「秋葉原無差別殺傷事件」を起こした加藤智大元死刑囚ですが、異常な生い立ちや家族についても注目を集めてきました。
今回は加藤智大元死刑囚の生い立ちや家族(父・母・弟)、事件の経緯&背景、家族の現在を紹介します。
加藤智大の生い立ち&家族(弟・父・母)とのかかわり
白昼堂々と起きた「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人・加藤智大元死刑囚。
その姿を見ると凶悪犯のイメージと異なり、やせ型で気の弱そうな男性です。
「秋葉原無差別殺傷事件」について調べると、加藤智大の生い立ちに驚く方が多いかもしれません。母親から受けた虐待まがいの仕打ちの数々が、本当に悲惨です。
加藤智大が起こした事件と、それまでの経緯や生い立ちについて紹介していきましょう。
母親からの厳しいしつけ
加藤智大の歪んだ人格は母親が作り出した?
加藤智大の生い立ちを紐解くと、マスコミから伝わってきた「母親」による異常な教育の様子が伺えます。
・冬の寒い日に(話は青森である)薄着で外に立たされているのを見た近所の人がいる
・小学生の頃から珠算やスイミングスクール、学習塾に通わされた
・友人の家に遊びに行くことも、友人を家に呼ぶことも禁止
・作文や絵画は親の検閲が入る(先生ウケする様に親が指示命令)
・見ることが許されたテレビ番組は「ドラえもん」「まんが日本昔ばなし」
・男女交際禁止
さらに、母親による強烈なエピソードもあります。
完ぺき主義だったという加藤智大の母親は、常に完璧なものを求め、母親の作文指導の中に「10秒ルール」というものがあったそうです。
兄弟が作文を書いている横で、母が「検閲」という名の作文指導をし、「この熟語を使った意図は?」といった質問をされます。
それに答えられないと、母が、「10、9、8、7…」とカウントダウンを始め、0になるとビンタが飛んできたと言われています。
兄弟の中でも自分だけ虐待され続けてきた
過剰な教育で支配し続けられた幼少期
加藤智大は、幼少期から母親に非常に(異常に)厳しく育てられていました。
地域の教育アドバイザーもしていたという母親でしたが、教育に対して熱心すぎたあまり、エスカレートして加藤智大に虐待をしていたようです。
マスコミなどで報じられた母親の異常な行動を紹介します。
・極寒の中で薄着で外に立たせられ続ける
・靴を脱がせて裸足で雪面に立たせ続けた
・九九が覚えられないときに、お風呂の水の中に頭を沈めた
・泣くと母親はさらに激昂してタオルを口に詰め込み、ガムテープでぐるぐる巻きにする
この母親は、加藤智大が中学1年生の頃にも異常行動をします。
食事中の加藤智大に激昂し、廊下に新聞紙を敷き詰め、その上にご飯や味噌汁などその日の食事を全部ばら撒き、「そこで食べなさい」と命令したそうです。
加藤智大は泣きながら食べていましたが、弟や父は見て見ぬふりをしていたと言います。
また、恋愛面においても口出しをしたそうです。
加藤智大は中学時代にモテたため、2人の彼女ができたそうですが、勉強とスポーツに打ち込むために恋愛禁止と称して、強制的に母親が別れさせたと言います。
高校時代の劣等感やストレス
「アナタの人形じゃない」
加藤智大は、母親の虐待まがいのスパルタ教育によって、青森県立青森高等学校に進学します。
しかし、成績優秀な生徒が県内外から集まった高校だったので、加藤智大は次第に落ちぶれていったといいます。
中学校までの加藤智大は、学年トップの成績で他の生徒に対して優越感があったようですが、高校では逆に劣等感に苛まれ、かなりのストレスが溜まっていたようです。
そしてその頃には、虐待されてきた母に今度は自分が暴力で返すようになっていきます。
学校でも、キレて教室の窓を素手で叩き割ったり、多数の問題行動を起こすようになったそうです。
宅間守
— クマちゃんマン (@9kaJ7wpTc2ILHsU) 2018年6月11日
加藤智大
小島一郎
犯行動機は社会のせいでも安部のせいでもない。
『毒親に育てられた』のが原因。
派遣で職を転々と
マスコミが報じた転職理由はでたらめばかり…
加藤智大は、中日本自動車短期大学を卒業した4ヶ月後、母親から資金提供を受けて宮城県仙台市でアパート暮らしを始めます。
そこで登録した人材派遣会社「東洋ワーク」から派遣されて、最初の仕事である警備員の仕事に就きました。
入社半年後には、”準社員”に認められるようになり、警備員の仕事から100人の仕事の割り振りを担当する「内勤」に異動になります。
加藤智大はその後、この警備会社に2年間務めます。
これから社会では事務系エリート・技術系エリート・低賃金でも文句も言わずに仕事をする底辺層
— 30代ひきこもりニート (@hikikomolism) 2017年9月11日
これらの人材が必要とされるそうです
我々のような「普通な人」は必要ないそうです
加藤智大
加藤智大の自著:「解+」
また、この職場で大友秀逸さんという友人ができます。
大友さんは、その後事件のニュースを見て、「マスコミで報じられた加藤智大の”転職理由”はデマばかりで、”暴力的な性格”だけが報じられていた」と言います。
警備会社を辞めたあとの加藤智大は、それから様々な県をまたいで職場を転々とします。
その後、加藤智大は、2007年11月から最後の勤め先となった、トヨタ自動車の関東自動車工業の工場で塗装工の仕事に就いていました。
しかし、リーマンショックの煽りを受けたことで、2008年6月で破産により閉鎖されることになったそうです。
加藤智大は、派遣会社が提供する寮で暮らしていたため、2008年5月に契約解除をされ、住まい、職場を一挙に無くすことになってしまいます。
ネット掲示板で「あ、住所不定無職になったのか ますます絶望的だ」と絶望した心境を投稿していました。
そして、追い詰められていった加藤智大は、「秋葉原無差別殺傷事件」を起こす3日前には、掲示板にこのようなコメントを残しています。
・6月5日
06:17 作業場行ったらツナギが無かった/辞めろってか/わかったよ
11:51 犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする
12:05 「誰でもよかった」/なんかわかる気がする
12:32 東京の道路って面倒くさい
12:33 トラックで行くのは無謀かもしれん
・6月6日
01:44 あ、住所不定無職になったのか/ますます絶望的だ
02:48 やりたいこと…殺人/夢…ワイドショー独占
02:54 工場で大暴れした/被害が人とか商品じゃなくてよかったね
02:55 それでも、人が足りないから来いと電話がくる/俺(おれ)が必要だから、じゃなくて、人が足りないから/誰が行くかよ
この掲示板に、「彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった」と書き込んでいました。
本当に、自身で分かっているように、加藤智大に彼女のような存在の人がいれば、このような悲惨な事件は起きていなったのかもしれません…。
そしてついに、感情が一気に爆発し、あの凶悪犯罪を起こしてしまうのです。
加藤智大が起こした「秋葉原無差別殺傷事件」とは
2008年6月8日12時30分過ぎ、世間を震撼させる事件が発生します。
「秋葉原無差別殺傷事件」と呼ばれ、7人が死亡、10人が負傷するという、”通り魔事件”としては過去30年で最悪の事件と言われました。
事件当日の経緯をおさらいしましょう!
・現場は、東京都千代田区外神田四丁目の神田明神通りと中央通りが交わる交差点(秋葉原)。
元自動車工場派遣社員の加藤智大(当時25歳)が運転する2トントラックが神田明神下交差点方面から東へ向かい、中央通りとの交差点に設置されていた赤信号を無視して突入。
青信号を横断中だった歩行者5人を跳ね飛ばす。
・トラックは交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたタクシー(被害者・湯浅さんが運転)と接触して停車。
加藤智大はトラックから降り、道路に倒れこむ被害者の救護にかけつけていた通行人や警察官ら17人を狙い、所持していたダガーナイフで立て続けに刺す。
・加藤智大は奇声を発しながら通行人を次々に刺して逃走。
近くの秋葉原交番から駆けつけた警察官が追跡し距離を詰めたところ、防護服を斬り付けられるなど身の危険に晒されたが、警棒で加藤智大の側頭部を殴りつける。
最後には拳銃を加藤智大に向け、武器を捨てるよう指示し、応じなければ拳銃を発砲すると警告。
それに応じ、ダガーを捨てた加藤智大を居合わせた警察官とともに取り押さえ、旧サトームセン本店(現・クラブセガ秋葉原新館)脇の路地で現行犯逮捕にて身柄を拘束。
「殺すのは誰でも良かった」と供述していた加藤智大。なぜ、これほどまでに凶悪な犯行を行ったのでしょうか?
具体的な犯行動機や当時の状況を振り返ってみましょう。
事件現場の様子&ニュース映像
加藤智大が事件を起こしたのは日曜日で、犯行が行われた中央通りは歩行者天国になっていました。
周りは初めは交通事故だと思っていたようです。
多くの人々で混み合う中の凶行であり、事件直後は多くの人々が逃げ惑い、まるで戦場のような惨劇になっていたと言います。
犯行動機とは
加藤智大の東京地裁での第16回公判が2010年7月27日に行われました。
そして、加藤智大は、事件の背景や犯行動機などを証言し、自身が犯した犯行を「後悔している」と語りました。
加藤被告は「被害者や遺族の方に申し訳なく思う。責任はすべて自分にある」などと謝罪。
「同じような事件が起こらないよう、真相を話したい」と述べた。
また、加藤智大は事件の原因は「3つある」と法廷で証言しています。
(1)言いたいことを言葉で伝えるのではなく、別の行動をとる自分のものの考え方
(2)掲示板での嫌がらせ
(3)掲示板に依存した自分の生活のあり方
事件を起こしたきっかけを「ネットの掲示板で、他人が自分になりすますなどの嫌がらせを受けたこと」などと説明。
事件の内容を書き込んだうえで同じ事件を起こせば、「自分が嫌がらせを本当にやめてほしいと思っていたことが伝わると思った」と話した。
弁護人が「別の掲示板を使えばよかったのでは」と問うと、「自分が自分でいられる本音の場所。ほかに代わるものはなかった」と述べた。
そして、加藤智大の身勝手な考え方は「幼少期の母親からの育てられ方が影響したのではないか」とも語っていました。
ネットで犯行予告&実況中継
誰かに止めてもらえたら…
加藤智大は、警視庁の調べで、事件当日に携帯サイトに自身が書き込んだ「犯行予告」について、「色々書いているのに、誰も見てくれない」「見た人に犯行を止めてほしかった」
と話したようです。
加藤容疑者は、書き込みに対する反応のなさに不平を口にしているといい、職場や普段の生活における疎外感に加え、ネット上でも孤立感を深めていたと万世橋署捜査本部はみている。
事件当日の8日早朝から、「秋葉原で人を殺します」とのタイトルで、犯行を予告する内容の書き込みをしていた。
書き込みは「ネット中継」のように、自宅から現場に向かい、最後は決行を決意するまで自らの行動や気持ちを短文で書き込んでいた。
書き込みは事件直前の「時間です」まで計30回に及んだが、この間に誰からも反応はなかったとされる。
加藤容疑者は日頃から頻繁に携帯サイトに自らの気持ちなどを書き込んでおり、3日には「ネットですら無視されるし」「これを書けば人気者になれるかと思ったら、そんなことはないみたいね」「携帯ごしでも友達がいるはずだったのに」など、4日には「現実でも一人 ネットでも一人」と書いていた。
加藤智大が書き込んだとされる携帯サイトの掲示板には、6月5日から犯行当日まで、誰かからの反応を待ち続けるように、書き続けていました。
事件当日の投稿の詳細がこちらになります。
・6月8日
05:21 車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います/みんなさようなら
05:44 途中で捕まるのが一番しょぼいパターンかな
11:45 秋葉原ついた
同 今日は歩行者天国の日だよね?
12:10 時間です
加藤智大は、この後すぐに犯行に及んだものと思われます。
加藤智大の家族(弟・父・母)の現在
”加害者家族”というのも、被害者家族同様に苦しい思いをするとも言われています。
加藤智大の家族は、現在どのように過ごしているのでしょうか?
弟はマスコミによって犯罪者扱い…そして自殺
実家にもマスコミが毎日のように…
弟は、兄の事件によりマスコミから追われる日々を過ごすことになります。
そして、まずは社会との唯一の接点だったと話す「職場」を失ってしまいます。
やはり退職はどうしても避けられなかった。
事件当日の深夜、退職届を書きました。
僕がいなければ、(職場に)マスコミが来ても知らぬ存ぜぬを通せる。
辞めたくはなかったけど、迷惑をかけずに済む方法がそれしかなかった。
事件から3ヵ月。報道が落ち着くと、優次はアパートを引き払い、当時住んでいた東京を離れてアルバイトを始めた。
再び社会との接点を持った彼を待っていたのは、身元・素性がバレないかという不安だった
この頃、自分の名前を検索すると、すぐヒットしてしまう状態だったと言います。
その書き込みによると、”弟は高校でイジメに遭っていた”と同級生と思われる人物の書き込みもあったそうです。
その後、弟はいくつかの職場を渡り歩いたそうですが、常に浮いた存在だったと語っています。
「引っ越して、住民登録を済ませると、1ヵ月も経たないうちにマスコミの人が来るんです。インターフォンが鳴り、ドアが乱暴に叩かれる。なんでわかるんだろう、と恐怖を覚えるとともに、やっぱり逃げられないんだな、とあきらめのような感情が湧きました」
彼女ができ同棲するも、結婚となると…
マスコミから逃げひっそりと暮らしてきた弟にも、「希望」がなかったわけでもないようでした。
事件から約1年が過ぎた頃、記者が弟のアパートを訪ねると、たまたま女性と一緒に歩く姿を目撃したそうで、どうやら恋人ができたようでした。
弟はその彼女に、兄の加藤智大がした1年前の事件のことも話していたようです。
正体を打ち明けるのは勇気のいる作業でしたが、普段飲まない酒の力を借りて、自分のあれこれを話して聞かせました。
一度喋り出したら、あとは堰を切ったように言葉が流れ出ました。
彼女の反応は「あなたはあなただから関係ない」というものでした。
自分が受け入れられたことに、心底ほっとしました。
自分が許されるということは、とても、とても嬉しかった
そして2人の交際が1年を過ぎる頃には、弟は彼女との結婚を望むようになり、アルバイトから正社員になったそうです。
しかし…願いもむなしく、弟のこの「夢」は叶うことはありませんでした。
「あなたが犯人の弟だから……」
一番こたえたのは「一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は」と宣告されたことです。これは正直、きつかった。
彼女のおかげで、一瞬でも事件の辛さを忘れることができました。
閉ざされた自分の未来が明るく照らされたように思えました。
しかしそれは一瞬であり、自分の孤独、孤立感を薄めるには至らなかった。
そして、記者の取材にこうして応じていることも、親を助ける思いでしたことでしたが、助けるどころかさらに両親を追い込んでしまったと言います。
そして死ぬしかないと思った弟は、最初の自殺(未遂)に「餓死」を選びました。
「餓死って難しいですね。10日目に水を飲んでしまった。なぜ餓死か?いちばん苦しそうだから。やっぱり、加害者は苦しまなければいけない。楽に死んではいけないんです。
唯一心配なのは、母親です。事件発生時の母は病的に取り乱していて、思い出すといまだにザワザワします。その母親が僕の死を知ったらどうなるのか……」
こう話すとこの1週間後に弟は首つり自殺を図り、28歳という若さで命を絶ってしまうのです。
250枚もの手記を残し死亡
「兄が母のコピーなら、僕はコピー2号。でも、僕は兄と同じことはしない」こう語ると、弟は250枚もの手記を残して、この世を去っていきました。
弟は加藤智大に何度も手紙を送り、面会しに行きましたが、最後まで会ってもらえなかったそうです。
「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることをあきらめようと決めました。
死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」
このように弟は自分の人生を悲観していました。
弟の自殺のエピソード辛すぎます。
— Kirari (@Kirari42084680) 2018年2月4日
加藤智大も、凶行に走る前に、彼女とか出来てたら違ってたのかなぁ。
父は実家にそのままひっそりと暮らしている
加藤智大の両親は離婚し、その後の生活は悲惨なものだったようで、家族は完全に崩壊してしまったと言います。
明かりも灯さず、ひっそりと暮らす…
加藤智大の父親は、地元の信用金庫に勤めていましたが、「秋葉原通り魔事件」の数ヵ月後に会社からの働きかけにより退職を余儀なくされたと言われています。
事件後、自宅に引きこもっていた父親の元には、脅迫や嫌がらせの電話が頻繁にかかっていたようで、電話回線を解約したそうです。
家中のカーテンを締め切り、家の明かりはつけずにローソクだけの灯りで、マスコミに怯えながらの引きこもり生活を続けていたとのことです。
加藤死刑囚の青森市の実家には、60歳になる父親が一人で暮らす。
父親は、毎日夜遅くに帰宅する。帰った後も、ほとんど明かりをつけない。「必要なときしか明かりはつけないようにしている。日陰者ですよね」
母は一時錯乱、引きこもりに
母は精神病院へ…
兄・加藤智大が凶悪な殺人犯になってしまったこと、弟がそれを苦にして自ら命を落としてしまったことで、母親は、罪の意識に苛まれ精神病院に入院していたようです。
一時は、錯乱状態で面会謝絶状態が続いていたほどでしたが、その後落ち着きを取り戻し退院することができ、地元の青森に戻って実家に身を寄せていました。
しかし、実母が孫の犯行を知り急死するなど、その後も不幸に見舞われました。
その後、母親はその実家を出て、青森市内のアパートで一人暮らしを始めましたが、父親同様に一日中カーテンは締め切り、真っ暗な部屋で生活を送っていると伝えられていました。
もし加藤智大が母親の異常な教育を受けずに育っていたらどんな人間になっていたのだろうか。
恐らく殺人を犯すような罪人となることはなく弟も自ら命を絶つような悲劇に見舞われなかったのではないか。
父はなぜ母を諌めなかったのか?
母親だけが家庭教育を担う危険性を社会に知らしめた事件でもあった。
— 旅と歴史好きの戯れ言 (@thepasttalks) 2016年7月7日
加藤智大の現在
2015年に「死刑」が確定
2015年2月2日上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷では「動機に酌量の余地は見いだせず、死刑を認めざるをえない」とし、一、二審の死刑判決を支持。
加藤智大と弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡しました。
加藤智大は判決を不服としましたが、同月17日付で最高裁の決定により棄却されています。これにより加藤智大の死刑が確定となりました。
加藤智大に死刑が確定する
東京・秋葉原で2008年6月、7人が死亡、10人が重軽傷を負った無差別殺傷事件で、殺人罪などに問われた元派遣社員、加藤智大被告(32)について、最高裁第1小法廷(桜井龍子裁判長)は18日までに、被告側の上告を棄却した2日の最高裁判決に対する訂正申し立てを棄却する決定をした。加藤被告の死刑が確定した。
判決では、このように語られました。
「周到な準備の下、強固な殺意に基づいて残虐な方法で敢行した無差別殺人事件。社会に与えた衝撃は大きく、遺族の処罰感情も激しい」として「刑事責任は極めて重大で死刑を認めざるをえない」とした。
被害者との手紙のやりとり…面会は拒否
加藤智大が投稿したと思われる掲示板
「あれは本心だったのでしょうか」…あの日、加藤智大に腹を刺され、意識が戻ったのは4日後だったという、元タクシー運転手の湯浅洋さんは、加藤智大に手紙を書き続けていたそうです。
湯浅さんは加藤智大と手紙のやり取りを続け、加藤智大はこんな風に犯行動機について語っていたと言います。
「事件直前に『派遣切り』を告げられたことで、社会を恨んだのではないか」。こうした動機が取りざたされた。だが加藤死刑囚はこれをかたくなに否定した。
公判で「ネットの掲示板で嫌がらせする人に、やめてほしいと伝えるための手段だった」と主張し続けた。
「ネットでのトラブルだけで、全く無関係な多くの人を殺傷できるのか」と、湯浅さんは加藤智大の言葉に納得出来ず、その後も手紙のやり取りを続けていたそうです。
湯浅さんは加藤死刑囚の言葉に納得することはできなかった。
事件の1年半後に届いた謝罪文の手紙に返信を書いた。
「なぜこんなに重大な事件を実行してしまったのか。一緒に考えたいと思います」
1年以上たってから2通目が届いたが、答えは書かれていなかった。
拘置所にいる加藤死刑囚に4度面会を求めたが拒まれた。
湯浅さんは、加藤智大の生まれ育った場所に行けば何か分かるのではないかと青森にまで向かったと話しています。
生き残った被害者として、「若い人に事件のことを知ってもらえたら、同じ事件を防げるんじゃないかなって」と語っていました。
秋葉原無差別殺傷事件から10年
献花台に訪れ拝む人々…
秋葉原無差別殺傷事件から10年を迎えた2018年6月8日、現場の交差点には朝から多くの人が訪れ、献花し追悼している様子が伺えました。
職場のオフィスから事件を目撃した東京都葛飾区の会社員、迫忠士さん(43)は「周りの人と話していると、事件の風化を感じる。
悲惨な事件が繰り返されないためにも、忘れないようにしないといけない」と語った。
死刑が執行される
出典:https://news.nifty.com/
2018年7月26日午前、加藤智大の死刑が執行されました。「秋葉原無差別殺傷事件」から14年目のことでした。
古川法務大臣は記者会見で、慎重に検討を重ねた上で死刑を執行したと述べています。
古川禎久法相は26日の記者会見で「強固な殺意に基づき敢行された無差別殺人で、7人の尊い命を奪うなど極めて重大な結果を発生させ、社会に大きな衝撃を与えた。慎重な上にも慎重な検討を加え、執行を命令した」と述べた。
25歳の時に「秋葉原無差別殺傷事件」を起こし、多くの人を傷つけ世間を震撼させた加藤智大。死刑執行により39歳でその人生を終えましたが、日本の犯罪史上稀にみる惨劇となったこの事件は今後も語り継がれていくことでしょう。
事件の被害者や遺族の方々が、今後も前を向いて人生を歩んでいかれることを切に願っています。
まとめ
・加藤智大が事件を起こした原因はネットの掲示板で孤立したから。
・加藤智大は母親に異常に厳しく育てられたことによって歪んだ性格が形成された可能性がある。
・加藤智大の家族は弟は自殺、母親は一時錯乱し、その後引きこもり。父親は退職を余儀なくされ、その後実家で引きこもり生活。
・加藤智弘は2022年に死刑を執行されている。
いかがでしたでしょうか?
「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人・加藤智大についてまとめました。
加藤智大は、母親の異常とも言える虐待教育により歪んだ人格に形成され、その後の社会の冷たい対応へと不満を募らせて凶悪殺人鬼へと変貌を遂げました。
加藤智大の犯行は、残忍かつ悪質でとても許せるものではありません。
「無差別殺人」といった、自分勝手で悪質極まりない事件がこれ以上起きないことを祈るばかりです。