パベル・ネドベドはかつて「チェコの大砲」と呼ばれ、チェコ代表として活躍した元サッカー選手です。
今回はパベル・ネドベドのプロフィールやプレースタイル、生い立ち、全盛期の活躍と背番号、結婚した嫁や子供、現在を紹介します。
この記事の目次
パベル・ネドベドはチェコの大砲と呼ばれたMF
パベル・ネドベドのプロフィール
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Pavel Nedvěd (パベル・ネドベド)
生年月日: 1972年8月30日
国籍: チェコ
身長: 177cm
体重: 70kg
パベル・ネドベドは、チェコ代表として活躍してきたサッカー選手です。
チェコスロバキア(現在はチェコ共和国として独立)で生まれ育ち、セリエAの「ラツィオ」、「ユヴェントスFC」に所属。
「インテル」のレジェンドとして名高いハビエル・アデマール・サネッティは、現役時代に最も厄介な対戦相手を聞かれた際、パベル・ネドベドを挙げています。
パベル・ネドベドは30代半ばに入ってもレギュラーを張り続けてきましたが、2009年に惜しまれながら現役を引退しています。
パベル・ネドベドのプレースタイル
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パベル・ネドベドは現役時代、MFとしてオフェンシブなポジションで出場する機会が多い選手でした。
そのため、メッシのような派手さはありませんでしたが、安定したパフォーマンス力が高く評価されてきました。
ここでは、パベル・ネドベドがどのようなプレースタイルだったのかを見ていきましょう。
圧倒的な運動量で相手を攪乱
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パベル・ネドベドと言えば、真っ先に出てくるのが豊富なスタミナと機動性です。
現役時代のパベル・ネドベドは「心臓をいくつも持っている」、「ハーフタイム中に肺と心臓を交換している」と言われるほど、縦横無尽にコートを駆け回り相手を攪乱させてきました。
底しれぬ体力のパベル・ネドベドとマッチする選手は、守っても守っても、パベル・ネドベドが駆け上がってくるので走り負けてしまいます。
そうすると、ディフェンスラインに隙ができてしまうため、相手チームのディフェンスはパベル・ネドベドの存在は脅威だったに違いありません。
強烈なミドルシュート
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パベル・ネドベドのプレースタイルのもう1つの特徴として挙げられるのは、正確なキック力。
一気に走り込んで来て、強烈なミドルシュートを放ってきました。
ファーストタッチで相手を交わし、左右の足どちらからも力強く、正確なシュートを繰り出すことができたからこそパベル・ネドベドは「チェコの大砲」と呼ばれていたのです。
パベル・ネドベドの生い立ち
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パベル・ネドベドの生い立ちや家族、サッカーを始めたきっかけ、学生時代の意外なエピソードなどを紹介します。
父親の影響でサッカーを始める
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パベル・ネドベドは、チェコスロバキアとドイツとの国境に近いチェブ地区で誕生し、近隣のスカルナという小さな町で育ちました。
父親は地元のサッカー2部リーグの選手で、パベル・ネドベドは5歳の時にサッカーチームに入ります。
父親は所属クラブでの練習を終えると、パベル・ネドベドにサッカーを教える日々を送っていたというエピソードが残されています。
昔から堅実な性格
パベル・ネドベドは子供の頃から堅実な性格で、サッカー選手よりも医者を目指していました。
実は、プロのサッカー選手になってからも会計士の勉強をしていたそうで、真面目で堅実さを求める性格は大人になっても変わらなかったようです。
その後、14歳の時に1部リーグのスコダ・プルゼンに入ったパベル・ネドベドは、18歳で兵役のためにクラブから抜けました。
兵役中は、軍隊内のクラブであるデュクラ・プラハでプレーした記録も残っています。
パベル・ネドベドの全盛期① スパルタ・プラハに所属・背番号
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兵役を終えた1992年、パベル・ネドベドはチェコの1部リーグの強豪チーム、ACスパルタ・プラハに加入。
入ったばかりの頃は出場機会も少なく、周囲の評価も高いとは言えませんでしたが、どのような経緯でチームの主力に上りつめたのかを見ていきましょう。
毎日12時間練習
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スパルタ・プラハは名門クラブで知られるチームでしたが、パベル・ネドベドはチームになかなか馴染めず、監督のカロル・ドビアシュからも「凡庸」と低い評価を受けていたようです。
しかし、そんな周囲からの評価を気にして腐ることなく、パベル・ネドベドは1日に12時間を練習に費やす努力を続けていました。
ただ、若い頃から趣味を聞かれると「練習」と答えているので、義務感で長時間の練習をしていたわけではないようです。
そんなパベル・ネドベドは、朝7時に起床し、朝食前にランニング。チーム練習を終えた後は誰よりも遅くまでグランドに残り、夜10時には就寝するという健康的な生活を送ってきました。
一見地道に見える練習は、パベル・ネドベドの実力アップに繋がっていき、2シーズン目には主力メンバーとしてリーグ連覇に貢献しています。
また、1994年から1995年のシーズンで27試合に出場し6得点、1995年から1996年のシーズンで30試合に出場し14得点を挙げており、スパルタ・プラハはチェコカップで初優勝しました。
固定の背番号はなかった
パベル・ネドベドがスパルタ・プラハに加入した年は、試合への出場機会自体が少なかったこともあり、背番号の記録は残されていません。
1994年~1995年にかけては、背番号は8か9をメインとしていましたが、数少ないこの時代の映像では背番号4を付けてコートを駆け抜ける若きパベル・ネドベドも記録されています。
この時期は、まだまだ背番号が流動的だったのかもしれません。
パベル・ネドベドの全盛期② UEFA欧州選手権1996で準優勝
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パベル・ネドベドは、チェコ代表としても貢献しています。
ユーロでは泡沫チームの扱いだったチェコですが、UEFA欧州選手権1996では強豪国を次々に破り、準優勝した番狂わせが話題となりました。
ここでのパベル・ネドベドの貢献について紹介します。
U21からチェコ代表へ
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パベル・ネドベドは、1992年から1993年までの期間、チェコのU-21代表に選ばれ、さらに1994年からチェコ代表に選ばれています。
1995年には、UEFA欧州選手権1996の予選から代表メンバーとして定着。
チェコは、パベル・ネドベドと同年代のカレル・ポボルスキーやラディク・ベーブルなどといった選手の活躍もあり、スピード感のある試合展開で予選を勝ち抜きました。
ユーロ’96で準優勝
グループリーグに入った1996年6月、チェコのグループにはドイツ、イタリア、ロシアと強豪国が集まり、下馬評ではチェコは全敗だと見られていました。
実際、初戦の対ドイツ戦では0-2と厳しいスタートを切ります。
そして第2戦は、1994年ワールドカップ準優勝のイタリア。前半でパベル・ネドベドがオフサイドラインをかいくぐり、先制ゴールを決めました。
その後、イタリア側からカウンター攻撃を受けて同点となり、嫌なムードになりかけます。
しかしイタリア側は、アポローニが2枚目イエローカードで退場した後、チェコが再び反撃して1点を奪取。2-1で逃げ切り、歴史的な勝利をもぎ取ったのです。
最終戦の対ロシア戦では3-3で引き分けとなり、2位でグループリーグを勝ち抜きます。
その後もポルトガルに続き、ジダン、デサイーといったスタープレイヤーを擁するフランスを破り、チェコは決勝リーグに進むという番狂わせが。
快進撃は続き、誰も予想していなかったチェコ対ドイツの決勝戦。0-0のまま迎えた後半59分、チェコはPKからの先制ゴールを決めました。
しかし、試合終了間際にドイツが同点ゴールを決めて延長戦へ突入。
そして、ドイツのビアホフがゴールを背にパスを受けてシュートを放ち逆転し、ドイツが優勝、チェコは準優勝となりました。
これまで、チェコはUEFA欧州選手権において存在感を示すことができなかったのですが、決勝に駒を進めたことで一気に脚光を浴びることに。
その結果、チェコ代表の若い選手は、マンチェスター・ユナイテッド、リバプール、アトレティコ・マドリードといった欧州5大リーグへの移籍を果たしました。
パベル・ネドベドもその1人で、UEFA欧州選手権1996が終わった後に、イタリア・ラツィオへ移籍が決まったことを発表しています。
パベル・ネドベドの全盛期③ イタリア・ラツィオに所属・背番号
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1996年のユーロ96での活躍を認められたパベル・ネドベドは、ラツィオに移籍しました。
ここでの活躍や突然のユヴェントスへの移籍についても紹介します。
背番号は18
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パベル・ネドベドは1996年から2001年までラツィオに所属し、主力として迎えられています。
背番号はずっと18を付けていました。
1996年頃、チームはリーグの中堅どころといったポジションでしたが、パベル・ネドベドはスタミナを武器に怒涛の活躍を見せ、1999年から2000年のシーズンでチームを優勝に導きます。
2000年~2001年のシーズンを終えると、ラツィオはパベル・ネドベドに長期契約のオファーを提示し、合意に至りました。
経営悪化で移籍を余儀なくされる
長期契約も決まって、パベル・ネドベドも安泰かと思われた矢先、ラツィオの会長だったセルジョ・クラニョッティが経営する食品会社の経営が悪化し、資金調達の必要に迫られることに。
そこで真っ先に経費削減の対象となったのが、選手に高額の年俸を支払っているラツィオだったのです。
ラツィオは泣く泣く主力選手の放出を余儀なくされ、パベル・ネドベドもそのうちの1人として、2001年、急遽ユヴェントスに移籍しています。
パベル・ネドベドの全盛期④ イタリア・ユヴェントスに移籍・背番号
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ユヴェントスに移籍したパベル・ネドベドでしたが、2001年~2002年のシーズンの評価は「チームにフィットしていない」という厳しいものでした。
しかしここでも、コツコツと練習を積み重ねた結果、翌2002年~2003年のシーズンでは大黒柱としてチームを支える存在になっていきます。
故障者が続出しても、自身のプレースタイルを崩すことなく怒涛の活躍を見せ、セリエA連覇の立役者に。背番号もこのシーズンからエースの11を背負っています。
ユヴェントスはチャンピオンリーグの準決勝に進出するも、レアル・マドリード戦でパベル・ネドベドはイエローカードが累計2枚目に達した結果、決勝には出場できないという悲劇が。
それでも、パベル・ネドベドのチームへの貢献は誰もが認めるもので、2003年はセリエA最優秀選手、セリエA最優秀外国人選手、バロンドールを受賞しています。
パベル・ネドベドの引退と復帰
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パベル・ネドベドは日々のトレーニングの積み重ねもあり、30歳を過ぎてもチェコの代表としても、ユヴェントスのエースとしても活躍していました。
UEFA欧州選手権2004では、準決勝のギリシャ戦で足に怪我を負い交代。チェコはこの試合で敗れたものの、パベル・ネドベドはベスト4入りに貢献しました。
その後、「代表とクラブの掛け持ちは厳しくなった」とコメントし、1度は代表からの引退を表明。
ドイツで開催された2006年のFIFAワールドカップでは、チェコは最終予選でオランダに1位通過を許します。
その結果、プレーオフで雌雄を決することになったチェコ。パベル・ネドベドは「母国のために」と限定的な復帰を果たしました。
ワールドカップを終えた2006年8月に、国際親善試合をもって代表を引退しました。
その後はユヴェントスの選手としてプレーに専念したパベル・ネドベドは、2009年5月に現役を引退。引退の理由は、精神的な疲労を挙げています。
パベル・ネドベドの引退後
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引退後のパベル・ネドベドは、ユヴェントスでスポーツディレクターに就任しました。
スポーツディレクターとは、選手の獲得や放出の交渉、所属選手との調整業務を行います。
人脈やコミュニケーション能力が問われますが、パベル・ネドベドは2015年までディレクター職を務めました。
この業績を評価されたパベル・ネドベドは、2015年にユヴェントスの副会長に抜擢されています。
パベル・ネドベドが結婚した嫁や子供
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パベル・ネドベドは1994年に一般人女性だったイヴァナ・ネドべドと結婚するものの、25年後の2019年に離婚しています。
離婚の理由については明らかにされていません。
パベル・ネドベドは離婚後、ルーシー・アノフチノヴァという女性と交際していたことが判明していますが、再婚する前に破局しているようです。
パベル・ネドベドに子供はいるの?
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娘のイヴァナ・ネドベド
パベル・ネドベドには、イヴァナ・ネドべドといって母親と同じ名前の娘が1人います。
現在の年齢は25歳。インフルエンサーとして活動していて、日々インスタでセレブな生活をアップしているようです。
そんな娘のイヴァナ・ネドヴェドの交際相手は、テニスプレイヤーのセバスティアン・コルダ。
2023年1月にアップされたインスタには、彼氏を応援するために全豪オープンに向かったこと、メルボルンでの観光を楽しんだことをインスタで報告しています。
ちなみに、セバスティアン・コルダは全豪オープンにおいて、自身初のグランドスラム大会準々決勝進出を果たしました。
パベル・ネドベドの現在:ユヴェントス副会長を辞任
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2022年11月、ユヴェントスのアニエッツリ会長、副会長のパベル・ネドベドをはじめとした役員が一斉に辞任するというニュースが報じられました。
ニュースによると、ユヴェントス内部で虚偽会計や株式や債券などの保有資産を不正に売却していたことが判明し、検察から調査を受けていたそうです。
虚偽会計の疑惑が浮上したのは2022年3月頃、以前ユヴェントスの選手だったパウロ・ディバラが告発に踏み切ったことがきっかけでした。
パウロ・ディバラによるとコロナ禍で試合が行われなかった期間、クラブには収入がほとんどなくなり、財政危機に陥っていたようです。
そのため、チームから選手達に向けて「3ヶ月分は翌シーズンに支払い、1ヶ月分は当面貸し付けにしておいて欲しい」と依頼され、選手は仕方ないことだと納得し支払いを待ちました。
ところが、このことは帳簿に反映されることなく、あたかも給与削減に選手が合意したかのように記載されていたことが判明し、パウロ・ディバラは愕然としたといいます。
告発により捜査を受けたユヴェントスは、サッカー協会から個別に職務停止処分が言い渡されました。
異例の厳しい処分に対し、ユヴェントスは、役員を刷新したものの不正行為については否定しており、今後はイタリアのオリンピック委員会に上訴する方針だと発表。
パベル・ネドベドは自身の不正関与や辞任、今後の予定について表明していませんので、これからの動向に注目が集まっています。
まとめ
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パベル・ネドベドのこれまでのサッカー選手時代の背番号や全盛期のプレースタイル、結婚した嫁や子供、現在についてまとめました。
決して派手ではないものの、1日12時間の練習で得た豊富なスタミナを武器に、「チェコの大砲」として活躍したパベル・ネドベドは、引退後はユヴェントスで副会長を務めてきました。
しかし2022年、ユヴェントス内部で不正な会計処理などの問題が発覚し、経営陣の刷新を理由に役員全員が電撃的に辞任を発表。もちろんパベル・ネドベドも含まれていました。
不正への関与についてパベル・ネドベドは一切コメントを発表しておらず、今後の活動も不明な状況が続いています。
ユヴェントスやパベル・ネドベド自身が真実を明かすことはあるのでしょうか。これからの動向にも注目していきましょう。