戦後の混乱期に発生した「帝銀事件」は現在も冤罪説が根強く囁かれている謎の多い事件です。
今回は「帝銀事件」の概要を振り返り、犯人として逮捕された平沢貞通元死刑囚の冤罪説、真犯人は旧陸軍「731部隊」関係者ではないか?とする説などについてまとめました。
この記事の目次
帝銀事件とは
「帝銀事件」とは、太平洋戦争の終戦から約2年半後の、1948年(昭和23年)1月26日に発生した大量殺人事件です。
中年の男が銀行員らに青酸化合物を服用させ毒殺
その日、東京都豊島区長崎に所在していた帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店の閉店後、見知らぬ中年男性が訪れ、行員らに「近くの家で集団赤痢が発生したので、GHQが店内を消毒する前に予防薬を飲んで欲しい」「赤痢の感染者の一人がこの店を訪れている」などと伝え、薬物を服用するよう求めました。
中年の男が東京都防疫班の腕章をつけていた事や、厚生省技官の肩書きの名刺を差し出した事、手本として、先に薬物を飲んで見せた事などから行員らは中年の男を信用し、言われた通りに薬物を服用します。
その場にはその時、行員と用務員家族ら、8歳から49歳までの合計16人にがいましたが、全員が中年男の言う通りに薬物を服用したところ、ほどなくして全員が苦しみ始め、次々と気を失い、うち11名がその場で死亡、その後、さらに1名が搬送先の病院で死亡しました。
犯人は大金を盗んで逃走
被害者達の体内から青酸化合物が発見され殺人事件が発覚しますが、犯人と思われる中年の男は既に現場から逃走しており、銀行内にあった現金16万円と安田銀行(現在のみずほ銀行)船橋支店の小切手1万7450円分(現在価値にして約1500万円以上)が持ち去られている事も判明します。
未遂の類似事件が発生していた事が判明
「帝銀事件」の発生から約3ヶ月前の1947年(昭和22年)10月14日、安田銀行荏原支店の閉店後、男が訪れ「厚生技官 医学博士 松井蔚、厚生省予防局」と記載された名刺を差し出し、「赤痢に感染した患者が、この店を訪れているので消毒する」などと言い、帝銀事件と同じような手口で行員らに薬を飲ませていた事が判明します。
この時は、薬を飲んだ人々から死者は出ませんでした。この事件時、男が置いていった名刺の「松井蔚」と言う人物は実在し、名刺自体も本物だった事から、「帝銀事件」の犯人はこの松井蔚と過去に名刺交換をした事のある人物だと推定し警察の捜査が勧められました。
さらに、「帝銀事件」の発生7日前の、1948年1月19日に、三菱銀行中井支店でも「厚生省技官 医学博士 山口二郎、東京都防疫課」と記載された名刺を差し出した男が訪れ、同じ手口で行員らに薬を飲ませようとしていた事が判明しています。
こちらの事件では支店長が不審に思って対応を断り被害は出ていません。また、名刺に書かれた「山口二郎」と言う人物も実在せず、名刺自体も偽造された物でした。
帝銀事件の犯人として逮捕された平沢貞通
警察は上記の未遂類似事件で使用され犯人が置いていった名刺の「松井蔚」と過去に名刺交換を行なっている人物を対象に捜査を続けました。
1948年(昭和23年)8月21日、警察は、その中の一人でテンペラ画家の平沢貞通を「帝銀事件」の犯人として北海道小樽市で逮捕しました。
警察が平沢貞通の逮捕に踏み切った理由としては、以下の内容が挙げられています。
平沢貞通が「松井蔚」の名刺を所持していなかった事。
「帝銀事件」発生時刻に平沢貞通がアリバイを証明できなかった事。
平沢貞通は、過去に銀行相手の詐欺事件を4度も起こしている事。
平沢貞通は、事件直後に被害総額とほぼ同額の金額を預金しており、この金の出所が不明であった事。
「帝銀事件」の犯人とされる平沢貞通への警察による取り調べはかなり厳しかった(拷問まがいだったとも)と言われ、当初は犯行を否認していた平沢貞通も、逮捕から約1ヶ月後の9月23日頃に自供し、10月12日に強盗殺人及び強盗殺人未遂で起訴されています。
なお、平沢貞通は取り調べ開始後に3度の自殺を図ったと言われています。
帝銀事件の犯人とされる平沢貞通に裁判で死刑判決
「帝銀事件」の犯人とされた平沢貞通は、東京地裁で開かれた裁判で自白から一転して冤罪を主張しましたが、1950年(昭和25年)7月24日に「死刑」の一審判決が下されました。
平沢貞通は不服として控訴しますが、東京高裁は、1951年(昭和26年)9月29日に控訴を棄却。平沢貞通はこれも不服として上告しますが、最高裁は、1955年(昭和30年)4月7日に上告を棄却し、同年5月7日に死刑判決が確定しています。
帝銀事件の犯人・平沢貞通死刑囚には冤罪説も
以上のように「帝銀事件」の犯人としてテンペラ画家の平沢貞通が逮捕され、その後死刑判決が下された事で事件は解決とされましたが、平沢貞通が最後まで無罪を主張していた事や、決定的な証拠が発見されたなかったため、平沢貞通は冤罪であり「帝銀事件」の真犯人は別にいるという説が現在まで根強く囁かれています。
冤罪が疑われた理由については主に以下の内容が挙げられています。
当時、平沢貞通は虚言症が起こるとされる「コルサコフ症候群」を患っており、取り調べによる自白はこの影響が疑われる事。
毒物に関する専門的な知識を持たない平沢貞通には「帝銀事件」での犯行は難しい事。
逮捕の決め手となった「松井蔚」の名刺は、これ以外にも20枚以上が所在不明である事。
生存した被害者らの証言で作成したモンタージュ絵と平沢貞通が似ていない事。など。
これらを理由にして平沢貞通は冤罪であるとの説が浮上し、死刑判決確定後には「平沢貞通氏を救う会」が結成され、作家の松本清張氏、遠藤周作氏、映画監督の大島渚氏ら複数の著名人も平沢貞通の支援を行なっています。
帝銀事件の犯人・平沢貞通死刑囚の死刑は執行されず獄中死
こうした「平沢貞通氏を救う会」の活動によって、平沢貞通の冤罪説が一般市民の間でも高まり、その圧力を受けてか平沢貞通死刑囚の死刑は結局執行されませんでした。
平沢貞通は逮捕から39年の間、宮城刑務所に収監され、1987年5月10日午前8時45分、95歳で獄中死しています。
獄中の平沢貞通の様子
平沢貞通は支援者らの助けもあり、特別にアトリエの使用を許可され、獄中で1300点を超える作品を残しています。また、支援者らの助けによって国内外で個展も開催していました。
面会に訪れた養子の森川武彦(支援者の代表者の長男)に対しては「無実だから早く出たい、小樽の両親の墓参りをしたい」などと話し、日本酒を飲む事を楽しみにしていたと言います。
帝銀事件の真犯人は別にいる?
仮に冤罪説が正しく、「帝銀事件」の犯人が平沢貞通でないとすれば、「帝銀事件」の真犯人は何者なのでしょうか?
この真犯人については、旧陸軍の関東軍防疫給水部本部、通称「731部隊」の関係者ではないか?とする説が囁かれ続けています。
「731部隊」とは、細菌兵器、生物兵器の研究開発を行なっていた部隊で、毒物に熟知した人物も多数所属していました。
「帝銀事件」で使用された毒物が青酸化合物だった事から、警察は当初、この取り扱いに熟知している「731部隊」関係者を重点的に捜査していました。しかし、当時日本を統治していた「GHQ」が警察に圧力をかけ、「731部隊」への捜査を停止させたと言われています。
これは、当時のアメリカ軍が「731部隊」の研究成果を利用しようとしていたためとされていますが、真相は闇の中です。
ただ、「731部隊」関与説を裏付けるかのように、旧陸軍の研究所「登戸研究所」の所員だった伴繁雄元陸軍少佐が、「犯人は平沢貞通ではなく、旧陸軍関係者である」と主張しており、さらに、伴繁雄氏はその著書の中で以下のように書いています。
「731部隊の内50数人を調べた結果、経歴・アリバイ・人相が合致するのはS中佐(事件時51歳、事件翌年に病死)しかいない」
引用:帝銀事件
このように、旧陸軍の科学部隊の関係者である伴繁雄氏は、「帝銀事件」の犯人は「731部隊」の関係者である事を疑っていたようです。
まとめ
戦後の混乱期に発生した青酸化合物による大量毒殺事件「帝銀事件」についてまとめてみました。
「帝銀事件」の犯人として画家の平沢貞通という人物が逮捕され「死刑」の判決が下されましたが、その後冤罪を疑う声が高まった影響で、結局死刑は執行されず、平沢貞通は獄中に拘置されたまま、事件から39年後の1987年に95歳で獄中死しています。
「帝銀事件」は現在も、冤罪説や真犯人がいたのかどうかなど、多くの謎を残したままその真相は闇に包まれています。今後、「帝銀事件」の真相が明らかになる日はいつか訪れるのでしょうか?