1984年に北海道夕張市で起きた「夕張保険金殺人事件」ですが、犯人である日高夫婦の死刑判決後の悪あがきが話題です。
今回は事件の経緯や動機、裁判や判決、犯人の最期、廃墟になった自宅など現在の事件の場所の様子を紹介します。
この記事の目次
- 夕張保険金殺人事件とは
- 夕張保険金殺人事件の犯人は日高夫婦 【夫が暴力団組長・妻は元女番長】
- 夕張保険金殺人事件の詳細① 事件前、日高夫婦は事故で多額の保険金を得ていた
- 夕張保険金殺人事件の詳細② 日高夫婦の犯行動機は新事業立ち上げの資金欲しさ
- 夕張保険金殺人事件の詳細③ 石川清が放火を実行
- 夕張保険金殺人事件の詳細④ 日高夫婦が逮捕されたきっかけは石川清の自首
- 夕張保険金殺人事件の犯人・日高夫婦の判決は死刑
- 夕張保険金殺人事件の犯人・日高夫婦の死刑判決のその後
- 夕張保険金殺人事件の犯人・日高夫婦の死刑の様子など最期
- 夕張保険金殺人事件のなんJ民の反応
- 夕張保険金殺人事件の現在:事件現場はダムの底・自宅は廃墟に
- まとめ
夕張保険金殺人事件とは
「夕張保険金殺人事件」は、1984年(昭和59年)に北海道夕張市鹿島(大夕張)で発生した、暴力団組長夫婦による火災保険および生命保険の保険金詐取を目的とした放火殺人事件です。
事件首謀者の日高夫婦は、自身の会社の従業員に放火を実行させ、放火の鎮火にあたっていた消防士1名を含む7名が死亡しました。
多額の保険金を手にした日高夫婦は逮捕され、死刑は免れない状況でしたが、昭和天皇の崩御による恩赦を期待して控訴を取り下げるなど、全く反省の色のない醜態を晒しました。
しかし、恩赦は行われず、日高夫婦の死刑は執行されています。
夫婦揃っての死刑執行は、この「夕張保険金殺人事件」が戦後初でした。
夕張保険金殺人事件の犯人は日高夫婦 【夫が暴力団組長・妻は元女番長】
1977年(昭和52年)、「夕張保険金殺人事件」の犯人・日高安政は北海道夕張市内に炭鉱の下請け会社に作業員を派遣する「日高工業」を立ち上げ、会社の業績は順調でした。
同時に、事務所には「初代誠友会日高組」という暴力団を名乗る看板も掲げられていました。
日高安政の妻である信子は元女番長であり、2人が知り合った頃はバーのホステスだったようです。2人ともバツイチでの再婚でした。
日高安政は度々暴力事件起こして逮捕され、懲役3年の実刑判決を受けたことから、1979年に4度目の刑務所に収監されました。
日高安政が服役すると、信子は夫の代わりに日高組の姐御として会社と組の運営を引き受けています。
夕張保険金殺人事件の詳細① 事件前、日高夫婦は事故で多額の保険金を得ていた
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1981年10月16日の午後0時40分頃、北炭夕張炭鉱において大規模なガス事故が発生しました。
地下1000メートルの採鉱のための準備坑道でガスが噴出し、作業員83名が窒息死、さらに坑内での火災で10名が焼死し、計93名が死亡、39名の重軽傷者を出す大惨事となっています。
なお、亡くなった作業員の遺体を全て収容できたのは翌年の1982年3月でした。
この炭鉱事故は戦後で3番目に死者を出した大事故であり、日高工業の従業員も7名が犠牲となったため、日高夫婦には生命保険金が1億3000万円入りました。
当時、日高安政は服役中でしたが、出所すると日高夫婦は保険金を使って高級車を買ったり、海外旅行に行くなど豪遊したようで、2年も経たずにすべてのお金を使い果たしています。
しかし、完全に金銭感覚が壊れてしまった日高夫婦は、お金がなかった頃の生活には戻れず、借金をしてでも贅沢な暮らしを続けました。
夕張保険金殺人事件の詳細② 日高夫婦の犯行動機は新事業立ち上げの資金欲しさ
1984年3月頃、日高安政(当時41歳)は信子(当時38歳)に、夕張が不景気なため札幌にデートクラブを立ち上げることを提案し、そのための資金として2000万円が必要だと話しました。
前述の炭鉱事故で多額の保険金を得たことに味をしめた日高安政は、デートクラブ立ち上げ資金を工面するために、自分の会社の従業員を事故に見せかけて殺害する計画を思いつきます。
日高工業は当時、夕張市鹿島栄町1丁目にある三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の旧大夕張駅前の栄町商店街に宿舎を持っており、木造2階建てのこの建物には火災保険がかけてありました。
また、この宿舎に寝泊りをしている作業員にも生命保険がかけられており、日高安政は放火をして火災保険と生命保険の両方を騙し取ろうと考えたのです。
そして同年4月下旬頃に、日高夫婦は組員であり作業員の石川清(当時27歳)を自宅に呼びつけ、500万円の報酬と引き換えに宿舎に放火することを指示しました。
この条件を飲んだ石川清は、5月5日夜に放火を実行に移すことを決めたため、日高夫婦はアリバイ作りのために当日は行きつけの料理屋に行っています。
夕張保険金殺人事件の詳細③ 石川清が放火を実行
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1984年5月5日は、旧大夕張駅前の栄町商店街にあった日高工業の作業員宿舎で、作業員の入寮を祝う宴会が午後10時頃まで行われていました。
石川清は他の作業員が寝静まった午後10時40分頃に、1階にある食堂で新聞紙にライターで火をつけて放火しました。
炎は瞬く間に燃え広がり、宿舎で就寝中だった作業員4名、住み込みの炊事婦の子供2名が焼死し、消火作業に当たっていた消防士1名も崩落したモルタルの下敷きになって死亡しました。
この火災は放火だとは気づかれず、宴会で使っていたジンギスカン鍋の焼肉プレートか石油ストーブの火の不始末が原因と結論づけられました。
保険金が支払われるも散財
火災は不慮の事故と認定されたことで、日高夫妻の思惑通り、4社の保険会社から火災保険金2425万円と、死亡した作業員の生命保険1億1376万円の計1億3801万円が支払われました。
しかし、金銭感覚が完全に破綻していた日高夫婦は、わずか1ヶ月足らずでこのお金を使い切ってしまいました。
夕張保険金殺人事件の詳細④ 日高夫婦が逮捕されたきっかけは石川清の自首
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放火犯として7名を殺害したことになる石川清は、自身も炎から逃げるために2階から飛び降りており、両足を骨折して病院に入院していました。
同年7月中旬頃には退院したものの、その後失踪していた石川清は、8月15日に失踪先の青森市から警察署に電話をかけ、自分が放火したことを明かし、犯行を自供しています。
石川清が突然自首したきっかけは、電話で友人と話した時に「暴力団がお前を探している」と伝えられたためであり、日高夫婦から口封じとして殺害されると考えたためでした。
また、殺される恐怖心の他にも、日高夫婦が500万円を報酬としてくれるといいながら、実際には入院見舞金として75万円しかくれなかったことに不満があったからです。
これらの理由に加えて、石川清は自分が行なった放火により、炊事婦の子供2名まで殺してしまったことに深い罪悪感を感じていました。
夕張保険金殺人事件の犯人・日高夫婦の判決は死刑
実行犯・石川清の自首により、8月19日に日高夫婦は現住建造物放火、殺人、詐欺容疑で逮捕されました。
札幌地裁で日高夫婦の一審裁判が開かれましたが、日高夫婦は放火をした目的は火災保険金だけが目当てであり、宿舎内にいた作業員たちを殺害するつもりはなかったと主張しました。
また、石川清には中にいる作業員が逃げられるように放火を指示したと主張します。
しかし検察側は、作業員達にお酒を飲ませて就寝後に放火させていることから、生命保険金目当ての殺人目的であることは明白だとし、日高夫婦に死刑を求刑しました。
そして1987年3月4日、札幌地裁で行われた分離公判において、実行犯の石川清には無期懲役の判決が下り、3月9日には日高夫婦には死刑が言い渡されました。
日高夫婦の死刑が確定した
日高夫婦に死刑が言い渡された理由は、他の結果として焼死者が出ても仕方がないと容認していたと言わざるを得ない状況だったことから、未必的故意が認められたためでした。
また、主犯格は日高安政としながらも、一時的に日高安政が犯行をためらった際、妻の信子が強い口調で実行するように促したことから、日高夫婦の罪責は同等だと認めました。
そのため、日本の犯罪史上で類を見ない凶悪な重大事件として、裁判長は求刑通りに日高夫婦に死刑を言い渡しています。
これに対して日高夫婦は控訴しましたが、1988年10月11日に控訴を取り下げたため、日高夫婦の死刑が確定し、石川清の無期懲役も確定しました。
日高夫婦は恩赦を期待して控訴を取り下げた
日高夫婦が控訴を取り下げた理由は、当時昭和天皇が重篤な状態であり、崩御した場合は恩赦が行われることが通例だったため、恩赦を期待して死刑執行を免れようと思ったためでした。
実際、過去にも明治天皇や大正天皇が崩御した際も恩赦が出て、殺人犯のような重大事件を犯した重罪人も減刑されていました。
また、戦後のサンフランシスコ講和条約締結時にも、死刑囚であっても殺人罪のみであれば無期懲役に減刑されたことがあります。
この事実があったため、日高夫婦は弁護士の提案により控訴を取り下げたものと思われますが、昭和天皇が崩御した際の恩赦では、懲役受刑者や禁錮受刑者、死刑確定者は対象外でした。
夕張保険金殺人事件の犯人・日高夫婦の死刑判決のその後
日高夫婦が控訴審の再開を申し立て
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あてが外れてしまった日高夫婦は、1996年5月10日に控訴審の再開を札幌地裁に申し立てました。
以前控訴を取り下げた理由として、死刑判決を受けたことから精神的にとても不安定な状態にあり、法律知識もなく、恩赦がおりると誤信していたと苦し紛れの言い訳をしています。
しかし同年8月、札幌地裁は日高夫婦の目論見を見透かしていたように、控訴取り下げは無効とは言えないとして申し立てを棄却しました。
日高夫婦はさらに最高裁へ特別抗告をしましたが、これも1997年5月30日に棄却されました。
夕張保険金殺人事件の犯人・日高夫婦の死刑の様子など最期
1997年8月1日、札幌拘置所内で日高夫婦の死刑が執行されました。
午前10時前に日高安政の刑が執行され、その約2時間後に妻の信子の刑が執行されています。
日高夫婦は死刑が執行されるまで、一度もお互いの姿を見ることはなかったそうです。
死刑が執行された時、日高安政は54歳、妻・信子は51歳で、夫婦での死刑執行は戦後初となり、女性の死刑執行は戦後3人目となりました。
なお、戦後初の女性死刑囚は、ホテル日本閣事件の小林カウであり、1970年6月11日に死刑執行されています。
2人目は女性連続毒殺魔事件の杉村サダメであり、小林カウから約26年8ヶ月ぶりとなる1970年9月19日に死刑執行されました。
なお、日高夫婦が死刑執行された同じ日に、東京拘置所に収監されていた永山則夫連続射殺事件の永山則夫の死刑も施行されました。
夕張保険金殺人事件のなんJ民の反応
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「夕張保険金殺人事件」に対する現在のネット上の反応として、なんJのサイトから抜粋して紹介します。
2:風吹けば名無し2019/10/22(火) 09:24ID:wgL1bIQr0
草
4:風吹けば名無し2019/10/22(火) 09:24ID:kmp+6XRu0
アホすぎる
13:風吹けば名無し2019/10/22(火) 09:25ID:/It0p+bJ0
なんで死刑囚に出すと思ったのか
26:風吹けば名無し2019/10/22(火) 09:26ID:TCGdBikS0
暴力団組長で放火保険金殺人
三段階くらい減刑しても死刑やな
誰がどう考えても、日高夫婦に恩赦が降りるはずがないというのが共通の見解のようです。
夕張保険金殺人事件の現在:事件現場はダムの底・自宅は廃墟に
「夕張保険金殺人事件」後、日高夫婦が経営していた日高工業は、経営者である2人が逮捕されたことから業務停止となり、そのまま倒産してしまいました。
なお、事件現場となった作業員宿舎はそのまま残され、しばらく解体されないまま植物が繁茂している状態だったようです。
しかし、夕張シューパロダムの建設に伴い、大夕張の全住民が移転し無人となったため、その後事件現場となった宿舎はダムの底となりました。
一方で、日高夫婦が使用していた南部青葉町にあった自宅兼事務所は、炭鉱の閉山によって町は過疎化が進んでいるものの、2021年現在も現地に残されています。
ただ、北海道特有の過酷な気候条件による風化や、侵入者による破壊行為などにより、自宅だった建物は半壊状態で廃墟と化しているようです。
それでも、建物の入り口には「クレジットの信用商事 Sファミリークラブ H商事 (株)S代理店」という看板や表札が今も残されているということです。
まとめ
多額の火災保険や生命保険を詐取するために、実に7名もの尊い命を奪った放火殺人事件の首謀者である日高夫婦についてまとめてきました。
しかし犯人の日高夫婦は全く反省することなく、最後の最後まで恩赦狙いの保身を考えていたという醜い悪あがきは、日本犯罪史上で伝説となっているようです。
亡くなった7名の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。