と、松島NDPの通過は14時11分の予定である事を当該空域を管轄する札幌航空交通管制部管制所に通報。この時点で機長は自動操縦に切り替えています。

 

一方、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊に所属するジェット戦闘機(F-86F)2機が、航空自衛隊松島基地を13時28分に離陸しました。目的はパイロット訓練生の編隊飛行訓練で、2機のF-86にはそれぞれ、教官の隈太茂津(くま・たもつ)一等空尉(当時31歳)と、訓練生の市川良美二等空曹(当時22歳)が搭乗していました。

 

訓練空域は、臨時に設定された空域で一部に横手訓練空域の北部を含んでいました(秋田県横手市付近の上空)。

 

 

衝突時の状況

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

14時2分39秒頃、岩手県岩手郡雫石町近くの上空で、全日空58便機とF-86Fのうち訓練生の市川良美二等空曹が操縦していた機体(以下、訓練機)が衝突しました。

 

衝突の約3分前の時点で、全日空58便は高度28000フィート(8500m)を487ノット(時速902km)で水平定常飛行していました。

 

同じ頃、F-86Fの教官の隈太茂津一等空尉の操縦機(以下、教官機)は、高度約25500フィート(7800m)を約445ノット(時速824km)で飛行しており、約15秒ほど直進して左旋回している最中に、機体の後ろ側(正面を12時として6時半から7時の方向)に、訓練機の後部下方に接近する全日空58便機を視認しました。

 

教官機の隈一等空尉は、直ちに市川二等空曹に通信で接触を回避するように指示し、自身は訓練機を誘導する意図で右に旋回した後、左に反転して(直前に訓練機と衝突し)墜落していく全日空58便機の下をくぐり抜けました。

 

訓練機には、教官機の右側後方25度約5500フィート(1700m)を、高度約3000フィート(910m)を飛行し、飛行要領に基づいて高度を上げ下げ、旋回して教官機の後を追尾していました。このタイミングで、教官機から全日空58便の回避を命じる通信が入っています。

 

教官機からの通信直後、市川二等空曹は自機の右側(前方を12時として時計の4時から5時の方向)に、大きな物体(全日空58便機)を視認し直ちに回避を行いましたが間に合わずに後方から追突されました。

 

市川二等空曹が回避操作を実施した時点で、全日空58便機は訓練機とわずか500メートルの距離におり、その約2秒後に衝突しています。

 

衝突箇所は、全日空58便のT字尾翼の水平尾翼安定板左先端付近と、訓練機の右主翼付け根付近で、回避運動によって全日空58便機の進行方向に出てしまった訓練機が後方から追突された形でした。

 

 

墜落時の状況

 

出典:https://kahoku.news/

 

衝突事故発生後、全日空58便機と訓練機は共に操縦不能となります。

 

全日空58便機は降下しながら飛行を続けていましたが、水平安定板と昇降舵の機能喪失により降下姿勢からの回復が行えずに速度が上昇して音速を超え、約15000フィート(約4600メートル)で空中分解を起こして墜落しました。

 

この時、音速を超えた際に発生するソニックブームによる「ドーン」という大音響が、現場から約15km離れた盛岡市をはじめ各地で観測されています。また同様に衝突か空中分解の時に発生したと思われるカメラのフラッシュのような閃光も各地で視認されています。

 

この墜落の様子を偶然目撃し咄嗟に写真撮影した者が複数おり、この時の写真が多数の新聞や週刊誌などに掲載されました。

 

搭乗していた乗員乗客162名のうち多くが機外に投げ出される形となり全員が死亡しました。全日空58便機は地上約4600メートルの高度で空中分解したため、機体の残骸と搭乗していた人々は、岩手県岩手郡雫石町の国鉄雫石駅の東2kmから3.5km、南3.5kmから5km、西安庭地区を中心とした広範囲に落下しています。パイロットらの遺体は、墜落し大破した機首コクピットの中で発見されています。

 

落下物による人的な被害としては、全日空58便機の車輪の残骸の一部が、雫石町の民家に落下して屋根を突き破り中にいた81歳女性が負傷しています。

 

一方、航空自衛隊訓練機は接触事故後にきりもみ状態に陥って操縦不能となりました。パイロットの市川二等空曹は、射出座席装置(緊急脱出装置)のレバーを引こうとしたものの、機体の回転による強い遠心力で手をレバーに動かす事すらできませんでした。

 

しかしそこで、市川二等空曹はキャノピー(コクピットの風防)が外れている事に気がつき、安全ベルトを外して機外へと脱出。装着していたパラシュートを開いて国鉄雫石駅東南約300メートル地点の水田に降下し生還しました。市川二等空曹には負傷もなかったようです。

 

その後無人となった訓練機は、空中分解を起こした後、雫石町内の田んぼに墜落しています。この墜落による人的被害は発生していません。

 

両機の墜落による物的な被害は、家屋4戸と田畑および山林で、事故全体の規模と比較すれば軽微でした。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の発生場所【地図あり】

 

「全日空機雫石衝突事故」の発生場所についても詳しくみていきます。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の衝突場所

 

全日空機雫石衝突事故の発生後に総理府に設置された「全日空機接触事故調査委員会」の調査報告では、全日空58便機と自衛隊訓練機の衝突場所については、

 

「国鉄雫石駅の西方0.4kmから北へ3.3km地点(北緯39度43分,東経140度58.4分)を中心とする、東西1km,南北1.5kmの長円の上空高度28000フィート(約8500メートル)内にあると推定され、この中心点はジェットルートJ11Lの中心線から西へ約4kmの位置にある」

 

とされています。この調査報告書に推定されている中心地点の場所は下地図になります。

 

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一方、全日空機雫石衝突事故の全日空と国がそれぞれを訴え合った民事裁判では、東京高裁は、全日空58便機と自衛隊訓練機の接触の場所を以下のように認定しています。

 

本件接触地点は、長山長円の中心から真方位約330度、距離約1.9kmの地点である駒木野地区矢筈橋西詰から更に北西(真方位315度)へ1.5kmの雫石町西根の八丁野地区北側の地点(おおよそ北緯39度44.5分、東経140度57.1分)を中心とする半径1kmの円の範囲の上空約28000フィートの所であり、その西の限界は、ジェットルートJ11Lの中心線から約6.7kmの地点となるものと認めるのが相当である。

 

下は、東京高裁によって認定された全日空機雫石衝突事故での全日空58便と自衛隊訓練機の接触場所をポイントした地図(Googleマップ)です。

 

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調査委員会の認定とほぼ同じ場所なので、全日空機雫石衝突事故の衝突場所は概ねこの地点で間違いないと見て良さそうです。

 

 

全日空機雫石衝突事故の墜落場所

 

全日空機雫石衝突事故による、全日空58便機と自衛隊訓練機の墜落場所については、「全日空機接触事故調査委員会」の調査報告書で以下の内容で報告されています。

 

全日空機および訓練機の残がいは、主として東西約6km、南北約6kmの範囲に散在していた。全日空機の残がいは、左水平尾翼および垂直尾翼の小破片を除く大部分が雫石駅から東へ2kmから3.5km、南へ3.5kmから5kmの範囲に散在していた。

 

被害者の遺体もこの場所一帯に落下したと推測されます。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の原因

 

「全日空機雫石衝突事故」の原因については、事故後に総理府に設置された「全日空機接触事故調査委員会」が、1972年7月27日付で運輸大臣に提出した事故報告書で以下の内容が報告されています。

 

 

全日空雫石衝突事故の原因① 自衛隊機の訓練空域の逸脱

 

全日空機接触事故調査委員会の報告書では、全日空雫石衝突事故の第1の原因として、自衛隊機の教官が当初に設定した訓練空域を逸脱しているのに気がつかずに、全日空58便機が飛行していたジェットルートJ11Lの中に侵入した事が挙げられています。

 

第1の原因は、教官が訓練空域を逸脱してジェットルートJ11Lの中に入った事に気がつかず機動隊形の訓練飛行を続行した事である。この事は、教官が指揮した機動隊形の旋回訓練には、上下左右前後に非常に大きな飛行空間を必要とするものであるにも関わらず、比較的狭い訓練空域で高高度において地文航法のみによって訓練を行なったため、正確な機位の確認ができなかったためと考えられる。

 

上の報告にある「地文航法」というのはレーダーなどを使用せずにパイロットの目視のみで飛行する方法です。

 

訓練機のパイロットである隈太茂津一等空尉は、所属する航空自衛隊松島派遣隊で決められていた、ジェットルートJ11Lの中心線から両側9kmの間を飛行制限空域として訓練禁止とするルールを守り、この空域を外して訓練空域を設定していましたが、目視に頼った飛行であったため、この空域を逸脱している事に気がつかずに訓練を続行しこれが事故の原因となりました。

 

 

 

全日空雫石衝突事故の原因② 各パイロットの事故発生直前の行動

 

全日空機接触事故調査委員会の報告書では、上記の第1の原因に続けて、第2の原因として全日空58便機、自衛隊の教官機、訓練機の3機のそれぞれのパイロットの事故発生直前の行動に注目し、それぞれの原因となった行動を3項目に分けて報告しています。

 

第2の原因の1項目目は、全日空58便パイロットである川西三郎さんの行動についてです。

 

(1) 全日空機操縦者にあっては、訓練機を少なくとも接触7秒前から視認していたと推定されるが、フライト・データ・レコーダの接触前の記録に機体の反応が示されていなかった事から見て、接触直前まで回避操作が行われていなかった事である。この事は、全日空機操縦者が訓練機と接触すると予測しなかったためと考えられる。

 

全日空58便機にはコクピット・ボイス・レコーダーは装備されていませんでしたが、千歳飛行場管制所と千歳ターミナル管制所、札幌管制区管制所との無線交信は行われており、また、付近を飛行していた航空機にも全日空58便機からの発信音声が傍受されていました。

 

これらの音声記録を分析したところ、全日空58便機の操縦桿に備わっているブームマイクの送信ボタンが、衝突の7秒前から0.3秒間、衝突の2.5秒前から約8秒間にわたり空押しされた事が判明しました。

 

通常、ブームマイクの送信ボタンを空押しすると他の交信が妨害されてしまうため、操縦士が意識的に空押しする事は考えられません。

 

ここから、衝突7秒前(1度目の空押し)に、機長が自衛隊訓練機が急接近してきたために操縦桿を強く握った事と、衝突2.5秒前(2度目の空押し)に、訓練機が斜め前方に接近してきたために再度操縦輪を強く握り、衝突後は機体の立て直しのために継続して操縦桿を強く握っていた事などが推測されます。

 

この推測が当たっていれば、全日空58便機のパイロットは遅くとも衝突の7秒前いには訓練機の存在を確認していた事になりますが、この時点で直ちに回避行動には移っておらず、これが事故が引き起こされた大きな原因の1つになったと考えられます。

 

第2の原因の2項目目は教官機のパイロットの隈太茂津一等空尉の行動についてです。

 

(2) 教官にあっては、訓練生が全日空機を視認する直前に訓練生に対し接触回避の指示を与えたが、訓練機の回避に間に合わなった事である。この事は、教官が全日空機を視認するのが遅れたためであると考えられる。

 

教官機のパイロットだった隈太茂津一等空尉は、衝突事故発生の直前に全日空機の存在に気がつき、訓練機の市川二等空曹に無線で回避指示をしました。しかしそのわずか2秒後に衝突事故は発生しており、このタイミングで訓練機が全日空機を回避する事は極めて困難であったと考えられます。

 

あくまでも結果論ですが、パイロットとしての経験を積んでいる教官の隈太茂津一等空尉が周辺の警戒を怠らずに、もっと早期に全日空58便機の存在に気がついて、回避指示を与えていれば事故は防げたと推測されます。

 

第2の原因の3項目目は訓練機のパイロットの市川二等空曹の行動に関する事です。

 

(3) 訓練生にあっては、接触約2秒前に自己機の右側やや下方に全日空機を視認し、直ちに回避操作を行なったが、接触の回避に間に合わなかった事である。この事は、訓練生が機動隊形の旋回飛行訓練に経験が浅く、主として教官機との関係位置を維持する事に専心していて、全日空機を視認するのが遅れたためであると考えられる。

 

訓練生である市川二等空曹にとって、この日の編隊飛行訓練はパイロット適性を図るためのテストとしての意味合いがありました。そのため、市川二等空曹は周囲を警戒する余裕はなく、教官機の機動についていく事に精一杯であったと考えられ、これも事故の原因の1つだと推測されます。

 

 

全日空雫石衝突事故の原因③ 航空交通の急速な発展に伴う種々の問題

 

全日空機接触事故調査委員会の報告書では、もっと根本的な事故の原因として航空交通の急速な発展に伴い種々の問題が示され、早急な対策を行うべきとする勧告が行われています。

 

この事故の背景として、最近における我が国航空交通の急速な発展に伴う種々の問題が考えられるが、特に次の時効について早急に法制面の整備を図るとともに、事業面の具体的な計画を立てて、その完全な実施を確保し、航空交通の安全を期すべきである。

 

報告書には、早急に安全対策すべき点が5項目にわたって記載されています。

 

(1)ア 航空機の姿勢を頻繁に変更する飛行等の特殊な飛行は、原則として航空管制区または航空交通管制圏においてはならないよう法的に明確化する事。

 

(1)イ 飛行訓練を行うに際しては、指定された訓練空域からの逸脱防止のため、訓練機の性能、訓練の形態および規模等に応じ必要とされる方策が講じられるよう措置する事。

 

(2) 航空機の操縦者は、航空機の飛行中は航空交通管制に従っている飛行であるとないとに関わらず、他の航空機等と衝突しないように見張りをしなければならないよう法的に明確化する事。

 

(3) 特別管制空域およびレーダー管制空域の拡大、管制情報処理システムの導入等により、航空路、ジェット・ルートに対するポジティブ・コントロールの徹底を図るとともに、ATCトランスポンダの搭載の促進、接近警報装置、衝突回避装置の開発装備等を図る事。

 

(4) 航空保安に関する業務について、運輸、防衛両省庁間においては、人事の交流、航空保安施設の共用等なお一層の協調を図る事。

 

この報告書の内容を見てもわかりますが、「全日空機雫石衝突事故」の根本原因は、航空交通に関する法整備や、安全な航空交通を行うための設備の整備状況が、航空交通の発展のスピードに対応できずに大きく遅れていた事でした。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の生存者のパイロットの市川良美二等空曹について

 

出典:https://i.ytimg.com/

 

「全日空機雫石衝突事故」の当事者で唯一の生存者である、自衛隊訓練機(F-86F)のパイロットは、市川良美二等空曹(当時22歳)です。なお、二等空曹というのは軍曹の階級にあたります。

 

全日空機雫石衝突事故の生存者の市川良美二等空曹は、1948年10月23日長野県の生まれで、1967年3月に長野県立飯山北高校を卒業し、同年10月に航空自衛隊航空学生募集試験に合格。1968年3月21日に航空自衛隊に航空学生として入隊し、T-34、T-1、T-33などの練習機での操縦訓練を経て、1971年5月8日に基本操縦課程を終了。全日空機雫石衝突事故の1ヶ月前にあたる同年7月1日に航空自衛隊松島派遣隊に配属されたばかりでした。

 

また、全日空機雫石衝突事故時の教官機パイロットは、隈太茂津一等空尉(当時31歳)でした。一等空尉というのは大尉の階級にあたります。

 

隈太茂津一等空尉は、1940年1月18日福岡県の生まれで、1958年3月に福岡県立修猷館高校を卒業。1959年4月16日に航空自衛隊に航空学生として入隊し、1962年4月26日に基本操縦課程を、同年12月23日に戦闘機操縦課程を、1966年6月25日にT-1ジェット練習機操縦教官過程を、1969年10月6日に計器飛行教官過程を、1971年に6月23日にF-86Fジェット戦闘機操縦教官過程をそれぞれ修了し、1971年7月1日に松島派遣隊に配属されたばかりでした。

 

つまり、訓練機パイロットの市川二等空曹も、教官機パイロットの隈一等空尉も、松島派遣隊に配属されてから1ヶ月しか経っていませんでした。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の犠牲者について

 

「全日空機雫石衝突事故」の犠牲者は、全日空58便機(ボーイング727-281型機)に搭乗していた乗員乗客の162名全員です。

 

犠牲者の中の乗員については、機長が川西三郎さん(当時41歳)、副操縦士が辻和彦さん(当時27歳)、航空機関士がドン・ミカエル・カーペンターさん(アメリカ人、当時30歳)、客室乗務員が、高橋雅子さん(当時22歳)、杉洋子さん(当時24歳)、笹目晴代さん(当時23歳)、 下岡和子さん(当時23歳)の4人でした。

 

また、犠牲者の乗客155名のうち122名は、静岡県富士市の吉原遺族会の北海道旅行の団体客で、ほとんどが初めて飛行機に乗ったお年寄りだったそうです。

 

その他、犠牲者のうちの3名は旅行会社添乗員だった事も報じられています。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の犠牲者の遺体は凄惨な状態だった

 

出典:https://www.sankeibiz.jp/

 

「全日空機雫石衝突事故」で墜落した全日空58便機は、操縦を失い降下する際の猛スピードに機体が耐えられず、地上約4600メートルの高度で空中分解し、犠牲者の多くが空中に投げ出され、そのままの勢いで地上に落下しました。

 

そのため、犠牲者の遺体はあまりにも凄惨な状態だったようです。当時、墜落現場に派遣された自衛官や警察官、駆けつけた地元の消防団員からは、犠牲者の遺体のあまりにお悲惨な状況が語られています。

 

「鬱蒼(うっそう)とした林の中で一筋の光がさしている所を目指して行くと、女性の頭が地面に突き刺さって、肩から下が出ていた。先輩と2人で脚を一本ずつつかみ、引き抜いた」。盛岡市内の菜園交番勤務の警察官だった盛岡市の細田敬一危機管理統括監(66)は、当時を振り返る。

 

引用:全日空機雫石衝突事故(上) 世界の航空事故史に残る大惨事

 

地面にたたきつけられた遺体の損傷はひどく、県警の事件概要によると、遺体はほとんど衣服をまとっていなかったと報告されている。猛スピードで落下するうちに衣服がはぎ取られたからだった。 消防団員だった米沢初美さん(83)も、こう証言する。「腰まで地面に突き刺さった遺体もあった。暗かったから良かった。明るかったら(遺体に)手もかけられなかったかもしれない」

 

引用:全日空機雫石衝突事故(上) 世界の航空事故史に残る大惨事

 

隊員は早々に金縛りに遭う。木という木に、おびただしい数のストッキングや下着、衣類、着物の帯が引っ掛かっていた。S一尉は回想した。

 「不謹慎だが、夏に見慣れた仙台の七夕まつりの短冊のようだった」

 

引用:【軍事情勢】空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ (2/5ページ)

 

上空8500メートルで衝突した雫石事故も、全日空機に乗っていた全乗員・乗客162人のご遺体は悲惨だった。若い隊員たちは茫然自失、大きな輪になったまま動けなくなった。輪の中心には「かろうじて人間の姿を彷彿させる肉塊があった」。

 

引用:【軍事情勢】空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ (2/5ページ)

 

木には既述した着物の帯などの他、乗客も引っ掛かっていた。しかも、身長が2メートルにも伸びて…。

 年配者には、大日本帝國陸軍出身者もまだいて、実戦経験のない自衛官とは対応の仕方が違った。大きなポリ袋もなく「人の体の一部を戦闘服のポケットに入れていた」という。全ては「早く仏様を奇麗にして遺族に返したい」思いから。

 

引用:【軍事情勢】空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ (3/5ページ)

 

 

 

全日空機雫石衝突事故では全日空機パイロットの断末魔が記録された噂も

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

「全日空機雫石衝突事故」で墜落した全日空58便機には、コクピット内の音声を記録するコクピットボイスレコーダーは搭載されていませんでしたが、各管制所との交信が行われており、その音声が記録されています。この音声記録に全日空58便機のパイロットの断末魔と思われる音声が記録されていたとの噂が存在します。

 

全日空58便機のパイロット(おそらく機長)は、衝突の9秒後に緊急通信を発し「エマージェンシー、エマージェンシー」という音声が記録されています。そして、この音声の後半部分がパイロットの断末魔と思しき解読不能の音声で終わったとされています。

 

断末魔とされている実際の音声は現在は公開されておらず、インターネット上でも聴くことはできません。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の裁判① 刑事では教官機パイロットに執行猶予付き有罪判決

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

「全日空機雫石衝突事故」の裁判についても見ていきます。

 

全日空機雫石衝突事故発生の33時間後、訓練機のパイロットである市川良美二等空曹と、教官機のパイロットである隈太茂津一等空尉が逮捕され、業務上過失致死と航空法違反で起訴されました。

 

盛岡地方裁判所での第一審では、教官機パイロットの隈一等空尉に禁錮4年、訓練機パイロットの市川二等空曹に禁錮2年8ヶ月の実刑判決が下されました。被告側は控訴しています。

 

仙台高等裁判所での控訴審では、教官機パイロットの隈一等空尉の控訴は棄却されましたが、訓練機パイロットの市川二等空曹については無罪が言い渡されています。隅一等空尉は上告しています。

 

最高裁判所での上告審では、教官機パイロットの隈一等空尉に対する控訴審判決が破棄され、禁錮3年執行猶予3年の判決が下され確定しました。

 

教官機パイロットである隈一等空尉が減刑された理由としては、事件の原因として、直属の上官による杜撰な訓練空域の設定があり、隈一等空尉にはそれを拒否できる立場になかった事があげられています。この事から警察による上官への捜査が行われたものの結局起訴はされず、隈一等空尉らの上官の自衛隊幹部は誰1人罪に問われませんでした。

 

 

 

全日空機雫石衝突事故の裁判② 民事では国と全日空双方に賠償命令

 

「全日空機雫石衝突事故」では、全日空および全日空に墜落した機体の保険金を支払った保険会社10社は、国に損害賠償(営業損失など合わせて43億円)を求める民事訴訟を提起したのに対し、国も全日空に対して損害賠償(喪失した戦闘機の損害と被害者遺族に立て替えて支払った賠償金など合計19億円)を求める反訴を提起したため、全日空と国が民事裁判で争う事になりました。

 

東京地方裁判所での第一審では、双方の過失を対比を、自衛隊(国)側6、全日空側4と認定され、それに基づいて国は全日空に対して2.7億円と保険会社に対して13.2億円、全日空は国に対して7.1億円の賠償金を支払う事が命じられました。この判決に対し双方が控訴しています。

 

東京高等裁判所での控訴審では、過失の対比が国が2、全日空側が1と認定され、国は全日空に対して7.1億円と保険会社に対して15.2億円を、全日空は国に対して6.5億円の損害賠償をそれぞれ支払うように命じる判決を下しました。双方とも上告せず、この判決が確定しています。

 

 

全日空機雫石衝突事故の裁判③ 犠牲者遺族の国に対する民事訴訟も

 

パイロットの罪が問われた刑事裁判と、国と全日空が争った民事裁判の他に、全日空機雫石衝突事故では、被害者遺族が国を訴える民事裁判が複数起こされています。

 

被害者遺族が起こした裁判は全て被害者側の勝訴に終わっています。例えば、被害者の大学助教授の親族が起こした民事裁判では、4823万円の損害賠償の支払いが国に命じられています。

 

 

全日空機雫石衝突事故のその後① 訓練生は救難機パイロットになり人命救助に尽力

 

「全日空機雫石衝突事故」の訓練機パイロットの市川良美二等空曹のその後は、朝雲新聞社編集の「FOR THE BLUE SKY―航空自衛隊の50年」によると、裁判で無罪が確定した後に救難機パイロットになり、2003年10月に自衛隊を定年退職するまで、人命救助に尽力されたという事です。

 

 

全日空機雫石衝突事故のその後② 教官は自衛隊を辞め2005年8月に死去

 

「全日空機雫石衝突事故」のその後、教官機パイロットである隈太茂津一等空尉は裁判で有罪判決を受け、自衛隊法の規定により自衛隊を辞めています。

 

その後は、クリーニング取次と靴修理の店舗を経営されていたそうです。隈一等空尉は、産経新聞の貴社の取材に応じて「162人の命の重み」について語り、常に手が小刻みに震えるほどの責任を感じられている様子だったそうです。隈一等空尉は2005年8月(月については、「FOR THE BLUE SKY―航空自衛隊の50年」より)に65歳で亡くなられたという事です。

 

教官機のK一尉は《見張義務違反》を認定され1983年、最高裁判所より執行猶予付き有罪判決を受けた。クリーニング取次・靴修理店を営んでいたK氏が95年、筆者に重い口を開いた。追突された言い分は多々あったろう。が、弁解は皆無に近かった。ただ、55歳の手が小刻みに震えていた。居酒屋に誘い、呑みながら取材を続けると震えは収まった。自己の正当性を信じながらも「162人の命の重み」(K氏)が、手を震わせるのだった。K氏は2005年に亡くなったと聞いている。

 

引用:【軍事情勢】空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ (5/5ページ)

 

 

全日空機雫石衝突事故のその後③ 航空法改正など抜本的な安全対策が取られた

 

「全日空雫石衝突事故」のその後、自衛隊訓練空域と航空路を完全分離する事などを定めた「航空安全緊急対策要綱」が政府によって発表されました。

 

さらにその後の1975年6月24日、「航空管制空域における曲芸飛行と訓練飛行の原則禁止」、「ニアミス防止のために見張りなど安全義務とニアミス発生時の報告義務」、「トランスポンダとフライトレコーダー等の安全運航に必要な装置の装着義務」などが明記された改正航空法が参議院で可決成立され、同年10月から施行されました。

 

そして、全日空雫石衝突事故がきっかけとなり、全国でレーダー網や空港の拡充が本格化され、新たに開発された空中衝突防止装置(TCAS)の装着が一定の基準を超える航空機に義務付けられる事になりました。

 

 

全日空機雫石衝突事故の現在① 慰霊碑では犠牲者遺族による献花が続けられている

 

出典:https://kahoku.news/

 

「全日空機雫石衝突事故」から、2022年7月30日で51年となりました。

 

現在も、犠牲者を弔う為に雫石地区に整備された「森のしずく公園(旧名称は慰霊の森)」に建立されている慰霊碑には、毎年犠牲者の遺族が訪れて献花や冥福を祈る事が続けられています。

 

岩手県雫石町の上空で全日空機と自衛隊機が衝突し、162人が犠牲となった「雫石事故」から51年を迎えた30日、墜落現場となった同町の「森のしずく公園」で、関係者や多くの犠牲者が出た静岡県富士市の遺族らが慰霊碑に献花し、犠牲者の冥福と空の安全を祈った。

 

引用:全日空機と自衛隊機空中衝突 岩手・雫石事故から51年 「空の安全確立を」慰霊碑に献花

 

 

全日空機雫石衝突事故の現在② 慰霊の森には心霊の噂も

 

「全日空機雫石衝突事故」のあまりにも凄惨な遺体の状況が伝えられている事も関連してか、犠牲者の慰霊のために整備された「慰霊の森(現在の名称は森のしずく公園)」は、いつの頃からか心霊の噂が立つようになり、現在も心霊スポットとして話題にされる事が多いようです。

 

ネットでは、慰霊の森での心霊体験も多く語られいるので、いくつか紹介していきます。

 

慰霊の森での心霊体験① 人の形をしたたくさんの影

 

全日空機雫石衝突事故が発生した当時、中学1年生だった50代の男性が語られた心霊体験です。

 

この方は偶然、全日空機雫石衝突事故の犠牲者の方の遺体が供養されている、後に慰霊の森となる場所の近くにあるお寺の敷地内で遊んでいたそうなのですが、寺の中から人の形をした影が出たり入ったりしているのを見たそうです。

 

その影の一つが体験者に気がついて近づいてきて「おい、ボク。ここはどこだ?」と尋ねてきたので、体験者は「ココ、ココは雫石だよ」と会話をされたそうです。

 

これと同じ頃、後に慰霊の森になる森の近くでは、同じような影がタクシーや車を停めようとする姿が複数目撃されているそうです。

 

慰霊の森での心霊体験② 20代の男性が聞いた怖い話

 

ある20代の男性は、小学校時代に担任の先生から、「慰霊の森に遊び半分で行ってはいけない。仮にもし君たちが大人になって誰かと慰霊の森に行く事になったら、階段の数を数えてみるといい、誰1人同じ数じゃなくなるから」と教えられたそうです。

 

この男性は、慰霊の森に一晩置き去りにされた若い女性が何か恐ろしいものを見て白髪になってしまったという話や、近くを通ると車のエンジンが停まってしまい、いつの間にか無数の手形がついているという話、友人6人組が慰霊の森でキャンプをしたところ人数が1人多くなっており、テントに逃げ込むと「熱い…」などの囁き声が周囲から聞こえてきたといった話など、慰霊の森にまつわるたくさんの心霊話を聞いた事も話しています。

 

慰霊の森での心霊体験③ オカルト研究会の大学生達が体験した怖い話

 

とある大学で「オカルト研究会」に入っていた大学生が、4人で「慰霊の森」を訪れた時に体験した心霊話です。

 

この大学生らは、深夜1時頃に車で慰霊の森を訪れ、慰霊碑に線香をあげて車に戻ったそうです。すると、車の天井上に仰向けに寝そべり、手足の関節を無茶苦茶な方向に折り曲げさせながら、激しく踊り狂うようにする人影を目撃したそうです。

 

この人影は激しく暴れた後、その勢いで車の下に落ちて消えたそうです。この人影が全日空機雫石衝突事故と関係があるかはわからないという事でしたが、体験者にはまるで千切れかけた手足を必死に振り回しているかのように見えたそうです。

 

慰霊の森が心霊スポットとされている事に対する批判も

 

全日空機雫石衝突事故のあまりに凄惨な内容が伝えられているためか、慰霊の森は心霊スポット化しています。

 

この事については、不謹慎だと批判する声も少なからず上がっています。

 

人気YouTuberのはじめしゃちょーは、2020年2月に慰霊の森を訪れて心霊スポットとして紹介したところ、視聴者から批判の声が殺到。謝罪をして当該の動画を非公開にしています。

 

1971年に発生した全日空機と自衛隊機の衝突事故の犠牲者を追悼する「慰霊の森」(岩手県雫石町)を、 心霊スポットとして紹介する動画を投稿したとして、人気ユーチューバーのはじめしゃちょーさん(26)は2020年2月6日、「不快に思われた方、申し訳ありませんでした」と謝罪した。

 

引用:はじめしゃちょー、不謹慎動画で謝罪 「慰霊の森」を心霊スポットと紹介…墜落事故の追悼の場

 

 

 

まとめ

 

今回は、1971年7月30日に岩手県雫石町で発生した航空機同士の衝突事故「全日空機雫石衝突事故」についてまとめてみました。

 

全日空機雫石衝突事故は、全日空所属の旅客機と、訓練飛行中の自衛隊機が衝突し、旅客機の乗員乗客を合わせて162名が亡くなった凄惨な事故です。

 

場所は岩手県盛岡市の西方に位置する雫石町で、一帯に空中分解した旅客機の破片と上空に投げ出された犠牲者が落下しました。犠牲者の遺体はあまりにも凄惨な有り様だったそうです。

 

事故の原因については、自衛隊機が旅客機の航路に侵入した事とされていますが、根本的な原因として、法整備や設備の整備が航空交通の発展に追いついていなかった事がありました。

 

裁判では、自衛隊機のパイロット2名が罪に問われ、そのうち教官機を操縦していた隅一等空尉が執行猶予付きの有罪判決を受けています。

 

全日空機雫石衝突事のその後、航空法の改正など抜本的な安全対策が実施されました。事故から50年以上が経過した現在も慰霊碑には犠牲者遺族が訪れ献花をされています。

 

慰霊碑のある慰霊の森(森のしずく公園)は心霊の噂も出ていますが、心霊スポットとして面白半分に訪れる人々に対しては批判の声が上がっています。

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