愛くるしい笑顔で人気だった元スケート選手の渡部絵美さんですが、堤義明さんからのセクハラ騒動も話題です。
は渡部絵美さんの若い頃の経歴、セクハラ騒動とその後、結婚した元旦那と子供(息子)、離婚や再婚など現在を紹介します。
この記事の目次
- 渡部絵美は和製ジャネット・リンと呼ばれた元スケート選手
- 渡部絵美はハーフ
- 渡部絵美の若い頃の経歴① 小学生で米国にフィギュアスケート留学
- 渡部絵美の若い頃の経歴② 和製ジャネット・リンと呼ばれて
- 渡部絵美の若い頃の経歴③ 大学を休学しアメリカへ
- 渡部絵美の若い頃の経歴④ 1本の電話がきっかけで復帰
- 渡部絵美の若い頃の経歴⑤ オリンピックに出場
- 渡部絵美が引退した理由① 人生で一番の演技ができたから
- 渡部絵美が引退した理由② 活動費用の捻出が厳しい背景もあった…
- 渡部絵美の引退後① タレントや指導者として活動
- 渡部絵美の引退後② ダイエットが話題に
- 渡部絵美の引退後③ 5000万円の詐欺に遭っていた
- 渡部絵美は堤義明からのセクハラを告白し話題に
- 渡部絵美が告白した堤義明からのセクハラ騒動の詳細
- 渡部絵美が告白した堤義明からのセクハラ騒動のその後
- 渡部絵美が結婚した元旦那はアイスホッケー選手・離婚の理由は?
- 渡部絵美の子供は息子が1人いる
- 渡部絵美の現在① 再婚していたことが判明
- 渡部絵美の現在② 仲本工事の死を悼む
- まとめ
渡部絵美は和製ジャネット・リンと呼ばれた元スケート選手
渡部絵美のプロフィール
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本名: 渡辺・キャスリン・絵美
生年月日: 1959年8月27日
出身地: 東京都
血液型: O型
身長: 155cm
渡部絵美さんは元フィギュアスケート選手であり、現在はタレント、プロフィギュアスケーターとして活躍中です。
12歳の時に競技大会デビューし、全日本フィギュアスケート選手権では引退まで8連覇という記録を持っています。
これは日本人女子フィギュアスケート選手の中では、伊藤みどりさんと並ぶ記録であり、現在も破られていません。
1979年に開催された世界フィギュアスケート選手権で、日本人女性初のメダリストとなり、日本中の注目を集めます。
テレビや週刊誌など数多くのメディアでり上げられ、渡部絵美さんには「和製ジャネット・リン」との愛称がつき、かわいらしい天真爛漫な笑顔は「絵美スマイル」と愛されました。
また、スポーツ選手でありながらキュートなルックスがお茶の間に受け、アイドル並みの人気を誇りましたが、1980年6月に現役生活から引退。
引退後の渡部絵美さんは、タレントだけではなくスケート教室の講師としても活動しています。
渡部絵美はハーフ
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渡部絵美さんについてネットで調べると「ハーフ」というワードが出てきます。
ここでは、両親や兄弟、祖父母について調査しました。
母親はスペイン系のフィリピン人
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渡部絵美さんの本名は「渡辺・キャスリン・絵美」といいます。
父親は日本人ですが、母親はスペイン系フィリピン人なので、渡部絵美さんはハーフで間違いありません。
父親の純一さんはパンアメリカン航空に勤務していました。母親・リディアさんは名前以外は公表されていないため、専業主婦だったのかもしれません。
両親が出会ったのは、太平洋戦争真っ最中のフィリピンでした。父親が出征してネグロス島の地主の娘だった渡部絵美さんの母親と知り合い、現地で結婚。
戦後になってから父親は母親を伴って日本に戻り、渡部絵美さんは世田谷区で誕生しました。
4人兄弟の末っ子
渡部絵美さんは4人兄弟の末っ子です。兄が2人と姉が1人いますが、兄弟の名前や顔写真など個人が特定できる情報は明かされていません。
ただし、姉は10歳以上年齢が離れていること、子供の頃にフィギュアスケートをしていたことがわかっています。
渡部絵美の若い頃の経歴① 小学生で米国にフィギュアスケート留学
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ここからは、若い頃の渡部絵美さんについて詳しく紹介します。
7歳でフィギュアスケートを開始して、9歳で海外留学をしていた経歴を持っています。
9歳でアメリカに留学
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渡部絵美さんは、10歳以上年齢の離れている姉の影響を受け、7歳でスケートを開始。
その後、通っていたスケート教室のコーチ・稲田悦子さんからの提案で、日本よりもスケートの競技環境が充実しているアメリカ合衆国ミネアポリスにスケート留学をすることになりました。
しかしいざ留学してみると、現地で露骨なアジア人差別に遭い傷ついたそう。母親と一緒に買い物に出掛けた時には、渡部絵美さんに向かって「ジャップ」と罵られたことも。
そんな時、母親のリディアさんがドル札を相手に見せて、「お金に色はない。同じお金を払ってる」と毅然と抗議をしてくれました。
ただ、こういった差別がいたるところで行われ、渡部絵美さんは「日本に帰りたい」と何回も考えたんだとか。
それでも、スケートの環境の良さは抜群で、日本とは違って練習に集中できることだけが救いだったそうです。
アメリカでの最初のコーチは、1937年~1938年の世界王者フェリックス・カスパー。基本となるエッジワークとジャンプ、技と技のつなぎなどの基本技術をひたすら学びました。
大会で次々に優勝
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渡部絵美さんは、初めて大きな大会に参加した1972年の「全日本フィギュアスケートジュニア選手権」で優勝しました。
さらに、同年の「全日本フィギュアスケート選手権」でも渡部絵美さんは優勝を飾っています。そして、その後は8連覇を達成する偉業を成し遂げたのです。
渡部絵美さんは1976年には、16歳でインスブルックオリンピックの日本代表に選ばれ、現地ではのびのびと演技を行って13位に入りました。
渡部絵美の若い頃の経歴② 和製ジャネット・リンと呼ばれて
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若い頃の渡部絵美
全日本選手権で次々に連覇を重ねた渡部絵美さんは、次第に人気を博し「和製ジャネット・リン」という異名を取りました。
ジャネット・リンについて、渡部絵美さんの人気ぶりがわかるエピソードも紹介します。
ジャネット・リンとは?
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銀盤の妖精と呼ばれたジャネット・リン
ジャネット・リンはアメリカ出身の元スケート選手で、渡部絵美さんの憧れの人物です。
ジャネット・リンは、1972年開催の札幌オリンピックに18歳で出場。フリーでは着地に失敗して尻もちをついたものの、美しい演技で会場を魅了し芸術点で6.0点を叩き出しています。
当時、技術点の審査で重視されていたコンパルソリーが苦手だったジャネット・リンは、合計点で3位留まりでした。
しかし、ジャネット・リンは演技中に失敗してもずっと笑顔で滑り続け、審査員だけではなく世界中から絶賛されたんです。
もちろん日本でもジャネット・リンは人気を博し、「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ、後にカルピスのCMにも出演。
渡部絵美さんも、ジャネット・リンの爽やかな笑顔と伸びやかな演技に魅了された1人で、札幌オリンピックが開催された時、留学先のミネアポリスの宿舎で試合を観戦していたといいます。
ちなみに、当時のテレビは白黒で、ジャネット・リンの衣装が赤かったことを当時知らなかったそうです。
そんなジャネット・リンは、1975年に喘息が原因で現役を一度引退しました。
結婚し、5人の子供の母親になってから、食事療養で喘息を克服すると、1982年~1983年に期間限定でプロ選手として復帰。
ジャネットリンの人気は衰え知らずで、1983年にテレビドラマ「胸さわぐ苺たち」にも出演しました。
2001年に世界フィギュアスケート選手殿堂入りを果たし、2022年1月には札幌オリンピック50年記念としてメッセージを発表するなど、今でもスケート界にその名が知られています。
和製ジャネット・リンとして一躍有名に
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全日本選手権連覇を果たし、オリンピックに出場した渡部絵美さん。1979年にウィーンで開催された世界選手権で3位となり、日本人女性フィギュアスケート選手では初のメダリストに。
当時の日本人フィギュアスケート選手は強張った表情で演技する様子が多かったのですが、渡部絵美さんは常に満面の笑みを浮かべて演技していました。
このキュートな笑顔は「絵美スマイル」と呼ばれ、男女問わず人気に。そしていつしか、渡部絵美さんは「和製ジャネット・リン」と呼ばれるようになっていったのです。
凄まじい人気がわかるエピソードとして、1980年に生まれた女の子の名前のランキングを見ると、1位は「絵美」。また、ファンレターが段ボールで何箱も届いたそうです。
ただ、街を歩けば途端に見つかってしまい、プライバシーは一切なかったといいます。
アイドル志望であれば嬉しい悲鳴かもしれませんが、渡部絵美さんはスケーターとして技を磨きたいと思っていたため、当時の日本は好ましい環境ではなかったようです。
渡部絵美の若い頃の経歴③ 大学を休学しアメリカへ
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高校3年生になった時点ですでに全日本選手権6連覇を果たしていた渡部絵美さんは、高校卒業を機に引退を考えて帰国しますが、その後は再び選手生活続行を決意しています。
ここでは、引退を翻して再びスケートと向き合うことにした理由や、その後の活躍についても紹介します。
キャンパスライフを満喫するつもりだった
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日本のフィギュアスケート界のアイドルになった渡部絵美さんですが、世界との壁を感じていました。
16歳で出場したインスブルックオリンピックでは、逆立ちしてもメダルに届くものではなく、その頃から引退を考えていたといいます。
しかし、全日本選手権最多タイの5連覇がかかっていたことから、現役を続行することに。
そして、高校を卒業するタイミングで今度こそ引退を決意。渡部絵美さんは帰国し、上智大学へ進学しました。
渡部絵美さんはスケート靴を捨て、普通の一女子大生としてキャンパスライフを満喫するつもりだったのだといいます。
渡部絵美の若い頃の経歴④ 1本の電話がきっかけで復帰
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帰国した渡部絵美さんは、大学生として普通の生活を送り始めたのですが、1ヶ月もしないうちにフィギュアスケートのために渡米しています。
渡部絵美さんがフィギュアスケートに復帰したのは、イタリア人の元フィギュアスケート選手であり、コーチだったカルロ・ファッシから1本の電話が来たことがきっかけでした。
カルロ・ファッシはミラノ生まれで、現役時代はメダルに恵まれませんでしたが、引退後にコーチとして、ペギー・フレミング、ドロシー・ハミルなど複数のメダリストを育成した人物です。
そのため、優れた選手を育成した功績が認められたカルロ・ファッシは、1997年に世界フィギュアスケート殿堂入りを果たしています。
カルロ・ファッシは、渡部絵美さんの技術の正確さに注目し、スカウトをしてきました。
その誘いを受け、渡部絵美さんは「あと1年だけスケートをやろう」と決意し、上智大学に休学届を提出するとすぐにアメリカ・デンバーに渡りました。
デンバーにはカルロ・ファッシの自宅があり、渡部絵美さんは屋根裏に居候しながらスケートを習うことに。
カルロ・ファッシはきめ細かく指導してくれ、常にポジティブに接してくれたそうで、渡部絵美さんにとても合っていたといいます。
今までは親やコーチにやらされている感があったスケートでしたが、初めて面白さに気が付き、主体的に練習できて充実した日々を送りました。
単身デンバーに渡った渡部絵美さんは、当時はまだ携帯電話が普及しておらず、孤独で寂しいと感じることもあったようです。
しかし、街を歩くだけで指をさされたり、見知らぬ人に声を掛けられる日本と違って、「米国で練習している時が一番平和だった」と後年のインタビューで明かしています。
世界のレベルも上がっていた
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スケートの楽しさに目覚めた渡部絵美さんでしたが、スケート界には変化が起きていました。
1970年代後半に入った頃から、女子選手にも3回転時代が到来していたのです。渡部絵美さんもカルロ・ファッシからサルコーとトーループの3回転を習得します。
もともと技術の正確性が強みだった渡部絵美さんは、踏み切り、回転、着地の技術の高さを買われ、国際スケート連盟のマニュアルに模範として掲載されました。
渡部絵美さんのスキルがいかに高かったかがわかるエピソードですよね。
こうして、1980年のレークプラシッドオリンピックでのメダル獲得を目指し、練習を積み重ねていきました。
渡部絵美の若い頃の経歴⑤ オリンピックに出場
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1980年2月のレークプラシッドオリンピックに出場した渡部絵美さんは、日本人初のメダリストになることを期待されていました。
しかし、ショートプログラムではダブルアクセル、ダブルループからのジャンプコンビネーションジャンプに失敗。
フリープログラムでは3回転ジャンプを完璧に決めましたが、6位という不本意な結果に終わりました。
順位が低かった理由はジャンプの失敗以外にも、当時の審査方法が今と違い、個々の技が細かく得点化されておらず、審判の主観に頼った部分が大きかったという点も関係していたようです。
渡部絵美さん自身も得点に納得いかない気持ちもあったようですが、気持ちを切り替え、翌月の世界大会で4位に入賞しました。
渡部絵美が引退した理由① 人生で一番の演技ができたから
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渡部絵美さんは1980年2月に行われたレークプラシッドオリンピックが終わると、同年6月23日に現役引退を発表しました。
直前の1979年には、世界大会で初のメダルを獲得し、日本人の期待の星としてまだまだ活躍が見込まれていた渡部絵美さん。
この時点での年齢は20歳。まだまだ選手としてこれからでは?と考える人も多かったようです。
渡部絵美さんは、「人生で一番の演技ができた」、「4位に終わったものの、見た人が見ればわかる。もう悔いはない」とコメントを発表しています。
渡部絵美さん自身がやり切ったと感じられる良い演技ができたことで、達成感があったのかもしれませんね。
渡部絵美が引退した理由② 活動費用の捻出が厳しい背景もあった…
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2012年2月に、夕刊フジのインタビューに応じた渡部絵美さんは、フィギュアスケート選手時代は経済的に厳しかったことを明かしました。
現在もウィンタースポーツは活動費用がかさむことが課題と言われていますが、渡部絵美さんが現役だった1970年代は今よりもサポートが貧弱だったそうです。
渡部絵美さんの父親はパンアメリカン航空に勤務していて、経済的に余裕があったことから、年間1000万円という莫大な経費が必要なスケートを続けることができたといいます。
この経費の内訳としては、コーチ代、交通費、宿泊費やその他雑費、出場したオリンピックの制服ですら自己負担だったそう。
また、当時の為替で1ドル360円だったことも影響していました。
裕福だった家庭ではあったものの、父親の稼ぎだけでは実は足りておらず、サポータークラブを作って資金を募り、国際大会に参戦していたといいます。
資金繰りが厳しくなっていたことが大きな引退理由の1つだった、とカミングアウトしています。
渡部絵美の引退後① タレントや指導者として活動
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引退した渡部絵美さんは「ヤマハ音楽振興会」に所属し、タレント活動を開始してテレビに出演するようになりました。
また、スケート大会などの解説も担当しています。
渡部絵美の引退後② ダイエットが話題に
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渡部絵美のダイエット前後の体重変化
現役時代は、身長155cm・体重42kgとほっそりとした体型だった渡部絵美さんですが、引退後は趣味の食べ歩きを満喫する生活を送ってきました。
そのため、体重はどんどん増加し、元から痩せにくい体質も手伝って、すっかりぽっちゃり体型に。これまでに何回もダイエットに挑戦してきましたが、失敗ばかりだったそうです。
そんな中、2017年にテレビ番組の企画で「おデブがアイドルに大変身!ダイエット総選挙2017」に出演しダイエットに挑戦。
ダイエット前の体重は70kg。ダイエット中は、プロボクサーのダイエットエクササイズに取り組む様子が放送されました。
4ヶ月に渡るダイエットの結果、体重は58.7kgと11.3kgの減量に成功。ウエストは22cmも引き締まりました。
渡部絵美さんは「いろいろな洋服が着れるようになったのがうれしい」と、洋服のサイズが13号から9号にダウンしたことを明かしています。
渡部絵美の引退後③ 5000万円の詐欺に遭っていた
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渡部絵美さんは、2017年に「ビビット」に出演し、5000万円の詐欺に遭っていたことを告白しています。
2013年に知人を介して紹介された男性A氏、女性B氏から「絶対儲かるから」とFX投資を持ち掛けられたそうです。
渡部絵美さんは、1千万円を渡して様子見をしたところ、「最初の1年で100万円の利益が出た」との報告をA氏から受けました。
A氏は利益を証明する書類や現金を見せず、そのまま次の投資に回したそうです。この時点で怪しさ満点ですよね。
渡部絵美さんも最初はおかしいと思ったそうですが、A氏とB氏から毎月の食事会だけでなく、ハワイ、香港、ベルギーなどの海外旅行に招待されたことで安心してしまったそうです。
さらにA氏は、「皆さん投資をしているから」と歌手の美川憲一さんや俳優の竹内力さんと撮影した写真を見せてきたといいます。
そして、すっかり信用した渡部絵美さんに「出資金の3%の配当が出る金の投資がある」と新たな投資を持ち掛けてきたのです。
新たに金に投資を始めると1年目は配当が配られたものの、2年目以降は配当が止まりました。
2人を呼び出して理由を聞くと、海外で金の取引が上手くいかなくなったなど納得できない言い訳だったといいます。
渡部絵美さんはすぐさま2人に借用書を書いてもらったそうですが、その後プッツリと音信不通になってしまったんだとか。
なお、渡部絵美さんが詐欺に遭ったのは、実は今回の件が初めてのことではありませんでした。
かつて、知り合いの九州在住の歯科医から「定期預金がすぐに解約できなくて困っている。お金を貸して欲しい」と頼まれて550万円を貸したものの、80万円しか返済されなかったそう。
渡部絵美さんは詐欺に巻き込まれやすいタイプなのかもしれませんね。
渡部絵美は堤義明からのセクハラを告白し話題に
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渡部絵美さんは2005年、まだスケート選手として現役だった時代に堤義明さんからセクハラを受けていたことを告白して話題を呼びました。
まずは、堤義明さんのプロフィールを紹介します。
堤義明のプロフィール
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堤 義明(つつみ よしあき)
生年月日: 1934年」5月29日
出身地: 東京都
職業: 実業家
堤義明さんは、西武鉄道グループの元オーナーです。
父親は西武グループの基礎を作り上げた堤康二郎さんで、西武グループのオーナー時代の堤義明さんは、経済紙フォーブスが発表する世界長者番付で資産額世界一に輝いたことも。
堤義明さんが手掛けた事業は、鉄道事業だけではなく、プロ野球・西武ライオンズのオーナー、プリンスホテル、スキー事業、ホテル事業など幅広いジャンルを手掛けてきました。
しかし、2004年以降に発生した度重なるグループ内の不祥事の責任を取って総裁を退き、2005年にはインサイダー取引容疑で逮捕されています。
その後、懲役2年6月、罰金500万円、執行猶予4年の判決が下されました。
2016年2月になると、保有していた西武ホールディングスの株を全て売却し、西武グループとの資本関係が完全に切れたことを公表しています。
堤義明は女性関係が派手だった
堤義明さんは、「少なくとも愛人は3人」と報じられるなど、昔から女性関係が派手だったことで知られています。
1人目の愛人は会長秘書の女性で、世田谷区にあるテニスコート付きの豪邸があてがわれていたそうです。
2人目の愛人は女優の水野真紀さん似の30代の女性で、10年間で6000万円の手当をもらって会社で入浴する時の手伝いまでしていたことを自ら週刊誌に激白。
3人目の愛人は「荻窪第2夫人」と呼ばれる女性で、元銀座の高級クラブで勤務していたところを堤義明さんに見初められて愛人になったそうです。
その他にも愛人の中には女優もいたようで、これまでにマスコミが報じたのが、吉永小百合さん、沢口靖子さん、南野陽子さん、小谷実可子さん、伊東美咲さんなど枚挙に暇がありません。
この中でも堤義明さんが気に入っていたのが沢口靖子さんで、沢口靖子さんが1984年にプリンスホテルのキャンペーンガールを務めたことで出会い、親密な仲になったとのこと。
沢口靖子さんが結婚しないのは、堤義明さんとの仲が続いているから、との噂まであります。
渡部絵美が告白した堤義明からのセクハラ騒動の詳細
出典:https://www.ssf.or.jp/
堤義明さんからのセクハラを渡部絵美さんが告白した記事が掲載されたのは、2005年1月発売の『週刊文春』です。
記事によると、渡部絵美さんは17歳の時、西武グループが保有する新宿プリンスホテルの1室に呼ばれ、堤義明さんに「俺の女になればリンクの1つや2つはやるぞ」と言われたんだとか。
そして、堤義明さんからキスを迫られ、強姦されそうになったものの間一髪で逃げ出すことができました。
セクハラを受けてから20年以上経ってからの公表については、「私のようなみじめな思いに苦しむ選手が2度と出て欲しくないとの願いから公表することにしました」と回答しています。
渡部絵美が告白した堤義明からのセクハラ騒動のその後
出典:https://www.ssf.or.jp/
堤義明から報復を受けていた
堤義明さんの魔の手から間一髪で逃れた渡部絵美さんでしたが、後に堤義明さんから報復されていたことも明かしました。
若い頃からスキーやスケート、アイスホッケーといったウィンタースポーツが大好きだった堤義明さんは、同時に選手の育成に力を入れていました。
選手を自身が経営するプリンスホテルなどに所属させて、練習に専念できる環境を整備。
スケートリンクや、スキー場の運営も、西武グループの企業が担っているケースも多く、所属する選手は多大な恩恵を受けられます。
一方で、堤義明さんの意向に沿わない人物は練習もままならなくなってしまうのです。
渡部絵美さんがセクハラを拒絶したことは正当防衛として当然の行為ですが、その後、リンクのロッカーすら使えなくなるなどパワハラ被害に遭っていたといいます。
なお、渡部絵美さんの告白を受け、当時堤義明さんが会長を務めていたコクドは「現時点では記事の詳細を把握しておらず、正確な状況わからないのでお答えできません」とコメント。
以降もコクド側から堤義明さんのセクハラとパワハラに関する説明や謝罪はなく、渡部絵美さんもセクハラ騒動についてその後は特に新たな行動を起こしていません。
渡部絵美が結婚した元旦那はアイスホッケー選手・離婚の理由は?
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渡部絵美さんには離婚歴があります。
元旦那はどんな人物だったのでしょうか。また、離婚の原因についても調査しました。
元旦那はアイスホッケー選手
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渡部絵美さんが結婚したのは、31歳だった1990年のこと。
元旦那は、西武鉄道のアイスホッケーチームに所属する選手でした。当時のアイスホッケーの強豪と言えば王子製紙と西武鉄道の2強時代なので、エリート選手だったのかもしれません。
元旦那の名前や顔写真は公表されていませんが、10年に渡る交際の末に結婚したことが判明しています。
しかし、結婚からわずか2年後に渡部絵美さんは離婚に踏み切りました。
離婚の理由については、元旦那が事業に失敗したことで夫婦仲がギクシャクしてしまったからだそうです。
渡部絵美の子供は息子が1人いる
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渡部絵美さんは1991年に、元旦那との間に息子を出産しました。
息子は猛(たける)さんというお名前ですが、通っていた学校や学校卒業後の進路については明らかになっていません。
2008年の渡部絵美さんの公式ブログでは、猛さんが学生時代にサッカーに夢中になっていたことを明かしています。
2023年現在、猛さんは31歳~32歳になっているはずですが、特に話題になっていないので、一般人として暮らしているのではないでしょうか。
渡部絵美の現在① 再婚していたことが判明
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2023年2月時点で63歳になっている渡部絵美さんですが、2022年12月31日に再婚していたというニュースが飛び込んできました。
現在の旦那はどんな人物なのでしょうか。馴れ初めや結婚生活について調査しました。
現在の旦那は6歳年下の会社員
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渡部絵美さんが『スポーツ報知』の取材に応じ、2020年9月に6歳年下の一般人男性と再婚していたことを認めています。
残念ながら、旦那の名前や顔写真は公表されていませんが、渡部絵美さんによると身長は180cmと高身長で、放送局関係の企業に勤務していて転勤族とのこと。
結婚を機に、これまで住んでいた自宅を建て直しましたが、旦那は転勤族ということもあり、渡部絵美さんとは完全には同居していないそうです。
結婚後も趣味のゴルフを2人で楽しんでいることを明かし、渡部絵美さんさんは幸せな生活を送っているようです。
旦那との馴れ初めは?
現在の旦那との交際期間は7~8年程で、趣味のゴルフを通じて出会い、犬好きという共通点もあって距離を縮め、交際に発展しました。
ずっと、パートナーという形で事実婚状態が続いていたそうですが、2020年9月に入籍。
再婚を決意した理由について問われた渡部絵美さんは「コロナ禍で将来のことを考えるようになり、何かあった時に支え合えるように」と答えています。
渡部絵美の現在② 仲本工事の死を悼む
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2022年10月19日に死去した仲本工事
2022年10月19日にザ・ドリフターズのメンバーでタレントの仲本工事さんが、神奈川県横浜市の交差点でワゴン車にはねられて死去しました。
渡部絵美さんと仲本工事さんは近所同士で、9年前にホームパーティーに呼ばれたことをきっかけに親しい間柄だったそうです。
また、8年前に仲本工事さんが飼っている犬が産んだ子犬をもらい受けて以来、さらに交流が深まっていたといいます。
渡部絵美さんは、仲本工事さんが死去する直前に病院へお見舞いに行ったことを取材陣に明かしました。
ICUの仲本工事さんは意識がない状態でしたが、穏やかな顔をして静かに呼吸をしていたそうです。そして、死去する直前の様子を以下のように語っています。
「血圧がだんだんと下がっていく中で、私たちが(部屋に)入った瞬間に血圧が上がった。『無意識の中でも、意識があったのかな』『私たちがいることを分かっているのかな』と感じました」
引用:渡部絵美、仲本工事さん見舞っていた – スポーツ報知 https://hochi.news/
また、仲本工事さんの嫁の純歌さんについて「大変だったと思う。(病室でも)一生懸命に(回復を)祈っていたので」と気遣うコメントも発表しています。
まとめ
出典:https://tsuiran.jp/
渡部絵美さんの若い頃の輝かしい経歴や堤義明さんから受けたセクハラ被害の告白、引退後の活動、元旦那との結婚や離婚理由、息子、現在の様子についてもまとめました。
長年交際していた6歳年下の一般人男性と2020年に再婚していたことが、2022年の年末に明らかになりました。
コロナ禍で人生観が変わり、思い切って入籍したようです。
再婚相手の顔写真は公表されていませんが、お互いに趣味のゴルフや犬好きといった共通点があり、今でも仲睦まじく生活されているとのこと。
若い頃はトラブルに巻き込まれたことも多かった渡部絵美さんですが、63歳になった現在、幸せに過ごされているようですね。