瀬戸内シージャック事件の犯人・川藤展久の動機は?狙撃手のその後も解説

瀬戸内シージャック事件」は、最後には犯人が警察によって射殺されるという形で幕を閉じましたが、犯人の射殺がその後問題化し狙撃手が告発され社会問題に発展しました。

 

今回は事件の経緯や動機、犯人・川藤展久の生い立ち、弁護士に告発された狙撃手のその後などについてまとめました。

 

瀬戸内シージャック事件とは

 

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「瀬戸内シージャック事件」とは、1970年(昭和45年)5月12日から13日にかけて発生したシージャック事件(船に人質をとって立てこもる事件を指し、ハイジャックから派生した和製英語)です。

 

「瀬戸内シージャック事件」は広島県の宇品港(広島港)に停泊していた定期旅客船「ぷりんす号」を散弾銃やライフル銃で武装した当時20歳の男・川藤展久が乗っ取り、乗員や乗客ら40人以上を人質にしたまま「ぷりんす号」を航行させ、最終的に犯人は警察によって狙撃され射殺された事件です。「ぷりんす号シージャック事件」とも呼ばれ、警察官による狙撃によって犯人を射殺し解決に至った戦後初の事件としても知られています。

 

事件後、警察が犯人を射殺した事が物議を醸し、自由人権協会北海道支部所属弁護士が狙撃手を告訴し、マスコミ各社も警察や狙撃手を批判するという異例の事態が発生しました。

 

この「瀬戸内シージャック事件」後の一連の騒動が、その後日本の警察が一般市民や警察官の命に危険を及ぼす可能性が高いと判断される凶悪な犯人に対してであっても銃器の使用に慎重にならざるを得ない原因になったとされ、現在でも度々議論の対象となっています。

 

今回は、この「瀬戸内シージャック事件」について見ていきます。

 

 

 

瀬戸内シージャック事件の経緯① 事件に至るまでの犯人らの行動

 

出典:https://pixabay.com/

 

「瀬戸内シージャック事件」が発生する2日前にあたる1970年5月10日、当時20歳の川藤展久は、広島県三原市のパチンコ店で知り合ったという当時10代の少年2人と共に福岡市内で自動車を盗難し、その盗難車を走らせて広島県方面へと向かっていました。

 

翌5月11日(事件発生前日)の深夜0時20分頃、川藤展久と友人らの乗る車は、山口県厚狭郡山陽町(現在の山陽小野田市)を走る国道2号線上にて、追い越し禁止車線での追い越し行為をし、ちょうどそこで検問を張っていた警察に停車命令を受けます。(川藤展久らが検問を見て追い越し行為をしたか、偶然検問を張っていたかははっきりしない)

 

これにより、川藤展久らが乗っていた乗用車が盗難されたものである事が発覚しその場で逮捕。川藤展久らは、盗難車とパトカーに分乗し警察署へ連行される事になりましたが、その移動中、盗難車に乗っていた川藤展久と少年2人が抵抗します。

 

川藤展久は隠し持っていた猟銃(広島県の民家から盗難されたものだった)を警官に突きつけて脅し、少年が刃物で警官の胸を刺して逃走(警官は全治2週間の怪我)。なお、パトカーで連行されていたもう1人の少年はその場で拘束されています。

 

 

 

瀬戸内シージャック事件の経緯② さらなる犯行を繰り返しながら逃走

 

逃亡した川藤展久と少年は、さらに軽自動車を盗難して山口県宇部市まで逃走。宇部市内で衣服を着替えた後、広島中央郵便局(現在の広島東郵便局)を襲撃し逃走資金を確保した後に大阪府へ逃亡しようと計画しています。

 

川藤展久と少年は、国鉄(現在のJR)・山陽本線を使って広島方面へ向かい、広島駅の手前の横川駅で下車し、警察に非常線を避けて広島駅付近にある双葉山へと入ります。

 

その日(5月11日)の夜、川藤展久と少年は、二葉山平和塔(通称仏舎利塔)で野宿しますが、5月12日の昼頃、山中に猟銃を持った男2人がいるとの通報が付近の住人から入り、警察は付近の捜索を強化します。

 

同日午後2時50分頃、一般人の協力を受けて軽トラックに便乗し付近の捜索にあたっていた警察官が、国鉄芸備線の踏切付近にいる川藤展久を発見。警察官は威嚇射撃を行いますが、川藤展久は軽トラックの運転手(一般市民の協力者)を撃ち殺すと脅迫してきたため、警察官は川藤展久の要求通りに、軽トラックの荷台に拳銃と実弾を投げ入れた上でトラックから降りています。

 

川藤展久はそのまま軽トラックの乗り込み、運転手を脅して広島市の中心部へと向かわせています。なお、川藤展久と一緒に逃亡していた少年は、この付近に隠れていたところを拳銃を奪われ川藤の逃走を許した警察官によって発見され、格闘の上逮捕されています。

 

 

 

瀬戸内シージャック事件の経緯③ 「ぷりんす号」を乗っ取り大暴れ

 

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軽トラの運転手を脅して広島市中心部へと向かった川藤展久は、同市の中区立町の銃砲店を襲撃し、ライフル銃や散弾銃3丁とライフル弾80発および散弾250発を奪った後、タクシーを脅して警察の検問を強行突破し、宇品港(現在の広島港)へと現れました。

 

港の待合室へ銃を乱射しながら押し入った川藤展久はそのまま桟橋へと向かい、警戒にあたっていた警察官に向けて発砲して傷を負わせた後、瀬戸内海汽船に所属する定期旅客船「ぷりんす号」へと乱入し、船長に「どこでもいいから大きな街に行け!」と脅して17時15分頃に出航させています。この時、「ぷりんす号」の乗員9人と一般客37人が人質になっています。

 

川藤展久がシージャックした「ぷりんす号」は瀬戸内海を逃走を続けます。

 

警察は、この事件から2ヶ月前に発生した「よど号ハイジャック事件」と同規模の動員をかけて「ぷりんす号」で逃走を続ける犯人を追跡しましたが、犯人・川藤展久は警察の警備艇やヘリ、マスコミのチャーターしたセスナ機、付近に偶然居合わせたモーターボートに乗る一般人などを次々と射撃し、警察官を負傷させるなど過激な行動を繰り返しました。

 

 

 

瀬戸内シージャック事件の経緯④ 川藤展久が狙撃で射殺される

 

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「ぷりんす号」で逃走を続け、警察やマスコミ、一般人にまで見境のない発砲を続ける川藤展久でしたが、5月12日21時40分頃に給油のため「ぷりんす号」を愛媛県の松山観光港に入港させます。川藤展久は船長に代理で交渉させ、人質の解放と引き換えに、代わりの船の用意か燃料を給油しろと要求。

 

警察が給油に応じたため、約束通りに一般客が解放されましたが、乗員9人は引き続き人質とされ、翌5月13日の0時50分頃に、「ぷりんす号」は再び出航しました。

 

その後、来島海峡へと航路をとり今治市沖に到達した「ぷりんす号」はその後、経路を反転させ、朝8時50分頃に再び宇品港へと帰港しました。そこで、川藤展久は先に逮捕された仲間の少年2人を連れて来いと要求します。

 

この時、岡山県に住んでいた川藤展久の当時58歳の父親と姉が、川藤展久の説得を試みますが、川藤展久は「帰れ!」と行って拒絶。その後激昂した川藤展久は、ライフル銃を乱射して警察官1人に重傷を負わせ、さらには、強行偵察を敢行した警察のヘリも銃撃して墜落寸前にさせるなどしています。なお、ここまでで川藤展久は散弾64発、ライフル弾50発を乱射しています。

 

交渉のために船外へ出てきた船長が、川藤展久は「警察と撃ち合いになって死にたい」などと思っている事や、再び「ぷりんす号」を出航させようと考えている事を警察に伝えます。

 

これを受けた警察側はこれ以上の被害拡大を回避するため、場合によっては犯人の射殺もやむなしの決断を下しました。

 

 

同日9時52分頃、川藤展久は銃の乱射を止め、「ぷりんす号」デッキ上に出て警官隊に向けて何事かを叫び始めました。この時、船から40メートルほど離れた防波堤に配置されていた大阪府警から派遣された狙撃手が、ついに川藤展久を狙撃。川藤展久は左胸辺りを撃たれてその場に崩れ落ちました。

 

この時、なおも川藤展久は落ちした銃の方へはい寄ろうとし、近くにいた船長によれば「死んでたまるか、もういっぺん」と話したとされます。

 

その後、突入した警官隊によって川藤展久は確保され、人質も解放されて「瀬戸内シージャック事件」はようやく解決へと向かいました。その後、川藤展久は午前11時25分頃に搬送先の病院で死亡が確認されています。

 

 

 

瀬戸内シージャック事件の狙撃手と県警本部長を弁護士が告発

 

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「瀬戸内シージャック事件」は警察による犯人・川藤展久の狙撃射殺によって幕を閉じましたが、犯人を射殺した事について、事件後にマスコミや一部人権団体が射殺した事には問題があったのではないか?と騒ぎ立てました。

 

この騒動の背景には、「瀬戸内シージャック事件」の2ヶ月前に発生した「よど号ハイジャック事件」の後、1ヶ月の間に立て続けに6件もの人質事件が発生していた事があったようです。

 

つまり、模倣的な人質事件が立て続けに発生している事に危機感を抱いた警察が、「瀬戸内シージャック事件」の犯人を射殺する事で見せしめにし、同様の事件の抑止的効果を狙ったのではないか?との疑念が浮上したのです。

 

こうした騒動の中、自由人権協会北海道支部所属弁護士が指揮に当たった県警本部長と、実際に発砲した大阪府警所属の狙撃手を告発し、この件は国会の衆議院地方行政委員会で取り上げらる事態にまで発展しています。

 

マスコミや一部人権団体が盛んに警察の判断を批判する反面、一般民衆の世論は概ね、「被害拡大の恐れがあったため、犯人射殺は止むを得ない」というもので、犯人・川藤展久の父親も「親として、死んでくれてせめてもの償いができた。」とし、警察に抗議するつもりはないという意思を示しています。

 

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また、当時人質となっていたぷりんす号船長も、後にバラエティ番組「奇跡体験!アンビリバボー」の取材を受け「狙撃は仕方がないなと思った。やむを得ない」とのコメントを出されています。

 

こうした世論の風潮であったにも関わらず、当時の左寄りのマスコミや、過剰とも言える平和思想に取り憑かれた人権団体によって、警察官として職務を全うしたに過ぎない狙撃手が追及を受ける事になったのでした。

 

 

瀬戸内シージャック事件の狙撃手のその後

 

こうして「瀬戸内シージャック事件」の顛末によって追及を受ける事になった狙撃手は、マスコミによって狙撃時の写真や映像、実名までもを晒され、吊るし上げに近い報道を受けた結果、警察を自ら辞職しています。

 

当時、警察庁長官だった後藤田正晴氏は、この狙撃手がマスコミから圧力を受け、それに耐えきれなくなって自ら辞めた、かわいそうな事だ、と狙撃手を擁護する発言をしています。

 

また、一部ネットの情報ではこの狙撃手がその後自殺したとも言われていますが、これは事実ではないようです。

 

 

瀬戸内シージャック事件の犯人・川藤展久の生い立ち

 

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続けて、「瀬戸内シージャック事件」の犯人・川藤展久の生い立ちについても見ていきましょう。

 

川藤展久は、岡山県に住む6人兄弟の3男として1949年に生まれました。父親は船員、母親は新興宗教の熱心な信者で、両親は留守がちな家庭で育ったとされます。

 

川藤展久は小学生時代から窃盗や家出を繰り返し、少年院にも収容されるも逃走し捕まるなどし、少年院仮退院後もすぐに10件もの窃盗事件を起こすなど、手のつけられない悪童だったようです。この頃から全国を無賃乗車して放浪していたという情報もあるようですが、こちらはしっかりとしたソースが確認できないため真相は不明です。

 

その後、川藤展久は、中学を1年間通ってから学校へ行かなくなり、そのまま家を出て、広島、福岡、東京など、全国を流浪するように転々する生活を続けていたようです。この頃の川藤展久はは暴力団の使い走りのような事をして生計を立てていました。

 

1967年に広島県で工員の仕事を得ますが、この頃に20件にも及ぶ窃盗事件を起こして逮捕されて懲役刑をくらい1969年まで服役。出所後は定職につかず放埓な生活を送っていたようです。

 

そして、1970年、20歳になった川藤展久は「瀬戸内シージャック事件」を起こす事になるのです。

 

 

瀬戸内シージャック事件の犯人・川藤展久の動機は?

 

ここまで読んできて気になった方もいるかもしれませんが、この「瀬戸内シージャック事件」での川藤展久の動機がよくわかりません。

 

川藤展久は、自動車を盗難した事が発覚し警察の逮捕から逃走した結果、なし崩し的にシージャックという凶悪犯罪に至っています。

 

通常、ハイジャックやシージャックのように、人質をとって立てこもるような凶悪事件は、犯人が何らかの政治的な要求を行う場合が多いですが、この川藤展久の場合、そうした論理だった動機は一切なく、無軌道に欲望のままに生きてきた結果凶悪犯罪を起こし、最後には射殺されるという結末を招いたのだと言えます。

 

 

 

まとめ

 

今回は、1970年に発生した「瀬戸内シージャック事件」についてまとめてみました。

 

「瀬戸内シージャック事件」は、自動車盗難が発覚し警察から逃走を続けた犯人・川藤展久が、最後には定期旅客船「ぷりんす丸」を奪って人質をとって逃走し、警察との大立ち回りを演じた後、大阪府警の狙撃手によって射殺された事件です。

 

この事件後、マスコミや人権団体によって警察による犯人の射殺が問題化され、指揮をとった県警本部長と、狙撃手が告発される事態に発展。この事件が原因となった、日本の警察は例え警察官や一般市民に命の危険を及ぼすような凶悪犯に対してであっても、銃器の使用に慎重にならざるを得なくなったと言われています。

 

この、警察による銃器使用の是非は現在でも、市民や現場の警察官達の安全保障にとって極めて重大な問題だと言えるでしょう。今後、こうした問題に十分な議論がなされ、良い方向へと進展する事を望みます。

 

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