アメリカW杯アジア最終予選で日本が本選出場を逃したドーハの悲劇。
今回はドーハの悲劇のロスタイムの内容、メンバーとフォーメーションと監督、戦犯の武田修宏や原因、その後の三浦知良や森保一によるドーハの歓喜再びをまとめました。
この記事の目次
- ドーハの悲劇とは1994年W杯予選のロスタイムに起こった悲劇
- ドーハの悲劇でのメンバー
- ドーハの悲劇でのフォーメーション
- ドーハの悲劇の時の監督はオフト
- ドーハの悲劇の内容①:それまでの最終予選の経過
- ドーハの悲劇の内容②:前半戦の内容
- ドーハの悲劇の内容③:後半戦の内容
- ドーハの悲劇の内容④:運命のロスタイム
- ドーハの悲劇の内容⑤:試合後の絶望
- ドーハの悲劇の原因①:戦犯の武田修宏がキープできなかった
- ドーハの悲劇の原因②:戦犯のラモス瑠偉はパスミス
- ドーハの悲劇の原因③:みんなコンディション不良
- ドーハの悲劇の原因④:オフトの采配(北澤を投入しない)
- ドーハの悲劇の原因⑤:みんな油断&興奮していた
- ドーハの悲劇の原因⑥:それまでの経過
- ドーハの悲劇の原因⑦:イラクは負けられなかった
- ドーハの悲劇のその後①:三浦知良は29年ぶりにカタールに
- ドーハの悲劇のその後②:森保一がドーハの歓喜に変えた
- ドーハの悲劇のその後③:森保一がドーハの歓喜再び
- ドーハの悲劇のまとめ
ドーハの悲劇とは1994年W杯予選のロスタイムに起こった悲劇
ドーハの悲劇とは、1993年10月28日にカタールの首都・ドーハで行われたサッカーの日本代表VSイラク代表で起こった悲劇のことです。
1993年10月28日に行われた試合は、1994年に行われるアメリカワールドカップの最終予選でした。日本が勝てば、日本史上初のサッカーワールドカップ出場が決まるという状態でした。
後半ロスタイム。あと数秒で試合が終わるという時点で、日本は2対1で勝っていました。
しかし、最終プレーと思われたイラクのコーナーキックで、イラクがシュートを決め同点で試合終了となります。
たった残り数秒で日本はワールドカップ出場を逃し、この劇的な幕切れ・劇的な敗戦は「ドーハの悲劇」として語り継がれることになりました。
このドーハの悲劇はあまりにもドラマチックで、約30年経つ現在までその時のVTRは何度もテレビで流され、サッカーファンだけでなく、サッカーに興味がない人にもよく知られています。
たった数秒でワールドカップを逃した日本でしたが、日本にサッカー文化を根付かせ、ワールドカップの面白さを国民に知らせる大きな機会となりました。
このことは、当時の日本サッカー協会の川渕三郎強化委員長が次のように話しています。
この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した。
また、ドーハの悲劇があったからこそ、日本のサッカーレベルが向上し、1998年開催のフランスワールドカップに出場でき、以降も途切れることなく出場できているとも言われています。
ドーハの悲劇でのメンバー
ドーハの悲劇での日本代表メンバーを見てみましょう。
<ゴールキーパー>
1:松永成立(横浜マリノス)
19:前川和也(サンフレッチェ広島)
<DF>
2:大嶽直人(横浜フリューゲルス)
3:勝矢寿延(横浜マリノス)
4:堀池巧(清水エスパルス)
5:柱谷哲二(ヴェルディ川崎・キャプテン)
6:都並敏史(ヴェルディ川崎)
7:井原正巳(横浜マリノス)
21:三浦泰年(清水エスパルス)
22:大野俊三(鹿島アントラーズ)
<MF>
8:福田正博(浦和レッズ)
10:ラモス瑠偉(ヴェルディ川崎)
14:北澤豪(ヴェルディ川崎)
15:吉田光範(ジュビロ磐田)
17:森保一(サンフレッチェ広島)
18:澤登正朗(清水エスパルス)
<FW>
9:武田修宏(ヴェルディ川崎)
11:三浦知良(ヴェルディ川崎)
12:長谷川健太(清水エスパルス)
13:黒崎比差支(鹿島アントラーズ)
16:中山雅史(ジュビロ磐田)
20:高木琢也(サンフレッチェ広島)
この日のスターティングメンバーは、次の通りです。
DF3:勝矢寿延
DF4:堀池巧
DF5:柱谷哲二 (C)
DF7:井原正巳
MF10:ラモス瑠偉
MF15:吉田光範
MF17:森保一
FW11:三浦知良
FW12:長谷川健太
FW16:中山雅史
ドーハの悲劇でのフォーメーション
フォーメーションは、韓国戦や北朝鮮戦で成功した4-3-3システムでした。
59分には長谷川健太選手に変わり福田正博選手が入り、81分には中山雅史選手に変わり武田修宏選手が入っています。
ドーハの悲劇の時の監督はオフト
出典:mainichi.jp
ドーハの悲劇の時の日本代表監督は、ハンス・オフトです。
オランダ出身の監督で、現役時代はオランダのフェイエノールトなどでプレーしていました。
1976年にオランダのU-21の監督を務めた後、1982年に杉山隆一氏に招かれて来日し、日本サッカーリーグ(JSL)でヤマハやマツダなどで監督をします。
その後、一度オランダに帰国しますが、1992年に再来日して初の外国人の日本代表監督に就任しました。
1992年にはダイナスティカップ優勝、さらにAFCアジアカップも優勝し、日本サッカー界初のビッグタイトルをもたらしています。
同年Jリーグが開幕してサッカーへの注目が集まり、アメリカワールドカップのアジア予選では、最終予選の第4戦まではトップでワールドカップ出場圏内に導きました。
しかし、そこからドーハの悲劇が起こってしまいます。
ドーハの悲劇の後は日本代表監督を辞任しました。
1994年からはJリーグのジュビロ磐田や京都パープルサンガ、浦和レッドダイヤモンズ監督を歴任していましたが、浦和時代の社長と方向性の違いで揉め、辞任しました。
その後はスペインに移住して悠々自適の生活を送っていましたが、2008年9月にJ2降格危機に陥っていたジュビロ磐田の監督に就任し、ギリギリでジュビロをJ1に導きました。
その後、続投を要請されましたが辞退し、監督業から引退しています。
ドーハの悲劇の内容①:それまでの最終予選の経過
1994年に開催されるアメリカワールドカップのアジア地区最終予選が、ドーハで集中開催されていました。
6か国の総当たり戦で、上位2か国がワールドカップ出場権を得られることになっていました。
第4戦を終えた時点で日本は1位で、残りイラクとの1戦を残すのみとなっていました。
イラク戦前の日本のワールドカップ出場条件は次の通りです。
・日本が勝ち
・日本が引き分け
①サウジVSイランが引き分け
②イランが4点差以下でサウジに勝利
③韓国が引き分け
日本はイラクに勝てば、自動的にワールドカップに出場。日本が引き分けた場合は、ほかの試合の結果次第という状態でした。
ドーハの悲劇の内容②:前半戦の内容
試合開始からたった5分で、日本は先制に成功します。ゴン中山のポストプレーから長谷川健太がシュートを放ち、ポストにはじかれたところを三浦カズがヘディングで押し込みました。
その後はイラクが同点を狙い、攻撃的な布陣でガンガン攻め込んでくる中、日本はしっかり守ってカウンターを仕掛ける展開となりましたが、1-0で日本リードのまま、前半を終えます。
この時点で、「サウジアラビア 2-1 イラン」・「韓国 0-0 北朝鮮」。このままいけば、日本は初のワールドカップ出場が決まる状態でした。
ドーハの悲劇の内容③:後半戦の内容
日本リードのまま後半に突入します。
55分にイラクが同点に追いつきました。その後、日本は徐々に運動量が落ちていき、勢いづいたイラクがボール支配率を高めて、どんどん攻め込んでいきます。
この時点で、韓国とサウジアラビアが勝っていたため、日本は同点のままではワールドカップ出場を逃すことになります。
イラクの猛攻を何とか耐え抜き、69分に日本はゴン中山が追加点をあげて、勝ち越しに成功しました。
これでこのまま試合終了すれば、日本はワールドカップ出場が決まるという状態で、ロスタイムを迎えます。
ドーハの悲劇の内容④:運命のロスタイム
出典:funabashi-east-fc.amebaownd.com
当時のサッカーの試合は、ロスタイムはあまりありませんでした。現在は5分前後のロスタイムは当たり前で、カタールワールドカップでは10分以上のロスタイムもありました。
しかし当時は90分を超えたら、その時点でのプレーが途切れれば試合終了となることが多かったんです。
89分53秒頃、イラクの選手がシュートを放ち、ゴールキーパーの松永成立がナイスセーブをします。
そしてボールはゴールラインを割り、イラクのコーナーキックとなりました。この時点で、89分55秒です。このコーナーキックさえしのげば、日本の勝利が確定するところでした。
イラクのコーナーキック。このコーナーキックで試合終了という場合、通常はゴール前まで蹴るものですが、イラクはまさかのショートコーナーを選択します。
そして、三浦カズが抜かれてセンタリングを上げられ、フォワードの選手にヘディングシュートを決められてしまいました。
そのヘディングシュートは決して鋭いものではありませんでした。
でも、美しいカーブを描き、現在動画で見てもそのヘディングシュートはスローモーションに見えるほどで、それを見つめているキーパーの松永成立が非常に印象的でした。
ドーハの悲劇の内容⑤:試合後の絶望
出典:sanspo.com
イラクのヘディングシュートが決まった瞬間、日本選手たちのうちある者は天を仰ぎ、ある者はそこに倒れ込みます。
イラクに点が入ったのでキックオフから試合が再開されましたが、そこで試合終了。2-2の同点でした。
この時点で、韓国は3-0で勝利、サウジがイランに勝利したので、日本はワールドカップの出場権を逃しました。
日本の代わりにワールドカップ出場を決めたのが、韓国でした。
ドーハの悲劇の原因①:戦犯の武田修宏がキープできなかった
出典:twitter.com
ドーハの悲劇が起こった原因を考えていきましょう。
ドーハの悲劇の戦犯は、武田修宏とラモス瑠偉と言われています。なぜ、戦犯はこの2人なのか、まずは武田から見ていきましょう。
89分00秒:日本がボールを自陣ペナルティエリア付近でボールを奪う
89分11秒:福田からラモスにパスが出る
89分14秒:ラモスからフォワードの武田修宏にパスが出る
89分18秒:一度ラモスに戻して、また武田修宏にパスが通る
出典:youtube.com
この時点で試合終了まで約40秒です。そして、武田修宏さんの前にはスペースが大きくあいています。イラクのDFも寄せていませんので、スペースは広々あります。
その武田さんの状態、さらに試合終了までの時間を考えると、誰だって「武田!ボールをキープしろ!できるだけ長くキープすれば、試合は終わる!」と思いますよね。
でも、武田さんはなぜか誰も詰めていないゴール前に低いクロスを出し、イラクにボールを奪われてしまいます。この時点で44分24秒です。
スペースがガラ空きなのに、ボールはたった6秒しかキープしませんでした。
もしここで、武田さんが必死にキープして、時間を稼いでいたら…。結果は違った可能性があります。
ドーハの悲劇の原因②:戦犯のラモス瑠偉はパスミス
出典:youtube.com
武田修宏さんがボールをキープせずに、誰もいないゴール前にパスを出した後、イラクのディフェンダーにボールを奪われたところから見ていきましょう。
89分24秒:イラクにボールを奪われる
89分31秒:森保一がボールを奪い返す
89分36秒:少しキープして司令塔ラモスにボールをパス
89分41秒:ラモスがパスを出すが、思い切りパスミスをする
89分42秒:イラクの選手にパスが当たり、イラクボールに。
89分43秒:イラクの選手がドリブルで攻め込む
89分52秒:シュートをするがキーパー松永がナイスセーブ
89分55秒:ボールがゴールラインを割る
そして、あのコーナーキックになる展開です。
試合終了まで残り30秒。もう選手たちはクタクタで、集中力も欠けていたと思います。
ただ、なぜラモスはあそこでできるだけキープせず、しかもあんなに不用意なパスを出してしまったのか?
司令塔ラモスなら、時間稼ぎをすればよいことはわかっていたはずです。それでも、パスをしてしまいました。しかも、思いっきりパスミス。
あのパスミスがなければ、イラクからカウンターをくらい、コーナーキックを与えることにはならなかったはずですから、痛いミスだったことは間違いないでしょう。
ちなみに、ラモス瑠偉さんは2018年の「中居正広のスポーツ!号外スクープ狙います!」に出演した時に、次のように武田さんに向かって、ドーハの悲劇の原因を話していました。
「自分は(この時)暑くて疲れているんです。動けない状態です。コーナーキックのところでボールをキープして欲しかった。時間を稼いで欲しかった。いきなり勝負して、俺とかカズが遅れてるのにいきなりセンタリングするんだもん。これありえないでしょ」
また、ジャンクSPORTSでは、ラモスさんは次のように暴露していました。
試合後、あまりのショックに「サッカーを辞めようと思った」というラモス氏。当時、Jリーグ・川崎の同僚だった武田氏に帰りの航空機内で相談しようとしたところ、「CAと電話番号を交換していた」。なんと武田氏はキャビンアテンダントを“ナンパ”していたという。「みんな泣いているのに」と25年前を思い返し、“冗談じゃないよ!”と言い出さないばかりの怒りを再燃させた。
引用:ラモス氏が武田氏に「ドーハの悲劇」にまつわる怒り激白!皆が泣いていた機内で…/サッカー/デイリースポーツ online
武田さんらしいエピソードです。ただ、面と向かってこれだけ言えるということは、信頼関係があるからこそだと思います。
ドーハの悲劇の原因③:みんなコンディション不良
ドーハの悲劇の原因には、代表メンバーがみんなコンディション不良だったということもあります。
当時、まだ日本代表の中には海外で活躍する選手はいませんでした。そのため、海外で長期間プレーすることに慣れていませんでした。
また、Jリーグが始まってサッカーへの注目が集まっていた中で「ワールドカップ出場がかかった試合」というプレッシャーにも慣れていませんでした。
さらに、最終予選は週2回のペースで試合があり、延長やPK戦が続いて疲労が蓄積し、コンディション不良の選手が続出したんです。
代表メンバーの北澤豪と都並敏史は足を亀裂骨折(疲労骨折)していて、キャプテンの柱谷は風邪が治っていないまま強行出場していました。
都並さんの状態は、以下のようなものでした。
痛み止めを練習前に7本打ち、足の感覚を麻痺させて走ります。骨折している部分の骨同士がこすれ合ってギシギシいうのがわかりました。練習が終わって麻酔が切れると2時間歯を食いしばって耐えます。一言も話せないくらい酷い痛みでした。
こんな状態の選手が複数人いたら、本気で挑んでくるチームに勝てるとは思えません。
もちろん、ケガは仕方がないことですし、都並さんの責任ではありません。オフト監督がチームに同行するように言ったのですから。
僕がドーハに行ってはいけなかった。ケガ人がサッカーをしてはいけないのです。僕のようなケガ人がチームにいたからなのです。そんなことをしてサッカーの神様が許してくれるはずがない。
都並さんにこんなことを今でも思わせてしまうなんて、ドーハの悲劇はそれだけ日本サッカー界にとって大きな出来事だったと言えるでしょう。
ドーハの悲劇の原因④:オフトの采配(北澤を投入しない)
ドーハの悲劇の原因の3つ目は、オフトの采配です。
イラク戦の後半、日本代表は明らかに運動量が落ちていました。そこでカンフル剤となる選手を入れるべきだったのですが、ピッチの中とオフト監督の考えが一致しませんでした。
ピッチの選手たちは中盤のカンフル剤として北澤選手を入れてほしいと思っていて、ラモスはベンチに向かって「キタザワー」と叫ぶことがあったほどです。
柱谷さんは次のように当時を振り返っています。
誰もが疲れ切って、気持ちだけでプレイしていた。なかでも、中盤はきつかった。スペースが埋まらない。だから、『北澤を入れてくれ』と思っていた。ピッチにいる僕らは(運動量のある)北澤が欲しかった
引用:「ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音|サッカー代表|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
森保一さんとボランチを組んでいた吉田光範さんも、次のように語っています。
もう、中盤(の選手)は動けなくなっていました。それまでサッカーをやってきて『助けてくれ』なんて思ったことは一度もなかった。でも、あのときは『キーちゃん(北澤)、助けてくれ』『キーちゃんを入れてくれ』と思っていました
引用:「ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音|サッカー代表|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
しかし、オフト監督は後半になって、韓国戦と同じく、長谷川健太に代わって田正博、中山雅史に代わって武田修宏という選択をしました。
選手たちは、ドーハの悲劇の原因はこのオフト監督の交替にあると考えています。
ただ、オフト監督は北澤さんは疲労骨折の影響で、コンディションが万全でなかったことを心配していた可能性があります。
北澤さんは4戦目の韓国で勝利に貢献していますが、この時かなり運動量が多く、中2日でのイラク戦でしたから、さらに疲労骨折していたんです。
それでも、ピッチの選手の考えとオフト監督の考えがずれていたことが、このドーハの悲劇を引き起こしたと言っても過言ではないと思われます。
ドーハの悲劇の原因⑤:みんな油断&興奮していた
出典:mainichi.jp
ドーハの悲劇の原因の4つ目は、みんなが油断&興奮状態にあったことです。
イラク戦では前半終了時、日本は1-0でリードしていました。このまま行けば、ワールドカップ出場が決まる状況です。
そんな中でハーフタイムに突入すると、選手たちは興奮状態で、監督の戦術説明を聞かずに、自分たちで勝手に修正点などを話し合っていました。
オフト監督は3度も「Shup Up!」と怒鳴るほどで、ハーフタイム中には戦術説明・後半にあたっての意思の統一などができない状況だったそうです。
そもそも、イラク戦の前から日本代表は浮足立っていたと福田さんは話していました。
「W杯に行ける。だけど、イラクは強い」という何がなんだかわからない状況。それは、今までW杯に王手をかけた経験がなかったからでしょうね。選手、監督、日本サッカー協会、サポーターもそうです。あの場にいた日本人全員が全体的に浮足立っていたように感じました。
引用:「ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音|サッカー代表|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
ワールドカップまであと1勝。そんな状況に追い込まれたことがなかった日本代表は、全員が浮足立ち、変な興奮状態になり、精神的に普段とは違う状況になっていたのでしょう。
ドーハの悲劇の原因⑥:それまでの経過
出典:sankei.com
ドーハの悲劇の原因の5つ目は、それまでの経過です。
ドーハの悲劇が起こったのは、それまでの最終予選の結果も関係しているという主張です。
ここまでの4戦。それでもっと良い結果を出していれば、イラク戦で引き分けても、ワールドカップには行けていたという考えですね。
中山雅史さんは北朝鮮戦・韓国戦で決定的なチャンスを決めていれば、もっと楽に戦えたと話しました。柱谷さんも、イラク戦の引き分けよりもイラン戦の負けの方が痛かったとしています。
また、セルジオ越後さんもイラク戦だけのことじゃないと語っています。
本当に残り数秒というところで失点してしまったわけだけど、時間を稼ぐべきところで稼がなかったり、そうした経験不足は否めなかった。ただ、みんなあの1試合が『悲劇、悲劇』って言うけど、あの1試合だけじゃなくて、最終予選を通じて取るべきところで取らなかったり、そういうチャンスロストはたくさんあったんだよね
ドーハの悲劇のあの瞬間ばかりが注目されていますが、あのドーハの悲劇はもっと前、最終予選1戦目から始まっていたのかもしれません。
ドーハの悲劇の原因⑦:イラクは負けられなかった
出典:mainichi.jp
ドーハの悲劇の原因、最後はイラク側のモチベーションです。
イラクはハーフタイム後に、別人のようにモチベーションが上がったそうです。なぜなら、鞭打ちの刑にすると脅されていたからです。
イラクの選手はフセイン元大統領の息子から日常的に拷問を受けていて「日本に負けたら鞭打ちの刑」と脅され、さらにハーフタイムに「お前たち、分かっているだろうな」と言われました。
それなら、「絶対に負けられない」とイラクの選手も必死になりますよね。
イラクの選手は必死になって勝ちに来たけれど、日本選手は浮足立っていて運動量も落ちていたとなると、ドーハの悲劇は起こるべくして起こったのかもしれません。
ドーハの悲劇のその後①:三浦知良は29年ぶりにカタールに
ドーハの悲劇が起こった1993年は、日本サッカー界のレジェンドである三浦知良選手の全盛期でした。
第4戦の韓国戦では決勝点をあげて1-0で勝っていますし、イラク戦でも先制点をあげています。日本代表はカズのチームといっても過言ではない絶対的なエースでした。
しかし、最後の最後、ショートコーナーからドリブルの切り返しでカズが抜かれてしまい、クロスが上がってしまった。そして、日本はワールドカップに出場できなくなってしまいました。
次のフランス大会では、カズは代表選考から漏れてしまいます。それ以降、カズは代表に呼ばれることなく、日本のレジェンドはワールドカップに出場することはありませんでした。
その後、三浦知良はドーハの地を踏むことはありませんでしたが、2022年のカタールワールドカップで29年ぶりにドーハにやってきました。
三浦知良さんと中田英寿さんが並んで、ドーハでワールドカップを観戦しているというのは、サッカーファンからはたまらない光景でしょう。
というか、この2人、めちゃくちゃカッコいいですよね。
ドーハの悲劇のその後②:森保一がドーハの歓喜に変えた
ドーハの悲劇は、その後に森保一によって「ドーハの歓喜」に書き換えられました。
ドーハの悲劇でスタメンで出場し、試合終了のその時までピッチに立っていた森保一さんは、2022年のカタールワールドカップの日本代表監督としてドーハに戻ってきました。
カタールワールドカップで日本は「死の組」と言われるグループEで、ドイツ・コスタリカ・スペインと対戦します。ドイツ戦とスペイン戦は、ドーハで行われました。
ヨーロッパの強豪国であるドイツ。勝てる見込みは正直少なく、「引き分けを何とか狙っていけ!」と言われていました。
前半は0-1でリードを許す展開。そして、後半に森保一監督は勝負をかけます。日本は後半に2点をもぎ取り、ドイツに劇的勝利をおさめました。
森保一監督が29年の時を経て、ドーハの悲劇をドーハの歓喜・ドーハの奇跡に書き換えたのです。
ドーハの悲劇のその後③:森保一がドーハの歓喜再び
ドーハの悲劇を経験した森保一監督がドイツ戦に勝って、29年の時を経てドーハの悲劇をドーハの歓喜に書き換えました。
そして、2022年12月2日(現地時間は12月1日)、ドーハでの日本VSスペイン。ドーハの歓喜は再び訪れます。
日本は2戦目のコスタリカに負けているので、グループリーグ突破のためには勝利(引き分けだとドイツに抜かれる可能性大)が必要でした。
しかし、相手はスペイン。ドイツに勝利してドーハの歓喜を経験した日本代表ですが、コスタリカに負けているので、日本のサポーターは若干、意気消沈気味です。
そんな雰囲気を森保一監督と選手たちが吹き飛ばしました。ドイツ戦と同じように日本は前半にスペインに先制を許します。
しかし、後半また2点をもぎ取り、スペインに勝利して、グループリーグ突破を決めたのです。
日本中が「ドーハの歓喜再び!」と大盛り上がりで、早朝4時キックオフだったにも関わらず、視聴率は22・4%、さらにABEMAは最高視聴数を更新しました。
やはり、ドーハの悲劇の経験者・当事者が29年後に監督としてドーハの歓喜に変えるというのは、とてもドラマチックですよね。
ドーハの悲劇のまとめ
ドーハの悲劇の内容やロスタイムの出来事、メンバーやフォーメーション、監督、戦犯や原因、三浦知良さんのドーハ降臨と森保一さんによるドーハの歓喜への書き換えなどをまとめました。
ドーハの悲劇があったからこそ、今の日本サッカーの躍進があることは間違いないですが、当時の選手たちの心境を考えると、いたたまれないですね。