京都小学生殺害事件の犯人は岡村浩昌(てるくはのる)!場所と被害者・家族(母親/兄)・生い立ちや高校時代・自殺も総まとめ

1999年に発生した京都小学生殺害事件では、犯人の岡村浩昌が「てるくはのる」と名乗った犯行声明やその後が話題です。

 

今回は事件の場所や被害者、動機、岡村浩昌の家族(母親や兄)や生い立ちや高校、自殺などその後も紹介します。

京都小学生殺害事件とは?犯行声明「てるくはのる」が話題に

 

京都小学生殺害事件とは、1999年(平成11年)12月21日に、京都府京都市伏見区の京都市立日野小学校で起きた殺人事件です。

 

当時小学2年生の男子生徒が校庭で遊んでいたところ、不法侵入してきた犯人・岡村浩昌に刺殺されました。

 

「私を識別する記号→てるくはのる」などと記された犯行声明を現場に残し、犯人は逃走。

 

2000年2月5日に、警察が岡村浩昌の自宅を訪ねて任意同行を求めたところ再び逃走し、そのまま高層アパートの屋上へ逃げ込んで飛び降り自殺しました。

 

 

京都小学生殺害事件が起きた場所

 

 

京都小学生殺害事件が発生した場所は、京都府京都市伏見区日野谷寺町78にある京都市立日野小学校です。

 

また、犯人の岡村浩昌が飛び降り自殺をしたアパートは、京都市伏見区南部の向島にある向島ニュータウンでした。 

 

 

京都小学生殺害事件の被害者は小学2年生の男児

 

 

岡村浩昌に殺害された男子生徒は、事件当時7歳で、京都市立日野小学校に通う小学2年生の男の子でした。

 

被害者少年は伏見区醍醐に住んでいたとみられています。

 

 

京都小学生殺害事件の犯人は岡村浩昌

 

 

 

当時の報道では「男O・H」と表記された岡村浩昌は、事件当時21歳で、伏見区向島清水町に住んでいました。

 

1999年12月21日午後、岡村浩昌は京都市立日野小学校の放課後の校庭へ侵入し、遊んでいた当時小学2年生の男子生徒を文化包丁で刺殺しました。

 

岡村浩昌は犯行現場に「私を識別する記号→てるくはのる」などと記したメモや、その他にも遺留品を校庭に残して逃走。

 

犯行声明には、日野小学校への恨みが書かれていたものの、これは単なる口実で、「てるくのはる」と意味不明な言葉を残すことで、注目を集めることが目的だったとみられています。

 

岡村浩昌が現場に残したこの犯行声明から、犯人は神戸連続児童殺人事件の酒鬼薔薇聖斗に影響を受けたと人物だと話題を呼びました。

 

 

京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩昌はその後自殺している 【動機は解明されず…】

 

翌2000年2月5日、京都府警捜査本部は容疑者として岡村浩昌を突き止め、任意同行を求めるために自宅を訪ねています。

 

岡村浩昌は近所の公園で事情聴取を受けていましたが、捜査員の隙を見て逃走、向島ニュータウンの屋上から飛び降りて自殺を遂げています。 

 

岡村浩昌を逃してしまった京都府警は、当然その失態を世間から非難されました。

 

 

京都小学生殺害事件の経緯を時系列で紹介

出典:https://pixabay.com/

 

岡村浩昌が犯行を行う前から自殺までの一連の事件のあらましを、時系列で以下に紹介します。 

 

1999年(平成11年) 12月3日 Oが大阪府枚方市の自転車店で逃走用自転車を購入、「山室学」の偽名で防犯登録を行う。

12月17日 Oが京都府城陽市の量販店で、金槌、手袋、缶入り塗料を購入。

12月19日…Oが京都府宇治市のホームセンターで、ナイフ、園芸用殺虫剤、缶入り塗料を購入。

 

12月21日…Oが放課後の日野小校庭へ侵入、遊んでいた男児Aを刺殺し逃走する。

 

12月29日…当時現場にいた児童ら立会いのもと、校庭で実況見分を実施。

 

12月31日…捜査員がAの両親に、ホームセンターの防犯カメラに映った男の写真を見せる。

 

2000年(平成12年) 1月13日…洛水高校を初めて捜査員が訪ね、教員らにホームセンターの防犯カメラに映った男の写真の確認を求める。

 

1月31日…Oが後に自殺する向島ニュータウン9階辺りで目撃される。

 

2月1日 …Oがこの日から3日まで連日、向島ニュータウン1階で目撃される。

 

2月5日… 捜査員がOの自宅を訪ね任意同行を求める。Oは公園で説得を受けている最中に突如逃走、向島ニュータウンの屋上から飛び降り自殺。

 

4月22日…捜査本部がOを被疑者死亡のまま書類送検。

 

4月28日…京都地検がOの犯行を認定し、不起訴とすることを決定。

 

引用:Wikipedia – 京都小学生殺害事件

 

犯人である岡村浩昌が自殺して死亡したことで、犯行動機が不明なまま、不起訴として事件は収束となりました。

 

殺害された被害者の遺族への賠償などは実現していないと見られています。 

 

 

京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩の家族は父親・母親・兄

 

岡村浩昌は、5歳年上の兄を含めた4人家族で、父親は岡村浩昌が3歳くらいの頃から気管支の病気により床に臥せることが多かったといいます。

 

1987年頃に、岡村浩昌の家族は事件当時の住所である向島清水町の大規模団地に引っ越しました。


京都市伏見区南部の向島にある向島ニュータウンで、京都市の最も外れにあり、主に低所得層が住んでいると言われています。

 

そのため、訳ありの人間がうろつくなど治安が悪いことで有名で、さらに中国残留孤児が多く住む地域であることから「チャイナ団地」とも呼ばれています。

 

なお、団地には非常に多くの巨大なパラボラアンテナが設置されているという異様な光景で知られています。

 

このアンテナは、中国本国の衛生放送を受信するためのもので、向島ニュータウンにいかに中国人が多かったかを物語っています。

 

 

京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩の生い立ちや経歴① 大人しい小学生時代

出典:https://pixabay.com/

 

岡村浩昌は1978年(昭和53年)京都府京都市伏見区に生まれました。

 

岡村浩昌が通っていたのは、事件現場となった日野小学校ではなく、その隣の小学校でした。

 

岡村浩昌は小学校時代はとても真面目で勉強も良くできましたが、その一方で友達がおらず、大人しい少年だったそうです。

 

ただ、足が速く持久力もあったようで、学校の駅伝大会の代表選手になることもありました。

 

3年生の頃に同じ伏見区内にある小学校に転校し、そのまま同学区内の中学校に進学しました。

 

 

京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩の生い立ちや経歴② 兄のDVでうつに

出典:https://pixabay.com/

 

岡村浩昌が中学1年生となった1991年の10月、父親が死去しました。

 

これ以降、兄が暴力的になって母へ家庭内暴力を振るうようになったそうで、兄の暴力が原因で岡村浩昌は落ち込みがちになり、うつ病になっていたと母親が証言しています。

 

その兄も就職して家を出ると、岡村浩昌は母親と2人暮らしになりました。

 

この頃の岡村浩昌は、兄の暴力の影響で大人しさに拍車がかかり、学校ではとても存在感の薄い存在だったと言われています。

 

岡村浩昌は中学時代は野球部に所属していましたが、当時の部員らは事件後の証言で、岡村浩昌がどのポジションだったのかも思い出せないくらい、影が薄かったと語っています。

 

以前一緒に遊んだこともある子供の話では、もともとは「優しいお兄ちゃん」という印象だったものの、中学卒業頃の岡村浩昌はかなり暗く、声をかけても返事はなかったと証言しました。 

 

一方で、岡村浩昌は成績はとても優秀だったことから、進路指導では先生から私立高校への進学を勧められていましたが、事情により府立高校を選択したようです。

 

 

京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩の生い立ちや経歴③ 高校の同級生の評価は良かった

 

 

1994年4月、岡村浩昌は京都府立洛水高等学校に入学しました。

 

「標準コース」のⅠ類と「学力伸長コース」のⅡ類のうち、岡村浩昌はⅡ類の理数系クラスの中でも上位1割に入る優秀な成績で入学したようです。

 

高校1年生の1学期に数学や科学でよく100点を取るなど、とても優秀な成績を修めていました。

 

また、岡村浩昌は陸上部に所属しており、1年生の2月に開催された全校生徒参加の持久走大会では20kmを走り、校内4位の好成績を記録。

 

短距離走と長距離走どちらも得意だった岡村浩昌は、400メートル走でも50秒台で走ることができるなど、中学校の頃の影の薄さから一転して、注目を集める存在になっていました。 

 

岡村浩昌の性格は大人しいままでしたが、高校では次第に友達ができるようになり、陸上部の仲間とはバカ話をするなど、普通の生徒として学生生活を楽しんでいたようです。

 

当時の同級生の証言では、「ひょうきんなところもあり、みんなから好かれていた」ということでした。

 

岡村浩晶は不登校になった

 

高校1年生の2学期から成績が急激に下降し始めた岡村浩昌は、次第に不登校になっていきます。

 

2年生に進級してすぐの1995年5月、年賀状のやり取りしかしていなかった小学校時代の教師の自宅を突然訪問しています。

 

岡村浩昌は恩師に不登校で悩んでいることを相談し、大検の受験を考えていると打ち明けたといい、かつての教え子の深刻な相談に、恩師は数時間にわたってしっかり相談に乗りました。

 

岡村浩昌はこの時、勉強が嫌いで学校に行かなくなったわけではないと恩師に呟くように伝えたといいます。

 

また、岡村浩昌は同月の中旬に4日連続で無断で学校を休み、 母親とともに学校を訪れています。

 

母親も息子が突然学校を辞めたいと言い出したことが理解できず、先生にアドバイスを求めました。学校側はすぐに教育相談会議を開き、岡村浩昌に精神科のカウンセラーを紹介しています。

 

不登校になった岡村浩昌は、定期試験の答案用紙も白紙で提出するようになり、2年生時は210日の出席日数のうち、約180日間も欠席しました。

 

出席日数が足りないことから岡村浩昌は留年が決まっています。

 

1年生の時とのあまりの豹変ぶりに、心肺になった陸上部の友人が質問しても、岡村浩昌はヘラヘラと笑って答えなかったといいます。

 

その後、岡村浩昌は順当に卒業した陸上部の仲間に突然電話をかけて、「おまえは何のために生きているのか。おれには学校に行く意味がわからない」と話したこともあったそうです。

 

 

留年し、再び不登校になった

 

留年により、もう一度2年生をやり直すことになった岡村浩昌ですが、再び不登校になり、学校に行かなくなりました。

 

それでもなんとか3年生に進級することができたものの、1997年11月には岡村浩昌が高校を退学して大検で大学を受験すると言っていると母親が学校に相談しています。

 

そんな岡村浩昌は、高校3年生の秋頃に、小中学校時代の特に親しくもなかった同級生の家を突然訪ねて、「小学校時代のビデオがあるから一緒に見ないか」と持ちかけました。

 

同級生が岡村浩昌の不気味な様子に戸惑っていると、 岡村浩昌は「もういい」とだけ言い残して立ち去ったといいます。

 

この頃、岡村浩昌は再び学校を欠席するようになっていて、母親の説得により単位が足りなかった教科の追試験を受けています。

 

しかし、英語の1科目のみ落第し、卒業式の日には単位取得が間に合わず、参加できませんでした。

 

 

京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩の生い立ちや経歴④ 高校にクレームを入れ続ける

 

1999年3月10日に英語の追試を受けた岡村浩昌は、翌日の職員会議で卒業が認められ、同月16日に校長室の隣にある応接室で1人だけの卒業式が開かれました。

 

岡村浩昌はこの卒業式を納得して出席していましたが、 教師たちには「母親がいうから来ただけ」と言い、教師たちから励まされても嬉しそうな顔を少しも見せなかったといいます。 

 

 

岡村浩晶は高校卒業後は引きこもりになった

 

岡村浩昌は高校卒業後に浪人生活となりましたが、勉強は全くせずにテレビゲームに没頭するなど部屋から出てこなくなりました。

 

事件後に岡村浩昌の部屋に捜査に入った捜査員によれば、窓は全てダンボールで目張りされて非常に薄暗く、大学受験の参考書などは一切なかったそう。

 

高校時代の陸上部の仲間ともたまに会っていましたが、証言によれば「人が変わったように暗くなっていた」と語っており、次第に疎遠になっていったようです。

 

挨拶もせず、無言で陰鬱な空気を常に出していた岡村浩昌は、近所でも気味の悪い存在としてどんどん評判を落としていきました。

 

この頃の岡村浩昌は、団地の踊り場の塀にもたれかかって長い時間ぼーっとしていたり、昼間から自転車で団地の駐車場をぐるぐる回ったりと、奇妙な行動をとるようになっていきました。 

 

 

岡村浩晶は母校の高校にクレームを入れ始めた

 

岡村浩昌は高校卒業してすぐに母校を訪れて、高校を卒業させたことについてクレームを入れ始めました。

 

いくらでもお金を払うから大検を受験するために卒業を取り消して欲しい」と取り憑かれたように、何度も高校にクレームを言いにきたそうです。

 

そのため、担任や校長の他にも、岡村浩昌の在学中に関わったほとんどの教師が対応に迫られることとなりました。

 

岡村浩昌は1998年4月から1999年7月にかけて、実に母校を13回訪ねて計17人の教師が計27時間の対応にあたることになりました。

 

学校側としては、岡村浩昌は温情ではなく正当な手続きで高校を卒業したのであり、大検を受けなくてもすでに大学を受験する資格を持っていると説得しました。

 

ですが、岡村浩昌は取り憑かれたように大検に執着していたため、聞き入れることはありませんでした。 

 

 

岡村浩晶は異常行動を見せ始めた

 

 

何度教師に説得をされても、岡村浩昌は聞く耳を持ちませんでした。

 

そればかりか、在学中に倫理や哲学の授業をするべきで、人生についてのレポートを書かせて卒業資格にするべきだったと主張し、人生の哲学を考えたいと手紙を送るなどしていました。

 

愛想をつかして対応する教師が少なくなると、岡村浩昌は学校内をうろつき回るようになります。

 

また、卒業のために単位を認定した担当の教師が市外に転勤すると、それを追いかけて転勤先に押しかけていくなど異常行動をとっていました。

 

事件直後となる1999年12月24日と、自殺直前の2000年1月25日にも岡村浩昌は母校を訪れており、校長への面会を要求していました。

 

岡村浩晶は自動車免許を取得した

そんな岡村浩昌は高校卒業直後の1998年夏頃に、京都府南部にある自動車教習所に通って翌年には免許を取得しています。

 

この教習所では修了時に、教習所を選んだ理由や教官の教え方についてのアンケートを実施しており、岡村浩昌はその解答用紙にはみ出すほど長文を綴っていたといいます。

 

そして、高校の教師たちと比べると教官の親切さに驚いたと記していました。

 

免許を取得後、岡村浩昌は母親からオートバイを買ってもらって、毎日磨いて大事にしていたそうです。

 

京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩の生い立ちや経歴⑤ 登美ケ丘高校で事件を起こす

京都小学生殺害事件

出典:https://lh3.googleusercontent.com/

 

1998年12月31日、岡村浩昌は奈良県奈良市にある奈良県立登美ケ丘高等学校に侵入

 

窓硝子34枚を割り、カーテン31枚を刃物で切り、消火器を廊下へぶちまけるという建造物不法侵入及び器物損壊事件を起こしていました。

 

岡村浩昌は「京都小学生殺害事件」と同様に、犯行現場に十数枚の犯行声明を残しています。

 

「私は学校に嫌なことをされた。その報復としてガラスを割った。私は日本人で一億二千何人かのだれかだ。いつか名のり出るつもりだ。出ても出なくても手紙を送る。ちょっとまっててくれ。識別記号‥きどきてきたきりきし 1234567810」

 

犯行声明の1つにはこのように書かれていました。

 

事件発生の翌日に高校が奈良西警察署に通報したことから署員が現場に訪れましたが、よくある学校へのいたずらだと判断されたようです。

 

なお、この犯行声明にあった識別番号は、京都小学生殺害事件の犯行声明にあった「てるくはのる」と同じページから記号を作成していたことが、後の捜査により明らかになっています。

 

 

奈良県立登美ケ丘高等学校の事件は岡村浩自殺後に判明した

 

1999年11月1日、岡村浩昌は登美ケ丘高宛てに、B5判のノートページ2枚にわたり、鉛筆で書いた謝罪の手紙を送っていました。

 

それには「自分が窓ガラスを割った。ガラス代は出来るだけ弁償する」などと書かれてあったそうです。

 

高校はこの手紙を奈良西警察署へ提出しましたが、京都小学生殺害事件が発生してからもしばらくは、この手紙が京都小学生殺害事件と関連があるとは誰も気づいていませんでした。 

 

岡村浩昌が自殺した後となる2000年2月7日、京都府警から連絡を受けたことで、奈良西警察署は初めて関連性を認識したのです

 

岡村浩昌がこの登美ケ丘高への事件の犯人だと判明したきっかけは、自宅から奈良県の事件についても自分の犯行だとするメモが見つかったためでした。

 

これにより、岡村浩昌はすでに死亡していましたが、京都小学生殺害事件と合わせて書類送検されました。

 

ここまでが、京都小学生殺害事件の犯人・岡村浩昌が事件を起こすまでの生い立ちや経歴です。

 

精神異常に陥っていったきっかけは、父親の不在と家庭内暴力を振るっていた兄の存在が大きかったのかもしれません。

 

高校1年生の時はうまく行っていたように見えた岡村浩昌でしたが、精神的にはギリギリで、学校へ行く意味や生きる理由が苦しんでいたことがうかがえます。

 

だからと言って、何の罪もない偶然居合わせた男児を殺害してしまった罪は許されません。自殺したことで、きちんと罪を償っておらず、動機などの真相も不明のままです。

 

ご遺族の無念ははかりしれないでしょう。 今後、このような事件が起こらないことを祈るばかりです。

 

 

まとめ

 

1999年12月21日に発生した、京都小学生殺害事件の経緯、犯人・岡村浩昌の生い立ちや経歴を中心にまとめてきました。

 

岡村浩昌はある意味どこにでもいるような大人しい少年でしたが、父親の病死や兄の理不尽な暴力によって、次第に精神を病むようになっていったようです。

 

警察に事情聴取を受けた直後、ためらいなく自殺していることから、岡村浩昌はもともと強い自殺願望を持っていた可能性もあります。

 

最後に、亡くなった少年のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 

 

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