天龍源一郎の若い頃と現在!嫁と娘など家族・引退試合・入院や杖をつく姿まとめ

昭和を代表する伝説的プロレスラー・天龍源一郎さんの現在が話題です。

 

この記事では天龍源一郎さんの身長、若い頃の経歴や画像、オカダ・カズチカさんとの引退試合、結婚した嫁、息子や娘などの子供、何度も引っ越しをした自宅、現在の入院の発表や杖をつく姿などについてまとめました。

 

天龍源一郎のプロフィール

 

天龍源一郎のプロフィール

 

本名  :嶋田源一郎

生年月日:1950年2月2日

出身地 :福井県勝山市

身長  :189cm

血液型 :A型

 

天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)さんは、1970年代から1990年にかけて全日本プロレスで活躍した伝説的プロレスラーで、全日本離脱後は、SWS、WARを経てフリーとなり、WJプロレス、新日本プロレス、プロレスリングノア、DRAGONGATE、ハッスルなどに参戦。

 

ジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんの両方からピンフォール勝ちをした唯一の日本人レスラーであり、その若い頃の活躍は伝説的に語られています。

 

数々の伝説を残した後、2015年11月に現役を引退。タイトル歴は、全日本プロレス3冠ヘビー級王座、全日本プロレス世界タッグ王座、新日本プロレスIWGPヘビー級王座をはじめ多数に上ります。

 

引退後は、芸能活動を展開してバラエティ番組への出演や俳優デビュー、全国各地でのトークイベント開催など幅広く活躍し人気を得ています。

 

 

 

天龍源一郎の実際の身長

 

出典:https://image.middle-edge.jp/

 

天龍源一郎さんのプロレスラー時代の公称身長は「189cm」ですが、プロレスラーは身長を多少大きく申告するのが定例化のようになっているので、実際の身長はもう少し低いというのが定説とされています。

 

天龍源一郎さんの場合、相撲取り時代に登録されていた身長データが「186cm」なので、この数値が実際の身長だと見られています。

 

また、天龍源一郎さんは年齢とともに多少身長が縮んだと推定して、ファンの間では現在の身長は「184cm」くらいではないかと推測されているようです。

 

 

 

天龍源一郎の若い頃① 福井県の農家の長男として誕生

 

ここからは、天龍源一郎さんの若い頃の経歴や画像を紹介していきます。

 

天龍源一郎さんは、福井県勝山市の農家に長男として生まれました。当時は農家の長男は家業を継ぐのが当たり前だったため、天龍源一郎さんは子供の頃から父親について農家の修行をして育ったそうです。

 

俺の実家は農家で、思い返せばおやじは子どもの俺に嶋田家の長男として農家の修行をさせていたね。俺は福井の田舎で自由奔放に育ったのではなく、家の裏にある嶋田家の山に入って木の伐採を手伝ったり、田畑の見回りに同行して「ここからここまでが嶋田家の畑で~」と境界線を教えられたりと、日夜、農家の長男としての実地教育を受けて育ったんだ。

 

引用:天龍源一郎が語る“修行” 農家修行と相撲教習所、そしてジャンボ鶴田に食らったボディスラムの衝撃

 

また、天龍源一郎さんには弟が妹がいて、親が留守の時は面倒も見ていたそうです。

 

遊びは、友人たちと野球をしたり、近くの九頭竜川で川遊びをしたり、冬には長靴で簡易スキーをしたりしていたそうです。

 

小学校高学年の頃には田植えの時期になると学校を休んで手伝いをしろと家族に言われたため、勉強は得意ではなく学校が好きだったわけではなかったという天龍源一郎さんも、なんとなく理不尽を気がして自分を不憫に感じ悔しかったと当時を振り返られています。

 

天龍源一郎さんは子供時代から身体が大きく運動もできたため、砲丸投げやリレーの選手などスポーツイベントのたびに駆り出され、中学入学後は野球部と柔道部で活躍されたそうです。

 

特に相撲は負け無しなほど強く、小学5年生の時には中学生にも負けなしで、相撲大会で勝った時にもらえる景品の大学ノートをひと夏で70冊ももらった事もあったのだとか。

 

 

 

天龍源一郎の若い頃② 中学在学中に二所ノ関部屋に入門し相撲取りに

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

天龍源一郎さんは中学2年生だった1963年12月、13歳の時に大相撲の二所ノ関部屋(横綱大鵬もいた名門)に入門しています。

 

入門のきっかけとなったのは、天龍源一郎さんの父親が行きつけの床屋で髪を切っている際に、そこに居合わせた、二所ノ関部屋の地方後援者が「この辺りに相撲部屋に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と尋ねているのを耳にし、咄嗟に「うちの息子は大きいよ」と話しかけた事だったそうです。

 

天龍源一郎さんは力士としては、1964年初月場所で初土俵を踏み、1971年秋場所で新十両に、1973年初場所で初入幕を決めています。当時の四股名は「天龍」で、以降16場所在位して西前頭筆頭まで昇格しています。力士時代の天龍源一郎さんは、後の横綱となる北の湖にも勝った事があり「大鵬二世」と呼ばれた事もある有望な若手でした。

 

しかし1975年3月28日、8代目二所ノ関親方(天龍源一郎さんの師匠の元大関佐賀ノ花)が、急性骨髄性白血病で57歳で死去。部屋の後継者を巡る騒動(押尾川の乱)が勃発し、天龍源一郎さんもこれに巻き込まれました。

 

当初、部屋は元大関の大麒麟(押尾川親方)が継ぐという話が持ち上がりましたが、当時27歳だった同部屋所属の幕内力士の金剛が突如引退し、8代目二所ノ関親方の次女と結婚して部屋を継承するという話でまとまります。

 

これに納得できなかった大麒麟は、天龍源一郎さんを含む16人の賛同者を引き連れて、8代目二所ノ関親方の墓がある瑞輪寺に立て篭もり分離独立を要求しました。

 

結局、この騒動は最終的に11代花籠(元幕内・大ノ海)が調停し、大麒麟の16人中6人だけの移籍を認めて独立を許すという裁定を下しました。

 

天龍源一郎さんは、二所ノ関部屋に戻されましたが、1度は現親方に反旗を翻したという目で見られて嫌がらせを受けるなど、部屋内に居場所がなくなってしまいます。

 

そんな時に、元東京タイムズ記者の森岡理右さんに「プロレスに転向してみたらどうか?」と提案を受け、当時全日本プロレスを旗揚げして数年のジャイアント馬場さんを紹介された事で天龍源一郎さんはプロレスラーへの転向を決心。

 

天龍源一郎さんは1976年秋場所を最後に26歳で力士を廃業しました。天龍源一郎さんの力士としての通算成績は「393勝355敗」、幕内での通算成績は「108勝132敗」、十両優勝1回、幕下優勝1回でした。

 

 

 

天龍源一郎の若い頃③ 26歳で力士を廃業し全日本プロレスに入団

 

出典:https://contents.oricon.co.jp/

 

26歳の時の大相撲力士を廃業し全日本プロレスに入団してプロレスラーに転身した天龍源一郎さんは、大相撲で幕内までいった実績も認められて、新人としてはかなり特別な扱いを受けています。

 

天龍源一郎さんは、1976年10月の入門後すぐにアメリカへと渡り、全日本プロレス所属のアメリカ人兄弟の人気タッグチーム「ザ・ファンクス」のもとで修行を積んでいます。天龍源一郎さんは特に兄のドリー・ファンク・ジュニアからプロレスのノウハウを細かく学んだそうです。

 

出典:https://www.nikkansports.com/

 

同年11月13日にテキサス州でプロレスデビューした後に帰国し、12月5日に日大講堂(初代両国国技館)で土俵上ではなくリング上で断髪式を行いました。この時の止め鋏はジャイアント馬場さんが入れられています。(上の画像)

 

そして天龍源一郎さんは1977年6月11日、東京世田谷体育館にて日本でのプロレスデビューを果たしました。この時には、ジャイアント馬場さんとのタッグチームを組み、マリオ・ミラノとメヒコ・グランデのタッグチームと戦い、メヒコ・グランデをフォールしてデビュー戦を勝利で飾りました。

 

デビュー戦からジャイアント馬場さんとタッグチームを組んだ事でもわかるように、天龍源一郎さんはジャイアント馬場さんからの大きな期待を受けており、巡業の移動も当時の全日本ではジャイアント馬場さんとジャンボ鶴田さんにしか許されていなかったグリーン車の席が用意されていました。

 

もっとも、天龍源一郎さんは先輩レスラー達を差し置いてグリーン車に乗るのは恐れ多いと感じており、いつも自分で普通車両に移動して先輩達と話をしていたのだそうです。

 

ただ、こうした期待に応えたいという気持ちや、プロレスラーとして成功したいという気持ちを強く持っていたという天龍源一郎さんは、力士時代以上の努力を重ねますが、スタミナ不足などの弱点もあってしばらくは結果の出ない時期が続きました。

 

 

 

天龍源一郎の若い頃④ 馬場・鶴田組のインターナショナル・タッグ王座への挑戦をきっかけに飛躍

 

出典:http://www.showapuroresu.com/

 

その後、天龍源一郎さんは再び海外修行へと出発し、1981年2月7日にMACWで、ミスター・フジとタッグを組み、デューイ・ロバートソンとジョージ・ウェルズのタッグを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。これが天龍源一郎さんのタイトル初戴冠でした。

 

その後天龍源一郎さんは帰国し、1981年7月30日、後楽園ホールでのシリーズ最終戦、交通事故の後遺症で帰国してしまったディック・スレーターの代役として、ビル・ロビンソンとタッグを組み、ジャイアント馬場さん・ジャンボ鶴田さん組の持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦します。

 

この試合は敗れはしましたが、天龍源一郎さんは新日本プロレスのエースで総帥のアントニオ猪木さんの得意技であった延髄切りや卍固めを繰り出しました。当時はライバル団体のエースのモノマネはタブーでしたが、あえてそれをやった事で観客は大いに盛り上がり、翌日のスポーツ新聞もこれを大きく取り上げました。

 

この試合をきっかけにして、天龍源一郎さんの人気は上昇し、やがて、ジャイアント馬場さんとジャンボ鶴田さんに続く「全日第3の男」とも呼ばれるようになります。

 

 

 

天龍源一郎の若い頃⑤ ジャンボ鶴田との鶴龍コンビで絶大な人気を獲得

 

出典:https://image.space.rakuten.co.jp/

 

天龍源一郎さんは、1982年頃からジャンボ鶴田さんと共に、時期ダブルエースと目されるようになります。

 

1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦で、天龍源一郎さんはジャンボ鶴田さんとタッグチームを組んで活躍し、最終戦でスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディのタッグチーム(ミラクルパワーコンビ)に敗れるまで単独1位につけ、最終的には11点で2位に終わったものの、ジャイアント馬場さんとドリー・ファンク・ジュニアのタッグチームとの同点2位という結果は、十分に次世代エースを印象付けるものでした。

 

このシリーズから、プロレス紙誌やプロレス中継などで、天龍源一郎さんとジャンボ鶴田さんのコンビを「鶴龍コンビ」、「鶴龍砲」と呼ぶようになり、この年のプロレス大賞最優秀タッグチーム賞にも選ばれました。

 

また、天龍源一郎さんはシングル戦においても全日本の次世代エースとして頭角を表し、1984年には、UNヘビー級王座のタイトルも獲得しています。

 

その後は、1984年9月に長州力のジャパンプロレスが全日本に参戦してきたのをきっかけに、鶴龍コンビは長州と谷津嘉章のチームとの闘争心剥き出しの抗争を繰り広げ、1985年からは、スタン・ハンセンとテッド・デビアスのタッグチームや、来日したロード・ウォリアーズとの抗争も1986年にかけて繰り広げ全日本プロレスを沸かせました。

 

そして、ジャンボ鶴田さんとのシングル対決も「鶴龍対決」と呼ばれる圧倒的人気カードとなり、天龍源一郎さんは1989年6月のジャンボ鶴田さんとのタイトルマッチに勝利して三冠ヘビー級王座を獲得。

 

天龍源一郎さんとジャンボ鶴田さんとの試合は、1987年と1989年にプロレス大賞のベストバウト賞(年間最高試合賞)に選ばれています。

 

 

 

 

天龍源一郎の若い頃⑥ ジャイアント馬場、アントニオ猪木の両方からピンフォール勝ちを奪う

 

出典:https://image.middle-edge.jp/

 

1989年11月の世界最強タッグリーグ戦ではスタン・ハンセンと組み、ジャイアント馬場・ラッシャー木村組との試合において、日本人として史上初となるジャイアント馬場さんからのピンフォール勝ちを奪いました。

 

その後の天龍源一郎さんは、1990年にジャンボ鶴田さんとのシングルマッチで敗れたのを機にSWSへと移籍するも、程なくして団体が解散し1992年にWRAを設立しました。

 

アントニオ猪木さんとの対戦を熱望する嘆願書を提出するなど新日本プロレスとの対抗戦に燃え、1994年1月の東京ドーム大会でついに実現したアントニオ猪木さんとの初のシングルマッチで、パワーボムからのエビ固めでピンフォール勝ちを収めました。

 

これによって、天龍源一郎さんはジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんの両方からピンフォール勝ちを収めた史上唯一の日本人レスラーと称されるようになり、伝説的な存在となりました。

 

 

 

天龍源一郎の引退試合

 

出典:https://www.sponichi.co.jp/

 

天龍源一郎さんの引退試合は2015年11月15日で、両国国技館でのオカダ・カズチカさんとのシングルマッチでした。この天龍源一郎さんの引退試合についても現在も伝説的に語られています。

 

天龍源一郎さんとオカダ・カズチカさんの間には、この引退試合の前から因縁がありました。オカダ・カズチカさんは、2012年と2013年の2年連続でプロレス大賞のMVPに輝きました。

 

そしてその2013年の授賞式の際に、オカダ・カズチカさんは記者から「MVPの連続受賞は25年ぶりの快挙で、過去に連続でMVPを受賞したのは、アントニオ猪木さんとジャンボ鶴田さん、天龍源一郎さんの3人のみですが?」と問われたのでした。

 

これに対し、オカダ・カズチカさんは、「猪木さん、ジャンボ鶴田さん、天龍源一郎さんの3人は僕と同じ時代だったら、そんな記録は達成できていないと思う。」、「僕よりもだいぶ前の時代のプロレスラーとして、そういう記録がとれた事を感謝して欲しいですね」と言い放ちました。

 

天龍源一郎さんはこのオカダ・カズチカさんの発言に激怒し、「キャラなのか自惚れなのか本心なのかは知らないけど、自分が吐いた言葉には責任を持てよという事だ、これだけコケにされたらリングでケリをつけるしかない」と発言。

 

そして、天龍源一郎さんはその後、自身の引退試合の相手として、オカダ・カズチカさんを指名。団体を通じて正式にオファーを出した上で、2015年8月16日の両国国技館での新日本プロレス「G1クライマックス」優勝決定戦の会場に自ら乗り込み、リングに上った天龍源一郎さんは「「11月15日の俺の(引退試合の)相手、今日決めるって言ったんじゃねえか、コノヤロー。ハッキリせい。昭和のプロレスを味わう最後のチャンスだぞ」と呼び掛けました。

 

これに対して、オカダ・カズチカさんのマネージャー(当時)の外道さんが「答えはもちろん『ノー』だ。これはアンタのため。人生まで引退する気ですか」と拒否。

 

しかし、天龍源一郎さんは一向に引き下がる気配を見せず、ついにオカダ・カズチカさん本人が登場しリングに上がりました。

 

そして、ここでオカダ・カズチカは「引退されるそうですね。お疲れさまでした。」と挨拶をした上で、「天龍さんに一つだけ言わせてください。僕と同じ時代じゃなくて良かったですね」と再び、天龍源一郎さんを激怒させたセリフを繰り返して挑発し、「どうなっても知らないですよ。それならやりましょう」と引退試合の相手を受諾したのでした。

 

こうして、天龍源一郎さんの引退試合でのオカダ・カズチカさんとの対戦が正式に決定しました。

 

引退試合は17分27秒で、レインメーカーからの片エビ固めで、オカダ・カズチカさんがピンフォール勝ちを収め、天龍源一郎さんは敗北しています。

 

しかし、試合展開は互いに全力で技を出し合う激しい攻防で、会場を大きく沸かせました。この天龍源一郎さんの引退試合は、2015年度のプロレス大賞の年間最高試合賞に選ばれています。

 

この天龍源一郎さんの引退試合はDVD「〜天龍源一郎 引退〜 革命終焉Revolution FINAL in 両国国技館」に収録されています。

 

 

 

天龍源一郎の結婚は1982年で嫁はまき代さん

 

出典:https://www.nikkansports.com/

 

天龍源一郎さんは全日本プロレスに在籍していた1982年に結婚されています。

 

天龍源一郎さんの結婚した嫁はまき代さんという方で、天龍源一郎さんの7歳年下でした。

 

天龍源一郎さんの嫁のまき代さんは、天龍源一郎さんが中心となって1992年に立ち上げたプロレス団体「WAR」ではチーフとして団体の屋台骨を支え、その後も天龍源一郎さんのマネージャーとしてその活躍を献身的にサポートされた方でした。

 

天龍源一郎さんのファンの間でも、嫁のまき代さんは「チーフ」、「女将さん」とも呼ばれ、親しまれた存在でした。

 

1997年に天龍源一郎さんが世田谷に寿司店「鮨處 しま田」をオープンさせた際には、嫁のまき代さんが女将さんを務めて店を切り盛りされていました。(この寿司店は2009年に閉店)

 

 

 

天龍源一郎の嫁のまき代さんは65歳の若さで死去

 

出典:https://javelinmitsu.com/

 

天龍源一郎さんの嫁のまき代さんは、2022年6月24日に65歳という若さでこの世を去っています。

 

天龍プロジェクトは26日、元プロレスラー・天龍源一郎氏の妻、嶋田まき代(しまだ・まきよ=旧姓・武井)さんが24日午前11時13分、死去したことを発表した。65歳だった。

 

引用:天龍源一郎氏の妻・嶋田まき代さんが死去 65歳 団体「WAR」のチーフとしても天龍氏を支える

 

関係者によると、まき代さんの死因は「肺がん」で、2020年頃から入退院を繰り返していたという事でした。

 

天龍源一郎さんは2015年の引退の際にも、引退理由として「妻の病気で、今度は俺が支える番だと思った」と話されていたので、嫁のまき代さんはこの頃から病気がちであったのかも知れません。

 

嫁のまき代さんは娘さんに「天龍がいつまでも元気でいられるように、表舞台で仕事をさせてあげて」と遺言されたとの事で、最後の瞬間まで天龍源一郎さんの事を案じられていたようです。

 

 

 

天龍源一郎の子供は娘の紋奈さん1人で息子はいない

 

天龍源一郎の子供(娘)の嶋田紋奈のプロフィール

 

生年月日:1983年7月8日

出身地 :京都府京都市

身長  :168cm

 

天龍源一郎さんには、嫁のまき代さんとの間に子供が1人誕生しています。

 

天龍源一郎さんの子供は、娘さんの嶋田紋奈(しまだ・あやな)さんで、1983年7月8日に、母のまき代さんの実家のある京都府京都市で誕生しています。

 

天龍源一郎さんの娘の嶋田紋奈さんは、天龍プロジェクト代表を務め、父親の天龍源一郎さんをサポートされています。

 

そんな天龍源一郎さんの娘の嶋田紋奈さんは、2017年11月14日に埼玉県在住の一般男性と結婚されています。報道によると、嶋田紋奈さんは2016年に友人主催のパーティでこの男性と知り合い、約1年の交際期間を経て結婚されたという事です。

 

天龍源一郎さんは現在、娘さんと旦那さんと同居されているそうです。天龍源一郎さんはこの旦那さんの事も気に入られているようで、苦手だという電機や機械関係の事を頼んだりと頼りにされている様子です。

 

ネットでは、天龍源一郎さんの息子についても検索されているようですが、天龍源一郎さんの子供は娘の嶋田紋奈さんだけで息子さんはいません。

 

 

 

天龍源一郎の自宅

 

天龍源一郎さんは、嫁のまき代さんが引っ越し好きだった事から、結婚後に14回以上自宅の引っ越しをされているそうです。

 

天龍源一郎さんは嫁のまき代さんと結婚後最初の自宅は西麻布2DKのマンションで、その後に世田谷区に一軒家を買ったそうなのですが、その自宅に泥棒が入ったために娘の紋奈さんが怖がり、まだローンも残っているのに別の都内のマンションへと引っ越しを余儀なくされたそうです。このマンションは6年間住んだそうなのですが、これがそれまでで一番長く住んだ自宅だったそうです。

 

というのも、天龍源一郎の家だとバレると、相手レスラーのファンやアンチファンによる嫌がらせを受けるため、それから逃れるために大体2年くらいのスパンで何度も引っ越しをされたのだそうです。

 

現在の天龍源一郎さんの自宅については、上でも触れたように娘の紋奈さんの夫婦と二世帯での同居をされているという事です。

 

 

 

天龍源一郎の現在① 頸髄損傷での入院を発表

 

2015年の引退後はテレビ出演などでも活躍し、プロレスファン以外にも親しまれていた天龍源一郎さんでしたが、2022年9月2日に頸髄損傷で入院中である事が発表され、心配する声が多く上がりました。

 

発表では、すぐに生命の危機があるような状態ではないものの、現役時代の負担が顕著に出たもので、突然死のリスクが高い状態との医師の診断が出た事で、そうしたリスクを回避するための入院だと説明されています。

 

元プロレスラーの天龍源一郎(72)が頸髄(けいずい)損傷で入院していることが2日、分かった。公式サイトで発表された。

長年の現役生活による負担で症状が顕著に出たもので、新しいケガなどではないとしている。また、生命の危機ではなく、医師の診断によると突然死のリスクが高い状態で、それを回避するための入院としている。

 

引用:天龍源一郎が頸髄損傷で入院 長年の現役生活による負担、突然死リスクを回避 生命の危機はなし

 

 

天龍源一郎の手術が無事終わった事を娘の紋奈さんがTwitterで報告

 

その後、2022年9月14日に天龍源一郎さんの娘の紋奈さんがTwitterにて天龍源一郎さんの入院後の手術が無事に終わった事を報告してくれています。

 

 

天龍源一郎さんは2022年9月25日の現在もまだ入院中だという事ですが、娘の紋奈さんのTwitterの内容によると病院で元気にされているようなので退院も近いと思われます。

 

 

 

天龍源一郎の現在② 杖をつく満身創痍の姿にファンからは様々な声が

 

出典:https://www.sponichi.co.jp/

 

入院が発表され、心配する声も多く上がっていた天龍源一郎さんですが、2020年頃からは天龍源一郎さんが杖をついて満身創痍の身体で歩く姿を見せており、現在もそれを心配する声も多く上がっています。

 

 

 

天龍源一郎さんは長年にわたってプロレス界で奮闘されてきた方で、現在になって蓄積されたダメージが現れているという事だと思われます。その時代の天龍源一郎さんを知る往年のファンにとっては杖をつく姿に様々な感情が呼び起こされるのか、大きな反響を呼んでいます。

 

 

 

 

 

まとめ

 

今回は、昭和から平成の時代を代表するプロレスラーの1人で、2015年の現役引退まで様々な伝説を残した天龍源一郎さんについてまとめてみました。

 

天龍源一郎さんの若い頃は、中学在学中に大相撲の世界に入り幕内まで行っています。26歳の時に全日本プロレスに入団してプロレスラーに転身し、ジャンボ鶴田さんとの鶴龍コンビや、鶴龍対決などで当時のプロレス界を盛り上げました。

 

引退試合は、現在の新日本プロレスを代表する人気レスラーの1人、オカダ・カズチカさんと戦い、この試合での激しい攻防はその年の年間最高試合賞にも選ばれました。

 

そんな天龍源一郎さんの結婚は1982年で、嫁は7歳年下のまき代さんという方です。天龍源一郎さんの嫁のまき代さんは、プライベートと仕事の両面で天龍源一郎さんを長年支えられた方でしたが、2022年6月に65歳の若さで亡くなっています。

 

天龍源一郎さんの子供は、1983年に生まれた娘の嶋田紋奈さんで、現在は天龍プロジェクトの代表を務められています。

 

天龍源一郎さんは現在、長年のプロレスラー生活で蓄積された頸髄損傷により、入院し手術をしたとの発表が出ています。手術は無事終わり天龍源一郎さんは元気にされているという事です。

 

天龍源一郎さんは以前から、杖をついて歩く姿に、往年のファンから心配の声が上がっていました。

 

今後も天龍源一郎さんには元気に活躍を続けてほしいです。

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