サッカーの元日本代表で「野人」と呼ばれる活躍を見せた岡野雅行さんですが、高校時代の伝説的エピソードがドラマ化され話題です。
今回は岡野雅行さんのプロフィールや経歴、結婚した嫁との馴れ初めや子供、現在をまとめました。
この記事の目次
- 岡野雅行のプロフィール:元サッカー日本代表でニックネームは”野人”
- 岡野雅行の生い立ち① 小学1年生の時に嫌々サッカーを始めた
- 岡野雅行の生い立ち② 伝説の高校時代・サッカー部を立ち上げ強豪校に
- 岡野雅行の生い立ち③ 日本大学へ進学し、サッカー部に入部するも最初は雑用係
- 岡野雅行の生い立ち④ 天皇杯で大活躍し、浦和レッズの目に留まる
- 岡野雅行は浦和レッズ加入前に揉めた?噂と真相
- 岡野雅行と清原和博との関係
- 岡野雅行の経歴① 1994年に「浦和レッズ」に加入、プロサッカー選手に
- 岡野雅行の経歴② 「ヴィッセル神戸」を経て、再度「浦和レッズ」へ
- 岡野雅行の経歴③ 香港の「天水圍飛馬」、そして「ガイナーレ鳥取」へ
- 岡野雅行の伝説的高校時代はドラマ化されている
- 岡野雅行が結婚した嫁は一般人?情報が少なく、馴れ初めも不明
- 岡野雅行の子供は娘が1人いる?歴史図鑑のエピソードがスゴい
- 岡野雅行の現在① 「ガイナーレ鳥取」の代表取締役GMとして活動中
- 岡野雅行の現在② 「有吉の壁」に出演し、話題に
- まとめ
岡野雅行のプロフィール:元サッカー日本代表でニックネームは”野人”
生年月日:1972年7月25日
出身地:神奈川県
所属:ガイナーレ鳥取
岡野雅行は元サッカー選手で、現役時代は日本代表としても活躍。プレー中における長髪を振り乱して奮闘する姿や俊足ぶりから”野人”と称されていました。
現在は、Jリーグ所属のサッカークラブ「ガイナーレ鳥取」の代表取締役GMのほか、広島市NPO「スポーツオフィス・ワン」の副理事長も務めています。
岡野雅行の生い立ち① 小学1年生の時に嫌々サッカーを始めた
岡野雅行さんは地元である横浜市の公立小学校・中学校を卒業。サッカーを始めたのは小学校1年生の時で、意外にも本人の希望ではなかったそうです。
親に無理やり入れられたのがきっかけです。泣きながら入りました。僕、一人っ子だったので、集団でいるのが苦手だったんですよ。
また、たまたま入学した小学校にサッカーチームがあっただけで、それが野球チームであったら野球をしていたかもしれない、とも語っています。
そんな岡野雅行さんでしたが、嫌々ながらも練習を続けた結果、3年生の時にサッカーの面白さに気づいたそう。
中学でもサッカーを続けましたが、成長期が遅く他の選手との体格差などを感じるようになり、サッカーへの興味が薄れた時期もあったのだとか。
しかし、中学卒業を控え、岡野雅行さんはサッカーのためにブラジル留学がしたいと考えるようになったといいます。
技術が追い付かず、どの学校にもサッカーで進学することができなかった。でも、どうしてもサッカーを続けたくて、どうしようかな…って思ってたときにカズさん(三浦良知選手)が本を出したんですよ。それを読んで、ブラジル留学を考えるようになりました。
岡野雅行の生い立ち② 伝説の高校時代・サッカー部を立ち上げ強豪校に
岡野雅行さんはブラジル留学を熱望していましたが、家族からの猛反対を受け、親族より勧められたという松江市にある松江日本大学高等学校(現在の立正大学淞南高等学校)へと入学。
全寮制だという同校には、あると聞いていたサッカー部がなかったそう。
そこで岡野雅行さん自らサッカー部を立ち上げ、なんと島根県3位に入賞する快挙を成し遂げています。
学校にサッカー部を作ってほしいと頼んで、チームメンバーも集めて新設したんです。メンバーは、体育の授業でしかサッカーを経験したことがない奴等ばかりだったので、僕がいつも教えていました。一応監督はいたんですが、その人サッカー専門じゃなかったんですよ。サッカーを全然知らなくて、チームで動くときに付き添ってくれるだけというか。
チームメイトは未経験者ばかりで、「ボールを止めて蹴る」といった初歩的なアドバイスをしていたほどだったそう。
そのため創設当初は試合相手に何十点も取られていましたが、試合を重ねるごとにどんどんと点差を縮めるようになり、ついには新聞が「優勝候補」と取り上げるほどのレベルに。
現在は、「全国高校サッカー選手権大会」の常連校にまでなっているのだから驚きです。
岡野雅行の生い立ち③ 日本大学へ進学し、サッカー部に入部するも最初は雑用係
岡野雅行さんは偉大過ぎる功績を残して高校を卒業。スポーツ推薦で日本大学の2部(夜間)へと入学します。
もちろん大学でもサッカー部へと入部するわけですが、”スポーツ推薦”のため”サッカー推薦”ではなかったのだとか。
そのためサッカー部へ必ず入部できるという訳ではなかったといいます。
また、当時は高校時代の厳しい練習生活から解放されたばかりだったこともあり、「体育会のサッカー部が無理ならサッカーサークルで楽しい学生生活を送ろうか」とも考えていたそう。
昔の大学のサッカーチームというのは、1番タレントが多かったというか…1番人気があったんです。ほとんどが高校の時すでにサッカー選手として名を広めている人ばかりで、無名の僕が簡単に入れるようなところじゃなかった。
それでも、体育会サッカー部が新入部員を募集しているを見て、入部テストへと参加した岡野雅行さん。
サッカー名門高校を卒業したり、全国大会に出場したりといった猛者が集結する中、合格を勝ち取ります。
ただし、いざ蓋を開けれてみると、洗濯をはじめとする雑用を担う”雑用係“としての入部だったとのこと。
雑用に追われ、一時は普段の大学生活すらままならない状態だったとも語っています。
テストは試合だったんですけど、4点ぐらい取ったんです。それが目立ったのか入部できました。60人受けて2人しか入れないんですよ。その後、先輩に呼び出されて『おめでとう』と言って下さったので、『ありがとうございます』と喜んでいたら、『じゃあマネージャーと洗濯係どっちがいい?』って言われて。結局そのために入れられたようなものですよね。
練習には参加できるものの、試合ではスコア係や荷物番ばかりの日々が続いたといいます。
岡野雅行の生い立ち④ 天皇杯で大活躍し、浦和レッズの目に留まる
出典:https://www.jfa.jp/match/emperorscup_2021/history02.html
雑用係で忙殺されていた岡野雅行さんでしたが、コーチだった長島裕明さんが天皇杯予選で岡野雅行さんを大抜擢。これを機に、岡野雅行さんは選手として頭角を現していきます。
真面目にサッカーしていたら、コーチが初めて天皇杯初戦からのサブに入れてくれたんですよ。そしたら試合開始5分で4年生だったエースの先輩がいきなり骨折して、僕が交代で出なきゃいけなくなった。先輩達から『何でお前なんだよ』と野次られながらの出場でしたが、試合では6点か7点ぐらい取ったんです。それ以降はずっとレギュラーにしてもらえて、順調にどんどん登りつめていきました。
当時から岡野雅行さんの俊足は卓越しており、バスケットシューズを着用した状態で、100m走でトレーニングに同席していた陸上部選手を上回る、10.7秒という記録をたたき出したそう。
以降も、レストランバーでアルバイトをしながら練習に励み、1993年に開催された「天皇杯関東大会」では、強豪・筑波大学相手に5人抜きゴールを決め、2得点を挙げるなど活躍。
すると、Jリーグからも声がかかるようになり、「鹿島アントラーズ」「柏レイソル」「ガンバ大阪」「浦和レッズ」など、6クラブから誘いがあったといいます。
その中でも特に熱烈だったのが浦和レッズで、「大学を辞めてでも」という言葉に心動かされた岡野雅行さんは、3年生の時に日本大学を中退。浦和レッズへと加入したのです。
レッズが1番雰囲気が良かった。『レッズは良かったなぁ』と周りに話していたら、突然レッズの人が家に来て、大学を中退してチームにすぐ来てくれないか?とお願いされたんです。中退を選んだのは、そのとき僕は無名だったし、プロのチームからの誘いを断って次の年何か起きたら嫌じゃないですか。それならば、大学を卒業する前に勝負してしまおうと思ってプロを決めたんです。
岡野雅行は浦和レッズ加入前に揉めた?噂と真相
出典:https://pixabay.com/
岡野雅行さんは日本大学在学中に浦和レッズのオファーを受け、大学を中退しJリーガーになることを決意しますが、実はその際、大学側とひと悶着あったそうです。
“日本大学初のJリーグ選手誕生”を目論んだ日本大学側が、岡野雅行さんを特待生扱いにして、特待生を理由に「卒業してからじゃないとチームには入れない」と主張してきたといいます。
結局のところは話し合いを重ね、「中退はするが”日本大学卒”という扱いにする」という形でなんとか話がまとまったといいます。
ここで円満に中退できていなかったら、野人岡野の誕生はなかったかもしれませんね。
岡野雅行と清原和博との関係
大学在学中にアルバイトしていたレストランバーには、元プロ野球選手・清原和博さんがたびたび来店していたそう。
そんな2人は2022年、清原和博さんのYouTubeチャンネル「清ちゃんスポーツ」に投稿された動画で共演しており、当時のことを振り返っています。
清原氏からたばこを頼まれた岡野氏がダッシュで買いに行って戻ると、「はえーな!」とほめられたエピソードから対談はスタートした。その後にプロ入りした岡野氏は1998年W杯フランス大会出場を決めた試合で劇的なゴールを決め、時の人となった。レストランバーの関係者から「あれ、たばこを買いに走ったやつだよ」と聞かされ、清原氏は「うそ~!」と驚いたという。
岡野雅行の経歴① 1994年に「浦和レッズ」に加入、プロサッカー選手に
岡野雅行さんは、1994年にJリーグ所属のサッカークラブ「浦和レッズ」に加入しました。
マリノス戦でデビューするとすぐに活躍を見せ、1年目から35試合に出場。3ゴールを記録しました。
しかし、当初はプロという大きな壁を感じたのだそうです。
最初入ったときは、とにかくレベルが高くて、大丈夫かなって心配になりました。プレーのスピードも速いし、選手の体は大きいし、やっぱすごいなというのが印象でしたね。先輩も怖かった。口も聞いてくれないし、洗礼じゃないですけど、ボール持ったら『持つんじゃねぇよ』っていつも怒られていました
翌1995年には、「キング・ファハド・カップ(インターコンチネンタルカップ)」の日本代表に選出。パラグアイ代表戦にて初出場を果たしました。
1996年には11ゴールをあげ、「Jリーグベストイレブン」「Jリーグフェアプレー個人賞」などを受賞しています。
1997~1998年の「FIFAワールドカップ・アジア予選」にも参加。
のちに”ジョホールバルの歓喜”と呼ばれるようになったアジア第3代表決定戦では、イランから決勝ゴールデンゴールを決め、日本代表をワールドカップ初出場へと導きました。
岡野雅行さんは当時について、のちのインタビューで「ジョホールバルのゴールが1番自分の運命を変えた」と語っています。
同年開催の「FIFAワールドカップ」では、日本代表としてグループリーグ第2戦・クロアチア戦に出場。
これらの功績が称えられ、浦和レッズの筆頭株主である自動車メーカー「三菱自動車工業」からは、岡野雅行さん本人希望のパジェロエボリューションが贈られたそうです。
岡野雅行の経歴② 「ヴィッセル神戸」を経て、再度「浦和レッズ」へ
岡野雅行さんはワールドカップで”時の人”となるも、2001年からはチッタ監督によりベンチ外に。
その後、Jリーグ所属のサッカークラブ「ヴィッセル神戸」への期限付き移籍を経て、2002年に同クラブへ完全移籍しています。
期限付き移籍から完全移籍となった理由については「モチベーションの低下」が大きかったとのこと。
何をモチベーションにしたらいいのか分からなくなってしまった。こんな状態でレッズにいたら自分が終わってしまうような気がして、神戸に移籍させてもらいました。刺激が欲しかったというか、自分の中で1からやり直したかったんです。
2004年に再度浦和レッズへと完全移籍すると、天皇杯連覇に貢献。2008年には史上34人目となる、J1通算300試合を達成しました。
完全移籍後に元いたチームに復帰するのは異例ですが、三浦知良選手の兄で、当時ヴィッセル神戸の強化部長だった三浦泰年さんに「俺が岡野だったら絶対レッズに帰る」と言われたそう。
岡野雅行さんはヴィッセル神戸でタイトルを6つ獲得しており、「最高のモチベーション」で浦和レッズへ再移籍したといいます。
しかし2008年、浦和レッズが契約終了を発表。当時浦和レッズは若返りを図っており、その流れによるものと見られています。
岡野雅行の経歴③ 香港の「天水圍飛馬」、そして「ガイナーレ鳥取」へ
岡野雅行さんは浦和レッズを離れ、2009年に香港リーグ1部所属のサッカークラブ「天水圍飛馬(TSWペガサス)」へと移籍。
ゲストとして招待された香港での試合で、香港のチームから誘いを受けたことをきっかけに、移籍したといいます。
香港はサッカーが上手い選手が少なく、1チーム8人まで外国人選手が出場可能なのだとか。3試合出場し、ダメなら返されるという環境もハングリー精神を掻き立てたといいます。
岡野雅行さんが所属していた天水圍飛馬にも、ガーナ・カメルーン・ブラジルといった各国の選手が顔をそろえていたのだそう。
香港はサッカー上手い人が少ないので、外国人をいっぱい入れるんですね。だから、相手チームにも外国人が8人いて、みんな身長189cmとかで背が高いんですよ。もうぶつかりあいのサッカーです。グラウンドの状態も悪いし、ファールも取らないし、とにかく喧嘩サッカーでした。『come on!』とかずーっと英語で言いあいしながらやっていて面白かった。
岡野雅行さんはデビュー戦で初ゴールをあげるなど活躍を見せましたが、シーズン終了をもって早々に同クラブを去っています。
そして、その翌月にJリーグ所属のサッカークラブ「ガイナーレ鳥取」への移籍が発表されました。
2013年に現役を引退すると、同クラブのゼネラルマネージャーに就任。
翌年の2014年には、「Jリーグ功労選手賞」を受賞し、2017年には同クラブの代表取締役GMに就任しています。
岡野雅行の伝説的高校時代はドラマ化されている
岡野雅行さんは、2017年にテレビ朝日系列で放送されたバラエティ番組「激レアさんを連れてきた。」に出演。その生い立ちが紹介され、世間の注目を集めました。
同番組では、岡野雅行さんが高校時代にサッカー経験ゼロの生徒を集めてサッカー部を設立、強豪チームにしたことに着目。
ドラマ「ROOKIES」を思わせるエピソードが話題となり、なんとドラマ化も実現しています。
岡野雅行さんの実話を元にしたドラマ「激アツ!! ヤンキーサッカー部」は、同局で2018年に放送。主演を竜星涼さんが務めました。
岡野雅行が結婚した嫁は一般人?情報が少なく、馴れ初めも不明
岡野雅行さんは結婚していますが、嫁の詳細については非公開のようです。
ネットでは裕子さんという名前の一般人女性で、1歳年下で交際期間3年、美人だと噂されていますが、実際のところはわかりません。
馴れ初めについてもほとんど語られていませんが、一度破局していたと言われており、1998年のイラン戦を観て感激した裕子さんが、岡野雅行さんに連絡したことで復縁したようです。
イラン戦はいろいろな意味で、岡野雅行さんの人生のターニングポイントだったんですね。
岡野雅行の子供は娘が1人いる?歴史図鑑のエピソードがスゴい
岡野雅行さんには子供がおり、娘さんとのこと。娘さんも一般人のため、詳細は明かされていませんが、娘さんが小学3年生の時のエピソードがほほえましいと話題になっています。
なんでも、娘さんが歴史図鑑を見て「パパがいる」とつぶやいたそうです。
“野人”と言われていたぐらいですから、「原始人とかのことをふざけていっているのだろう…」と思いつつ岡野雅行さんがページを確認すると、本当に自分が掲載されていたんだとか。
どうやら、”日本代表のワールドカップ初出場”という出来事を紹介するにあたり、初出場を決めた岡野雅行さんのゴールが紹介されていたようです。
岡野雅行の現在① 「ガイナーレ鳥取」の代表取締役GMとして活動中
岡野雅行さんは、2017年よりJリーグ所属のサッカークラブ「ガイナーレ鳥取」の代表取締役GMを務めています。
クラブの取りまとめのほか、社会奉仕活動にも力を入れており、2023年7月には試合前に埼玉スタジアムの駐車場で日本赤十字社と献血を実施。
Jリーグに所属する全60クラブが取り組んでいる社会連携活動「シャレン!」による活動の一環で、同企画では80人ほどの浦和サポーターらが献血に協力しました。
当日は岡野雅行さん自ら、献血への協力を呼び掛けたといいます。
また、同年9月にはクラブのスタッフらとセンコースクールファーム鳥取で梨狩りを体験。鳥取県の梨をアピールしました。
また、チーム強化・鳥取の地方創生を目的とした「野人プロジェクト」に取り組んでおり、センコースクールファーム鳥取の二十世紀梨オーナー制度を商品に採用したといいます。
センコースクールファーム鳥取はもともと廃園予定だった梨園でしたが、野人プロジェクトを通じて同年は10本の申し込みがあったそうです。
岡野GMやスタッフら約10人が梨狩りに参加。同社の大西毅雅社長から梨のもぎ方を教わり、大きさを確かめながら収穫した。参加した美保小6年の知久馬光希君(12)は「岡野GMの梨狩りや、丸ごと食べる姿が野人っぽくて楽しかった」と話した。岡野GMは「都会の社長たちはこのオーナー制度に興味を持つ人が多い。おいしい梨でチーム強化につなげ、鳥取のPRに一役買いたい」と意気込んだ。
岡野雅行の現在② 「有吉の壁」に出演し、話題に
岡野雅行さんは2023年5月に、日本テレビ系列の人気バラエティ番組「有吉の壁」に出演。
Jリーグ開幕30周年を記念した特別コラボ企画として、国立競技場での撮影に参加しました。
岡野雅行さんが登場したのは、お笑い芸人と一般人やゲストが協力し、”競技場にいそうなおもしろい人”になりきってネタをする「一般人の壁を越えろ!おもしろ国立競技場の人選手権」。
岡野雅行さんの他にも、ラモス瑠偉さん・中澤佑二さんら元サッカー選手が登場しています。
試合中継の解説に来るはずの岡野雅行が姿を見せず、ジャングルポケット扮するスタッフたちは大慌て。そこに大急ぎで岡野が現れるが……到着した“野人”の姿にジャンポケもあ然となる。
まとめ
岡野雅行さんはサッカー元日本代表で、その俊足さと長髪を振り乱す姿から”野人”と呼ばれていました。
近年は番組で取り上げられたことにより、高校時代に作った「未経験者ばかりでサッカー部を立ち上げ、島根県3位入賞を成し遂げる」という伝説が大きな話題に。ドラマ化もされています。
現在はJリーグ所属のサッカークラブ「ガイナーレ鳥取」の代表取締役GMを務め、社会貢献活動にも積極的な岡野雅行さん。
あまりプライベートに関して語らないため、結婚した嫁との馴れ初めや娘さんの情報は不明ですが、ガイナーレ鳥取についてはこれからもどんどんとアピールしていってくれることでしょう。