松島トモ子さんと言えばライオン・ヒョウに襲われたものの奇跡的に回復したことで有名ですが、母親の介護や病気も話題です。
今回は松島トモ子さんの家族(父親と母親)、若い頃の経歴と九死に一生を得た事故、介護や病気、現在を紹介します。
この記事の目次
松島トモ子のプロフィール
生年月日:1945年7月10日
出身地:満州国奉天(育ちは東京都目黒区)
所属事務所:まむしプロダクションと業務提携中
松島トモ子さんは役者・歌手・タレントとして活動しています。
本名は「松島奉子」さんといいます。
松島トモ子の家族(父親と母親)
松島トモ子さんは、第二次世界大戦中に満州国奉天で誕生しました。
しかし、誕生後まもなくに日本が降伏をしたことで、日本軍占領地である満州国から日本本土へ帰国する”引き揚げ者”となります。
母親は、生まれたばかりの松島トモ子さんを連れて引き上げ船で日本へと帰国しました。
当時について、松島トモ子さんは出演したテレビ番組で次のように語っています。
赤ちゃんが嗜眠性脳炎という病気にかかって、みんな死んでいくんですって。みんな「はやりが移ると大変」って子どもを海に葬ったり・・・。母は美しい声で子守唄を歌ってくれてね、精一杯の笑顔をくれて、「この子さえ無事に連れて帰ったら、私は何の望みもいりません」って私を連れて帰ってくれた。
出征していた父親はロシアの捕虜となってしまい、松島トモ子さんと対面することなく、シベリアの地で亡くなってしまったそうです。
しかし、母親は生涯再婚しなかったといいます。
「なぜ再婚しなかったのか」と聞くと「出征のときに絶対に生きて帰るから待っててくれと言われた。ただ1つの約束だから守ってあげなきゃ」と言われたそうです。
松島トモ子の若い頃の経歴① 子役でブレイク・歌手やモデルとしても活躍
松島トモ子さんは3歳の時に、石井漠舞踊研究所に入門し、バレエを習い始めます。
その後、映画館で流れる「劇場ニュース」に、石井漠舞踊研究所でのバレエ姿が映し出され、それを目にした役者・阪東妻三郎さんにスカウトされました。
そして、1949年に映画「獅子の罠」に子役として出演し、芸能界デビューを果たします。
1956年公開の時代劇映画「鞍馬天狗」、映画「サザエさん」シリーズの磯野ワカメ役に出演し、80本以上の映画で主演を務めるなどブレイクしました。
1953年には、レコード「村の駅長さん/風にゆれるレイの花」で歌手としてもデビュー。
ディズニーアニメーションの劇中歌「狼なんかこわくない」や、映画「雨に唄えば」の主題歌のカバー曲も発売しています。
また、モデルとしても活躍しており、10年間にわたり少女向け雑誌『少女』の表紙を務めたほか、芸能雑誌『平凡』などの誌面に登場していました。
松島トモ子の若い頃の経歴② アメリカに留学し、ダンスの先生として生活
子役として活躍するのと同時に、松島トモ子さんは大東学園高等学校へと進学します。
高校では、カナダ帰りの英語教師が発する美しい英語に魅了され、「英語を本格的に勉強したい」と考えるようになったそうです。
当初は日本で英文科のある大学に進学するつもりでしたが、芸能界の仕事を並行していたことから、「きっといい仕事がきたら引き受けてしまう」と考え、アメリカ行きを決意。
同校在学中に渡米し、アメリカのニューヨークにある名門校「ザ・マスターズスクール」を卒業しています。
松島トモ子さんは当時を振り返り、次のように語りました。
当時は、今のように簡単に留学できる時代ではありません。猛烈に勉強し、試験に合格して学生ビザを取得し、ようやく夢のアメリカ留学を果たしました。
松島トモ子さんが卒業したザ・マスターズスクールは1877年に創立された名門私立高校で、多数の卒業生がアメリカの難関大学へと進学しています。
また、同校には現在、世界各国の生徒が在籍していますが、松島トモ子さんは当時”ザ・マスターズスクール100年の歴史で初の有色人種“だったそうです。
ザ・マスターズスクールを卒業後、”モダンダンスの神様”と称されるダンサー、マーサ・グラハムさんのダンススクールに通い、ダンスを学んだ松島トモ子さん。
その後は、同スクールから奨学金をもらいながら生徒にダンスを教えていたそうです。
しかし、祖母から「一度帰ってきて欲しい」と言われたため、日本へ帰国。
すぐにアメリカに戻るつもりだったので、ダンススクールに籍をおいたまま帰国しましたが、しばらくして祖母が亡くなってしまいます。
また、メディアにも帰国を大きく報じられていたため、帰るに帰れない状況となり、結局アメリカに戻れないまま、日本で再び芸能活動を再開しました。
松島トモ子の若い頃の経歴③ 帰国後は葛藤を抱えながらもマルチに活躍
2年以上のブランクがありながらも、帰国して芸能界に復帰すると、すぐに仕事のオファーが殺到したといいます。
しかし、当時の松島トモ子さんはアメリカ留学を通して強い自立心が芽生えていたため、仕事のオファーを素直に受け入れられなかったそうです。
「(当時は)頭の中がアメリカナイズされていた」といい、インタビューでは次のように語っています。
仕事のオファーはたくさんありましたが、成長した自分を求めてくれるのではなく、どれも「元のかわいいトモ子チャン」を望んでいらっしゃるように思えて。それでも喜んでお引き受けすれば良かったんですが、頭が生意気になっていましたから、反発してしまったんです。年齢的にも転換期を迎え、悩みもしました。
周囲からの期待に葛藤しながらも、松島トモ子さんはその後、ミュージカルを中心に活躍。ミュージカル劇団「劇団四季」の研究生だった時期もあるそうです。
また、1971年からはフジテレビ系バラエティ番組「ハイヌーンショー」の司会や、ラジオ番組「日曜電リクパレード~松島トモ子の180分ぐるぐるワイド~」でパーソナリティーを担当。
さらに、NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」や海外アニメ「スヌーピーとチャーリーブラウン」、テレビ朝日の人形劇「マペットショー」では声優も務めました。
海外レポーターにやりがいを見つける
そんな中、松島トモ子さんは「海外レポーター」という仕事に巡り合い、やりがいを感じるようになっていきました。
松島トモ子さんは、次のように当時の心境を振り返っています。
自分でもどこへ向かえばいいのか分からないまま、あちこちぶつかるうちに、海外のレポーターというお仕事に巡り合った。そこでようやく、また仕事が楽しめるようになりました。まだまだ海外へ行って英語でレポートする人はいなかったので、そっちに魅力を感じました。
松島トモ子の若い頃の事故① ライオンに噛まれる
海外リポーターにやりがいを感じていた松島トモ子さんですが、1986年にはライオンに噛まれるという悲惨な事故も経験しています。
事故は、日本テレビ系ドキュメンタリー番組「TIME21」の撮影場所だったケニアで発生しました。
野生動物保護学者のジョイ・アダムソンさんと、その夫で作家のジョージ・アダムソンさんと動物保護区を訪れ、人慣れした子ライオンと戯れていたときに母親ライオンに噛まれたのです。
母親ライオンの勢いは凄まじく、松島トモ子さんは宙に放り出されたのちに10mほど引きずられ、首や太ももを中心に全治10日ほどのケガを負っています。
同行していたジョージ・アダムソンさんが無線に対応するために目を離していた間の出来事で、また、耳が悪かったことから助けに入るのが遅れてしまったそうです。
当時、近くに病院はなく、翌朝になってやっと小型飛行機で小さな病院に搬送された松島トモ子さん。
医者からは「(雑菌が入っているかもしれないので)6時間以上経過した猛獣による傷は縫わない」と告げられ、縫合もせずに10日間の入院を言い渡されたのでした。
松島トモ子の若い頃の事故② ヒョウに噛まれる
松島トモ子さんはライオンに襲われ入院するも、3日で退院します。
なんと頭がパックリと割れているそのままの状態で仕事を再開し、再び別の動物保護区を訪れたといいます。
そして退院からわずか10日後、松島トモ子さんは今度はヒョウに噛まれてしまうのです。
ライオンの時とは違い、高い柵で囲われているはずのヒョウでしたが、4m50cmもある柵を飛び越え、夜の闇に紛れて待ち構えていた状態だったといいます。
不運なことに、松島トモ子さんはヒョウと目が合ってしまい、体当たりを受けて地面に倒れたところを、そのまま首に噛みつかれてしまいます。
首に噛みついたまま、ヒョウは松島トモ子さんを持ち上げたため、第四頚椎が粉砕骨折するという大けがを負いました。
松島トモ子さんは後に、「自身の骨がガリガリとかじられた音が聞こえた」と語っており、死を覚悟したそうです。
緊急ヘリが飛ばず、朝まで止血しながら耐えた
松島トモ子さんがヒョウに襲われたことで、救助隊に救急ヘリの出動を要求するも「夜間は危険」と拒否されてしまったといいます。
そのため、翌朝救急ヘリが到着するまで、止血をしながら耐えざるをえなかったそう。
その後、無事にヘリで搬送後されて病院で適切な処置を受けることはできましたが、医者からは「噛まれた位置が1ミリでもずれていたら確実に死んでいた」と言われるほどの状態でした。
また、第四頚椎粉砕骨折は高確率で死亡するほどの大けがで、運良く命が助かっても、首から下が動かなくなる後遺症が残る可能性が高いといいます。
しかし、松島トモ子さんは奇跡的に回復し、後遺症も残りませんでした。
これは本当に稀なことで、のちに松島トモ子さんの症例がニューヨークの学会で発表されたほどです。
そして、さらに驚くべきことに松島トモ子さんはヒョウを襲われた後も撮影を続行しています。
帰国後に記者会見を開き、「(このような事故に遭っても)動物は好き」と発言して話題となりました。
その後、松島トモ子さんは日本国内で長期間にわたり入院しています。
2013年に受けたインタビューでは、当時の心境を明かしました。
私の事故を笑いのネタにして、テレビで面白おかしく語る人がたくさんいたと後から聞かされ、とても笑うことはできませんでした。復帰にも時間がかかり、復帰後も、その話題は自分の中ではタブーでした。笑って話せるようになったのは、事故から20年以上たってからじゃないかしら。
松島トモ子の若い頃の事故③ 新築の家が引っ越し前日に全焼
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ライオンとヒョウに噛まれて死にかけるという事故に見舞われた松島トモ子さんですが、実は動物以外でも、大きな不運に遭遇しています。
松島トモ子さんは1967年、22歳の時に自宅を新築しました。
そして、高価なもの、大切なものを運び終えていよいよ明日引っ越し…という、引っ越しの前日にその家が全焼してしまったそうです。
私達は古い離れに住んでいて、火事だ火事だ、の声で雨戸を開けたら消防士さん達が飛び込んできた。新しい家は真っ赤な火の海。現実とは思えず『風と共に去りぬ』の1シーンを思い出した。とてもきれいだった。
引用:ママは水泳日本代表?
新築の自宅が引っ越し前夜に全焼するも家族全員が無事だったり、猛獣に噛まれながらも一命を取り留めて後遺症もなく回復したりと、何度も九死に一生を得ている松島トモ子さん。
悲運でありながら、類稀なる強運の持ち主でもあるようです。
松島トモ子は母親を”老老介護”・自身も病気を発症していた
松島トモ子さんは、2016年頃からから2021年までの約4年半の間、「レビー小体型認知症」を患った母親を自宅で介護していました。
母親は認知症を発症する94歳まではとてもしっかりしていたそうですが、突然認知症の症状が出るようになったことで、2人の生活は一転してしまったといいます。
母親が夜中に飛び出すこともしばしばあったため、夜中の徘徊を止めるべく、服を着たまま母親の部屋のドア近くで寝る生活が続きました。
また、時には母親が包丁を持ち出して「一緒に死のう」と言ってきたこともあるそうです。
そんな苦しい日々が続くも、途中で主治医を認知症専門医に変えたことで状況が好転したといいます。
母親が「レビー小体型認知症」と正式に診断され、症状に合った薬が処方されたほか、要介護も1から4へと引き上げられたのです。
レビー小体型認知症は認知症の中でも「幻視・妄想」の傾向が強いことを知った松島トモ子さんは、次のように語っています。
病名を決めていただいたのは嬉しかったです。「ママが2人いる」って、レビー小体型の病気の母と、昔の母がいるんだと思うようにするんです。
そんな松島トモ子さんの母親は、2021年10月4日に100歳で他界されています。
松島トモ子自身も病気を患っていた…
松島トモ子さんは母親を施設に入れることはせず、最後まで自宅で介護していました。
しかし、その介護生活は壮絶だったそうで、松島トモ子さんは非常に苦しみ、深酒をして現実逃避していた時期もあったそうです。
憧れの存在でもあった母親の症状がひどくなっていく状況に耐えることができず、パニック障害や過呼吸を引き起こしていました。
さらには、普段40キロほどだった体重も、7キロほど減ってしまったそうです。
松島トモ子の現在:ラジオやコンサートに出演中・結婚はしていない
出典:https://www.chunichi.co.jp/article/342850
松島トモ子さんは、2022年で77歳になりますが、現在まで結婚歴はなく、独身を貫いていらっしゃいます。
そんな松島トモ子さんは母親の介護中も、そして2021年に母親が亡くなって以降も、トーク番組や舞台に出演。
2022年には、コンサートやラジオ番組などにも出演されています。
また、自身のブログ「ライオンの餌」では、近況はもちろん、半生を振り返る記事を頻繁に投稿。
母親との思い出も数多く綴られており、気になる方はぜひのぞいてみてはいかがでしょうか。
まとめ
松島トモ子さんは満州国で生まれるも、すぐに父親を失い、母親とともに日本へと引き揚げてきました。
帰国後ほどなくして子役デビューを果たすと、人気子役になり、一家の大黒柱として家族を支えるようになります。
アメリカ留学後は、英語力を生かして海外レポーターに意欲的にチャレンジするものの、トラ・ヒョウに立て続けに襲われる事故に遭い、命を落としかねない状況だったことが有名です。
プライベートでは認知症を患った母親を老々介護の末に看取り、76歳となる現在もラジオやコンサートなどで精力的に活動されています。
これからも末永く芸能界で活躍していただきたいですね。