オウムサリン事件に次ぐ無差別爆弾テロと言われる「三菱重工爆破事件」は、犯人のその後も注目を集めました。
今回は事件の背景や発生場所など経緯と概要、犠牲者や遺体の詳細、大道寺あや子など犯人4人の裁判や現在をまとめました。
この記事の目次
三菱重工爆破事件とは
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三菱重工爆破事件は、1974年(昭和49年)8月30日に東京・丸の内で発生した無差別爆弾テロ事件です。
犯人グループは「東アジア反日武装戦線・狼」で、爆破には「虹作戦」と呼ばれる昭和天皇の暗殺計画に使用される予定だった爆弾が流用されました。
事件現場となったのは「三菱重工業東京本社ビル(現:丸の内二丁目ビル)」で、場所は東京都千代田区丸の内二丁目5番1号という人通りの多い場所にあります。
標的は民間人で、死亡者8人、負傷者376人という大量の犠牲者を出す事件となりました。
テロの背景、動機、事件の概要などを詳しく解説していきます。
三菱重工爆破事件の犯人グループ「東アジア反日武装戦線」とは
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三菱重工爆破事件の犯人グループである「東アジア反日武装戦線」は、日本のアナキズム系の武闘派左翼グループ、テロリスト集団です。
反日亡国論、アイヌ革命論などを主張し、三菱重工爆破事件の他にも1970年代に爆弾闘争を行い連続企業爆破事件等を実行しました。
犯行動機
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テロリスト集団「東アジア反日武装戦線」は、第二次世界大戦より前の日本を「完全な悪」と捉えており、1941年より勃発した太平洋戦争を「侵略戦争」と呼んで憎しみを抱いていました。
この思想から、戦前・戦中に日本の重工業を支え、戦後も日本を代表する重工メーカーだった三菱重工に対し〝帝国主義を支援する企業〟として、無差別爆破テロのターゲットとしました。
三菱重工爆破事件の概要まとめ 【発生場所や経緯も紹介】
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「三菱重工爆破事件」は、1974年8月30日に東アジア反日武装戦線の部隊「狼」の実行犯4人により実行されました。
三菱重工業東京本社ビルと、道を隔てた向かいに建つ三菱電機ビルの両方を爆破する目的で、三菱重工ビルの1階出入口にあったフラワーポット脇に時限爆弾を仕掛けました。
犯行グループは爆破の数分前に三菱重工ビルに電話を掛け、爆弾を仕掛けたことと、付近の者を直ちに避難させるように伝えました。
しかし、三菱重工側はこれをイタズラ電話と捉え、避難指示が出ることはありませんでした。
そして午後0時45分、昼下がりのオフィス街で時限爆弾が爆発し、この爆発の衝撃でビルの1階部分が大破、玄関ロビーは惨劇となり、建物内にいた社員が殺傷されました。
割れたガラスは路上にも降り注ぎ、付近を通行していた多数の人も巻き込まれています。
三菱重工ビルは9階までの窓が全て割れ、もう1つの破壊対象だった三菱電機ビル、そして近い場所にあった丸ビルなど周囲のビルの窓ガラスも割れています。
爆発の規模は広範囲に及び、道路に停まっていた自動車や、街路樹の葉も吹き飛ばされました。
戦後最悪の爆弾テロ事件となり、オウム真理教によるサリン事件が起きるまでの約20年間、日本最大規模の犠牲者を出す事件となっています。
事件が発生した場所は千代田区の丸の内ですが、この時の爆発音は新宿にも聞こえるほどだったといいます。
三菱重工爆破事件の犠牲者・遺体の様子 【被害が広がった理由も解説】
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三菱重工爆破事件の規模は、ダイナマイト700本分の威力の爆発と言われており、ビルのガラスが割れて破片が路上に降り注いだことで、多数の犠牲者が出ました。
血まみれの人たちが道路に横たわり、昼下がりのオフィス街が地獄絵図と化したこの事件。ここでは、テロの犠牲者と遺体について解説していきます。
この爆破事件では、爆風とガラス片により三菱重工とは無関係な通行人を含め、死者8人、負傷376人の犠牲者が出ました。
実はこの犠牲者数の多さ、被害の大きさは、犯行グループ「東アジア反日武装戦線」の予想を超えるものでした。
予想以上の被害が出た理由として、通常は放射状に拡散するはずの爆風がビルの谷間に阻まれ、ビル表面を吹き上げて上昇したことによって爆風の衝撃が上階まで達したことが挙げられます。
この爆風によりビルの大量の窓ガラスが破壊され、粉々に割れた無数のガラスの破片が路上に降り注ぎました。
また、ビル内に入った衝撃波が階段を伝って窓から噴出し、ビル内部からも破壊が起きています。
そもそも爆発の質量も大きく、爆心には直径30cm・深さ10cmの穴が開いていました。
この爆発の威力はダイナマイト700本分とも言われ、陸上自衛隊の調査では敵軍の侵攻を防ぐために道路破壊に用いられる20ポンド爆弾よりも強力、という見解が示されました。
また、電話で爆破予告をしたものの三菱重工側がイタズラ電話と処理し、避難措置が取られなかったことも犠牲者が増えた要因です。
しかし、電話は爆発の8分前に掛けられており、例え本物の爆破予告と受け取ったとしても、ビルにいた社員や周囲の通行人全てを避難させるのは無理がありました。
そのため、爆破予告はその意味を成さず、時限爆弾を止める術もなかったことから、多数の死傷者を出す目的が明確であったと言われることになりました。
犠牲者である8人の死者について、遺体の様子や死因は次のように公表されています。
・37歳の三菱信託銀行課長、28歳の船舶エンジニア、49歳の鉱業会社社員、50歳の三菱重工社員が即死です。
・38歳のメーカー所長代理は、商談のために静岡県から訪問し、地下食堂から出たところで爆発に巻き込まれ即死しました。
・23歳の会計士事務所事務員は病院に運ばれましたが、脳損傷と全身打撲で死亡しています。
・41歳のデザイン会社役員も病院収容後、出血ショックで死亡しました。
・51歳の三菱重工主任は病院収容後の翌日に死亡が確認されています。
8人の死者、376人の負傷者が出る大規模な爆破テロとなったこの事件は、犯行グループの東アジア反日武装戦線も予想を超えた被害だったことで、内部でも議論となったといいます。
爆風とガラス片により遺体の損傷も激しかったと思われます。
その後、犯行グループは一斉に逮捕されることとなりました。
三菱重工爆破事件の犯人グループのその後① 逮捕後の裁判と判決
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1975年5月19日、三菱重工爆破事件に関与した「東アジア反日武装戦線」の狼部隊のメンバーが一斉に逮捕されました。
東京地方検察庁は1975年6月28日に起訴し、裁判に移ります。
しかし、主犯格の佐々木規夫と大道寺あや子が日本赤軍によるクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件によって超法規的措置となり釈放・逃亡しました。
その後、リーダー格の大道寺将司、益永利明の裁判が続行されました。
裁判所はこの事件について、
・天皇暗殺計画に使用する予定だった爆弾を転用したことは、当然三菱重工爆破事件にも殺意が適用される
・爆破数分前の電話は予告とは言えない
・爆破予告が有効にならなかった場合には時限爆弾を止める手段を講じておらず、爆破させる意思に変わりはない
などとして、最高裁でリーダー格の大道寺将司、益永利明に対し死刑判決を下しました。
死刑判決を受けたリーダー格の男2人
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大道寺 将司(だいどうじ まさし)
生年月日:1948年6月5日
没年月日:2017年5月24日
テロリスト集団「東アジア反日武装戦線・狼部隊」のメンバーで、リーダー格の人物です。
大道寺将司は死刑判決を受けた後、2017年5月24日に東京拘置所で病死しました。死因は「多発性骨髄腫」によるもので、享年68歳です。
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片岡 利明(かたおか としあき)
生年月日:1948年6月1日
「東アジア反日武装戦線・狼部隊」の構成員で、現在の性は「益永」です。
東京都出身で、職業訓練校の機械科で爆弾製造に必要な技術知識を身につけ、爆弾製造の中心的役割を担いました。
現在も確定死刑囚として、東京拘置所に収監されています。
三菱重工爆破事件の犯人グループのその後② 大道寺あや子など逃亡者の現在
大道寺将司・片岡利明と共に逮捕されるも、1977年の日本赤軍による「ダッカ日航機ハイジャック事件」「クアラルンプール事件」により、超法規的措置で釈放された人物が2人います。
日本赤軍が起こした上記のテロ事件で人質の解放と引き換えに釈放されたのは、佐々木規夫と大道寺あや子です。
2人の裁判は公判停止となり、現在も国際指名手配中となっています。
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佐々木 規夫(ささき のりお)
生年月日:1948年8月27日
「東アジア反日武装戦線・狼部隊」のメンバーで、三菱重工爆破事件では予告電話をかけた人物です。
1974年にリーダー・大道寺将司から「狼」に勧誘され、部隊の一員として連続企業爆破事件に関与し、逮捕されました。
その後、日本赤軍が起こしたマレーシアの首都クアラルンプールにあるアメリカとスウェーデン大使館を襲撃・占拠して52人を人質に取った「クアラルンプール事件」が発生。
人質の解放と引き換えに、超法規的措置で佐々木規夫は釈放され、出国して日本赤軍に合流したメンバーです。
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大道寺 あや子 (だいどうじ あやこ)
生年月日:1948年10月20日
大道寺将司の妻で、三菱重工爆破事件では時限爆弾設置現場の見張り役を担当しました。
この大道寺あや子、テレビで取り上げられるとネット上で「かわいい」と話題になりました。
以下、大道寺あや子の経歴と現在を掘り下げます。
高校の同級生だった大道寺将司に高校の同窓会で再会し、「研究会」に勧誘されたことがきっかけで交流が深まり、交際・同棲に発展します。
その後大道寺将司と結婚し、爆弾に使う薬品を入手するために都内の試薬会社に就職しました。
逮捕された際に青酸カリで自殺を図るものの、捜査員に阻止されています。
逮捕後にマスコミの報道で本人の容貌が広く知られるようになると、ルックスの良さに注目が集まりました。
また、試薬会社に勤めていた時の勤務態度が良好だったことから周囲の評判も良く、「大道寺あや子は夫に従い協力させられていただけなのではないか」といった同情の声が上がりました。
しかし、それらの声に反発するように激しい法廷闘争を繰り広げるなど、歴とした過激思想を持っているメンバーです。
逮捕後、日本赤軍による「ダッカ日航機ハイジャック事件」で超法規的措置により釈放・出国し、その後日本赤軍に合流しています。
「ダッカ日航機ハイジャック事件」とは
「ダッカ日航機ハイジャック事件」とは、1977年に起きた日本赤軍によるハイジャック事件です。
犯人グループは、人質の身代金として600万ドル(当時約16億円)と、大道寺あや子を含む日本で服役および勾留中の9名の釈放・日本赤軍への参加を要求しました。
要求が拒否された場合や回答が無い場合は人質を殺害すると警告し、日本政府は交渉や武力での解決を諦め、身代金と釈放を決断しました。
大道寺あや子のその後の足取りとしては1999年、香港で日本赤軍の最高幹部・重信房子と会合を持ったことが確認されています。
また、2001年には日本赤軍が解散されるという声明を受けて、南米から「解散宣言の無効宣言」を発表するなどしています。
南米から宣言したこともあり、国外逃亡中だった大道寺あや子は南米に潜伏している可能性があると言われました。
しかし、これを最後に行方は掴めておらず、現在は生死も不明であり、すでに死亡している可能性も否定できません。
2010年4月以降の手配写真は1994年に撮影されたものに差し替えられ、現在も国際手配中です。
三菱重工爆破事件のその後
戦後最悪の爆弾事件となった「三菱重工爆破事件」は、その後多くのメディアで取り上げられ、書籍化もされています。
現場に遭遇した元三菱重工社員の宗像 善樹(むなかた よしき)による著書「三菱重工爆破事件」は、当時の様子を細部にまでわたって描いたノンフィクション小説です。
出典:https://www.amazon.co.jp/
また、2014年に放送された「ザ・世界仰天ニュース」でも事件が取り上げられました。
他にも数々の書籍が出版され、犯人である大道寺将司、片岡利明の著書も発売されています。
気になった方はぜひチェックしてみてください。
まとめ
戦後最悪の爆弾事件と言われた「三菱重工爆破事件」についてまとめました。
死刑が確定した犯人、現在も国際手配中の犯人など様々ですが、今後このようなテロ事件が起きないことを祈るばかりです。