役者や司会で活躍した山城新伍さんは、その最後や子供が遺産を相続したのか話題です。
今回は山城新伍さんの若い頃の経歴、チョメチョメ誕生秘話、結婚した元嫁の花園ひろみさんと娘の南夕花さんとの関係、友達、晩年や死因も紹介します。
この記事の目次
- 山城新伍のプロフィール:役者で司会者としても活躍
- 山城新伍の若い頃の経歴① 医者の息子として誕生
- 山城新伍の若い頃の経歴② 医大を目指すも挫折・東映ニューフェイスとして芸能界入り
- 山城新伍の若い頃の経歴③ 時代劇「白馬童子」で子供たちのスターに
- 山城新伍の若い頃の経歴④ 人気を獲得するも、業界人からは嫌がらせも
- 山城新伍の若い頃の経歴⑤ 任侠映画で活躍
- 山城新伍の若い頃の経歴⑥ 抜群のトーク力で司会もこなす
- 山城新伍の若い頃の経歴⑦ 映画監督としてヒットも飛ばす
- 山城新伍の若い頃の経歴⑧ ”チョメチョメ”が流行語に
- 山城新伍の若い頃の経歴⑨ 千葉真一らと「トムソーヤ企画」を設立
- 山城新伍の若い頃の経歴⑩ 糖尿病で入院後は実質引退状態に
- 山城新伍が2度も結婚した元嫁は役者の花園ひろみ
- 山城新伍の元嫁・花園ひろみのプロフィール
- 山城新伍の子供:娘は元役者の南夕花・過去には共演もあったが絶縁
- 山城新伍と娘・南夕花が絶縁した理由
- 山城新伍の交友関係① 友達は多かったが評判は人によってかなり異なる
- 山城新伍の交友関係② 暴力団組長との関係が話題になったことも
- 山城新伍の交友関係③ やしきたかじんからは嫌われていた
- 山城新伍の交友関係④ 役者の川谷拓三とは絶縁状態に
- 山城新伍の交友関係⑤ 役者の梅宮辰夫とは盟友で親友だった
- 山城新伍の晩年:死因は誤嚥性肺炎で享年70歳・家族に見放された最後
- 山城新伍の遺産はどうなった?娘が相続放棄したら誰が相続する?
- まとめ
山城新伍のプロフィール:役者で司会者としても活躍
生年月日:1938年11月10日
出身地:京都府
所属事務所:オフィス・タッチ
山城新伍さんの本名は「渡辺安治(わたなべやすじ)」です。
役者で、タレントや司会者としても活躍。また、映画評論家・映画監督としても活動していました。
「チョメチョメ」という流行語を生みだした人物としても知られており、プライベートでは役者の花園ひろみさんと2度の結婚の末に離婚。
2人の間に誕生した娘・南夕花さんも役者として活動していました。
山城新伍の若い頃の経歴① 医者の息子として誕生
出典:https://pixabay.com/
山城新伍さんは京都府で誕生し、父親は開業医・母親が看護師でした。
元々実家は醤油の醸造元だったのだとか。父親は店を継がずに被差別部落や在日韓国・朝鮮人の部落の近くに医院を開いたといいます。
困った人がいればいつでもどこへでもかけつけ、金に困った人から診療代の代わりに米や野菜を持たされて帰ってきたこともあったそう。
そのため、開業医でありながらも生活は潤っていなかったといいます。
山城新伍の若い頃の経歴② 医大を目指すも挫折・東映ニューフェイスとして芸能界入り
山城新伍さんは地元・京都府の高校に進学し、ラグビー部に所属していたそうです。
両親ともに医療従事者であったことから医大進学を志しましたが、大阪医科大学・関西医科大学いずれも不合格。
そしてその後、医者になることを諦めた山城新伍さんは、時代劇スターへの憧れからエキストラなどを経験します。
1957年に「東映ニューフェイス」第4期生となり、映画制作会社「東映」へ役者として入社。
ちなみに同期には、山口洋子さんらのほか、のちに元嫁となる花園ひろみさんもいました。
山城新伍の若い頃の経歴③ 時代劇「白馬童子」で子供たちのスターに
山城新伍さんは、1959年にテレビ朝日系列で放送された時代劇「風小僧」の第1部でデビューを果たすと、同年に放送された第2部で主演を務めました。
- さらに、翌年の1960年に同系列で放送された時代劇「白馬童子」で主演を務め、ブレイクを果たします。
- 同作が子供向けの作品であったこともあり、子供たちからは特に絶大な人気を得ていたそうです。
ちなみに、山城新伍さんは東映へ入社してすぐの頃、先輩から「うちは時代劇作品が多いから乗馬を覚えておくとどこかで使ってもらえるよ」といった旨のアドバイスを受けたのだそう。
アドバイス通り、すぐに乗馬を覚えたところ、同作品の話が舞い込んだといいます。
山城新伍の若い頃の経歴④ 人気を獲得するも、業界人からは嫌がらせも
出典:https://pixabay.com/
努力の甲斐あってチャンスをものにし、人気を博した山城新伍さんでしたが、当時はテレビ=未成熟なマーケットとされており、業界ではテレビが映画よりも格下に扱われていました。
そのため、”テレビドラマは映画に出られない無名の役者が出るもの”という認識が強くあったのだとか。
しかし、白馬童子放送後に開催された東映の公開野球大会に山城新伍さんが登場すると、その他の映画スターらをも圧倒する拍手が一般客から沸き起こったのです。
すると、二流だと下に見ていたテレビ役者の山城新伍さんが、自分たちよりも人気を得ているという状況に一部の人たちが嫉妬。
そのような人たちから、長らく嫌がらせを受けていたといいます。
テレビでの人気とは裏腹に、映画では脇役しか割り当てられないなど辛酸をなめ続けていたというのだから驚きです。
現代に置き換えると、”テレビでは無名に近いタレントがYouTubeで絶大な人気を得るも、テレビでは活躍の場を与えてもらえない”といったところでしょうか。
また、その後は「座頭市」をはじめとする、ダークな部分を投影したリアルな時代劇が人気を博すように。
それに伴い、白馬童子のような勧善懲悪をベースとした時代劇の人気が衰退していきました。
山城新伍の若い頃の経歴⑤ 任侠映画で活躍
山城新伍さんはそんな時代の流れを受けてか、次第に任侠映画・ギャング映画に出演するように。
1968年よりスタートした「不良番長」シリーズや、東映ポルノ作品などにも出演し、それまでの”二枚目俳優”のイメージから脱却。”個性派俳優“としてのポジションを確立していきます。
梅宮辰夫の代表作である「不良番長」シリーズの話をしたい。梅宮を筆頭に、山城新伍、鈴木ヤスシ、安岡力也らの演じる不良集団「カポネ団」がヤクザ相手に大暴れする一連の作品は、一九六〇年代の終わりから七〇年代の初めにかけて立て続けに十六作が作られている。そして実は、作品ごとに少し雰囲気が異なっていたりする。内藤誠と野田幸男、まったく異なる作風の二人の監督が交互に撮っていたためである。
特に、映画「仁義なき戦い」シリーズで見せた演技が評判を呼び、”東映実録系”と呼ばれるジャンルで再び人気を博すようになりました。
山城新伍の若い頃の経歴⑥ 抜群のトーク力で司会もこなす
出典:https://pixabay.com/
1970年代後半に入ると、再びテレビドラマにも数多く出演するようになり、2時間ドラマでは数多くの作品で主演を務めました。
さらに、1975年にテレビ東京系列で放送された「独占!男の時間」を機に、そのトーク力が注目を集め、バラエティ番組でも活躍。ゲストやパネリストはもちろん、司会なども務めました。
ただ、ここまで順風満帆だったというわけでもなく、海外で銃を買って帰ったことを機に、3年ほど仕事を干された時期もあったのだとか。
そんな山城新伍さんは1976年に東映を退社し、フリーに。
1979年から2002年までは、サンテレビで放送されていた「火曜洋画劇場」で司会を務め、歯に衣着せぬ映画評論が人気を博しました。
山城新伍の若い頃の経歴⑦ 映画監督としてヒットも飛ばす
出典:https://pixabay.com/
山城新伍さんは日清食品の「どん兵衛」のCMを長らく務めていた縁からか、1980年公開の映画「ミスターどん兵衛」で映画監督業にも挑戦。
以降、映画監督として日活ロマンポルノ作品を中心に、1984年公開の映画「双子座の女」や2003年発売のVシネマ「梁山泊 ファミリー」などを手がけました。
特に、当時清純派として活動していた早乙女愛さんを主演として自ら口説き落としたという、1984年公開の映画「女猫」は大ヒット。日活ロマンポルノ歴代第3位の売上となりました。
山城新伍の若い頃の経歴⑧ ”チョメチョメ”が流行語に
- 山城新伍さんは、1981年に自身が司会を務めていたフジテレビ系列のクイズ番組「アイ・アイゲーム」で、伏字を「チョメチョメ」を表現。
- これが視聴者に大ウケし、流行語となりました。
75年には深夜バラエティー番組「独占!男の時間」の司会者として新境地を開き、「新伍のお待ちどおさま」などの軽妙で辛口なトークがお茶の間の人気を集めた。「アイ・アイゲーム」で使った「チョメチョメ」という表現は流行語にもなった。
山城新伍の若い頃の経歴⑨ 千葉真一らと「トムソーヤ企画」を設立
1989年には、千葉真一さん・松方弘樹さん・北大路欣也さん・梅宮辰夫さん・渡瀬恒彦さんというそうそうたる面々で「トムソーヤ企画」を立ち上げた山城新伍さん。
ただし、制作第1弾として山城新伍さんが監督を務めた映画「せんせい」が公開されるも、興行的に失敗してしまったのだとか。
映画製作を進めるも、ホテルを利用した打ち合わせの段階で700万円を費消。これだけの大物揃いだけに、それぞれのお付きのスタッフに当てがった控室の部屋代やルームサービス代などが積み重なり、こんな額面になってしまったのだという。
その損失を埋めるため、千葉真一さん・松方弘樹さん・北大路欣也さん・梅宮辰夫さん・山城新伍さんの5人で原ヘルス工業の「バブルスター」のCMに出演。
大スター5人が裸で出演したことが大きな話題を呼び、”伝説のCM”とも称されました。
ちなみに、渡瀬恒彦さんは競合である「バスクリン」のCMに出演していたためで出演できなかったのだそう。
確かにすごい絵です。それにしてもみなさんお若い!
1993年からは日本テレビ系列のクイズ番組「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」にパネリストと出演。
のちの親友・逸見政孝さんとの掛け合いなどが人気となり、同番組の特別企画などでは司会も務めました。
山城新伍の若い頃の経歴⑩ 糖尿病で入院後は実質引退状態に
出典:https://pixabay.com/
山城新伍さんは、以降も役者業・タレント業・裏方と多方面で活躍を続けていましたが、2005年に糖尿病で入院。
引退宣言などはしていないものの、入院を機に引退状態となってしまいました。
なお、父親も重度の糖尿病で亡くなっており、遺伝が要因となった可能性が高いとのこと。
その後の2007年には、朝日新聞にて「糖尿病はコントロールできている」と芸能界復帰に意欲的である様子が報じられていました。
2001年ころから持病の糖尿病が悪化し、テレビの出演も減った。06年には「山城新伍が徘徊している」と週刊誌が伝えたりした。その年末のテレビの映像では、足が弱っている風で往年の面影がなかった。ただ、「最後通牒突きつけられてたまるか。もう一度やってやる」「これを雑誌に売ったヤツは、おれがもう回復しないと思ったんじゃないの。死ねよお前、ばかやろう」と口だけは達者だった。
山城新伍が2度も結婚した元嫁は役者の花園ひろみ
山城新伍さんは、1966年に役者の花園ひろみさんと結婚。2人は「東映ニューフェイス」の同期です。
プロポーズの際には、花園ひろみさんを乗せた車で湖へと突っ込み、「結婚してくれないならこのまま死ぬ!」と迫ったのだとか。
1985年に山城新伍さんの浮気が原因で離婚してしまいますが、時を経て1991年に再び結婚。
しかし、山城新伍さんの浮気癖が治ることなく、1999年に2度目の離婚となっています。
以降、しばらくの間同居していたそうですが、2001年以降は別居となっているようです。
花園さんに夢中になったのは山城さんの方だった。66年当時、湖を目前に「結婚してくれなかったら、突っ込んで死ぬ」とハンドルを握る大芝居まで打ってプロポーズし手に入れた妻。しかしそんな情熱的な結婚生活も山城の浮気で85年に破綻。その後、山城は「復縁したい」「今でも愛している」と花園にラブコールを送り続け、91年に再婚したものの、結局は山城の身勝手な浮気により99年に再び離婚している。
- 2度目の離婚後も再婚の可能性について「50%だね」と回答していた山城新伍さんでしたが、そ
- の後2人は疎遠に。
老人ホーム入居に際して役所から花園ひろみさん、そして娘の南夕花さんに連絡がいくも、「一切関わりたくない」と言われたとまで報じられています。
山城新伍の元嫁・花園ひろみのプロフィール
生年月日:1940年9月1日
出身地:東京都
職業:役者
所属事務所:東映→不明
花園ひろみさんは役者で、1954年に「東映ニューフェイス」第4期生として東映へ入社しました。
1958年年公開の映画「花笠道中」でデビューを果たすと、1年間で12本もの映画に出演。
すぐに活躍を見せますが、1962年に公開された映画「右門捕物帖」への出演を最後に芸能界を引退しました。
その後、東映ニューフェイス同期である、役者の山城新伍さんと結婚しました。しかし、前述にもあるように離婚・再婚を経て再び離婚しています。
1962年に芸能界を引退後は、1987年にテレビ朝日系列で放送された時代劇「必殺剣劇人」第7話、1992年に同局で放送された2時間ドラマ「熱海芸者連続殺人事件!」に出演した程度。
山城新伍さんと再度離婚してからは今日にいたるまで、ほとんどメディアに登場していません。
山城新伍の子供:娘は元役者の南夕花・過去には共演もあったが絶縁
- 山城新伍さんと元嫁の花園ひろみさんとの間には、娘の南夕花さんが誕生しています。
南夕花のプロフィール
生年月日:1967年3月2日
出身地:東京都
職業:役者・タレント→引退
所属事務所:不明
南夕花さんは元役者で、かつてはタレントとしても活動していました。また、過去には「渡辺夕子」「南夕子」といった芸名を使用していたのだとか。
東京女子大学在学中の1986年に、TBS系列で放送されていた昼ドラ「夢恋し」で主演。父親である山城新伍さんとは、バラエティやドラマで共演しています。
山城新伍さんが死去した際にワイドショーなどでその関係性が取り沙汰されたものの、その後は目立った活動が見受けられません。
現在はおそらく芸能界を引退したものと思われます。
山城新伍と娘・南夕花が絶縁した理由
- 南夕花さんはかつて山城新伍さんが司会を務めるバラエティ番組や舞台などで共演しており、一時はその溺愛ぶりが話題となっていました。
- しかし、2000年に受けたインタビューでは「あの人を父と呼びたくない」と断言し、その後、分籍をして戸籍上でも親子の縁を切ったそうです。
親子疎遠の原因は、山城新伍さんの異性問題とされており、1982年に山城新伍さんが監督した日活ロマンポルノ作品「女猫」で主演を務めた早乙女愛さんも愛人ではと噂されていました。
また、キャスターの山口美江さんも過去に山城新伍さんから性的強要があったと告白。
さらには、娘である南夕花さんの親友を愛人にしていたのではないかとも言われています。
2002年に週刊誌『婦人公論』へ「父・山城新伍への訣別」というタイトルで手記を掲載し、父親との決別を明らかにしました。
そこでは離婚の原因を、山城の無神経な性格と、非常識な価値観に疲れ果てたからとして、次のような衝撃的な記述があったのだ。〈急に山城さんと呼ぶのも変ですし、ほかに言いようがないので『父』と言っていますが、ほんとうは父と呼びたくない〉〈いつか結婚することになっても、あの人とはバージンロードを歩くつもりはありません。今、父にはっきり伝えたいのは『さよなら』という言葉です〉
山城新伍の交友関係① 友達は多かったが評判は人によってかなり異なる
山城新伍さんは交友関係が広いことでも知られていますが、実はその評判は様々。
部落差別問題に造詣が深いなど人格者のような一面もあれば、その人となりを酷評されることもしばしばあったようです。
物おじせずハッキリと発言する性格であったため、その点を好む人もいれば、苦手とする人もいたといったところなのでしょうか。
傍若無人な振る舞いをされた人も多く、数々の逸話が残っているようです。
仕事仲間には面倒くさいオヤジ扱いされるようになったり、さらには、このころから毒舌に対する風当たりがそれまで以上に強くなってきたりで、テレビの世界にだんだん居場所がなくなってきたというわけである。
山城新伍の交友関係② 暴力団組長との関係が話題になったことも
山城新伍さんは、1992年に暴力団組長の娘の結婚式に参列。さらには仲人を務めたことが問題になりました。
どういった経緯で仲人となったかは不明ですが、山城新伍さんは「ヤクザの娘は幸せになってはいけないのか?」と反論。
世間で物議を醸しました。
山城新伍の交友関係③ やしきたかじんからは嫌われていた
歌手でタレントのやしきたかじんさんは、1987年にABCで放送されていたクイズ番組「新伍のわがまま大好き」で山城新伍さんと共演。
山城新伍さんはやしきたかじんさんを気に入っていたそうですが、やしきたかじんさんは「嫌い」「好きになれん」と公言していたのだとか。
やしきたかじんを取材したときも、番組収録で自分のギャグに笑わない観客に文句を言う山城新伍と喧嘩になって収録途中で帰ったこともあったせいで、「俺の共演NGは山城新伍だけや!」と言っていたし、ボクの知り合いの放送作家も山城新伍に理不尽な説教をされたとボヤいていた。
山城新伍の交友関係④ 役者の川谷拓三とは絶縁状態に
山城新伍さんは役者の川谷拓三さんと、日清食品「どん兵衛」のCMで共演。一時はプライベートでも仲が良かったものの、川谷拓三さんの方から関係を断ち切ったといいます。
川谷拓三さんはのちの取材で山城新伍さんについて「自分勝手で、弱い人間の気持ちなどわからない。二度と仕事をしたくない」と語ったそうです。
俳優仲間からの嫌われ方は半端ではなかった。亡くなった川谷拓三さんとは、一時蜜月ぶりが有名だったが、川谷さんは山城さんから離れるとミソクソ。「自分勝手で、弱い人間の気持などわからない。二度と仕事をしたくない」とマスコミに告白していたことを思い出す。
山城新伍の交友関係⑤ 役者の梅宮辰夫とは盟友で親友だった
山城新伍さんと梅宮辰夫さんは、映画「不良番長」シリーズで共演して以来、プライベートでもとても仲が良かったのだとか。
2人はさまざまな作品で共演しただけでなく、前述にもある「トムソーヤ企画」も一緒に立ち上げました。
梅宮辰夫さんは、山城新伍さんについて取材で以下の様に振り返っています。
俺がこの世界に入り、一緒に飲み、一緒に遊んだ機会が一番多かったのは、やっぱり山城新伍だろうな。古い言葉でいえば、愛すべきダチ公であり、盟友だったということだよ。
また、過去には同じ女性を抱いて同じ性病をもらったという、いかにも悪友といったエピソードもありました。
山城新伍の晩年:死因は誤嚥性肺炎で享年70歳・家族に見放された最後
山城新伍さんは前述の通り、糖尿病を患っていました。
その後、老人ホームへと入居し、2009年8月12日に死去。死因は誤嚥性肺炎で、享年70歳でした。
俳優でバラエティー番組などの司会も務めてきた山城新伍さんが12日午後3時16分、嚥下(えんげ)障害による肺炎のため亡くなったことが所属事務所の発表により14日、わかった。享年70。なお、生前の山城さんの強い遺志を尊重し、密葬は近親者のみで執り行われた。
報道によれば当時、糖尿病の悪化により車椅子生活となっており、老人性うつ病や認知症なども患っていたそうです。
2008年の記事によると、当時の時点で24時間看護を要する状況だったといいます。
今月はじめには「要介護」と書いた週刊誌もあった。長田代表は、彼の現状を、「糖尿がすすんでまして、正直言うといま車椅子です。単に血糖値とかだけでなく、いろいろおこる可能性があるので、24時間の介護が必要です」。実際は、介護が受けられる病院にいるという。
近年は糖尿病や高血圧、認知症などを患った。鎮雄さんは「脳の断面に空洞があり、明らかに認知症の症状があった」と話した。周囲の説得で、昨年3月に都内の特別養護老人ホームに入所。1人で病魔と闘っていた。
また、入居していた老人ホームには、医師となった弟・渡辺鎮雄さんが見舞いに訪れており、臨終の際も弟を含めた親族10人に看取られたそうです。
山城さんは10日に危篤に陥った。飲食物の飲み込みが困難になる嚥下障害から肺炎を患った。京都市内の実家に住む弟の渡辺鎮雄(しずお)さん(69)が12日朝に駆け付けた時は、酸素マスクを着用していた。会話はできなかったが、意識はしっかりしていた。鎮雄さんは「目配せして『よう来てくれたな』と笑っていた。最後は安らかに息を引き取りました」と話した。
しかし、衰えた姿を見せたくないと梅宮辰夫さん・松方弘樹さんといった友人たちの見舞いは頑なに断っていたといいます。
元嫁や娘には「一切関わりを持ちたくない」と言われていたことから、周囲には「葬儀に呼ばないように」と語っていたそう。
その一方で「娘には会いたい」ともこぼしていとたといいます。
その意向をくみ取った弟や役者仲間らが、花園ひろ美さんと南夕花さんに葬儀・告別式への参列を呼びかけるも、2人はそれを拒否しました。
鎮雄さんによれば、昨年6月頃、山城さんを老人ホームに入所させる際に花園にも報告したが、「死のうがどうしようが金輪際、連絡しないでほしい」と言われたという。それでも、ホームでの山城さんが「娘に会いたい」と繰り返し口にしていたこともあり、死後、連絡を取ろうとしたが、音信不通が続いた。母さよさん(96)も「なにより孫が一度も見舞わなかったことが残念」と落胆しているという。
そのため、弟が喪主を務めることとなり、遺骨は金閣寺と妙満寺に分骨して納骨されたとのことです。
東京都町田市の特別養護老人ホームで息を引き取った山城さん。最期をみとった弟・鎮雄さんが京都に遺骨を持ち帰り、この日、先祖が眠る寺で本葬が営まれた。遺影は9年ほど前に撮影された本人お気に入りの1枚。芸能仲間からの供花は固辞し、親族、旧知の友人の計18人が参列。その中に“元家族”の花園と南の姿はなかった。
鎮雄さんと同居する母さよさん(96)は息子の死を覚悟していたといい「お墓には山城ではなく、渡辺として入れてやりたい」と話したという。山城さんは父親が開業医という裕福な家庭に生まれた。実家の渡辺家は金閣寺と京都市内の2カ所に墓を持つ。約20年前、山城さんが2つのお墓を建て替えている。鎮雄さんは遺骨を「金閣寺と京都市内の寺の2カ所に分骨する」ことを明かした。
同年に開催された「お別れの会」には、長門裕之さん・菅原文太さんら役者陣をはじめとする136人が出席。故人を偲びました。
献杯に続き、発起人の1人で、東映時代から親交のあった俳優の梅宮辰夫(71)が「きょうは新伍を笑って送ろう」とあいさつ。あちらこちらで、思い出話の花が咲いた。山城さんと同期(東映第4期ニューフェイス)の俳優、曽根晴美(72)は「やんちゃでどうしようもない男だったけど、やさしいところもあった」と在りし日の姿を振り返った。
山城新伍の遺産はどうなった?娘が相続放棄したら誰が相続する?
山城新伍さんが亡くなった際に、その遺産の行方についても話題となりました。
山城新伍さんは役者としてだけではなく、司会者としても数多くの番組で活躍しており、莫大な遺産が残されたのでは…と注目されていたようです。
ちなみに元嫁である花園ひろみさんは、離婚しているため相続はできません。
娘の南夕花さんは分籍し親子の縁を切っていますが、血縁関係にあるため相続権があります。
実際にどうなったのかは報じられていませんが、親子の縁を切り葬儀・告別式にも参列しなかったのですから、相続放棄したとみていいでしょう。
子に次ぐ相続権を持つ母親はまだ存命だったものの、当時すでに96歳。のちのちのことを考え、おそらく山城新伍さんの弟へと遺産が渡った可能性が高いのではないでしょうか。
しかし、山城新伍さんは兼ねてより派手な生活を送っていたことでも知られており、さらに晩年は老人ホームで過ごしていました。
世間が期待するような“莫大な遺産”が残っていたのかは怪しいところですね。
まとめ
山城新伍さんは役者で、そのトーク力を活かしてバラエティ番組などでも活躍。映画監督しても活動するなど、マルチな才能を発揮していました。
プライベートでは、花園ひろみさんと2度の結婚と離婚を経験。娘の南夕花さんも誕生しますが、自身の浮気癖などから絶縁状態となってしまいます。
また、交友関係が広く友達も多い一方で、歯に衣着せぬ物言いや振る舞いから激しく非難されることも。
晩年は糖尿病を患ったことを機に老人ホームへと入居し、弟や親族に見守られながら最後を迎えました。死因は誤嚥性肺炎で、享年70歳だったということです。
芸能界で活躍されていた山城新伍さんだけあって、その遺産の行方にも注目が集まっていましたが、今現在までにその詳細は明かされていません。
新たな活躍が見られないのは寂しいことですが、今後も作品の中で輝き続けていくことでしょう。山城新伍さんのご冥福をお祈りいたします。