月丘夢路さんは若い頃に宝塚歌劇団でスターとして活躍した女優ですが、家族全員が統一教会と噂になったことがあります。
今回は月丘夢路さんの身長や若い頃の経歴、結婚した旦那や子供(娘の井上絵美さん)、晩年や死因も紹介します。
この記事の目次
月丘夢路は宝塚歌劇団の殿堂入り女優
月丘夢路のプロフィール
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月丘 夢路(つきおか ゆめじ)
生年月日: 1922年10月14日
没年月日: 2017年5月3日
出身地: 広島県広島市大手町
月丘夢路さんの本名は井上明子さんといいます。この苗字は結婚後のもので、旧姓は旭爪(ひのつめ)明子さんであることが判明しています。
とても珍しい苗字なので、一見すると芸名のようにも見えますよね。宝塚歌劇団のメンバーからは苗字の一部を取って「ツメ」の愛称で親しまれていました。
1937年に宝塚音楽歌劇団学校に入学し、その日本人離れしたエキゾチックな美貌が、たちまちファンを魅了し、宝塚歌劇団27期生のスターとして活躍。
退団後は大映や松竹京都といった当時の大手映画会社に所属し、1959年にフリーに転向してからも、数多くの作品に出演してきました。
そして、2014年に宝塚歌劇団の殿堂100人に選ばれています。
2017年に死去。享年94歳と宝塚歌劇団出身女優としては長寿の人物として知られています。
月丘夢路の身長と体重
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今でこそ、プロフィールの一環として出身地や身長を公表する芸能人が多いですが、月丘夢路さんが活躍した時代は身長や体重をオープンにすることがあまり一般的ではありませんでした。
そのため、月丘夢路さんの身長も体重もデータが見当たりませんでした。
なお、宝塚歌劇団は以前、身長制限が157cmと募集項目に記載されていましたので、157cm以上だったと思われます(現状は身長制限は撤廃)。
1940年代における日本人の成人女性の平均身長は152cmなので、157cm以上の身長があれば十分に舞台映えしていたのではないでしょうか。
月丘夢路の家族:上の妹は女優の月丘千秋
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月丘夢路さんの家族は、両親と2人の妹という5人家族です。その妹2人も女優として活動していたことが判明しています。
上の妹は宝塚音楽学校を卒業した女優の月丘千秋さんで、下の妹は月丘昌美さん。2人とは、共演作品もありました。月丘夢路さんの妹について紹介します。
月丘千秋のプロフィール
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月丘 千秋(つきおか ちあき)
本名: 旭爪菊江
生年月日: 1925年3月20日
没年月日: 2015年5月10日
出身地: 広島県広島市
月丘千秋さんは、1942年に広島県立広島第一高等学校を卒業後、姉の月丘夢路さんと同じように宝塚音楽学校に入学し、1944年に卒業しました。
4月に初舞台を控えていたのですが、この頃の日本は第二次世界大戦の末期。宝塚劇場は閉鎖され、海軍に接収されてしまいました。
結局、舞台に立てないまま宝塚歌劇団を退団。その後は姉の月丘夢路さんと共に松竹京都に入社し、映画女優として再スタートを切っています。
1947年に映画「地獄の顔」でデビューして以降は、「花ある正座」、「殺陣師段平」、「女優須磨子の恋」、「幽霊暁に死す」、「人間模様」など多数の作品に出演。
1959年には活動の場をテレビに移し、「水戸黄門」、「特捜最前線」、「銭形平次」といった番組に出演しています。
プライベートの情報はほとんど明かされていませんが、1988年にカトリック成城会でキリスト教の洗礼を受けたことを公表しています。
1985年以降はテレビには一切出演しておらず、実質引退状態でした。
2015年5月19日に享年90歳で死去。死因は明かされていません。
月丘夢路の家族:下の妹は女優の月丘昌美
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2人目の妹の月丘昌美さんは、1947年に映画「花ある星座」で女優デビューを果たしました。この作品では、姉の月丘夢路さん、月丘千秋さんとの共演が話題に。
しかし、残念ながら女優としての活動はあまり多くなかったようで、Wikipediaのページも存在せず、プロフィール情報は身長どころか、詳細な生年月日すら不明です。
ただし、1947年に姉2人と初めて映画に出演した際は4歳だったというエピソードが残されており、生まれ年は1943年という説が濃厚です。
そうなると、月丘夢路さんが1922年生まれ、月丘千秋さんが1925年生まれであるため、20歳以上年が離れた妹ということになりそうです。
その後の出演作品として認められているのは、1960年に公開された映画「殺人志願」のみ。
そのため、それ以降は芸能界を引退したのではないかと言われています。
1947年で4歳であれば、自身の希望で芸能活動を開始したというよりは、親兄弟の勧めでやっていただけ、と考えられます。
月丘昌美さんのその後の足取りは一切分かっておらず、一般人として生活を送っているのであれば、現在の情報が入ってこないのも仕方がないかもしれません。
月丘夢路の若い頃の経歴① 女学校を中退して宝塚歌劇団へ
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月丘夢路さんは若い頃、宝塚歌劇団でスターとして活躍したことは既にご説明した通りですが、宝塚に入った経緯がかなりユニークだと言われています。
ここでは、月丘夢路さんの宝塚歌劇団に入るまでの学生時代、華やかなスポットライトを浴びた裏で乗り越えてきた宝塚歌劇団入団後の苦労についても紹介します。
女学校を中退して宝塚へ
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月丘夢路さんは、薬局屋の長女として広島県広島市に誕生しました。地元の袋町尋常小学校を卒業し、県立広島高等女学校に入学。
この当時、女学校に入るのは今と違ってとても難しいものでした。合格祝いとして東京に連れていってもらった際に宝塚歌劇団を観劇し、宝塚のステージに感動した月丘夢路さん。
受験を乗り越えて女学校に入学したのに、宝塚女優となることを決意。猛反対する両親を説き伏せて女学校を中退し、1937年に見事、宝塚音楽学校の第27期生として入学しました。
月丘夢路の若い頃の経歴② 娘役スターとなるも、美貌すぎていじめに
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1939年に「宝塚花物語」で初舞台を踏み、類まれなる美貌で頭角を現わした月丘夢路さん。あっという間に娘役のスターに君臨しました。
そもそも宝塚音楽学校は入学する条件に「容姿端麗」と記載され、その難易度の高さは昔から知られています。
つまり、宝塚歌劇団に入団すること自体、美貌を認められたことになりますが、我こそはと集まった受験者の中でも、月丘夢路さんの美貌はずば抜けていたといいます。
そのため、同じタカラジェンヌから激しい嫉妬を買い、「自分の美貌を鼻にかけている」、「男性教師に色仕掛けをして良い役をもらっている」など、根も葉もない悪口を囁かれることに。
そんな月丘夢路さんを救ったのは、同期入団の越路吹雪さんでした。酷いいじめに遭っているのを見るに見かねて、救いの手を差し伸べたのです。
落ち込む月丘夢路さんに向かって「ツメ、あんたは三枚目(お笑いキャラ)で行き!」と快活に励ましてくれたといいます。
月丘夢路さんは後年、越路吹雪さんからの励ましに「とても救われた」と語ってます。
月丘夢路の若い頃の経歴③ 大手映画会社を渡り歩き、米国留学も経験
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1943年に宝塚歌劇団を退団した月丘夢路さんは、大映に入り、その後しばらくして宝塚歌劇団の先輩である轟有起子さんに誘われて、松竹京都へ移籍。
大映時代に続き、松竹京都でもトップ女優として活躍しました。
当時珍しいニューヨーク留学
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1951年7月には、喜劇「東京のお嬢さん」に出演するために渡米。当初2ヶ月で帰国するはずでしたが、「声楽や舞踏を本格的に勉強したい」という想いから、ニューヨークに残りました。
当時の日本は、第二次世界大戦後のGHQによる統制を受けていたという社会的な背景から海外への渡航が自由にできなかったため、海外に滞在すること自体かなり珍しいことでした。
なお、ニューヨークでの留学中には、日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹さんと湯川スミさん夫妻と面会したという記録も残されています。
月丘夢路の若い頃の経歴④ 日活移籍後は最高のギャラに
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1955年に日活に移籍した月丘夢路さん。ギャラは1本につき200万円と、松竹時代の倍となりました。当時の日活所属タレントの中では最高金額だったそうです。
1957年の映画「白夜の妖女」では、大胆なヌードシーンに挑戦。ただ、時代背景もあり、完全にボカシた状態で上映されたという記録が残っています。
やがて、日活は会社の方針を変更し、低予算アクション作品を量産することに力を入れ始めます。
これを受けて、1959年、後輩の石原裕次郎さんにトップスターの座を渡した月丘夢路さんは、フリーの女優として再出発しています。
月丘夢路の代表作品を2つ紹介
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映画のみならず、ドラマや舞台など生前は多くの作品に出演してきた月丘夢路さん。その中でも代表作と言える人気作品を紹介します。
君の名は
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1953年9月に公開された映画「君の名は」は、2億5047万円の配給収入をあげて、同年度の配給収入ランキング2位に入った人気作品です。
なお、この年のランキング1位は12月に公開された「君の名は第二部」ですので、シリーズで1位、2位を独占したことになります。
舞台は第二次世界大戦中の東京。東京大空襲で焼夷弾が飛んでくる中、偶然知り合った男女が助け合いながら逃げ、半年後に再会の約束を交わすものの、会えそうで会えないという物語です。
人気を受け、作品は第三部まで制作されました。
月丘夢路さんは、メインキャストの後宮悠起枝を演じています。
二十四の瞳
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1954年に公開された映画「二十四の瞳」は、壷井栄さんによる小説が原作の作品です。
瀬戸内海の海べりにある小さな村を舞台に、女学校を出たばかりの女性教師と小学生12人の触れ合いがメインテーマとなります。
1928年から1946年までの長い年月が描かれ、いやおうなしに戦争に巻き込まれた一般人の悲壮さがリアルに描かれました。
月丘夢路さんは、歌が上手で東京の音楽学校に進学することを夢見ていた香川マスノ役を演じました。
月丘夢路が結婚した旦那は映画監督の井上梅次
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旦那の井上梅次と月丘夢路
ここからは、月丘夢路さんのプライベートについて紹介していきます。
月丘夢路さんは1957年に、映画監督の井上梅次さんと結婚。旦那は一体どのような人物だったのでしょうか。
井上梅次のプロフィール
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井上 梅次(いのうえ うめつぐ)
生年月日: 1923年5月31日
没年月日: 2010年2月11日
出身地: 京都府京都市
職業: 映画監督、脚本家、作詞家
井上梅次さんは、慶應大学を卒業後に新東宝に入社。自身で書いた脚本を売り込み続けて、わずか5年で映画監督に昇進したという経歴の持ち主です。
1955年に日活に移籍し、まだブレイクする前だった石原裕次郎さん主演の作品「嵐を呼ぶ男」を手掛けました。作品は大ヒットし、石原裕次郎さんは一躍スターに。
1960年にフリーとなり、トータルで6つの邦画会社で多くの作品を生み出してきました。
これまで手掛けた映画作品は110本、テレビ作品は150本を超え、戦後の映画監督としては日本一を誇ります。
2010年2月11日に享年86歳で死去。死因は脳出血と発表されています。月丘夢路さんは、葬儀と告別式で旦那の喪主を務めました。
2人の馴れ初めは?
馴れ初めは公表されていません。
しかし井上梅次さんの「お別れ会」で「立て続けに5~6本、一緒に仕事をしましたね。映画を観に行ったり、デートもしましたね。そして結婚もしましたね」と月丘夢路さんは語りました。
仕事を通じて、お互いの才能や仕事に向き合う姿勢に惹かれ合ったのかもしれません。
月丘夢路の子供(娘)は料理研究家・井上絵美
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月丘夢路の娘で料理研究家の井上絵美
旦那との間に誕生した子供は2人います。
第一子で長女の井上絵美さんは料理研究家、次女は一般人のようで、名前も生年月日も公表されていません。
ここでは、長女の井上絵美さんの経歴について紹介します。
娘の井上絵美はどんな人?
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井上絵美のレシピ本
1959年に東京で誕生した井上絵美さんは、聖心女子大学を卒業後に渡仏し、辻調理師専門学校フランス校でフランス料理を、ルトール製菓学校パリでフランスのお菓子を学んでいます。
日本に戻ると、青山でクッキングスクール「エコール・エミーズ」を設立しましたが、2021年に惜しまれつつ閉校しました。
井上絵美さんはFacebookにて「今日でエミーズを終了します。青山一丁目で30年通って下さった生徒のみなさま、ありがとうございました」とお礼のコメントを発表しています。
インスタを見ると「東京、軽井沢、コナ、ホノルルを行き来する第二の人生です」と書かれており、ハワイで撮影された写真が多数投稿されていることから、世界を飛び回っているようです。
これまでのライフワークだった料理も続けており、インスタには手料理の写真と共にレシピもアップしています。
料理の投稿には、井上絵美さんのファンが「作ってみました」という投稿も数多くあり、ファンとのコミュニケーションを楽しんでいるようです。
月丘夢路の意外なエピソード
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華やかな顔立ちが揃う宝塚歌劇団の中でも、抜きんでた美貌でスターとなり、退団後も大手の映画配給会社に所属し、破格のギャラで華やかな生活を送っていた月丘夢路さん。
これだけ恵まれた境遇であれば、周囲に対して居丈高に接してもおかしくはありませんが、月丘夢路さんはどうだったのでしょうか?
どこから見ても完璧に見えた月丘夢路さんについて、人柄がうかがえるエピソードや思わずクスリと笑ってしまうエピソードを紹介します。
周囲に対して謙虚な性格
2017年に月丘夢路さんが死去した後、映画評論家の浜村淳さんが生前の月丘夢路さんとの思い出を産経新聞に寄稿しました。
生前、美しい容姿を称えられることが多かった月丘夢路さんですが、実は人柄の良さも耳にすることが多かったそうです。
一度もおごり高ぶった態度で周囲に接したことがなく、関係者からは「謙虚な人だ」と評価されていたんだとか。
また、月丘夢路さんが井上梅次さんとの結婚を発表した後、偶然仕事で一緒になった時に「ご結婚されたんですね」とお祝いの言葉を伝えると、とても穏やかな笑顔を返してくれたそうです。
スターと聞くと、周囲がピリピリするほど気を遣わなければいけない人というイメージが強いですが、月丘夢路さんはそういったタイプの性格ではなかったようですね。
家庭では宇宙人?
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2012年1月31日に「徹子の部屋」に出演した娘の井上絵美さんは、母親の月丘夢路さんのことを「台所の宇宙人」と称しています。
月丘夢路さんは家事全般が苦手でしたが、旦那の井上梅次さんは、女性が社会で自立することに理解を示し、「家事ができなくても良い」と月丘夢路さんに言い続けていました。
そのため、基本的に家のことはお手伝いさんに頼んでいました。当然おもてなしも苦手なのに、自宅に客をたくさん招いてしまうことも度々あったそうです。
そんな月丘夢路さん対し、井上絵美さんは「どうして台所のことができないのに、人を呼んでしまうの」と都度、説教していたんだとか。
しかし、どうしても仕事の関係者をもてなしたい、とついつい家に呼んでしまうといいます。
井上絵美さんは、母親から「食事でおもてなし」といった姿勢を自然と学び、料理の道に進んだのかもしれませんね。
月丘夢路は家族揃って統一教会?噂のきっかけと真相
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2022年7月、安倍晋三元首相が襲撃された事件をきっかけに、世界平和統一和平連合(元統一教会)と政治家の癒着が世間を賑わせています。
実は月丘夢路さんには、家族ぐるみで旧統一教会との繋がりがあったのでは?という疑惑が浮上したことがありました。噂と真相を見ていきましょう。
月丘夢路は統一教会系企業のCMに出演
統一教会の信者ではないかという疑惑が浮上したのは、月丘夢路さんが「一和高麗人参茶」のCMに出演していたことがきっかけです。
「一和」とは、世界平和統一家庭連合系列の韓国企業で、高齢人参に関する製品や食品を製造し、輸出を行っています。
日本に「一和」が上陸したのは1971年12月のことで、教祖の文鮮明が、日本でも需要が高いはずだとして「一和製薬株式会社」が設立され、お茶も売り出されることに。
そして、このお茶のCMに出演したのが、月丘夢路さんだったのです。
井上梅次は統一教会系団体のバックアップで映画を制作
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井上梅次さんは、統一教会系の団体で知られる「国際勝共連合」の後押しによって、1987年公開の映画「暗号名 黒猫を追え!」の監督、脚本を担当しています。
この映画は、「B連邦スパイ」と「北方共和国」の工作員が日本での工作活動を進めようと暗躍する中、それを阻止しようと公安警察が奮闘するストーリーです。
日本共産党の機関紙が、この映画は地方自治体のバックアップを受けていることや、映画のチケット代を信者が募金と称して売りつけていることをスクープしました。
娘・井上絵美の関わりは?
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娘の井上絵美さんは、特に統一教会との関わりがあるとの情報はありません。
また、井上絵美さん本人も統一教会との関係についてコメントを出しておらず、繋がりの有無については不明です。
月丘夢路は関係性を否定している
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月丘夢路さんが一家で統一教会なのでは?と言われたのは、CM出演や映画製作だけでなく、教会員や支持者の集まりの場で月丘夢路さんの姿が目撃されたからです。
これがニュースとして報じられると、月丘夢路さんは「私はローマ・カトリック信者で洗礼の記録も残っている」と、教団との関わりをハッキリと否定しました。
単に、広告塔として統一教会から利用されてしまったという説もありますが、既に月丘夢路さんも井上梅次さんも他界しているため、実際のところはベールに包まれたままです。
月丘夢路の死因
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月丘夢路さんが死去したのは2017年5月3日のこと。享年94歳でした。
ここでは、死因や亡くなる前の様子について紹介します。
死因は肺炎だった
月丘夢路さんは、80歳を過ぎても元気に女優として舞台やテレビに出演していたのですが、90歳以降は仕事をしていた記録が見当たりません。
その頃から体調を崩すことが多くなり、2016年には体調不良で入院。この時に肺がんの手術も受けています。
2017年1月に再び体調を崩し、肺炎で2回目の入院をしました。一時期は随分回復しますが、次第に体力が衰えていき、娘の井上絵美さんに看取られて静かに息を引き取りました。
死因は肺炎でした。なお、葬儀の喪主は娘の井上絵美さんが務め、後にお別れ会も開催されました。
まとめ
出典:https://www.daily.co.jp/
月丘夢路さんは、若い頃に宝塚歌劇団のスターとして活躍し、退団後は映画女優として大映や松竹京都など大手の映画会社を渡り歩き、数々の人気作品に出演してきました。
日活に移籍後は、所属タレントの中でも最もギャラが高い女優として君臨し、1959年にはフリーの女優として活動の場をテレビにも広げています。
プライベートでは、映画監督の井上梅次さんと結婚し、2人の子供に恵まれました。第1子となる長女は、料理研究家の井上絵美さんです。
一時期、月丘夢路さんと家族は統一教会との繋がりが噂されたことがありました。
これは、旦那が教団の息がかかった団体からの後押しで映画を制作したり、月丘夢路さんが「一和高麗人参茶」のCMに出演していたり、教会員の集会で目撃されていたりしたからです。
ニュースで関わりを報じられると、月丘夢路さんはローマ・カトリック信者であることを強調し、関与を否定しました。
90代になるまで元気に仕事を続けていたものの、2017年に都内の病院で肺炎により死去。享年94歳でした。
抜群の美貌で、時には嫉妬を呼びながらも圧倒的な人気を博し、宝塚歌劇団の殿堂入りを果たしたことで再び脚光を浴びている月丘夢路さん。
興味が湧いた方は、ぜひ過去の出演作品をご覧になってみてはいかがでしょうか?