石原裕次郎さんは昭和を代表する役者で、「石原プロモーション」の解散も話題です。
今回は石原裕次郎さんの身長やプロフィール、家族と家系図、結婚した嫁、子供や孫の有無、若い頃の活躍や最後、大動脈乖離など病歴や死因を紹介します。
この記事の目次
- 石原裕次郎のプロフィール:昭和を代表する役者・身長は178cm
- 石原裕次郎の家族① 父親と母親
- 石原裕次郎の家族② 兄は小説家の石原慎太郎
- 石原裕次郎の兄・石原慎太郎のプロフィール
- 石原裕次郎の豪華すぎる家系図:小泉純一郎とも繋がりが
- 石原裕次郎の甥は4人で、政治家・タレント・画家と個性豊か
- 石原裕次郎の甥① 石原伸晃のプロフィール
- 石原裕次郎の甥② 石原良純のプロフィール
- 石原裕次郎の甥③ 石原宏高のプロフィール
- 石原裕次郎の甥④ 石原延啓のプロフィール
- 石原裕次郎が結婚した嫁・石原まき子は役者の北原三枝
- 石原裕次郎の嫁・北原三枝(石原まき子)のプロフィール
- 石原裕次郎に子供・孫はいない
- 石原裕次郎の若い頃の経歴① 慶応義塾大学に進学
- 石原裕次郎の若い頃の経歴② オーディションに落ちまくるも兄の後押しでデビュー
- 石原裕次郎の若い頃の経歴③ 「狂った果実」でブレイク
- 石原裕次郎の若い頃の経歴④ 石原プロモーションを創立
- 石原裕次郎の若い頃の経歴⑤ ドラマ「太陽にほえろ!」で主演
- 石原裕次郎の若い頃の経歴⑥ 主演から退くも数々の名作に出演
- 石原裕次郎の闘病歴① 舌下潰瘍や舌がんを発症
- 石原裕次郎の闘病歴② 大動脈隔離、難聴なども患う
- 石原裕次郎の最後① 死因は肝細胞がん・享年53歳だった
- 石原裕次郎の最後② 法要「あじさい忌」には数多くの人達が参列
- 石原裕次郎の現在:石原裕次郎記念館が閉館・石原プロモーションも解散
- まとめ
石原裕次郎のプロフィール:昭和を代表する役者・身長は178cm
出典:https://www.teichiku.co.jp/teichiku/artist/yujiro/profile/
背年月日:1934年12月28日
出身地:兵庫県
所属事務所:石原プロモーション
石原湯次郎さんは役者・歌手で、身長は当時としてはかなりの高身長の178cmでした。
また、自身が所属していた芸能プロダクション「石原プロモーション」の創立者でもあります。
同プロダクションは役者の渡哲也さんや舘ひろしさんらが所属していたことで知られ、所属タレントは”石原軍団”として親しまれていました。
そんな石原湯次郎さんは”昭和を代表する役者”と称されるほどの活躍を見せた一方で、ヨットマンとしても活動。
また、兄は小説家で政治家の石原慎太郎さんであることも有名です。
石原裕次郎の家族① 父親と母親
石原裕次郎さんは、海運会社「山下汽船(現在の商船三井)」の社員だった父親のもとに誕生。兵庫県・神奈川県で育ちました。
なお、母親の光子さんについては、テレビ朝日系列で放送されたドキュメンタリー番組「グレートマザー物語」で次のように紹介されています。
光子は昭和7年、23歳の時、10歳年上の石原潔と見合いをし、結婚。その年に長男・慎太郎、二年後の昭和9年に次男・裕次郎が生まれた。夫・潔は、海運会社の雄、山下汽船に勤めていた。豪放磊落な夫は、仕事に宴会に多忙を極め、なかなか家に帰らない。一時は離婚を考えたこともあった。しかし、夫は無類の子煩悩。光子も、“子どもの性格を知り、良いところを信じて伸ばす”を信条に子育てをした
引用:石原慎太郎・裕次郎の母
石原裕次郎の家族② 兄は小説家の石原慎太郎
出典:https://www.amazon.co.jp
石原裕次郎さんの兄は、小説家・政治家の石原慎太郎さん。
石原裕次郎さんは、石原慎太郎さんの小説を映画化した作品に出演したことで、役者としてブレイクを果たしました。
ちなみに、前述のグレートマザー物語では、石原慎太郎・裕次郎兄弟にまつわるエピソードについても触れています。
何事も素直に聞く慎太郎と、行動的・直感的な裕次郎を同じように育てても無理だと心得ていた。昭和18年、一家は小樽から逗子に転居した。海の町で育った慎太郎・裕次郎兄弟は、ある日、父親にヨットをせがむ。父は躊躇したが、母は「女の子だったらピアノを買うつもりだったから」と購入を進言。この言葉が決め手となって、兄弟はヨットを手に入れた。このヨットが、兄弟のその後の人生を象徴するものとなる。
引用:石原慎太郎・裕次郎の母
石原裕次郎の兄・石原慎太郎のプロフィール
生年月日:1932年9月30日
出身地:兵庫県
職業:作家・政治家
所属:次世代の党
石原慎太郎さんは作家で、政治家でもある人物です。また、環境庁長官・運輸大臣・東京都知事・日本維新の会代表などを務めた経験があります。
石原慎太郎さんは、一橋大学在学中である1956年に作家としてデビュー。
デビュー作である小説『太陽の季節』が「第34回芥川賞」を受賞。同作に感銘を受け、主人公のような振る舞いをする若者が続出し、”太陽族”と称される社会現象となりました。
さらに、同作が映画化された際には弟・石原裕次郎さんをキャスティングでプッシュし、その役者人生を後押ししたことでも知られています。
そのほかも、著書『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』『弟』などがミリオンセラーに。
そして、1968年に参議院議員に当選したことを機に政治家へと転向。福田内閣では環境庁長官、竹下内閣では運輸大臣を務めました。
東京都知事としては1999年に初当選を果たして以降、2012年まで職務をまっとう。
同年の「第46回衆議院議員総選挙」に日本維新の会として出馬・当選を果たし、国政へと復帰しています。
しかし、日本維新の会から次世代の党に移ったのちの2014年に、「第47回衆議院議員総選挙」で落選すると、政界から引退しました。
2021年にはかねてより患っていたという膵臓がんが再発し、医師より「余命3ヵ月」と宣告されていたという石原慎太郎さん。2022年に死去しており、享年は89歳でした。
石原慎太郎さんが亡くなった際には、息子4人がそれぞれコメントを発表。
その中でも次男の石原良純さんは、「父親としてはかなりユニークな人だった」とその半生を振り返っていました。
「僕は石原慎太郎という人は作家だと思っていました」と振り返った。体が動かなくなっても日々、文章をつづっていた父について「まさしく文学者」と表現した。一方で「家庭人というか、父親としてはかなりユニークな人だった」としつつ「やっぱりひとつの時代を築いた父でありますから、父が抜けていなくなった後、より僕らも頑張っていかなければならない」と決意を口にしていた。
石原裕次郎の豪華すぎる家系図:小泉純一郎とも繋がりが
石原裕次郎さんと小説家・政治家である石原慎太郎さんが兄弟、というだけでもすごいことではありますが、石原慎太郎さんの嫁・典子さんもまた凄い人物なんです。
典子さんの叔父・石田茂蔵さんの孫である美枝子さんは、のちに政治家・小泉純一郎さんの弟、小泉正也さんと結婚。
石原裕次郎さんとは直接血のつながりはないものの、小泉家と石原家が典子さんによって”遠縁”としてつながることに。
単なる偶然かもしれませんが、それぞれに政治家・芸能人がいる石原家と小泉家。両家に薄かれど縁があるというのは面白いものですね。
石原家と小泉純一郎元首相らの小泉家は実は親戚関係にある。そのため、結婚式などでは両家が顔を合わせることも。08年に行われた共通の親類の結婚式には石原慎太郎夫妻と小泉純一郎親子が、そろって出席。石原さんが進次郎氏の顔を見るなり、「この髪形でいいのか」とイマドキの髪形に苦言を呈したというエピソードもある。
石原裕次郎の甥は4人で、政治家・タレント・画家と個性豊か
石原裕次郎さんの兄・石原慎太郎さんには4人の子供がおり、全員息子です。
そのため、石原裕次郎さんにとっては甥が4人いることになります。
石原慎太郎さんの長男・石原伸晃さんと3男・石原宏高は政治家で、次男はタレントや気象予報士として有名な石原良純さん。4男は画家の石原延啓さんです。
石原裕次郎の甥① 石原伸晃のプロフィール
生年月日:1957年4月19日
出身地:神奈川県
職業:政治家
石原伸晃さんは政治家で、規制改革担当大臣・国土交通大臣・自民党幹事長・環境大臣なども務めてきました。
慶応義塾大学の文学部社会学科を卒業後、日本テレビへと入社。報道局で大蔵省・外務省・首相官邸などを担当したのち、1989年に退社しました。
その翌年となる1990年に「第39回衆議院議員総選挙」で初当選を果たすと、自民党へ入党。
“安倍派”として活動し、1996年には通商産業政務次官として愛知万博を誘致しました。
そして、2001年の小泉内閣では規制改革担当大臣・国務大臣として初入閣を果たした石原伸晃さん。当時、天下りや予算の無駄遣いが問題となっていた特殊法人の改革などを進めました。
国土交通大臣時代には、ETCの普及に尽力。2010年には自民党幹事長に起用されています。
その後、安倍内閣では環境大臣・内閣府特命担当大臣を務めました。
2021年には「第49回衆議院議員総選挙」で立憲民主党の公認候補であった新人・吉田晴美に敗れています。
石原裕次郎の甥② 石原良純のプロフィール
生年月日:1962年1月15日
出身地:神奈川県
職業:タレント・気象予報士・役者
所属事務所:湘南ブラザース
石原良純さんはタレントで、気象予報士や役者としても活躍。
慶應義塾大学の経済学部経済学科在学中に、叔父・石原裕次郎さんの見舞いに訪れたところをスカウトされたのだそう。
そして、石原裕次郎さんの創立した「石原プロモーション」へと入社し、主演映画「凶弾」でスクリーンデビュー、同作で「日本アカデミー賞」の新人俳優賞を受賞しました。
それ以降、石原裕次郎さんと関わりの深いドラマ「西部警察 PART-III」「太陽にほえろ!」などに出演。
1989年に石原プロモーションを退社すると、1997年に気象予報士試験に合格。さらには劇団「★☆北区つかこうへい劇団」にも入団します。
以降、お天気キャスター・タレント・役者と三足のわらじで活躍し続けた石原良純さん。当時、「好きなお天気キャスター、気象予報士」ランキングでも3年連続で1位を獲得しました。
現在もバラエティ番組を中心に、多数の番組に出演。
プライベートでは2002年に皮膚科医の女性と結婚し、1男1女が誕生しています。
石原裕次郎の甥③ 石原宏高のプロフィール
生年月日:1964年6月19日
出身地:神奈川県
職業:政治家
石原宏高さんは政治家で、慶應義塾大学の経済学部経済学科を卒業。
1988年に日本興業銀行へと入行し、2003年の「第43回衆議院議員総選挙」に自由民主党公認で出馬しました。しかし、民主党の松原仁さんに破れて落選。
その後の2005年の「第44回衆議院議員総選挙」で初当選を果たしました。
2009年に再び落選するも、2012年に国政へと復帰。安倍内閣では外務大臣政務官に就任しましたが、その翌年に退任しています。
その後は自民党内閣第二部会長や衆議院環境委員長として尽力するも、2021年の「第49回衆議院議員総選挙」で落選してしまいました。
石原裕次郎の甥④ 石原延啓のプロフィール
生年月日:1966年8月22日
出身地:神奈川県
職業:画家
石原延啓さんは画家・美術家です。
慶應義塾大学の経済学部を卒業後、1991年に「ニューヨークスクールオブビジュアルアーツ」のファインアート科を卒業。
水彩やコラージュを用いたいわゆる抽象画を数多く手がけてきましたが、近年はアクリル絵具も使用。
神話をモチーフとした絵画や、ウォールペインティングなども制作されているのだとか。
東京のほか、ニューヨークでも個展を開いているそうです。
石原裕次郎が結婚した嫁・石原まき子は役者の北原三枝
石原裕次郎さんは、1960年に役者の北原三枝(本名:荒井まき子)さんと結婚。
2人は兼ねてより交際が噂されており、同年1月にはアメリカへ旅行に行ったことが報じられていました。
そして、4月に婚約を発表。12月には結婚式の様子が各メディアで報じられ、”日本一”とも言われたビッグカップルの誕生を、日本中が祝福しています。
二日はファンが待ちこがれた〝日本一のカップル〟日活・石原裕次郎(二六)と北原三枝=本名荒井マキ子(二七)=の結婚式。新郎裕ちゃんはモーニング、新婦マコちゃんは五葉の松の花嫁衣装にツノカクシの晴れ姿で媒酌人の堀久作日活社長夫妻に付き添われ、四時から東京日比谷の日活会館フラワー・ルームでとどこうりなく挙式をすませた―。1960年12月3日付日刊スポーツで振り返る。
ちなみに、嫁・まき子さんは2018年の会見で婚約指輪をもらった際のことを以下のように振り返っていました。
まき子夫人は、婚約指輪を受け取った時の記憶を「私どもの時代は俳優同士の恋愛は御法度でしたが、裕次郎さんは『堂々と受け取ってほしい』と言ってくれました。60数年前は困難を極めることでしたが、押し通した第1号でした」と回想しながら「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております。52歳の裕次郎さんで止まっているけど、82歳の裕次郎さんも見たいと思います」と語った。
引用:石原まき子さん 裕次郎さん32回忌法要で「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております」「石原裕次郎の軌跡」展の開催を発表
2人の結婚指輪、婚約指輪、結婚1年記念の指輪
また、まき子さんが感じた石原裕次郎さんの第1印象は「芥川賞作家である石原慎太郎氏の弟」としか思わなかったそう。
さらに、挙式当日の石原裕次郎さんはなんと朝帰りをしており、最中もうたた寝ばかりだったとも語っています。
石原裕次郎の嫁・北原三枝(石原まき子)のプロフィール
生年月日:1933年7月23日
出身地:東京都
職業:役者・芸能プロモーター
所属事務所:松竹→日活→石原プロモーション
北原三枝(石原まき子)さんは役者であり、芸能プロモーターとして活躍した人物でもあります。
また、石原裕次郎さんの嫁であり、石原裕次郎さんが創立した芸能事務所「石原プロモーション」にて代表取締役会長を務め、石原裕次郎記念館でも館長を務めていました。
北原三枝さんは中学校を卒業すると、舞踊集団「日劇ダンシングチーム(通称NDT)」に入団。5期生として活躍したのち、1952年に退団します。
その後、映画制作会社「松竹」ニューフェイスに合格。同年に公開された「カルメン純情す」に出演し、本格的な役者デビューを果たしました。
1954年になると、映画制作会社「日活」へと移籍。すぐに看板女優として活躍し始めます。
そして、1956年公開の映画「狂った果実」で、のちの旦那となる石原裕次郎さんと初共演して以降、23作にも上る作品で共演。
いずれの作品も好評を博し、”ドル箱コンビ“と称されていました。
前述のとおり、1960年に石原裕次郎さんと結婚した北原三枝さんは、同年公開の映画「闘牛に賭ける男」への出演を最後に、役者を引退。
引退後は、「石原プロモーション」の経営を陰から支え、石原裕次郎さん亡きあとは、代表取締役として尽力しました。
2011年からは代表取締役会長を務めていましたが、加齢による実務への影響を考えて2020年に同プロダクションの閉鎖を決断。2021年に閉鎖しています。
閉鎖後は、石原裕次郎の遺品管理をメインとする「一般社団法人ISHIHARA」や、関連作品の版権を管理する「石原音楽出版社」に携わりました。
石原裕次郎に子供・孫はいない
石原裕次郎さんと石原まき子さんの間には子供がいません。そのため、孫もいないということになります。
坂上忍はまき子夫人に子供はいるのかと尋ねると、夫人は「いない」と明かし、石原裕次郎氏が仕事を優先にしていたと打ち明けた。
しかし、石原裕次郎さん亡きあと、石原まき子さんは甥である邦彦さんと養子縁組。
石原姓となった石原邦彦さんは、石原まき子さんの後を継いで前述の「一般社団法人ISHIHARA」「石原音楽出版社」の代表に就任しています。
石原裕次郎の若い頃の経歴① 慶応義塾大学に進学
出典:https://www.google.com/maps/
石原裕次郎さんは、中学校の頃からバスケットボールに熱中。高校2年生時に負傷したことで、オリンピック出場の夢を諦めました。
その後、慶應義塾高校を受験するも不合格に。慶應義塾農業高等学校へと進学し、1951年に慶應義塾高校に編入しています。
そして慶應義塾大学の法学部政治学科に進学し、在学中に役者を志すようになりました。
石原裕次郎の若い頃の経歴② オーディションに落ちまくるも兄の後押しでデビュー
出典:https://www.amazon.co.jp
今では昭和のレジェンド俳優として君臨する石原裕次郎さんですが、意外なことに、東宝・大映・日活などあらゆる映画制作会社のオーディションを受けるも、すべて不合格。
デビューの経緯については諸説あるものの、有力とされているのが、兄・石原慎太郎さんの猛プッシュがあったという説です。
それによれば、石原慎太郎さんが芥川賞を受賞した『太陽の季節』が映画化する際に、石原慎太郎さん、そして同作のプロデューサーからの推薦で、端役でスクリーンデビューを果たします。
ちなみに、同作の前にも石原慎太郎さんの猛プッシュにより、大映制作の映画「処刑の部屋」で主演を務める話もあったそう。
しかし、石原慎太郎さんがそれを断り、「太陽の季節」を制作する日活と契約することになったといいます。
実は裕次郎のデビューについてはいくつかの説があるが、初めは主演を慎太郎自身が希望したが、その時すでに彼は6月1日付で東宝と3本の出演契約を結んでおり、五社協定の制約から不可能となって、結局、主演は長門に決定した。しかし、それならばと弟を日活に入社させて、端役ではあるが『太陽の季節』に出演させ、自分の当初の意志を貫こうとした説が有力と言われている。
引用:石原裕次郎
石原裕次郎の若い頃の経歴③ 「狂った果実」でブレイク
その後、石原裕次郎さんは「太陽の季節」と同じ年に公開された、こちらも石原慎太郎原作の映画「狂った果実」で主演。さらには歌手デビューも果たしました。
また、同年公開の映画「乳母車」で見せた演技が高く評価され、「製作者協会新人賞」を受賞。
石原裕次郎さんは慶応義塾大学を中退し、役者の道を邁進することになります。
「狂った果実」では裕次郎の歌の魅力も引き出され、慎太郎作詞、佐藤勝作曲の主題歌をレコーディング、これが歌手・裕次郎のデビュー曲となる。続いて巨匠・田坂具隆監督に起用され、文芸大作「乳母車」56に出演。その伸び伸びした素直な演技が高く評価され、“太陽族”批判の人たちに好感を持たれ始めるとともに、裕次郎の真価が改めて認められるようになる。
引用:石原裕次郎
石原裕次郎の若い頃の経歴④ 石原プロモーションを創立
石原裕次郎さんはその後もヒット作に恵まれ、1957年公開の映画「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」などでその人気を確固たるものにしました。
正月映画「嵐を呼ぶ男」57は、総配収3億5600万円という空前の大ヒット。主題歌も15日間で8万5000枚を売上げるという記録破りの成績に、ついに3月新譜のプレスは一時中止、裕次郎のレコードにかかりっきりという凄まじさとなって、「勝利者」ほかの演技によりブルーリボン賞新人賞受賞のおまけまでついた。
引用:石原裕次郎
以降もその人気はとどまらず、1960年公開の映画「あじさいの歌」「闘牛に賭ける男」などで主演。
1962年頃より新たな役柄にも挑戦するようになり、1963年には芸能事務所「石原プロモーション」を設立。
同事務所は制作プロダクションも兼ねており、同年には映画「太平洋ひとりぼっち」を製作。同作は「芸術祭賞」を獲得しています。
その後、1968年に製作した映画「黒部の太陽」が大ヒット。
以降も巨額の製作費を投入した映画作品を作り上げていくも、映画界全体の興行成績が悪化しており、事務所の経営に影響を及ぼし始めます。
巨額の費用を投じ、ハリウッド俳優を主役に抜擢するなどした「ある兵士の賭け」は大失敗に終わり、31500円が大卒初任給だったところ、6億円の夫妻を抱えることとなった。預金額が5万円だったこともあった他、裕次郎氏は悔し涙を流したことも。まき子夫人は家を売却して返済の足しにしようと思ったが、売らなくてすんだと明かした。
石原裕次郎の若い頃の経歴⑤ ドラマ「太陽にほえろ!」で主演
1971年になると、石原裕次郎さんは結核を患い一時休養します。
それまで石原裕次郎さんは映画を中心に活躍しており、ドラマにはほとんど出演していませんでしたが、1972年にとある転機が訪れます。
それが、大ヒットドラマとなった「太陽にほえろ!」です。
石原裕次郎さんは当初、難色を示していたものの、様々な映画で共演して旧知の仲だった映画監督・舛田利雄さん、そして東宝や日本テレビ関係者からの熱心な交渉によって出演を承諾。
その背景には、前述のような事務所が製作した映画の興行収入の悪化もあったようです。
なお、同作への出演は当初「13話だけ」というのが条件だったそう。
そして石原裕次郎さんは約束通り、13話で降板しようとしていましたが、同作の大ヒットもあり嫁のまき子さんや共演者の竜雷太さんが説得。
同番組のプロデューサー・岡田晋吉さんはのちに著書で、説得時の様子を明かしています。
竜雷太は同じ役者同士として、飲むにつれ本音が飛び出した。自分はテレビで育ったという自負があるからか、それとも酔った勢いからか、突然、石原に嚙かみついた。「テレビをバカにしないでください!」一瞬、わが耳を疑った。石原も驚いている。「ボス、テレビっていうのは、捨てたもんじゃないですよ」
竜雷太さんらからの熱い説得を受けた石原裕次郎さんは、それに応じる形で同作への出演を継続することを決断。
この決断は石原プロモーションにとっても最善だった上、同作で”ボス”を演じたことで、若い頃の石原裕次郎さんの活躍を知らない若年層からも高い人気を得ました。
石原裕次郎の若い頃の経歴⑥ 主演から退くも数々の名作に出演
その後、1973年に公開された映画「反逆の報酬」で主演を務めて以降は、石原裕次郎さんは主演から遠のき、企画・助演に注力します。
1976年からスタートしたドラマ「大都会シリーズ」、1979年からスタートした「西部警察シリーズ」などに出演しました。
72年4月、日本テレビ『太陽にほえろ!』に出演、七曲署捜査一係の刑事たちを指揮する敏腕係長に扮し、初の本格的テレビ出演とあって高視聴率を獲得。この時の“ボス”が新しい世代の裕次郎への愛称となる。続いて石原プロ制作の日本テレビ『大都会』76~78に出演。主演は渡哲也で、自らはサポート役に徹した。こうして裕次郎の活動の中心はテレビに移っていったのである。
引用:石原裕次郎
その後、1982年にアニメ映画「わが青春のアルカディア」での主人公の吹替を担当。
1986年に入ると、「太陽にほえろ!」を一時降板。理由は病気療養のためで、代役を同じ事務所に所属する渡哲也さんが務めました。
同作の最終回のみ復帰し、7分ものアドリブで命の大切さを語るも、このシーンが石原裕次郎さんにとって最後の演技となりました。
石原裕次郎の闘病歴① 舌下潰瘍や舌がんを発症
石原裕次郎さんは亡くなるまで、いくつもの病気と闘ってきました。
1978年に舌下潰瘍で手術。さらには舌がんであると診断されていました。しかし、舌がんであることは本人に告げられていなかったといいます。(その後、1983年に再発)
舌がんは舌にできるがんで、口腔がんの1つです。口腔がんは、舌のほか、歯茎はぐきや、上あご、頬ほおの粘膜などにできるがんです。なお、舌根の部分にできたがんは、がんの分類上、舌がんではなく中咽頭がんに該当します。舌がんの多くは、扁平上皮細胞へんぺいじょうひさいぼうという、舌の表面を覆う細胞から発生します。がん細胞は、腫瘍が大きくなるにつれて、舌の組織の深い場所にまで広がっていきます。
引用:舌がんについて
続く1979年には、舌下白板症を患っています。
舌や歯茎(歯肉)、頬の内側の粘膜(頬粘膜)、舌の下の粘膜(口腔底)、左右の上の歯茎の間の粘膜(口蓋)などにできる擦っても取れない白斑である。そのまま放置していると口腔がんになる可能性がある症状として口腔潜在的悪性疾患と呼ばれている。白斑のなかにただれ(びらん)や潰瘍などの赤い部分があると、すでに初期の口腔がんであったり後にがん化しやすかったりする。
引用:口腔白板症
石原裕次郎の闘病歴② 大動脈隔離、難聴なども患う
出典:https://pixabay.com/
ドラマ「西部警察」でロケの最中だったという1981年には、背中と胸に激痛が走ったことで緊急入院。
解離性大動脈瘤であることが判明し、”生存率3%”とも言われた大がかりな手術が行われました。
大動脈は、外膜、中膜、内膜の3層構造となっており、十分な強さと弾力を持っていますが、なんらかの原因で内側にある内膜に裂け目ができ、その外側の中膜の中に血液が入り込んで長軸方向に大動脈が裂けることを大動脈解離といいます。原因は不明ですが、動脈硬化や高血圧が関係しているともいわれています。マルファン症候群などの大動脈の中膜が弱い先天性(生まれつき)の病気との関係も知られています。
無事、手術を乗り越えた石原裕次郎さんは奇跡的に回復し、無事に退院。しかし、退院後も首・腰の痛みや発熱に悩まされ、右耳も難聴となってしまったのだそう。
そして、1983年に肝細胞がん、1984年に肝臓がんが発覚するも、これらについても石原裕次郎さん自身へは告知されなかったといいます。
肝細胞がんは、肝臓の細胞ががん化したものです。肝細胞がんの発生には、B型肝炎ウイルスやC型肝炎ウイルスの感染、アルコール性肝障害、非アルコール性脂肪肝炎などによる、肝臓の慢性的な炎症や肝硬変が影響しているとされています。
引用:肝細胞がんについて
1986年には、高熱が長引いたことで入院。血圧降下剤による副作用・肝内胆管炎であると診断され、退院後はハワイで静養生活を送っていたとのことです。
胆管とは、肝臓で作られる胆汁が、肝臓から十二指腸へ流れ出る道です。胆管が、胆石や癌(がん)などで詰まることで、胆汁の流れが滞り、胆管内の圧力が高まり、身体症状として、腹痛や黄疸が生じます。このような状態になったときに、腸内の細菌などが胆管に逆流し、細菌感染を引き起こすことがあります。これを急性胆管炎と言い、発熱といった症状がでてきます。
引用:急性胆管炎
石原裕次郎の最後① 死因は肝細胞がん・享年53歳だった
石原裕次郎さんは1987年に死去しました。死因は肝細胞がんで、享年53歳という若すぎる死を迎えました。
同年4月、ハワイ滞在中に体調不良となった石原裕次郎さんは急遽日本へと帰国。検査入院ののちに退院できたものの、その3日後に再入院となっています。
さらに容体が悪化し、肝性脳症による幻覚症状なども現れていたそう。その後、意識不明となり7月17日に心停止。
一度は心拍が復活したものの、再び心停止となり、死去しました。
肝性脳症とは、肝硬変や肝臓がんなどによって肝臓の機能が著しく低下し、肝臓で代謝されるアンモニアなどの有害な物質が体内にとどまることで発症する病気です。
有害な物質が脳にダメージを与えるため、性格や行動の変化、睡眠リズムの乱れなどの症状が引き起こされます。進行すると、錯乱や昏睡、運動機能の異常などの症状が現れて死に至ることもあります。
引用:肝性脳症
なお、石原裕次郎さんは嫁・まき子さんに「俺が死んだらすく会社をたたむように」と遺言を残していたそうです。
しかし、まき子さんは石原裕次郎さんを慕う役者・スタッフらにそれを申し出ることができず、石原プロモーションはそのまま経営を続けることになったといいます。
石原裕次郎の最後② 法要「あじさい忌」には数多くの人達が参列
石原裕次郎さんが亡くなったあと、生前に録音していたという新曲「北の旅人」「我が人生に悔いなし」を発売しており、特に「北の旅人」が大ヒット。
また、法要は石原裕次郎さんが好きだったというあじさいにちなみに、「あじさい忌」と名付けられ、石原プロモーションの役者・スタッフだけでなく、数多くのファンが参列しました。
87年に死去した石原裕次郎さん(享年52)の場合、青山葬儀所での葬儀に約3万3500人が参列、93年の七回忌は3万8000人、99年の十三回忌は20万人以上が参列した(いずれも総持寺)。09年の二十三回忌は国立競技場で行われ、約12万人が訪れた。
その後、1991年に「石原裕次郎記念館」を設立。これまでに数多くのファンが石原裕次郎さんをしのびに訪れています。
石原裕次郎の現在:石原裕次郎記念館が閉館・石原プロモーションも解散
石原慎太郎さん亡き後に作られた「石原裕次郎記念館」ですが、年月の経過とともに入場者数が減少傾向に。また、施設の老朽化も要因となり、2017年に閉館となりました。
代わりに、翌年の2018年より、全国で石原裕次郎さんに関連する品々を展示する展覧会が開催されています。
また、石原裕次郎さん亡きあと、嫁のまき子さんらが守ってきた「石原プロモーション」も、2021年に芸能事務所としての業務を終了、解散となりました。
故石原裕次郎さんが1963年に設立した石原プロモーションが、来年1月16日をもって看板を下ろす。裕次郎さんの命日にあたる7月日に分かった。現在、渡哲也や舘ひろし、神田正輝らが所属しているが、マネジメント業務を取り止め、版権管理業務等に専念する。通称「石原軍団」は解散となる
まとめ
石原裕次郎さんは昭和を代表する名優で、歌手としても成功しています。
また、芸能事務所「石原プロモーション」を設立し、役者のマネジメントだけではなく映画製作などにも携わっていました。
そんな石原裕次郎さんは、小説家・政治家の石原慎太郎さんを兄に持ち、石原慎太郎さんの執筆した小説を原作とした映画でデビュー。
同じく石原慎太郎さんの小説を映画化した「狂った果実」で主演を務めると、大ブレイクを果たしました。
プライベートでは、同作で共演した役者・北原三枝さんと結婚。仕事に注力していたため、子供や孫はいないとのことです。
また、当時大活躍していた石原裕次郎さんですが、幾度となく病を患っており、口腔がんや大動脈解離なども経験しています。
そんな中でも役者として活動を続けていましたが、1987年に肝細胞がんで死去。享年53歳でした。
石原裕次郎さん亡きあとは、嫁の北原三枝さんを中心に役者・スタッフ総出で石原プロモーションを運営。
しかし、北原三枝さんが高齢となったことなどもあり、2021年に解散しています。
今後は、石原スピリットを継いだ役者さん1人1人に注目していきたいですね。