石原まき子さんは「北原三枝」として大活躍した役者ですが、石原裕次郎さんと結婚し、現在は甥との養子縁組が話題です。
今回は石原まき子さんの生い立ちや若い頃の経歴、身長・スタイル、旦那や子供の有無、現在をまとめました。
この記事の目次
- 石原まき子のプロフィール:旧芸名は北原三枝
- 石原まき子(北原三枝)は高身長でスタイル抜群だった
- 石原まき子(北原三枝)の生い立ち:ネットでは韓国籍との噂もあるが…?
- 石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴① 日活ダンシングチームを経て、松竹へ
- 石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴② 日活に移籍後も大活躍
- 石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴③ 石原裕次郎と”ドル箱コンビ”に
- 石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴④ 結婚をきっかけに引退
- 石原まき子(北原三枝)の代表作① 1953年公開の映画「君の名は 第二部」
- 石原まき子(北原三枝)の代表作② 1956年公開の映画「狂った果実」
- 石原まき子(北原三枝)の代表作③ 1956年公開の映画「逆光線」
- 石原まき子(北原三枝)の代表作④ 1958年公開の映画「陽のあたる坂道」
- 石原まき子(北原三枝)が結婚した旦那は名優・石原裕次郎
- 石原まき子(北原三枝)の旦那・石原裕次郎のプロフィール
- 石原まき子(北原三枝)の旦那・石原裕次郎は松田聖子と不倫していた?
- 石原まき子(北原三枝)に子供はいないが、甥と養子縁組している
- 石原まき子(北原三枝)の養子・石原邦彦は石原音楽出版社の代表
- 石原まき子(北原三枝)の相続問題はどうなっている?石原裕次郎の愛車の行方は?
- 石原まき子(北原三枝)の現在① 石原プロモーションを解散
- 石原まき子(北原三枝)の現在② 2020年以降、表舞台に姿を見せず?
- まとめ
石原まき子のプロフィール:旧芸名は北原三枝
生年月日:1933年7月23日
出身地:東京都
所属:不明
石原まき子さんは元役者で、故・石原裕次郎さんの嫁であることで知られています。
また、石原裕次郎さんが立ち上げた芸能プロダクション「石原プロモーション」の代表取締役会長を務めていました。
ニックネームは「マコ」で、役者時代には「北原三枝」という芸名で活動。「第44回日本アカデミー賞」では会長功労賞を受賞するなど、スターの1人として活躍した人物です。
石原まき子(北原三枝)は高身長でスタイル抜群だった
石原まき子さんの身長については詳しい情報がありませんでしたが、身長178cmの石原裕次郎さんとの2ショットなどから見ると、女性としては高身長の部類であったことがうかがえます。
身長156cmである役者・浅丘ルリ子さんが石原裕次郎さんと並んだ際、ヒールを履いていても石原まき子さんよりも目線が低いように見えます。
おそらく石原まき子さんの身長は160cm代後半だったのではないでしょうか。
高身長かつ抜群なスタイルだった石原まき子さんは、”クールビューティー“の代名詞として人気を博していました。
石原まき子(北原三枝)の生い立ち:ネットでは韓国籍との噂もあるが…?
石原まき子さんの生い立ちについて調べてみたところ、あまりテレビやインタビューで語られていなかったようで、そのほとんどが謎に包まれています。
また、ネット上では「韓国」というキーワードも見受けられ、韓国籍もしくは韓国から帰化した家の生まれではないかという噂もあるようです。
なんでも、「ルーツを理由に周囲から結婚を反対されていた」という説もあったとのことですが、実際のところはわかりません。
ただ、ファンの方のブログによれば石原まき子さんは戦時中であった11歳の頃には日本で生活していたそう。
また、弟と母方の祖父宅に疎開していたそうですから、韓国籍説は信ぴょう性が低そうです。
石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴① 日活ダンシングチームを経て、松竹へ
石原まき子さんは中学を卒業後に、日劇ダンシングチーム、通称NTDへと入団。1952年に退団するまで、5期生として活動していました。
退団後は、松竹の”ニューフェイス”に合格。松竹所属の役者・北原三枝として、同年公開の映画「カルメン純情す」で本格的なデビューを果たしました。
その後も、1953年公開の「東京マダムと大阪夫人」や「新東京行進曲」といった映画に出演しています。
石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴② 日活に移籍後も大活躍
1954年には、日活からの誘いを受ける形で移籍し、”日活のエース“として華々しく活躍します。
同年公開の「女人の館」や1955年公開の「青春怪談」で主演を務めたほか、同年公開の「緑はるかに」や1956年公開の「ジャズ・オン・パレード 1956年 裏町のお転婆娘」などにも出演。
同年には、「流離の岸」で主演を務めたほか、のちの旦那となる石原裕次郎さんとの初共演を果たした映画「狂った果実」が公開されました。
1952年(昭和27年)に映画デビューした北原三枝。『青春怪談』で演じたドライな役柄もあって、当時の流行語で「M型(男性的な)女性」などと呼ばれたそうです。独特のクールな美貌と日本人離れしたプロポーションは、たしかにそれまでの女優像とは一線を画しています。新しい時代の風を感じさせるルックスが見事にハマったのが、石原裕次郎との初共演作『狂った果実』でした。
石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴③ 石原裕次郎と”ドル箱コンビ”に
映画「狂った果実」が大ヒットしたことで、石原まき子さんと石原裕次郎さんは”ドル箱コンビ”と呼ばれるように。
以降、共演作が次々と公開され、全23作品で共演しています。
お転婆三人姉妹 踊る太陽
勝利者
今日のいのち
俺は待ってるぜ
嵐を呼ぶ男
■1958年公開
錆びたナイフ
陽のあたる坂道
明日は明日の風が吹く
素晴しき男性
風速40米
赤い波止場
嵐の中を突っ走れ
■1959年公開
若い川の流れ
今日に生きる
男が爆発する
山と谷と雲
清水の暴れん坊
天と地を駈ける男
■1960年公開
鉄火場の風
白銀城の対決
青年の樹
天下を取る
やくざ先生
闘牛に賭ける男
石原まき子(北原三枝)の若い頃の経歴④ 結婚をきっかけに引退
出典:https://pixabay.com/
石原まき子さんは、1960年に公開された「闘牛に賭ける男」を最後に、石原裕次郎さんと結婚し、役者を引退。
その後は石原裕次郎さんが立ち上げた芸能プロダクション「石原プロモーション」の経営に携わり、裏方に徹していました。
石原まき子(北原三枝)の代表作① 1953年公開の映画「君の名は 第二部」
石原まき子さんは、1953年公開の映画「君の名は 第二部」に北海道のシーンで登場するアイヌの娘・ユミ役で出演しています。
メインキャストではないものの、公開当時を知る作家・なかにし礼さんはコラムで「その美しさにド肝を抜かれた」とまで表現。
石原まき子さんは同作で、観客に強烈なインパクトを残しました。
そんな同作は、NHKの連続ラジオドラマを映画化。映画監督を大庭秀雄さん、主演を岸恵子さんが務めています。
昭和二十年五月二十四日の東京大空襲の夜、数寄屋橋の上で互いに命を助け合った若い男女後宮春樹と氏家真知子は、半年後の二十四日の夜、この橋の上で再会しようと約束した。青年は別れ際「君の名は」と聞いたが、彼女は名を言わず立去った。
引用:君の名は
石原まき子(北原三枝)の代表作② 1956年公開の映画「狂った果実」
石原まき子さんは、1956年公開の映画「狂った果実」に、滝島夏久・滝島夏久兄弟から思いを寄せられる人妻・天草恵梨役で出演。
前述のとおり、同作が大ヒットしたことで、共演していた石原裕次郎さんとともに大ブレイクを果たしました。
また、同作は”太陽族”なる社会現象をも巻き起こした、石原慎太郎さんの小説「太陽の季節」の姉妹作。
中平康さんが監督を務め、石原裕次郎さんのほか、岡田真澄さんや津川雅彦さんが出演しました。
さらには、原作者でもある石原慎太郎さんも特別出演しています。
滝島夏久の弟春次は、兄に似ぬ華著な四肢を持ち、まだあどけない“坊や”だった。女漁りの巧い夏久に比べて、春次は全然女を知らなかったが、或る日、逗子駅ですれ違った娘の瞳に、何故かドギマギして立ちすくんだ。その日の夕方、友人平沢のサマーハウスで兄弟は友人達とパーティを開く相談を決めた。
引用:狂った果実(1956)
石原まき子(北原三枝)の代表作③ 1956年公開の映画「逆光線」
出典:逆光線
石原まき子さんは、1956年公開の映画「逆光線」で主演。主人公の女子大生・芳田玲子役を演じました。
同作は「太陽の季節」「狂った果実」に続く、「太陽の季節シリーズ」の三作目で、”女性版太陽の季節”とも称されているのだとか。
映画監督は「太陽の季節」も監督した古川卓巳さんが担当しています。
前述のなかにし礼さんは、石原まき子さんの抜群のスタイル、素晴らしい水着姿・脚線美、魔性を秘めた美しさがストーリーの良さを引き立たせたのではないかという旨を述べていました。
女子大生芳田玲子は恋人の文大生真木との恋愛に積極性を示す他、彼の子供会にも熱意を持つ行動派の娘。同じ寮の級友恵子はバーで働いた金を文大生の恋人白井との結婚資金に積立てるチャッカリ型。ある日、子供会に級友元子の恋人寺村が来る。ハンサムでアクロバットの巧い彼は子供達に大人気。だが真木は不気嫌である。玲子は恵子の酒場で寺村に会い、急速に親しくなる。
引用:逆光線
石原まき子(北原三枝)の代表作④ 1958年公開の映画「陽のあたる坂道」
石原まき子さんは、1958年公開の映画「陽のあたる坂道」に出演。ヒロイン・ 倉本たか子役を演じました。
同作は、石坂洋次郎さんの小説を映画化。田坂具隆さんが映画監督を務め、石原裕次郎さんが主演を務めています。
田代玉吉は出版会社の社長で、家族は妻のみどり、長男の医大生雄吉、少々ひねくれ者だが自由奔放な次男信次、それに足のわるい娘のくみ子。女子大生倉本たか子は、くみ子の家庭教師であり彼女のアパートの隣室に、高木トミ子と一人息子の民夫が住んでいた。ある日、父の玉吉と話をしていた信次は、ふとしたことから自分が父と柳橋の芸者との間に出来た子であることを知った。
石原まき子(北原三枝)が結婚した旦那は名優・石原裕次郎
石原まき子さんは、1960年に役者の石原裕次郎さんと結婚。
2人の馴れ初めは1956年公開の映画「狂った果実」の共演で、撮影で出会ってすぐに惹かれあうようになったそうです。
二日はファンが待ちこがれた〝日本一のカップル〟日活・石原裕次郎(二六)と北原三枝=本名荒井マキ子(二七)=の結婚式。新郎裕ちゃんはモーニング、新婦マコちゃんは五葉の松の花嫁衣装にツノカクシの晴れ姿で媒酌人の堀久作日活社長夫妻に付き添われ、四時から東京日比谷の日活会館フラワー・ルームでとどこうりなく挙式をすませた―。1960年12月3日付日刊スポーツで振り返る。
なお、当時はトップスター同士の結婚ということで、周囲からは反対の声も多く挙がっていたそう。
そんな石原まき子さんは、2018年に開催された「石原裕次郎の軌跡展」の発表会見で、婚約指輪と結婚指輪を展示すると発表。
その際、プロポーズの思い出について以下のように語っていました。
「私どもの時代は俳優同士の恋愛はご法度でしたが、堂々と受け取ってほしい、と。ある日突然、頂いたときは感激しました」と婚約指輪を渡されたときの思い出を語った。ロマンチックな言葉はなく、「パッと見せてくれ、私はさっさとはめました」と笑顔で語った。
当時はスター同士の結婚はおろか、恋愛ですらとても否定的な風潮だったのだとか。
しかし2人はひそかに愛を紡ぎ、結婚前には駆け落ち同然の婚前アメリカ旅行も決行したといいます。
石原まき子(北原三枝)の旦那・石原裕次郎のプロフィール
生年月日:1934年12月28日
出身地:兵庫県
所属事務所:石原プロモーション
石原裕次郎さんは役者で、歌手としても活躍していました。また、兄は芥川賞受賞作家で政治家だった石原慎太郎さんです。
言わずと知れた日本の名優の1人で、自身が所属していた芸能プロダクション「石原プロモーション」の創立者でもあります。
そんな石原裕次郎さんは、慶應義塾高校を経て、慶應義塾大学の法制学部政治学科に進学。
大学生活を送りながらも役者を志すようになり、数々のオーディションを受けるもいずれも落ちてしまったのだとか。
そんな中、兄の石原慎太郎さんの小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞。
映画化にあたり、石原慎太郎さんが弟である石原慎太郎をプッシュし、同作でのデビューが決まったといわれています。
その後も、同じく石原慎太郎さんの小説を映画化した「狂った果実」に出演。同作では主演を務め、歌手デビューも果たしています。
役者として軌道に乗った石原裕次郎さんは、同年で大学を中退。
以降も1957年公開の映画「嵐を呼ぶ男」「嵐を呼ぶ男」で主演を務め、いずれも大ヒット。
1960年に石原まき子さんと結婚するも、その人気は衰えず、同年公開の映画「あじさいの歌」「闘牛に賭ける男」などが人気を集めました。
1963年には、芸能プロダクション「石原プロモーション」を設立。映画製作も手掛けるようになり、特に1968年に公開された映画「黒部の太陽」は大ヒットを果たします。
一時は映画製作の不調から負債も抱えていたものの、1972年に出演した日本テレビ系列のドラマ「太陽へほえろ!」を機にこれまでとは異なる世代からの支持を得るように。
以降も、1976年放送の日本テレビ系列のドラマ「大都会シリーズ」、1979年放送のテレビ朝日系列のドラマ「西部警察シリーズ」などに出演し、活躍していました。
裕次郎がテレビに活路を求めたのは、まずは映画での負債の返済、次に、新たな映画のための資金作りのためだった。その目的は達成され、テレビで稼いだ資金をもとに、劇場用映画に復帰するはずだったが、病魔が裕次郎の身体を蝕んでいた。
しかし、1978年の舌下潰瘍・舌癌をはじめ、1979年の舌下白板症と、1981年の解離性大動脈瘤、肝細胞癌・肝臓癌、1986年の肝内胆管炎と、健康面で問題が出るように。
昭和の大スター石原裕次郎さんが、この世を去ったのは30年前の7月17日。タフガイと呼ばれたた銀幕のスターも、舌がん、解離性大動脈瘤、そして死因となった肝細胞がんと病に苦しめられた人生でもあった。
そして、1987年に死去。享年52歳と早すぎる死を迎えました。
石原まき子(北原三枝)の旦那・石原裕次郎は松田聖子と不倫していた?
石原まき子さんの旦那・石原裕次郎さんですが、ネットでは、歌手・松田聖子さんと不倫関係にあったのではないかとの噂もあったようです。
しかし、不倫関係を報じたメディアもないようで、ガセネタである可能性が高いのだそう。
なぜ、30歳近く歳の離れた2人の不倫が疑われるようになったのか、調べてみると、どうやら歌番組でのデュエットが原因の様子。
なんでも、松田聖子さんと石原裕次郎さんがデュエットを披露した際に長く見つめ合い、松田聖子さんが感極まって泣いてしまったんだとか。
このことから、「ただならぬ関係なのでは?!」と邪推した視聴者がいたようです。
しかし、このデュエット何だか様子がおかしい…。というのも、歌い出しから終わりまで松田聖子さんと石原裕次郎さんはずっと見つめ合っているんです。さらに感極まったのか最終的には松田聖子さんが泣き出して、それを慰めるかのように石原裕次郎さんが抱きしめる。まるで恋人同士のような2人。それを遠くから見つめる神田正輝さんの悲しそうな表情。
実際のとこはわかりませんが、単に松田聖子さんが大スターである石原裕次郎さんとのデュエットに感激した可能性もありそうですね。
石原まき子(北原三枝)に子供はいないが、甥と養子縁組している
石原まき子さんと石原裕次郎さんの間に子供はいません。
しかし、石原まき子さんは石原裕次郎さんが亡くなってから、甥・邦彦さんと養子縁組しています。
石原まき子(北原三枝)の養子・石原邦彦は石原音楽出版社の代表
出典:https://www.ishihara-m.co.jp/
石原まき子さんが養子縁組した時期については明らかにされていませんが、邦彦さんは2018年に設立された石原裕次郎さんの作品に関する版権を管理する「石原音楽出版社」の代表に就任。
その際にはすでに「石原邦彦」と性が変わっていたため、養子縁組は2018年より以前にされたものと見られています。
「石原音楽出版社」の登記を確認すると、2018年7月に「石原邦彦」なる人物が取締役に就任したことが記載されている。前年には同じ人物が、別の関連会社である「石原インターナショナル」の取締役にも就任している。裕次郎とまき子夫人の間には子どもはいない。また、兄の石原慎太郎元東京都知事にも、邦彦なる名前の子どもはいない。
まき子夫人の弟の息子、つまり甥っ子で、以前は別の苗字だったが、近年、まき子夫人と養子縁組をしたため石原姓に。2018年には突如として石原プロの関連会社「石原音楽出版」の取締役に就任している。まき子夫人との「養子縁組」の事実を知っていたのは、ごく限られた関係者のみだった。
そんな石原邦彦さんは、石原プロダクションの役者陣とも交流があったのだとか。
邦彦さんの書店は地域に密着した店で、本の宅配をやっていたのが珍しくて繁盛していた。石原プロの俳優たちもそこで本を注文して、まき子夫人に『甥御さんのお店で買いましたよ』なんて話しているのを聞いたことがあります。『太陽にほえろ!』の出演者もよく使っていましたね
また、石原まき子さんが70代に差し掛かった頃から、身の回りの世話をするようになったことが養子縁組のきっかけとなったのではないかといわれています。
周囲からも「本当に真面目で控えめな方」と評判が良く、悪い噂もないそう。石原まき子さんもそんな人柄を見込んで、養子縁組を決断したのかもしれませんね。
石原まき子(北原三枝)の相続問題はどうなっている?石原裕次郎の愛車の行方は?
石原まき子さんは、石原裕次郎さんが亡くなった際に相続でとても苦労したのだそう。
裕次郎さんが亡くなった時、まき子夫人が多額の相続税を負担することになり、本当に苦労した。当時、成城の家を抵当に入れ、銀行から8億円近く借りたのもその一環だった(02年完済)。だからこそ、まき子夫人は今後のことを心配しているのだと思います。その中でも最善の方法が甥御さんを養子にすることだったのでしょう。
当時の教訓から、養子縁組時はもちろん、いろいろと相続対策をしているはずです。
ただ、石原邦彦さんは石原まき子さんの所有する自宅・ハワイの別荘をはじめ、数多くの遺産が受け継がれることになります。
相続対策のため、何かを手放すことも十分に考えられますが、特に注目されているのが石原裕次郎さんの愛車です。
それが、石原裕次郎記念館をはじめ、石原裕次郎さんの遺品を各地で展示した「石原裕次郎の軌跡」展でもおなじみのメルセデスベンツ300SLガルウイングです。
1階正面入り口には裕次郎さんが晩年まで乗り続けた愛車「メルセデスベンツ300SLガルウイング」が展示される。舘が「石原さんがメルセデスに頼んで丸いヘッドライトを縦長にしてもらった、世界に1つしかない車。欲しい!」と、7月の記者発表の時に続いて〝おねだり〟すると、まき子夫人は「そうはいかない」と、今回も笑顔で受け流した。
将来、邦彦氏が受け継ぐそれらの裕次郎の遺品の中で、最も象徴的な意味を持つのが、「ベンツ300SLガルウイング」。裕次郎が乗っていた当時、日本には2台しかなく、しかもメーカーに頼んで、丸いヘッドライトを縦長にカスタムした「裕次郎仕様」のビンテージカーだ。ちなみに当時、もう1台を所有していたのは力道山だった。「バブル期にはマニアの間で10億円の値がついたこともある」
石原裕次郎さんのみならず、車好きからもその行方が注目されています。しかし、国民的スターの遺物を手放すというのはなかなか荷が重いもの。
そのため、石原プロモーションの内部留保金がなんらかの形で使われるのではないかと言われています。
とはいえ、裕次郎の記憶が染みついた「ガルウイング」を売るわけにはいくまい。そこで注目されるのが、石原プロに残るカネ。8年前の時点で約25億円の内部留保があったことは「週刊新潮」7月23日号でお伝えした通りである。「まき子夫人は邦彦さんが相続の際に苦労しないよう、この内部留保を確保してお金を残してあげたいと考えているはずです」(先の石原プロ関係者)裕次郎の仏前に返還できない多額のカネはどこへ行くのか――。
石原まき子(北原三枝)の現在① 石原プロモーションを解散
石原まき子さんは石原裕次郎さん亡き後も、石原プロモーションを経営。しかし、自身の高齢化を理由に、所属役者やスタッフと相談のうえで同事務所の閉鎖を決意。
2020年7月に、2021年1月16日をもって業務を終了することを発表しました。
また、発表時には石原裕次郎さんに「俺が死んだら即会社をたたみなさい」と遺言されていたことを告白。
しかし、所属する役者やスタッフの事務所に対する愛の強さを目の当たりにした石原まき子さんは、ずっとそのことを打ち明けることができなかったといいます。
故・石原裕次郎さん(享年52)の妻・まき子夫人(86)が17日、マスコミ各社への書面を通じて、1963年に裕次郎さんが設立した大手芸能事務所「石原プロモーション」の業務大幅縮小を発表した。石原プロは今後、裕次郎さんの遺品や版権管理に一本化していき、俳優マネジメント業務は終了。栄華を誇った石原プロは事実上の解散となる。
まき子夫人によれば、「石原裕次郎が亡くなる際に『俺が死んだら即会社をたたみなさい』これが遺言でした しかし俳優さん スタッフさんの皆さんがいつも生き生きとされていて、会社に対する愛情の強さがひしひしと感じられ この人達ならば会社を お任せすべきと思い 遺言を言い出すことが出来なくなっておりました」と今までなかなか一歩を踏み出せなかったことを明かした。
石原まき子(北原三枝)の現在② 2020年以降、表舞台に姿を見せず?
石原まき子さんは、2020年に石原プロモーション所属の役者・渡哲也さんが亡くなって以降、表舞台にほとんど姿を見せていないようです。
また、渡哲也さんが亡くなった際も、そっと見送ってほしいという本人の意思を尊重し、コメントを発表するにとどめていました。
密葬の儀は故渡哲也の生前からの強い申し出で家族葬で静かに送り弔い御供、その他の儀は固くご辞退させていただき偲ぶ会も行わないでほしいとの遺言に従いご家族、会社が徹底して故人の希望に従い、密葬を8月14日に執り行い、四十九日法要を9月16日に家族のみで執り行いました事を報告とさせていただくと共に故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
それまで、バラエティ番組での石原裕次郎さんにまつわる企画などに時たま出演していた石原まき子さんでしたが、以降ほとんどメディアの前に登場していません。
プライベートでは前述のとおり、甥・石原邦彦さんが身の回りの世話をしているようで心配はなさそうですが、昨今の状況については詳細が不明です。
まとめ
石原まき子さんは石原裕次郎さんの嫁で、若い頃は「北原三枝」という芸名で役者として活躍していました。
石原裕次郎さんと映画「狂った果実」で共演して以来、23作品で共演。”ドル箱コンビ”と称されるほどの活躍ぶりでしたが、結婚を機に芸能界を引退。
以降、裏方として石原裕次郎さんだけでなく、石原裕次郎さんが立ち上げた芸能プロダクション「石原プロモーション」をも支えてきました。
石原裕次郎さんとの間に子供はいませんが、石原裕次郎さんが亡くなったのちに甥と養子縁組。
高齢となった今は表舞台にほとんど出てきませんが、プライベートは甥に支えられているようです。
石原プロモーションが解散となったこともあり、現在はあまりお姿を見かけることはなくなっていますが、また元気な姿を見せてほしいものですね。