「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」などで知られるテレビドラマ脚本家で直木賞作家でもある向田邦子さんの死因は飛行機事故(遠東航空103便墜落事故)でした。
この記事では向田邦子さんの父親や母親、兄弟、妹などの家族、結婚や子供、死因となった飛行機事故などについてまとめました。
この記事の目次
向田邦子のプロフィール
向田邦子のプロフィール
生年月日:1929年11月28日
没年月日:1981年8月22日(没年51歳)
出身地:東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現在の世田谷区)
向田邦子さんは、1960年代から1980年代にかけて活躍したテレビドラマ脚本家、作家、エッセイストです。
庶民の生活の温かさと暗さ、家族を中心とした人間ドラマ、情愛や恋心、親子関係などをリアルに描き出した名作を数々世に送り出し、幅広い年代層の女性を中心に絶大な人気を集めました。
テレビドラマの脚本家としては「時間ですよ」、「七人の孫」、「だいこんの花」、「寺内貫太郎一家」、「冬の運動会」、「阿修羅のごとく」、小説家としては「あ・うん」、「思い出トランプ」(短編連作集)、「隣の女」、「男どき女どき」などがそれぞれ代表作として知られています。
向田邦子さんは、女性が前に出て働く事に今よりも障壁が多かった時代にあって、倉本聰さん、山田太一さんと並ぶ「シナリオライター御三家」と称されるほど高く評価され、当時の自立を目指す女性達にとってのロールモデル的な存在でもありました。
そんな向田邦子さんでしたが、1981年8月22日、取材旅行で台湾を訪れた際に飛行機事故(遠東航空103便墜落事故)に巻き込まれて、51歳の若さでこの世を去っています。
向田邦子の生い立ちや経歴
向田邦子さんは、1929年11月28日に東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現在の東京都世田谷区)で保険会社に勤める父親の敏雄さんと専業主婦の母親のせいさんの長女として生まれました。
父親は保険会社の幹部社員で転勤が多かったため、向田邦子さんは幼い頃からあちこちを転々としながら成長しています。
小学校は香川県の高松市立四番丁小学校を1942年3月に卒業し、同年4月に香川県立高松高等女学校に進学しますが、同年9月に東京へと戻り東京市立目黒高等女学校へ編入学しています。
目黒高等女学校在学中に終戦を迎え、1947年4月からは実践女子専門学校(現在の実践女子大学)の国文科に入学されています。同年6月に父親の転勤に伴い家族が仙台に転居したため、向田邦子さんは弟の保雄さんと2人で、港区麻布市兵衛町の母方の祖父母の家に寄宿して学業を続けました。
1950年3月に実践女子専門学校を卒業後、4月から新卒で教育映画などを制作する「財政文化社」に社長秘書として入社。
1952年、新聞の求人欄で、主に手芸関係の出版社「雄鶏社」の編集部員の求人を見つけて応募して採用され、雑誌「映画ストーリー」の編集に携わりました。
その傍ら、「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」などで知られる市川三郎さんに師事して脚本の書き方を学び、それを通じて映画界の人脈を広げました。
その後向田邦子さんは、1960年5月に女性専門のフリーライター事務所「ガリーナクラブ」に入り、その年の12月に「雄鶏社」を退社。
1962年3月からラジオドラマ「森繁の重役読本」の脚本を任され、1969年まで2448回の脚本を担当しています。
- 1964年2月にはドラマ「七人の孫」の脚本を任され、10月に実家を出て独立して1人暮らしを始めています。
1970年にテレビドラマ「北条政子」、「だいこんの花」の脚本を担当した頃から売れっ子の脚本家となり、1971年、テレビドラマ「時間ですよ」、1972年「だいこんの花」のパート2とパート3、1974年にテレビドラマ「寺内貫太郎一家」、「だいこんの花」パート4、「時間ですよ・昭和元年」などの脚本を担当し、いずれの作品も好評を得ています。
1975年には乳がんが発覚し手術を受け成功したものの、輸血による肝炎の発症と右腕が動かなくなる後遺症を患いました。この後しばらく向田邦子さんは左手での執筆を余儀無くされました。
1976年、銀座百店会発行の月刊誌「銀座百点」で、父親を中心に自身の家族生活について回想するエッセイ「父の詫び状」の連載を開始。
1977年には、テレビドラマ「冬の運動会」、「だいこんの花」のパート5。1978年にはテレビドラマ「家族熱」、1979年にはテレビドラマ「阿修羅のごとく」の脚本を担当しています。
1980年、テレビドラマ「源氏物語」、「阿修羅のごとくI・II」、「あ・うん」などの脚本が高く評価され第17回ギャラクシー賞の選奨に選ばれました。また、その年に発表した短編集「思い出トランプ」に収録されている「花の名前」、「かわうそ」、「犬小屋」の3篇の短編で第83回直木賞を受賞し小説家としても高い評価を得ました。
今後の活躍が期待されていた矢先の1981年8月22日、台湾での取材旅行中に飛行機事故(遠東航空機墜落事故)に巻き込まれ51歳の若さでこの世を去っています。
向田邦子の家族① 父親の敏雄さんは保険会社の元幹部
向田邦子さんの父親は敏雄さんという1904年生まれの人物で、高等小学校を卒業後に給仕(雑用係)として「第一徴兵保険(後の東邦生命保険)」で働くようになり、そこから出世して支店長を経て幹部社員にまでなった苦労人でした。
地元では、出世して東邦生命保険の広い社宅に住む向田邦子さんの父親の敏雄さんは、お金持ちを意味する「分限者(ぶげんしゃ)どん」と呼ばれて尊敬されていたそうです。
向田邦子さんの子供時代からの家族との回想が綴られたエッセイ集「父の詫び状」に描かれる父親の敏雄さんは、この時代の父親らしく筋金入りの亭主関白で若干横暴なところもあるのですが、その内面は不器用で家族を守ろうとする責任感の強い人物だったようです。
この父親の敏雄さんが、向田邦子さんの小説や脚本を手がけたテレビドラマに登場する父親達のモデルになっているとも言われています。
向田邦子さんの父親の敏雄さんは、1969年2月に64歳で亡くなられています。死因は「心不全」で急逝でした。
向田邦子の家族② 母親はせいさん
向田邦子さんの母親は、せいさんという1907年生まれの人物です。
向田邦子さんのエッセイ集「父の詫び状」には、亭主関白だった父親の敏雄さんを、母親のせいさんが献身的に支える様子が描かれています。
向田邦子さんが飛行機事故で急逝した後、その遺品はかごしま近代文学館に寄贈されているのですが、これは母親のせいさんの「鹿児島に嫁入りさせよう」という言葉で決められたそうです。
また、向田邦子さんが生前可愛がっていた愛猫達は、母親のせいさんが引き取ってとても可愛がられた事も明かされています。
向田せいさんの母親のせいさんは、2008年に100歳の長寿をまっとうし亡くなられています。
向田邦子の家族③ 兄弟は弟が1人と妹が2人
向田邦子さんは、4人兄弟(きょうだい)の長女で、弟が1人と妹が2人います。
向田邦子さんの兄弟3人は、2歳下の弟の保雄さん、6歳下の長妹の柚子さん、そして9歳年下の末妹の和子さんです。
向田邦子さんの兄弟のうち弟の保雄さんは向田邦子さんのエッセイにもよく登場していました。向田邦子さんと弟の保雄さんの兄弟仲はとてもよかったようです。
1947年に父親の転勤で母親と妹2人が宮城県仙台市に転居した際には、東京の学校に通っていた向田邦子さんと弟の保雄さんは港区麻布市兵衛町(現在の六本木)にあった母親の祖父母に家に寄宿して一緒に過ごしています。
弟の保雄さんは、向田邦子さんが飛行機事故で亡くなった2年後の1983年に「姉貴の尻尾_向田邦子の想い出」というエッセイ集を発表し姉との思い出や想いを綴られています。
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末妹の和子さんは幼い頃から大人びて見えた姉の向田邦子さんをとても尊敬されていたようで、向田邦子さんの死去後も、妹としてメディアのインタビューによく登場されています。
向田邦子さんも歳の離れた妹の和子さんととても可愛がられていたようで、飛行機事故で亡くなる3年前の1978年東京の赤坂に「ままや」という小料理屋を開いて和子さんに任せています。
妹の和子さんの小料理屋「ままや」は、向田邦子さんの死去後も経営が続けられて親しまれ、20年後に惜しまれつつ閉店しました。
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向田和子さんは、向田邦子さんが飛行機事故で亡くなった後、妹の立場からのエッセイ集「かけがえのない贈りもの ままやと姉・邦子」、「向田邦子の青春・写真とエッセイで綴る姉の素顔」、「向田邦子の遺言」、「向田邦子の恋文」を発表されています。
向田邦子は結婚はしておらず生涯独身だったが長年連れ添った恋人がいた
向田邦子さんは1981年に飛行機事故で51歳で亡くなるまで生涯独身でした。
妹の和子さんのエッセイによると、当時としては先進的であった向田邦子さんは結婚観に関しては古風なところがあり、結婚と仕事の両立は考えていなかったそうで、結婚するのならば仕事は辞めなければならないとの考えを持たれていたそうです。(当時はそれが常識とされていた)
向田邦子さんは脚本家の仕事をとても大切にされていたため、結婚よりも仕事を取り生涯独身を貫かれていたのでしょう。
生涯結婚はしなかった向田邦子だが長年連れ添った恋人がいた
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結婚はしなかった向田邦子さんでしたが、長年一緒だった恋人の存在が、2002年に発表された妹の和子さんのエッセイ「向田邦子の恋文」で明かされています。
向田邦子さんは、実践女子専門学校を卒業後に新卒で教育映画を制作する「財政文化社」に入社し社長秘書をしていましたが、この頃に13歳年上の記録映画カメラマンの中原歩さんという男性と知り合い交際しています。
この中原歩さんは既婚者で子供もいましたが、家庭を捨てて向田邦子さんと交際していました。
妹の和子さんによると、向田邦子さんは1度、両親に中原歩さんを紹介しているようです。しかし、結婚していて妻子がおり13歳も年上の男子との交際は厳格な父親には当然認められませんでした。
しかし家族に反対された後も向田邦子さんはこの中原歩さんと交際を続けました。妹の和子さんによると、向田邦子さんが脚本家に転身したのも、この中原歩さんの応援があったからではないかという事です。
そして、向田邦子さんが数多く手がけた作品には、自身とこの中川歩さんとの恋愛がモデルになっているのではないかと推測されるエピソードが多く含まれており、2人が幸せな結婚をしてハッピーエンドを迎えるものもあります。向田邦子さんは心の中では中川歩さんとの結婚を夢見ていたのかも知れません。
しかし、この中川歩さんは1964年2月に自殺によって亡くなられています。亡くなる2年前、中川歩さんは脳梗塞を患って倒れ、その後遺症で右足が麻痺して杖なしで歩行ができなくなって仕事もできなくなり、生活を向田邦子さんに頼っている状態でした。
向田邦子さんは当時、親しい知人に「わけありの病人を抱えており稼がねばならない」と語っていたそうです。
中川歩さんは、パートナーに生活面を頼っている状態に耐えられず、自ら命を絶ったのではないかと言われています。
この、妹の和子さんがエッセイ「向田邦子の恋文」で明かした向田邦子さんの恋愛模様は、2004年に山口智子さん主演でテレビドラマ化されています。(タイトルは同じ)
結婚しなかった向田邦子だがお見合いはしていた
向田邦子さんは自身のエッセイでも、妹の和子さんのエッセイでも、向田邦子さんが何度かお見合いをしていた事が明かされています。
この事から、向田邦子さんは結婚に興味がなかったわけではなかったようです。しかし自分が仕事ができて稼ぎも良いためか結婚相手に求めるハードルが高かったようです。
向田邦子さんが、あるお見合い相手を振った理由は「味噌汁の具に入っているしじみを食べたから」でした。向田邦子さんの常識では、お味噌汁に入れるしじみは出汁を取るためで、それを1つ1つ食べるのはみみっちいとして、その男子の姿を見て「鳥肌が立つ思い」だったのだとか。
その一方で、離婚歴のあるドイツ語助教授とお見合いをした時には「自分より収入の多い女は困る」という理由で断られたという時代ならではのエピソードも明かされています。
また、向田邦子さんは恋人の中川歩さんが自殺で亡くなった年にすぐにお見合いをされています。これには賛否両論色々な意見がありますが、向田邦子さんは中川歩さんへの想いを断ち切るためにあえて見合い結婚をしようとしたのではないかと思います。
向田邦子の子供はいなかったが3匹の猫を溺愛していた
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上で書いたように、向田邦子さんは生涯結婚をせずに独身だったので、当然ですが子供はいません。
ただ、向田邦子さんは愛猫家で知られていて、生涯通じて何匹かの猫を飼い、子供の代わりのように可愛がられていたようです。
向田邦子さんは、飛行機事故で亡くなるまで住んでいた東京青山のマンションでは、3匹の猫を飼っていました。
1人暮らしを始めた時に実家から連れてきたメスのシャム猫「伽俚伽(かりか)」と、タイに旅行した際に一目惚れしたという2匹のコラット、オスの「マミオ」とメスの「チッキイ」でした。
特に、向田邦子さんは「マミオ」の事は溺愛していて、「マハシャイ・マミオ殿」というエッセイの中で「貴男はまことに男の中の男であります」と書いています。
向田邦子さんは猫達を本当の子供のように大切にされており、業務用大きなアルミ製の寸胴鍋を購入し、その鍋で10kgのトビウオを煮込み、猫用に薄い味付けをして、粗熱をとってから小分けにして冷凍保存し、毎日の餌として解凍して与えていたそうです。
調理には3時間もかかったそうですが、どんなに忙しくても向田邦子さんは猫のための時間を惜しむ事はなかったのだとか。
向田邦子さんが飛行機事故で亡くなった時、マミオ意外に2匹は既に死んでいました。残されたマミオは、向田邦子さんの妹の和子さんと母親のせいさんに引き取られて大切にされ、向田邦子さんの死去の4年後、16歳まで長生きしています。
向田邦子の死因は飛行機事故
すでに触れているように、向田邦子さんの死因は飛行機事故です。
向田邦子さんの死因となった飛行機事故は、1981年8月22日に台湾で発生した「遠東航空103便墜落事故」です。
向田邦子さんは8月20日に取材のために知人3人と台湾を訪れていました。台北市の国立故宮博物館などを見学した後、22日の午前9時50分頃、高雄市で珍しい蝶の採集を行うため、遠東航空103便(ボーイング737型機)に搭乗して高雄空港へと向かっていました。
向田邦子さんが乗る飛行機は、午前9時54分の離陸から約10分後に期待に異常が生じ、14分後に空中分解して台北からおよそ西南へ150kmにある、苗栗県三義郷の火焔山(標高601メートル)に墜落。向田邦子さんを含む乗っていた110名(乗員6名、乗客104名)全員が死亡しました。
向田邦子さんの遺体は飛行機事故発生から4日後の8月26日の午前中でした。遺体の損傷が激しかったため、27日の夕方に台北市内の葬儀場で荼毘に付され、現地の風習に則って遺骨は白い大理石の壺の中に収められました。
この時に立ち会う事ができた家族は、日本から駆けつける事ができた弟の保雄さんだけで、向田邦子さんの遺骨は保雄さんに抱かれて帰国しています。
向田邦子さんは生前、妹に「どうせ死ぬなら飛行機が空中爆発という死に方をしたいわ」と冗談で言われた際に「それが出来たら最高ね」と冗談で返した事があったそうです。
向田邦子が巻き込まれた飛行機事故「遠東航空103便墜落事故」の概要
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向田邦子さんの死因となった飛行機事故「遠東航空103便墜落事故」は、台湾の航空会社「遠東航空(ファーイースタン航空)」が突如空中分解を起こした墜落した事故でした。
事故の原因となったのは塩水により与圧隔壁が腐食し、貨物室の外板が破壊された事でした。この機体では海産物を不完全に梱包した状態で空輸する事が多く、そこから漏れ出した塩水が腐食を促したとの調査報告が発表されています。
この事故では、向田邦子さんを含めて日本人18人が犠牲になり、その中には出版プロデューサーの志和池昭一郎さんの名前もありました。
まとめ
今回は、昭和の時代に活躍したテレビドラマ脚本家で直木賞作家の向田和子さんについてまとめてみました。
向田邦子さんの家族は、父親の元保険会社幹部で亭主関白だった敏雄さん、そんな夫を献身的に支えた母親のせいさん、兄弟には、保雄さんという弟と、柚子さんと和子さんという2人の妹がいました。弟の保雄さんと妹の和子さんは向田邦子さんに関する書籍も発表されています。
向田邦子さんは生涯結婚はせずに独身でしたが、長年連れ添った恋人がおり、妹の和子さんが「向田和子の恋文」というエッセイで明かし、山口智子さん主演でドラマ化もされました。
また、向田邦子さんは結婚はしませんでしたが何度かお見合いもされていて、結婚に全く興味がなかったわけではなかったようです。ただ、当時は女性が仕事と結婚を両立させる事はハードルがかなり高く、向田邦子さんは結婚よりも仕事を優先されたようです。
向田邦子さんに子供はいませんが、3匹の猫を飼い、子供の代わりのように溺愛されていました。
向田邦子さんの死因は取材旅行中の飛行機事故(遠東航空103便墜落事故)で、51歳の若さで突然この世を去っています。