オリンピック金メダリストで「日本柔道界史上最強」の異名をとる柔道家・山下泰裕さんが転倒し頚椎損傷で入院と報じられ話題になっています。
この記事では山下泰裕さんの若い頃や嫁の小野みどりさんとの結婚、子供、自宅、転倒して頚椎損傷についてや入院先、現在についてまとめました。
この記事の目次
山下泰裕のプロフィール
山下泰裕のプロフィール
生年月日:1957年6月1日
出身地 :熊本県上益城郡矢部町(現在の山都町)
身長 :180cm
体重 :128kg(現役時代データ)
血液型 :A型
山下泰裕さんは、若い頃は日本柔道界最強の男」とも称され、1984年のロサンゼルスオリンピックの柔道男子無差別級で金メダルにも輝いた柔道家です。ロスオリンピック後の1984年10月には、それまでの功績を評価され国民栄誉賞を授与されています。
しかし、翌1985年に怪我の影響もあり28歳の若さで引退。山下泰裕さんは引退までに公式戦で203連勝しており、これは柔道における最多連勝のギネス記録です。
現役引退後は、全日本監督や国際柔道連盟教育コーチング担当理事などを歴任し柔道指導者とした活躍。
その後、NPO法人・柔道教育ソリダリティー理事長、東海大学体育学部教授、同大学体育学部学部長、同大学理事・評議員、同大学副学長、日本オリンピック委員会(JOC)理事、同常務理事兼選手強化本部長など、柔道に関わる要職を歴任し、現在もJOC会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員、全日本柔道連盟名誉会長などを務め日本柔道界の重鎮として活躍を続けられています。
山下泰裕の若い頃① 少年時代から怪童と呼ばれ注目された
山下泰裕さんは、1957年に熊本県上益城郡で魚屋にを営む、父の六男さん母の妙子さんの長男として誕生しました。意外にも幼少期は虚弱気味だったそうで、祖父の鯛蔵さんに厳しく鍛えられたそうです。
祖父のおかげもあってか、山下泰裕さんはその後逞しく育って身体も大きく成長し、4歳で保育園に入る頃には身長122cm、体重20kg超の健康優良児になっていました。
山下泰裕さんはその後、地元の浜町小学校に進学しますが、この頃には1年生なのに服のサイズが6年生のものがピッタリで周りに驚かれたそうです。
小学校時代の山下泰裕さんはかなりヤンチャで、喧嘩やイタズラに明け暮れるようになり、同級生から「(山下泰裕さんにいじめられるため)学校に行きたくない」と訴える子が続出。
手を焼いた両親は、その有り余るエネルギーを他のところに向かわせようと、小学校3年生の1月から山下泰裕さんを藤壺道場に入門させ柔道を習わせ始めました。
山下泰裕さんはその恵まれた体格を活かしてすぐに柔道の才能を発揮し、小学校6年生の時には熊本県の柔道大会で優勝を飾りました。
小学校卒業後は、柔道の名門校「熊本市立藤園中学校」へ進学。中学1年生にして体重は100kg近く、熱心に柔道に取り組んだ事で山下泰裕さんはメキメキと力をつけました。
全国中学柔道大会の団体戦二は、2年生、3年生でレギュラー出場し、オール1本勝ちを収めて藤園中学校を2年連続全国優勝に導き、その規格外の強さから「怪童」と呼ばれ、一躍柔道界の期待のホープとして注目されるようになりました。
山下泰裕の若い頃② 九州学院高校〜東海大相模高校時代
中学時代に注目を集めた山下泰裕さんは、東京の柔道強豪校から多くのスカウトを受けますが、「東京へ出るのは大学からでいい」との考えから、九州学院高校に進学しています。九州学院高校の柔道部監督に、中学時代の恩師である白石礼介さんが就任する事になったのも理由でした。
山下泰裕さんはインターハイ重量級にて史上初となる1年生優勝を果たし、2年進学後は金鷲旗高校柔道大会で10戦全勝の圧倒的活躍により高校を優勝に導きました。
しかし、その年のインターハイ準決勝で、岐阜県立関高校3年の有力選手・松井勲さんに判定負けを喫します。山下泰裕さんはその抜きん出た実力から熊本には最早練習相手がおらず、伸び悩みを実感する事となり、2年生の2学期からはより高いレベルの環境を求めて神奈川県の強豪校・東海大相模高校へ転校しています。
山下泰裕さんは系列の東海大学で大学生相手に練習を積み、東海大学柔道部のヨーロッパ遠征メンバーにも加わっています。初の海外遠征でしたが山下泰裕さんは13戦全勝、続く11月のドイツとの親善試合も全勝を飾っています。
高校3年進級後も活躍し、金鷲旗で11戦全勝し東海大相模高校柔道部を初優勝に導くと、個人重量級でも6戦全勝して優勝。10月の国体にも神奈川県代表として出場し8戦7勝1分の成績で神奈川県優勝に貢献しました。
同年11月には全日本新人体重別選手権で優勝、翌1976年1月にはフランス国際に出場して優勝し高校生にして国際大会優勝の快挙を成し遂げています。
山下泰裕の若い頃③ 東海大学体育学部武道学科時代
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東海大相模高校を卒業した山下泰裕さんは、1976年4月に東海大学体育学部武道学科へ進学し柔道を続けています。
東海大学進学後は、1年生次は、全日本学生大会無差別級史上初の1年生優勝、全日本新人体重別選手権大会2連覇、世界ジュニア選手権優勝(オール1本勝ち)の成績を残し、2年進学後は、全日本選手権を史上最年少(19歳)で制し、全日本体重別選手権優勝、1977年のソ連国際では、95kg超級無差別級の2階級制覇を果たしました。
1978年4月に3年生に進級した後も山下泰裕さんの勢いは止まらず、全日本選手権2連覇、全日本学生選手権で95kg超級と無差別級の2階級制覇、世界学生選手権でオール1本勝ちでの優勝、フランス国際でもオール1本勝ちでの優勝などの圧倒的な戦績を残しています。
1979年4月に4年生に進級後は、さらに周囲を寄せ付けない強さを発揮し、全日本選手権をオール1本勝ちで3連覇、全日本学生優勝大会でもオール1本勝ち、全日本学生選手権95kg超級、無差別級を共に2連覇、アメリカ国際柔道大会で95kg超級、無差別級を共にオール1本勝ちで優勝、世界選手権での初優勝も達成。
1980年3月に東海大学を卒業する頃には、山下泰裕さんは、「怪物」、「日本柔道界史上最強の男」とも称されるようになっていました。
山下泰裕の若い頃④ 東海大学大学院体育学研究科に進み柔道を続ける
山下泰裕さんは、1980年4月からは東海大学の大学院の体育学研究科に進んで柔道を続けています。
大学院時代の山下泰裕さんは、進学直後の全日本選手権で4連覇を果たすも、全日本体重別選手権で骨折の怪我を負い、約1年間の休養を余儀なくされます。
1981年4月の全日本選手権で復帰した山下泰裕さんはブランクを感じさせない強さで優勝を果たし同大会5連覇を達成。
続く世界選手権でも95kg超級、無差別級を共にオール1本勝ちで優勝し2階級制覇。日本国際柔道大会でも優勝、翌1982年4月の全日本選手権でも優勝し6連覇、体重別選手権、嘉納杯無差別級でも優勝するなど、比喩ではなく本当の意味で“向かう所敵なし”の強さを見せつけました。
山下泰裕の若い頃⑤ ロサンゼルスオリンピック金メダル
山下泰裕さんは、1983年3月に東海大学大学院を修了して、そのまま大学に残って東海大学体育学部の講師として働きながら柔道を続けました。
1983年の全日本選手権で7連覇、世界選手権95kg超級3連覇、1984年の全日本選手権で8連覇と勝利を重ね、念願であったロサンゼルスオリンピック無差別級代表に選ばれました。(前回のモスクワ五輪でも代表に選ばれていたが、ソ連のアフガン侵攻に抗議して日本は大会に不参加)
山下泰裕さんは1983年8月開催のロサンゼルスオリンピック柔道無差別級種目に日本代表として出場。山下泰裕さんはロス五輪では2回戦で肉離れを起こして万全な状態で試合に挑めなかったにも関わらず、全試合1本勝ちでの完全優勝を果たし金メダルを獲得しています。
帰国後の1984年10月、山下泰裕さんは金メダル獲得とこれまでの活躍を評価されて国民栄誉賞を授与されています。
オリンピックの金メダル獲得後、山下泰裕さんは全日本選手権に出場して前人未到の9連覇を達成(現在も破られていない)しました。
しかし、山下泰裕さんは怪我が完治しない事などを理由に、1985年6月17日に引退を表明、28歳にして現役を退きました。
山下泰裕さんは1977年10月から引退まで約7年6ヶ月にわたって1度も敗れておらず203連勝を記録しました。これは柔道の最多連勝記録としてギネスに認定されており、現在も破られていません。
山下泰裕と嫁の小野みどりの結婚エピソード
山下泰裕さんは引退の1年後、1986年28歳の時に小野みどりさんという1歳年下の一般女性と結婚されています。
山下泰裕さんの嫁の小野みどりさんは、高級時計や宝飾品を扱う「銀座和光」で店員として働かれていました。元々山下泰裕さんのファンだったという小野みどりさんは、銀座和光に買い物に訪れた山下泰裕さんを見初めて顧客情報を見て連絡先を入手。
自分の容姿に自信があった小野みどりさんは写真付きのラブレターやプレゼントなどを送ってアプローチをかけて交際にこぎ着けました。
顧客の個人情報を許可なく見て私的利用する事は、現在であれば個人情報保護法違反で犯罪行為となりますが、当時はこの法律は整備されていなかったので、微笑ましい結婚エピソードとして取り扱われました。
ちなみに、山下泰裕さんは若い頃は柔道一筋でファッションにはあまり興味がなかったそうなのですが、当時可愛がられていた元リコー会長の三善信一さんに、「もっとピシっとしたシャツを着ないといけない」と叱られた事があり、それで車で銀座和光に連れて行かれたのが、銀座和光に来店した理由だったそうです。
当初、山下泰裕さんと三善信一さんは、日本橋の三越へ行こうとしていたそうなのですが、道が渋滞していたため行き先を銀座の和光に変更したそうです。この時もし道が渋滞していなければ、山下泰裕さんと小野みどりさんは結婚していなかったかもしれません。
嫁の小野みどりさんは、国民的スターであった山下泰裕さんを射止めた女性として注目され、週刊誌やワイドショーでも取り上げられ、名門の湘南高校から早稲田大学を卒業し銀座和光に勤める典型的お嬢様として紹介されました。ただ、当時の同世代の女性層からは嫉妬や、小野みどりさんの計算高さが鼻についたのか、批判的な声も少なからず出ていました。
山下泰裕さんの方も、美しく家柄も良い小野みどりさんにすぐにぞっこんになり、結婚の話もすぐにまとまったようです。
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山下泰裕さんと嫁の小野みどりさんは1986年5月5日の大安吉日に東京赤坂のプリンスホテルで結婚式を挙げました。
山下泰裕さんと嫁の小野みどりさんの結婚式には政財界、スポーツ界を中心に411名が招待され、挙式費用は推定で1500万円、純金箔を使った小野みどりさんが纏う打ち掛けやお色直しの衣装、結婚式後に夫妻でイギリス留学に行くために用意された衣装などは、全て山下泰裕さんの知人からプレゼントされたもので、その総額は1億2000万円にも上ると報じられて大きな話題を呼びました。
山下泰裕と嫁の小野みどりの子供
山下泰裕さんと嫁の小野みどりさんの間には息子さんが2人と娘さんが1人の3人の子供が産まれているようです。
山下泰裕さんは2012年に「週刊朝日」のインタビュー記事で、次男が自閉症である事を明かしています。
次男は自閉症なんです。その彼の存在は、私にとって非常に大きい。
山下泰裕さんは現役引退後に柔道指導者となりましたが、結果が出ない選手に対して「努力が足りない」と叱責ばかりしていたそうです。しかし、次男と向き合った事で「ハンディキャップを背負い努力してもなかなか結果を出せない人がいる」という事に気がつく事ができたと語られていました。
山下泰裕さんと嫁の小野みどりさんの子供に関する情報としては、娘さんが「川口ゆり子バレエスクール」に通っていたという噂がありますが、これは真偽不明となっています。
山下泰裕と嫁の小野みどりの自宅は神奈川県大磯町の邸宅
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山下泰裕さんと嫁の小野みどりさんの自宅は、神奈川県大磯町の住宅街に建つ立派な邸宅です。山下泰裕さんは自宅内部は公開された事はありません。
山下泰裕が転倒し頚椎損傷の大怪我
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2023年11月2日に、山下泰裕さんが転倒して頚椎損傷の大怪我を負った事を日本オリンピック委員会(JOC)が発表しました。
JOCの発表によると、山下泰裕さんは同年10月29日に家族とのプライベート中に転倒して頚椎損傷の怪我を負い、救急搬送されて翌30日に病院で手術を受けて成功したとの事です。
11月2日の発表の時点では、「現在は入院中」とも発表されていました。
日本オリンピック委員会(JOC)は2日、山下泰裕会長(66)が転倒し、頸椎(けいつい)を損傷したと発表した。
10月29日にプライベートで家族と行動中に負傷。翌30日に受けた手術は無事終了し、現在入院している。
山下泰裕の入院先の病院
山下泰裕さんが転倒し頚椎損傷で入院中である事がJOCを通じて発表されましたが、当たり前ですが山下泰裕さんの入院先の病院は明かにされていません。
山下泰裕さんの家族は、JOCを通じて「早い回復を願っています。今は、安静が必要な状況なのでそっとしておいていただきたい。」とのコメントを発表しており、入院先はごく近しい関係者以外には明かしていないようです。
家族はJOCを通じ、「早い回復を願っています。今は、安静が必要な状況なのでそっとしておいていただきたい。」
また、山下泰裕さんの手術は無事に成功し、命に別状はないとも発表されていますが、家族以外は面会謝絶とも発表されていて、その容態を心配する声が各方面から上がっていました。
いずれにしても、退院されるまで山下泰裕さんの入院先の病院の情報が公開される事はないでしょう。
山下泰裕の現在
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転倒し頚椎損傷の怪我を負ったと報じられた山下泰裕さんを心配し、現在の様子が気になる方も多い様子です。
現在の時点では、山下泰裕さんが入院先を退院したとの発表はまだ出ていません。
11月9日には、JOCから山下泰裕さんの現在の様子が発表されており、家族以外との面会謝絶状態は続いているものの、意識ははっきりして会話もできていると聞いているとの情報が公開されました。
そして、復帰の時期は未定で快方に向けて最大限のことを行なっているとの情報も明かされました。
日本オリンピック委員会(JOC)は9日、頸椎(けいつい)を損傷し、手術を受けて入院している山下泰裕会長の現状について「ご家族以外の面会謝絶は続いてはいるものの、事故直後から意識もはっきりしており、会話が出来ていると聞いております。依然復帰の時期は未定となっておりますが、ご本人、ご家族共に快方に向け、今できる最大限のことを行っていらっしゃるとのことです」と報告した。
頚椎損傷ということなので、意識ははっきりしているものの、身体に何らかの後遺症が出たりする事も考えられます。JOCから発表されたコメントから推測するしかありませんが、山下泰裕さんには現在何らかの後遺症が出ており、復帰に向けてリハビリをしていくという意味合いにも受け取れます。
心配ですが、実際の山下泰裕さんの現在の状態についてはわからないため、JOCからの発表を待つしかありません。
まとめ
今回は、1984年のロサンゼルスオリンピックの柔道男子無差別級金メダリストで、現在は日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めている柔道家の山下泰裕さんについてまとめてみました。
山下泰裕さんは小学生の頃に柔道を始め、中学時代には怪童と呼ばれるなど頭角を表し、高校、大学時代には連戦連勝を重ねて「怪物」、「日本柔道史上最強の男」とも呼ばれました。
そして、オリンピックでの金メダル獲得後、1985年6月に28歳現役を引退。1986年には1歳年下の一般女性の小野みどりさんとの結婚を発表し大きな話題を呼びました。
山下泰裕さんは嫁の小野みどりさんとの間には2人の息子と1人の娘の3人の子供がいると言われており、次男の自閉症を公表されています。また、娘さんが「川口ゆり子バレエスクール」に通っていたとの噂がありましたが、こちらは真偽不明です。
山下泰裕さんと嫁の小野みどりさんの自宅は、神奈川県大磯町の住宅街に建つ立派な邸宅ですが、テレビ番組などで自宅内部を公開された事は現在までありません。
山下泰裕さんは現在もJOCの会長として活躍されていますが、2023年11月2日に家族とプライベートで行動中に転倒し頚椎損傷の大怪我を負った事がJOCを通じて発表されました。
JOCの発表によると、山下泰裕さんは手術を受けて成功しており、命に別状はなく意識もはっきりしているとの事です。ただ、家族以外とは面会謝絶の状態が続いており、入院先の病院なども明かされていません。
情報が少なく、現在の山下泰裕さんの容態は不明ですが、頚椎損傷ということで何らかの後遺症が出ている事などを心配する声も上がっています。