1967年に起きた布川事件は、逮捕された桜井昌司さんと杉山卓雄さんの冤罪が確定しており、真犯人は未だに不明です。
今回は布川事件について、桜井昌司さんと杉山卓雄さんが逮捕された捜査の経緯、冤罪確定の経緯をまとめました。
この記事の目次
布川事件の概要
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1962年8月30日早朝、茨城県利根町布川で当時62歳の玉村象天(たまむらしょうてん)さんが自宅で殺害された状態で発見されました。
第一発見者は、玉村さんに大工仕事を頼もうと家を訪れ声をかけました。
しかし、自転車があるにもかかわらず返事がなかったことから不審に思い、勝手口から家の中を覗いたところ、玉村さんが8畳間で殺害されているのを発見したと言います。
現場は、玄関と窓は施錠されていましたが勝手口はわずかに開いていて、またトイレの窓も開いており、木製の桟が2本外れた状態でした。
部屋は8畳間と4畳間がガラス戸で仕切られていましたが、そのガラス戸が2枚とも4畳間の方に倒れてガラスが散乱していたそうです。
被害者は両足をタオルとワイシャツで縛られていて、口にはパンツが押し込まれ、首にもパンツが巻きつけられた状態で8畳間に倒れていて、死因は窒息死と見られました。
また、机の引き出しや、タンス、ロッカーなどを物色した跡がありました。
衣類なども散乱していましたが、具体的に何がなくなっているのかは把握できない状態でしたが、日頃使用していた白色の財布が見当たらず、持ち去られた可能性が高いようでした。
部屋の中からは合計43点の指紋が検出されましたが、どれもこれといって事件に関連するものではなかったと言います。
検死の結果、玉村さんが亡くなったのは、8月28日19時~23時の間に首を締められたことによる窒息が原因で死亡したと見られています。
布川事件の捜査の経緯 【真犯人を取り逃がしたと言われる警察の動き】
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初期捜査
被害者である玉村象天さんには、近所付き合いがほとんどなかったため目撃情報は少なかったものの、この日の玉村さんの足取りは聞き込みから明らかになっています。
この日、玉村さんは18時30分頃に吉岡さんの家で大工仕事を終え、その後、工事代金の取り立てのために19時頃に知り合いの米元さんの家に立ち寄り、5分ほど話して帰っていったそう。
つまり、玉村さんが殺害されたのは、おそらく19時半以降で、自宅に戻ってからのことだと考えられました。
また、現場周辺の聞き込みにより、19時半から20時半の間に被害者の自宅付近に2人の男性がいたという目撃情報があり、1人は背の高い男性であったと言います。
警察はこの2人組の男を犯人と推測し、この土地を含む広い範囲の地取り捜査を行いました。
前科者、素行不良者、被害者の交友関係などを片っ端から洗い出した結果、その数は総勢180人にも上りました。
その中からアリバイのないものを絞り込んで行った結果、走査線上に被疑者として名前が挙がったのが、桜井昌司さんと杉山卓男さんという2人の男性でした。
10月10日
事件の捜査が始まって2ヶ月弱ほどが経ち、10月初旬には被疑者が2人に絞られたものの捜査は行き詰まっていました。
そんな中、10月10日に被疑者の1人として名前が挙がっていた桜井昌司さんが、ズボン1本の窃盗容疑という別件で逮捕されたのです。
窃盗容疑に関しては櫻井さんはすぐに容疑を認めましたが、この別件と本件を合わせて30日間の勾留中、本件である強盗殺人事件の容疑についても取り調べが続きました。
そして10月15日、桜井さんは「杉山と一緒に殺して金を盗った」と自白。
この自白がきっかけとなり、桜井さんの兄の友人である杉山卓男さんが逮捕されたのです。
10月16日
桜井昌司さんの自白がきっかけで、10月16日杉山卓男さんが逮捕されました。
日々喧嘩や恐喝などを繰り返す日々だったため、16日に逮捕された際に驚きも見せなかった杉山さんは、8月に起こした暴力行為事件で逮捕となり、桜井さん同様別件逮捕となりました。
別件の取り調べの後、本件の取り調べも引き続き行われ、17日に強盗殺人の罪を自白。
10月23日に桜井昌司さん、杉山卓男さんの2人が本件である強盗殺人容疑で再逮捕され、事件は一件落着に思われました。
有罪確定
1967年12月28日に強盗殺人容疑で起訴された桜井昌司さんと、杉山卓男さんは公判で「自白は取手警察署刑事課刑事に強要されたものである」と容疑を全面否定。
しかし1970年10月6日、第一審の水戸地裁土浦支部では無期懲役の有罪判決が言い渡されました。
これを不服として控訴しましたが、1973年12月20日、東京地裁では「ほかに犯人がいるのではないかと疑わせるものはない」として控訴を棄却し、これにも上告。
1978年7月3日最高裁で上告が棄却され、桜井昌司さんならびに杉山卓男さんの無期懲役の有罪判決が確定したのです。
布川事件の被疑者とされた桜井昌司と杉山卓夫とは
桜井昌司(さくらいしょうじ)
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1947年1月24日に栃木県塩谷郡塩谷村に生まれ、父親は役所に勤め、母親は野菜の行商に従事していました。
家庭内不和などを理由に高校を中退し、その後は定職につくことなくフラフラとした生活を送っていました。
杉山卓男(すぎやまたくお)
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1946年8月23日に茨城県北相馬郡利根町に生まれ、父親は役所勤め、母親は教員として働いていましたが、幼い頃に父親を亡くしており、母親に女手一つ育てられました。
桜井昌司さんと同じ高校に入学しましたが、無免許運転により退学処分となり、その後機械工として働くようになりました。
しかし、その後母親が亡くなったことで生活が荒れ、19歳の時には乱闘騒ぎを起こし保護観察処分を受けるなど素行不良が目立つようになります。
暴力団の抗争にも参加し、恐喝や喧嘩は日常茶飯事となっていたため、10月16日に逮捕された際にも意外な反応はまったくなかったと言います。
布川事件で桜井昌司と杉山卓夫が冤罪とされた3つの理由とは
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最高裁で無期懲役が確定し、幕引きとなった布川事件ですが、有罪が確定した当時から冤罪の可能性を示唆する声が挙がっていました。
それは、この事件に複数の疑問点があり、また被告の弁護側も自白は警察官に強要されたものだと主張したにも関わらず、疑問点についてどれも明確にされないまま刑が確定したためです。
では、どのような疑問点があったのでしょうか。
① 物的証拠がなにもなかった
布川事件において、殺害された被害者の自宅から実際に盗まれたものは明確にされておらず、現場からなくなったとされた白い財布も、犯行後どこへ消えたのか、一切分かっていません。
また、現場からは43点もの指紋が検出されましたが、その指紋の中に被告である桜井昌司さんと杉山卓男さんの指紋は出ていません。
検察側は犯人が指紋を拭き取ったと主張しましたが、現場で物色されたと考えられる金庫や机などからは多くの指紋が検出されたため、検察の主張は矛盾点があると弁護側が主張しました。
この点についても、警察からは詳しい説明はなされませんでした。
さらに、現場付近をうろつく2人組との目撃情報を基に2人が被疑者になりましたが、すでに周囲が暗い状況でその2人組が桜井昌司さんと杉山卓男さんだと特定は難しいと考えられます。
このように、この事件の犯人を決定づける物的証拠は何一つなく、起訴は桜井昌司さんと杉山卓男さんの自白に基づくもののみでした。
そのため、弁護側はこの自白が警察による強要によるものだと主張しましたが、検察側の主張が全面的に受け入れられ、無期懲役の判決が下りました。
また第二審でも、引き続き自白の強要があった点や証拠が不十分である点について弁護側の主張がなされましたが、「他に犯人がいるのでないかと疑わせるものはない」という判断でした。
確かに証拠が不十分ではあったものの、逆を返せばその証拠を覆せるだけの証拠もまたないということでした。
②自白内容と現場状況との矛盾
こうなってくると、争点となるのは自白の強要があったのかどうか、という点です。
最高裁で有罪が確定し桜井昌司さんと杉山卓男さんが収監され、その後仮釈放となった後も無実を訴えて再審請求の準備が行われました。
その中で、「自白の中心部が死体の客観的状況と矛盾する」部分が浮き彫りとなり、2度目の再審請求で「捜査官の誘導に迎合したと疑われる点が多数存在する」と認定されたのです。
その矛盾点というのが2点あります。
まずは、被害者の自宅に侵入した際の方法についての自白が不自然なものだったということ。
「勝手口の左側ガラス戸を右に開けると、奥の8畳間から顔を出した被害者の顔が見えた」と供述調書には書かれていました。
しかし、現場の勝手口は左側のガラス戸の内側に大きな食器棚が置かれていたことから、わざわざ障害物のある方の戸を開けたことは不自然だと考えられます。
また、大きな食器棚があるため、そもそも被害者の顔が見えるはずがありません。
反対側の戸は40cmは開けられるため、本来こちらの戸を開くのが自然です。
これは、事件現場となった部屋の見取り図を取り調べ室で見せ、取り調べを行った警察官の誘導で自白調書が取られたためと考えられます。
そして、再審時に明らかとなったのは、調書では「両手で首を絞め」て絞殺したと自白していますが、実際には紐で絞殺されたということです。
こういった現場検証からうかがえる犯行時の状況と、供述調書に書かれていた自白内容は矛盾する点が多数存在していたため、これらを理由に再審が認められました。
③検察側の証拠開示の不明確さ
検察側が証拠として開示した事件当時の取調べを録音したテープは、編集を施したと思われる点が13点見受けられました。
しかし、このテープは確定審の際にはその存在が検察側から否定されており、開示されたのは再審請求の際でした。
また、現場で被告の2人を目撃したという女性が、実は被告人以外の人物も目撃していたということもこの時初めて証拠として開示されたのです。
そして再審を決定づけたのは、検察側が現場で発見された8本の毛髪の中に被告2人のものと一致する毛髪はなかったということを、当時は証拠として開示しなかったことです。
この毛髪の鑑定書について、検察側は存在を否定していましたが2005年に開示されました。
もしもこの鑑定書が裁判当時に開示されていたら無罪になっていた可能性がある、と裁判所が判断し、再審請求が認められました。
布川事件の再審請求・桜井昌司と杉山卓夫の冤罪が確定した経緯
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2005年9月21日再審開始が決定し、これに対して検察側は即時抗告しましたが、2008年7月14日に東京高裁はこれを棄却し、再審開始を支持。
2010年7月9日、水戸地方裁判所土浦支部にて再審第1回公判が開かれ、裁判は6度の公判の末に2011年3月16日に判決を予定していました。
しかし、東日本大震災の影響で5月24日に延期され、仕切り直しの判決公判で被告2人の無罪が言い渡されました。
これに対して検察側は控訴を諦めたため、無罪が確定。
再審での無罪判決では、これまでに開示された目撃証言や状況証拠の全てにおいてその信用性が否定されました。
再審無罪を勝ち取るまでに44年という、戦後に起きた事件の中では最長となる期間を要した冤罪事件として、世間では大きく取り上げられました。
無罪を勝ち取った桜井昌司さんと杉山卓男さんは水戸地方裁判所土浦支部に、刑事補償法に基いて補償を請求し、その金額は各1億3千万円となりました。
さらに1審から上告審までにかかった裁判費用の約1500万円を支払う決定が下り、2012年12月12日には桜井さんがが国と茨城県を相手に国家賠償請求訴訟を提起。
一方、杉山さんは妻や息子さんとの時間を犠牲にして裁判を戦う気になれないとして、同様の訴えを起こすことはありませんでした。
その後2人とも冤罪を防止するため、取り調べの可視化を訴える活動などを積極的に行い、本事件は「布川事件」と呼ばれ、戦後最悪の冤罪事件として知られるようになりました。
賠償請求によりお金が補償されたとしても、人の人生はもう元には戻りません。
2人の青年が冤罪で収監され、実に44年間という長い年月を、自身の冤罪を訴え続けて生きることは並大抵のことではないのです。
20歳で服役したため、桜井さんは年を重ねた現在、年金を受給することができないと話しています。また、服役中に両親を亡くし両親の最期を看取ることもできませんでした。
人の人生を大きく狂わせてしまう冤罪。
冤罪被害者が1人でもなくなるために、この大きな冤罪事件を忘れてはなりません。
まとめ
「布川事件」という戦後最悪と言われる冤罪事件で、冤罪の被害者となったのは桜井昌司さんと杉山卓男さんという2人の青年でした。
自白の強要、証拠の未開示など検察側の意図的な操作で2人の青年の人生は大きく変わりました。
再審請求がやっと受け入れられ、無罪を勝ち取ったときにはもう44年もの年月が過ぎてしまったのです。
無実を証明できたことや賠償請求により補償されたことは大きいかもしれませんが、かけがえのない44年間は決して戻りません。
これからの未来に冤罪被害者が出ないよう、この布川事件を決して忘れてはならないはずです。