奥野史子さんは元シンクロナイズドスイミングのメダリストですが、引退後の活動も話題です。
今回は奥村史子さんのプロフィールや身長、若い頃の経歴、結婚した旦那・朝原宣治さんとの馴れ初め、子供や自宅、現在をまとめました。
この記事の目次
奥野史子は元シンクロナイズドスイミング選手
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奥野史子さんは、幼い頃にシンクロナイズドスイミングを始めて、初出場した1992年のバルセロナオリンピックで銅メダルを獲得したシンクロナイズドスイミングの元選手。
1995年で現役を引退しましたが、その後の人生もかなり異色だと話題なんです。
まずは、奥野史子さんのプロフィールから見ていきましょう。
奥野史子のプロフィール
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奥野 史子(おくの ふみこ)
本名: 朝原文子
生年月日: 1972年4月14日
血液型: 不明
出身地: 京都府京都市
今はアーティスティックスイミングに改名
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プールの中で音楽に合わせて体を動かし、技の完成度や同調性、芸術性などを特典で競う水泳競技を「シンクロナイズドスイミング」と呼ぶ人はまだまだ多いでしょう。
しかし、国際水泳連盟は2017年7月22日に総会を開き、これまで「シンクロナイズドスイミング」としていた名称を「アーティスティックスイミング」へと変更することを発表。
これを受けて、選手たちからは「シンクロは同調性があってこその競技なのに」、「なんで今更名前変えるの?なんか悲しい」と、様々なコメントがツイッターに寄せられました。
日本でもまだまだ「シンクロナイズドスイミング」と呼ばれていることから、浸透するまでは時間がかかるかもしれませんね。
また、本記事では奥野史子さんが現役だった時代の「シンクロナイズドスイミング」で統一して表記しています。
奥野史子の身長と体重
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奥野史子さんの事務所の公式サイトを確認すると、身長は160cmで体重は47kgと記載されています。
そのため、奥野史子さんの身長から換算した適正体重は56.3kgで、普通体重の下限値は48kgなので、奥野史子さんは瘦せ型の体型と言えます。
シンクロナイズドスイミングはスラリとしたプロポーションの選手が多いですよね。
ハードな練習をこなし、食事管理もきっちり行った結果、おそらく奥野史子さんも自然とこのスタイルにたどり着いたのだと思われます。
奥野史子の若い頃の経歴① 井村シンクロクラブに通う
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ここからは、奥村史子さんの若い頃について見ていきましょう。
幼少期からシンクロを始めて、めきめきと頭角を現わしていった奥村史子さんでしたが、そもそも、なぜシンクロナイズドスイミングを開始したのでしょうか。
その秘密に迫ります。
姉2人の影響で水泳を始めた
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奥野史子さんは、京都府京都市に三姉妹の末っ子として生まれ育ちました。ちなみに、父親の実家は呉服屋を営んでいるそうです。
4歳で、姉2人と同じ京都市のスイミングスクールに入り水泳を始めます。
幼稚園に通っている頃から「私も小学校に入ったらシンクロをやるんだ」と周囲に語っていたようで、本人の希望で6歳からシンクロナイズドスイミングを開始したようです。
井村雅代の門下生へ
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日本に数々のメダルをもたらした井村雅代監督
京都市立籠池小学校を卒業後は、京都市立城巽中学校へ進学。
この頃から井村雅代さんが代表を務める「井村シンクロクラブ」に入り、厳しい指導を受けてきたそうです。
井村雅代さんといえば、シンクロナイズドスイミングの指導者として、日本だけではなく中国やイギリスでも指導。
1984年のロサンゼルスオリンピックを皮切りに、日本代表の監督を務めた累計9大会で日本はメダルの常連となるなど、輝かしい成績を残した名監督として知られています。
そんな井村雅代さんは厳しい指導でも有名で、奥野史子さんも「他の指導者に比べると非常に厳しいと思う」と井村雅代さんを評価しています。
ただ、その厳しかった指導に感謝しているようで「井村先生に見てもらうと、ポンと魔法にかけられたように上手になれた」とインタビューで語っています。
井村雅代さんを信頼していたからこそ、厳しい練習についていくことができたのでしょう。
辞めたいと思い詰めたことも
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地元京都の公立中学校に通いながら、シンクロナイズドスイミングの練習を行うために大阪の教室に通う日々を送っていた中学生時代。
平日は1日に2~3時間、休日は朝から晩まで教室で必死に練習してきました。そのため、移動の電車の中で宿題をこなすなど、学校の勉強に割く時間がいつも不足していたそうです。
一度だけ、もう辞めたいと考えたことがあったそうで、1週間練習に行かずにさぼってみたところ、体が干からびたように感じたのだとか。
奥野史子さんにとって、水やシンクロはなくてはならないものだったようで、これ以降は辞めたいと思わなくなったそうです。
迷いを断ち切った奥野史子さんは、ジュニアでトップの成績を取り、海外遠征もこなす国内の有力選手として成長していくことになるのです。
奥野史子の若い頃の経歴② バルセロナで銅メダルを獲得
高校生で国内外で大活躍
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中学を卒業すると、1988年にシンクロナイズドスイミングの強豪校として知られる四天王寺高校に推薦で進みました。
在学中は、国体で優勝して日本代表としても活躍しています。さらに1989年には、国際大会で日本代表として出場し銅メダルを獲得。
高校卒業後は同志社大学に進学しました。1991年には、世界選手権パース大会でチーム銅メダルを獲得し、ソロでもW杯ボン大会で銅メダルを獲得しました。
このように、高校生の頃から輝かしい成績を残してきた奥野史子さんでしたが、直近の大会を見据えるだけで精一杯で、到底オリンピックのことなど考える余裕がなかったといいます。
やっと大学1年生頃、もしかしたら出場できるのではないか、とやっと気にするようになったとインタビューで明かしています。
初のオリンピックでメダル獲得
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奥野史子さんは、1992年に開催されたバルセロナオリンピックにおいてソロとデュエットで代表選手に選ばれました。
さぞやプレッシャーだったのでは?と心配になりますが、五輪前は1日10時間以上泳ぎ、他にもダンスの練習やウェイトトレーニングを行い、プレッシャーを感じる時間が全くなかったそう。
それが功を奏したのか、初のオリンピックという大舞台で、ソロとデュエットで両方銅メダルを獲得するという快挙を成し遂げました。
ただ、翌年1993年に開催された「シンクロワールドカップ」では、奥野史子さんはソロ・デュエットどちらもメダルを逃しています。
原因はロシアチームの台頭でした。まさに失意のどん底という言葉がピッタリで、とにかく奥野史子さんは自身に失望し、落ち込んだそうです。
奥野史子の若い頃の経歴③ 史上初の芸術点満点を獲得するも、翌年引退
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1993年のワールドカップでメダルを逃したことで、激しく落ち込んだ奥野史子さんでしたが、逆に周囲からの視線やプレッシャーから解き放たれて、もう一度立ち上がりました。
そして、翌年である1994年に出場した大会で、伝説と呼ばれるスコアを叩き出しています。
しかし、1995年に引退。復活する活躍を見せた奥野史子さんは、どのような理由で引退を決めたのでしょうか。
笑わないシンクロで最高順位
一念発起で、再びシンクロナイズドスイミングに挑戦した奥野史子さん。
1994年に開催された世界選手権ローマ大会でソロにおいて、これまでの概念を覆す表現で挑みました。
それは、女性の怒りと情念を表現した笑わないシンクロ、「昇華~夜叉の舞~」。ソロ種目で、史上初の芸術点オール満点を叩き出したのです。
この演技は、現在でも日本のシンクロ界では語り継がれているパフォーマンスであり、この結果、本世界大会で銀メダルを獲得。
1994年時点では日本人初の銀メダル獲得となり、この快挙を達成した奥野史子さんが涙を流し喜んでいる姿がメディアで放送されました。
腰痛で引退しコメンテーターへ
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次のオリンピックでもメダルを期待されていた奥野史子さんでしたが、1995年に怪我からくる腰痛の悪化が原因で、22歳という若さで現役選手を引退。
その後、3年ほどスポーツコメンテーターの仕事をしていましたが、最初はテレビに出演する度に自身の伝える力の稚拙さに愕然としていたそうです。
後年、当時を振り返り「シンクロのトップだったというプライドがあって、自分をよく見てもらいたい、よく映りたいと思っていたんです」と語っています。
ただ、少しずつ周囲に助けてもらいながら、1つずつできることを増やしていくことで成長を感じ、充実した日々だったようです。
奥野史子の若い頃の経歴④ シルク・ドゥ・ソレイユに日本人初入団
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スポーツキャスターとして日々精進していた奥野史子さんは、1999年に突如「シルク・ドゥ・ソレイユ」に入団を発表します。
世界屈指のレベルの高いエンターテイメント集団に入団というニュースは、日本でもかなり話題を攫いました。
シンクロ選手だった奥野史子さんが、一体どのような理由でシルク・ドゥ・ソレイユを目指したのでしょうか。
シルクドソレイユの日本人初の合格者に
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引退後、プライベートで訪れたロサンゼルスで「シルク・ドゥ・ソレイユ」の水中ショーである「O(オー)」を観て、涙が出るほど感激したという奥野史子さん。
「私もあっちの世界に立ちたい」と熱い思いに駆られて、1999年のトライアルテストを受け、日本人で初めて見事合格したのです。
こうして、2001年10月のラスベガス公演でパフォーマーデビュー。ただ、2002年に結婚を機に退団しています。
奥野史子が結婚した旦那は朝原宣治 【馴れ初めも紹介】
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奥野史子さんは2002年、陸上選手の朝原宣治さんと結婚しています。
朝原宣治さんといえば、短距離のエースとして日本の陸上競技界を牽引してきた存在です。
ここでは、旦那のプロフィールと馴れ初めについて見ていきましょう。
朝原宣治のプロフィール
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朝原 宣治(あさはら のぶはる)
生年月日: 1972年6月21日
出身地: 兵庫県神戸市
身長: 179cm
最終学歴: 同志社大商学部卒業
朝原宣治さんは、もともとは走り幅跳びの選手でしたが、同志社大学在学中、国体の100mで当時の日本記録をマークして優勝したことで短距離選手に転向。
「和製カールルイス」と呼ばれ、アジア人とは思えぬ体力と加速力が特徴です。
1996年のアトランタオリンピックをはじめ、世界大会に5回準決勝に出場してきましたが、決勝には出ることができませんでした。
2008年の北京オリンピックでは出場した4×100mリレーでアンカーを務め、見事に銀メダルを獲得。日本男子トラック種目でオリンピックのメダル獲得は初の快挙でした。
テレビも新聞も大きく取り上げられ、日本中が沸き立ったのです。
そして同年9月、スーパー陸上で引退レースを行い現役を退いた朝原宣治さんは、現在は指導者やスポーツ解説者として活動しています。
馴れ初めは大学のゼミ
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2人の馴れ初めは、同じ大学に通っていた頃にまで遡ります。
同じ授業を選択していて、ゼミで偶然隣の席になったことがきっかけで、会話を交わすようになりました。
奥野史子さんは、朝原宣治さんの第一印象について、「シュッとしててカッコイイな」と好印象だったようで、話してみたら「身近にはいないタイプで、とてもピュアな人」と感じたそう。
朝原宣治さんも奥野史子さんのことを好きになっていたようで、電話番号を渡して猛アタックをしていたそうです。
その後、10年に渡る交際を経て、2人は2002年に結婚に至りました。
奥野史子と旦那・朝原宣治に子供は3人
3人の子供に恵まれた
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2002年に結婚後、子供は3人誕生しています。
2003年4月に第1子となる長女、2006年7月には第2子となる長男、2011年7月に第3子となる次女という順番です。
つまり、1男2女ということになりますね。
2022年1月、長女は18歳で高校3年生のはずですので、奥野史子さんの子育ても佳境を迎えていると言えるかもしれませんね。
次女はジュニア大会で優勝している
末っ子の次女は、アーティスティックスイミングを習っていて、2021年8月に開催されたジュニア大会で優勝したことを、インスタで報告しています。
メンバーによる集合写真もアップされ、各々首にはメダルを掛けてキャプテンと思われる女子生徒がトロフィーを大事そうに掲げています。
奥野史子さんは「子供達、本当によく頑張ったね!しんどい練習にも我慢強く耐えました」と労いの言葉を述べています。
少なくとも次女は、両親の運動神経の良さを引き継いでいるということになりそうですね。
なお、長女と長男の顔写真や名前、通っている学校名などは明かされていません。やはり、個人情報が外に出ることを避けているのでしょう。
奥野史子の自宅は京都市内
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自宅は京都市
京都出身の奥野史子さんは、結婚後も、そして現在も京都に在住しています。実は、旦那も京都出身なので、愛着のある土地なのでしょう。
自宅の場所は京都市内であることはわかっているものの、具体的な住所や自宅真は今のところ公開されていません。
タレントであれば、自宅公開などの番組があるのかもしれませんが、公職に就いている奥野史子さんですから、しばらく明かされることはないと思われます。
奥野史子の現在
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奥野史子さんは、現在49歳になりました。
結婚後3人の子供を出産し、多忙な生活を送っていますが、実は公職を歴任してスポーツの発展に貢献しています。
ここからは、結婚後から現在までの奥野史子さんの活動を見ていきましょう。
公職を歴任
結婚と出産を経て、スポーツコメンテーターの仕事もこなしながら、奥野史子さんは京都市教育委員と日本水泳連盟、文部科学省中央審議会委員などの公職を歴任しています。
そして、小児がんと闘う子供や家族のための支援団体「チャイルド・ケモ・ハウス」の協力活動も実施。
さらに、スポーツや育児などのシンポジウムにもパネリストとして出演し、社会貢献活動は数え切れないほど。
若い頃から変わらないバイタリティーやガッツにより、スポーツの発展・社会貢献に寄与されています。
コメンテーターとしても活動
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奥野史子さんは、読売テレビの「情報ネット ten.」にコメンテーターとしてレギュラー出演しています。
日頃は穏やかで柔らかい雰囲気でコメントを出していますが、2021年8月に出演した際に、目の色を変えて厳しいコメントを発したことが、SNSのトレンド入りしています。
2021年8月に、東京オリンピックのソフトボールで金メダルを獲得したキャプテンの後藤希友さんが名古屋市の役所を訪れ、市長の河村たかしさんにオリンピックの報告を行いました。
河村たかし市長は首に金メダルを掛けてもらった後、後藤希友さんの許可なく、いきなりガブリと嚙みついて、そのまま返すという行為に及び、これが話題になったのです。
奥野史子さんはコメントを求められると「私、自分でも噛んでないんです。それだけメダルって傷つけたくないし、尊い、大事なもの。それを…。人としてどやねん!」とバッサリ。
奥野史子さんもこれまでメダルを見たいとお願いされたことは何度かあり、さらに直に触る際には「首にかけても良いですか?」、「素手で持ってもいいですか」と確認があったそう。
これらの配慮を思い出して、「何も言わんと(突然ガブって)、ありえへん」と怒りをあらわにしていました。
やはり同じメダリストとして選手の気持ちが誰よりもわかる奥野史子さんだからこそ、珍しく怒ったのでしょう。
奥野史子さんは、他人の気持ちを慮る優しさを持っているということになりますね。
まとめ
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奥野史子さんは4歳で水泳を始め、姉の影響を受けて6歳でシンクロナイズドスイミングを開始しました。
中学生になると、大阪に所在する井村雅代さんのシンクロナイズドスイミング教室に通い、めきめきと頭角を現わしていったのです。
高校時代には国体で優勝、海外遠征でもソロで胴メダルを取るなど、日本のエースとしてオリンピックメダルを期待される存在に成長。
1992年のバルセロナオリンピックでは、ソロとデュエットで銅メダルを獲得する華々しい活躍で日本中を沸かせました。
1994年の世界選手権で史上初の芸術点オール満点を記録しましたが、怪我により惜しまれながら1995年に22歳という若さで引退しています。
その後、日本人初のシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして注目を集めましたが、結婚を機に退団し、元陸上選手の朝原宣治さんと結婚。3人の子供に恵まれました。
現在は、京都府京都市の自宅に住み、子育てやコメンテーターの仕事をしながら、公職を歴任するパワフルな活動を行っています。
今後も奥野史子さんのアクティブな活躍を応援したいですね。