佐藤栄作は総理大臣の連続在任期間が歴代2位、日本人初のノーベル平和賞を受賞した政治家です。
今回は佐藤栄作について兄弟の岸信介や大甥の安倍晋三など家系図、結婚した嫁や子供、孫や子孫、経歴、死因や国葬問題も紹介します。
この記事の目次
- 佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞した元総理大臣
- 佐藤栄作の家系図① 佐藤家の出自
- 佐藤栄作の家系図② 曾祖父の佐藤信寛
- 佐藤栄作の家系図③ 兄弟(長兄)は佐藤市郎
- 佐藤栄作の家系図④ 兄弟(次兄)は岸信介
- 佐藤栄作の家系図⑤ 大甥の安倍晋三
- 佐藤栄作が結婚した嫁は佐藤寛子
- 佐藤栄作の子供① 長男は佐藤龍太郎
- 佐藤栄作の子供② 次男の佐藤信二
- 佐藤栄作の孫や子孫はどうしている?
- 佐藤栄作の経歴① 生い立ち
- 佐藤栄作の経歴② 学生時代に池田勇人と出会う
- 佐藤栄作の経歴③ 鉄道省の官僚として活躍
- 佐藤栄作の経歴④ 政治家に転身し、要職を歴任
- 佐藤栄作の経歴⑤ 総理大臣に就任
- 佐藤栄作の経歴⑥ 長期政権の理由
- 佐藤栄作の経歴⑦ 総理辞任した理由
- 佐藤栄作の経歴⑧ ノーベル平和賞を受賞
- 佐藤栄作の死因
- 佐藤栄作も国葬問題が勃発していた
- まとめ
佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞した元総理大臣
佐藤栄作のプロフィール
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佐藤 栄作(さとう えいさく)
生年月日: 1901年3月27日
没年月日: 1975年6月3日(没年74歳)
出身地: 山口県熊毛郡田布施村
佐藤栄作は、鉄道官僚を経て政治家に転身し、第61代、第62代、第63代の総理大臣を務めた人物です。
彫の深い大きな目が特徴的で、口数の少ない佐藤栄作が目を見開き睨みつけると、誰もが戦慄を禁じえなかったというエピソードが残されています。
当時、「ギョロ目の睨み」といえば、一般的に歌舞伎俳優の市川團十郎を指していたということで、いつしか佐藤栄作は「財界の團十郎」と呼ばれるようになりました。
内閣総理大臣時代には、日韓基本条約批准、沖縄返還を成し遂げ、日本人初のノーベル平和賞を受賞した経歴を持っています。
佐藤栄作の家系図① 佐藤家の出自
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佐藤家は脈々と先祖を辿ると、源義経の家臣の佐藤忠信が佐藤家を創設したという口伝が存在します。
これはあくまで佐藤家に伝わっている言い伝えに過ぎませんが、もっと確実な先祖の情報について調べると、佐藤栄作の自伝『今日は明日の前日』にヒントがありました。
『今日は明日の前日』では、「私の家はもともと毛利家の家臣で萩に住んでいた。(中略)曽祖父は毛利家本藩の直参だったのだがあまり格の高いものではなかったようだ」と綴っています。
実際に山口県史学会の調査によると、確認できる佐藤家の初代の人物は市郎右衛門信久という人物で、1662年頃に院萩藩の藩士になりました。
その後も代々、家を継ぐ人物は「市郎右衛門」もしくは「源右衛門」を名乗っていたようです。
佐藤栄作の家系図② 曾祖父の佐藤信寛
佐藤栄作の家系図を語る上で忘れてはいけない人物は、曾祖父・佐藤信寛です。
武士というよりも文官に近い人物で、明治時代になると政治家として辣腕を振るい、その後の子孫に大きな影響を与えました。
藩士から県知事に転身
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曽祖父の佐藤信寛は藩士として10代目にあたる人物で、1815年12月27日に山口県熊毛郡にて誕生。
若い頃は藩校・明倫館に入り、長州藩の儒学者である山県足太華に師事、江戸では兵学者である清水赤城に師事し、長沼流兵学を修めました。
その後、吉田松陰に兵要録を授け、伊藤博文、木戸孝允とも交流を持っていたという記録が残っています。
明治維新後は、現在の島根県石見地方、隠岐諸島である浜田県の知事や島根県令を務め、1787年頃に退官後は、別荘で詩編や手記を書きながら余生を送りました。
作家・吉本重義の著書『岸信介傳』には「佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた」と書かれています。
文官の藩士としても、政治家としてもかなり優秀な人物であったことは間違いなさそうです。
佐藤栄作の家系図③ 兄弟(長兄)は佐藤市郎
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長兄で海軍軍人だった佐藤市郎
佐藤栄作は6人兄弟の三男として誕生していますが、兄2人はかなり優秀な人物だったようです。
長兄である佐藤市郎は、兵学校在校中は満点に近い成績を残し、「海軍始まって以来の秀才」と称され、海軍大学校第18期生の首席で卒業。
1920年よりフランスに駐在し、1923年からは軍令部参謀を務めます。1927年のジュネーブ海軍軍縮会議には日本海軍代表として参加しました。
1932年には海軍省教育局第一課長に昇進するなど、順調キャリアを進んでいたようです。
退官後の晩年は『海軍五十年史』を執筆するなど文筆家として活動していましたが、1958年4月14日に68歳で死去しました。
佐藤栄作の家系図④ 兄弟(次兄)は岸信介
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次兄で安倍晋三の祖父である岸信介
佐藤栄作の次兄は、第56代、第57代の総理大臣を務めた岸信介です。
実兄でありながら苗字が違う理由や、岸信介の経歴について紹介します。
岸信介のプロフィール
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岸 信介(きし のぶすけ)
生年月日: 1896年11月13日
没年月日: 1987年8月7日
出身地: 山口県吉敷郡(現在の山口市)
若い頃に養子に入っていた
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岸信介は佐藤家の第5子の次男として誕生。この時、曽祖父の佐藤信寛が近くに来ていたこともあり、「喜んで名付け親になろう」と「信」の一文字を取って「信介」になったそうです。
岸信介が中学生の頃、父方の叔父である佐藤松介が肺炎で急逝しました。
佐藤栄作の父親は婿養子で実家を継ぐことができないため、岸信介が養子になっています。
官僚の道へ
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1917年に東京帝国大学法学部に入学した岸信介は、優秀な生徒だったため、教授から「大学に残って研究の道を選ぶように」と要請されていたのですが、これを断り官界を選んでいます。
当時の東大法学部卒業者が選ぶのは内務省がオーソドックスでしたが、「これからは産業の時代だ」と、農商務省に入り、周囲を驚かせました。
入省すると、あっという間に20人いた同期のリーダー格になり、1925年には商工省に配属され、自動車製造事業立法に貢献しています。
A級戦犯から政界復帰
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1941年に東条内閣の商工大臣、第二次世界大戦後期には軍需次官に就任し、重鎮として活躍していた岸信介は、戦後はA級戦犯として巣鴨拘置所に拘置されました。
3年間収容された後、証拠不十分で釈放。その後、政界に復帰して自由民主党結成の立役者に。
1956年に発足した石橋内閣では外務大臣に就任し、経済外交の推進や対米外交の強化に力を入れていました。
ところが、首相の石橋湛山が病に倒れたことで、岸信介は首相臨時代理となり、その後に正式に後継者指名を受けて、1957年2月に第56代総理大臣に就任し岸内閣が発足します。
先代である石橋内閣とほぼ同じメンバーであったことから「居抜き内閣」と呼ばれました。
暴漢に刺されていた
1960年に入ると、アメリカとの新安保条約締結を巡り、あちこちで反対勢力が結成されてデモが勃発。
日に日に激化する反対運動は激化し、岸信介は1970年7月14日に暴漢に刺されて負傷するという事件が発生しました。
これを受け、翌月に岸内閣は総辞職しています。
岸信介の晩年は、娘婿である安倍晋太郎の衆議院選挙の応援をするなど、政界に対して影響力を持っていたようです。
1988年8月7日、入院先の東京医大病院において90歳で死去。死因は発表されていません。
佐藤栄作の家系図⑤ 大甥の安倍晋三
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佐藤栄作の大甥にあたるのが、安倍晋三前首相です。佐藤栄作の兄である岸信介の息子、安倍晋太郎の息子にあたります。
安倍晋三のプロフィール
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安倍 晋三(あべ しんぞう)
生年月日: 1954年9月21日
没年月日: 2022年7月8日(67歳没)
出身地: 東京都新宿区
安倍晋三は第90代、96代~98代の内閣総理大臣を務め、その在任期間は3188日間となり、大叔父・佐藤栄作や桂太郎を抜き、歴代1位の記録を持っています。
2度に渡る辞任
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母方の祖父が岸信介、大叔父の佐藤栄作、父親の安倍晋太郎も政治家という家庭環境で育った安倍晋三は「幼い頃から私には身近に政治がありました」とインタビューで語っています。
安倍晋三は、成城大学卒業後にサラリーマン生活を経て、父の秘書官に転身。1991年に父親が死去すると、本格的に政治家としての準備を開始します。
1993年の衆議院議員総選挙に、山口1区から出馬し当選。2000年に発足した森内閣において、内閣官房副長官、2003年には自由民主党の幹事長に就任し、実質のナンバー2に。
その後の2006年に第1次安倍内閣が発足、という順風満帆な政治家生活を送ってきましたが、2007年に病気を理由に電撃的に辞任。
2012年には、第2次安倍内閣が発足。2020年になると、以前から患っていた潰瘍性大腸炎が悪化したことを理由に、2度目の辞任を発表しています。
その後は安倍派の会長として、政界に大きな影響力を持っていました。
銃撃事件により死去
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2022年7月8日、安倍晋三が第26回参議院議員通常選挙の応援演説中に、背後から銃撃されたという一報が日本中を駆け巡りました。
すぐにドクターヘリで病院に運ばれ、輸血と止血が試みられたものの、17時3分に死亡が確認されています。
事件後の現場検証では、演説会場が360度見渡せる場所であるにも関わらず、背後から誰でも容易に近づくことができるような警備体制であったことが発覚し、問題になりました。
また、犯人が近づいてきて発砲するまでの9秒間で取り押さえなかったこと、1発目の発砲から2発目までの間に被弾を防ごうと動く警察官がいなかったという対応の悪さも指摘されています。
旧統一教会問題は親子三代続いていた?
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事件後に注目が集まったのは、政治家と統一教会との深刻な癒着問題でした。
犯人の男性は宗教2世で、犯行動機として「安倍首相に恨みがあった」と語り、安倍晋三と統一教会の関係、そして安倍晋三以外も多くの政治家が統一教会と親密な仲だったことが判明。
これまでに行われてきた選挙では、旧統一教会の関係者からの集票や、選挙ボランティアなど支援の恩恵を受けてきたことも発覚しました。
弁護士の鈴木エイト氏によると、「派閥別に調べたところ、清和会(安倍派)が一番飛び抜けて多かったです」と語っています。
さらに調査が進む中で判明したのが、韓国発の宗教法人である旧統一教会が、日本で力を伸ばすきっかけとなったのが岸信介だったという点です。
かつて旧統一教会の本部は岸家の隣にあり、1968年に岸信介が設立した「国際勝共連合」のバックアップをしていたことが明らかになりました。
マスコミの取材は、安倍晋三の父親・安倍晋太郎と旧統一教会の関係にも及びました。
旧統一教会の創始者・文鮮明の「選挙の時、安倍(晋太郎)さんの派閥の議席数は13しかなかったんです。それを88名まで全部教育して育ててあげました」との手紙も暴露されています。
つまり親子三代、80年に渡って持ちつ持たれつの関係が生じていたことになります。
佐藤栄作が結婚した嫁は佐藤寛子
佐藤寛子のプロフィール
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佐藤 寛子(さとう ひろこ)
生年月日: 1907年1月5日
没年月日: 1987年4月16日
出身地: 山口県田布施町
佐藤栄作の嫁は、佐藤家親族の女性で名前は「寛子」といい、父親の松助は岡山医師専門学校で教授を務めていた人物です。
跡継ぎとなる男子がいないまま、1911年に松助が34歳の若さで死去。そこで寛子の結婚相手として、分家の三男だった佐藤栄作に白羽の矢が立てられ、婿養子となりました。
1969年には、沖縄返還協定調印のために渡米した佐藤栄作に、ファーストレディーとして同行した寛子さんは、当時は斬新なファッションだったミニスカートで登場し話題に。
当時の駐米大使夫人からのアドバイスだったそうですが、寛子さん自身もかなりの勇気が必要だったようで、後年「お国のために頑張った」と当時を振り返っています。
旦那の死去後も、女性週刊誌の対談に登場するなどマスコミに出演しました。
また、元宝塚の越路吹雪の大ファンで、後援会の会長を務めていたそうです。
佐藤栄作の子供① 長男は佐藤龍太郎
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佐藤栄作さんの子供について調査しました。息子が2人誕生していたことが判明しています。
1928年に誕生した長男の佐藤龍太郎は、1953年に富士製鉄に入社、その後はアラビア石油やアジア採掘などオイル系の企業に勤めていました。
その後の1987年、西日本放送旅客鉄道の常務に就任後は、JR西日本系の企業を渡り歩きます。
1990年にJR西日本ホテル開発の社長に、1997年には同社の会長に就任。2001年に顧問になりました。
ただし、その後の人生については情報が入っていません。
佐藤栄作の子供② 次男の佐藤信二
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次男の佐藤信二は1932年2月8日に誕生し、慶応義塾大学法学部を卒業後に日本鋼管(現在のJFEスチール)に入社しました。
その後、1974年の参議院選挙に出馬し、初当選すると沖縄開発政務官を務めます。
1979年の衆議院議員で鞍替え出馬し、「(佐藤)栄作の11回目の選挙です!」というキャッチコピーが功を奏して衆議院議員に初当選しました。
自民党では、佐藤栄作が生前懇意にしていた人物の派閥を渡り歩き、田中派や竹下派、小渕派に属していました。
竹下内閣では運輸大臣、第二次橋本内閣では通商産業大臣を歴任。2005年9月に政界を引退し、2016年5月3日に死去。84歳でした。
佐藤栄作の孫や子孫はどうしている?
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佐藤栄作には数人の孫がいることが判明しています。
まず、佐藤栄作の長男・佐藤龍太郎の息子である佐藤栄治さんは、エム・ピー・ソリューションの代表取締役社長を務めています。
次男の佐藤信二の娘の美花さんは、かつて日本テレビの元報道記者をしていました。現在は、参議院を務める阿達雅志さんの嫁です。
また佐藤信二には長女の路子さんという娘もいることが分かっているのですが、具体的にどのような人物なのかは不明です。
曾孫については詳しい情報が明かされていません。今後、何らかの情報が公開されていくのでしょうか。
佐藤栄作の経歴① 生い立ち
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ここからは、佐藤栄作の生い立ちや、学生時代のエピソードを紹介します。
生い立ち
佐藤栄作は、山口県田布施村で酒造業を営む両親の三男として誕生しました。
父親は佐藤家の婿養子で、山口県庁に勤務していましたが、退職後に酒造業を始めたのです。佐藤栄作によると「父親は勉強好きで寡黙な人だった」と語っています。
地元では、佐藤栄作と兄2人について「頭は上から、度胸は下から」と評価されてきました。
佐藤栄作の幼少期は、勉強ができて優秀な兄2人とは違って、勉強に励むよりも遊ぶことに力を注いでいたんだとか。
夏は近くの川で真っ黒になって泳ぎ、小鳥を追ったり、鰻とりをしたりなど自然児そのものだったそうです。
佐藤栄作の経歴② 学生時代に池田勇人と出会う
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良きライバルだった池田勇人
高校受験の際に名古屋の下宿で偶然一緒になった少年こそが、後の第55代、61代~62代総理大臣を務めることになる池田勇人でした。
2人はすぐに意気投合し、第五高等学校の同級生として過ごしました。
1921年に、佐藤栄作は東京帝国大学に合格。学生時代の友人によると、佐藤栄作は真面目で勉強に打ち込む生徒だったという証言があります。
なお、佐藤栄作と池田勇人は政界入りすると吉田茂の右腕となり、良きライバル関係にあったようです。
就職先は土壇場で決めた
大学を卒業するにあたり佐藤栄作は、1923年12月に行われた高等文官(高級官僚)試験を受けて合格しています。
兄の岸信介は、自身が属している農商務省が良いと佐藤栄作に勧めたのですが、優秀な兄と比べられることが嫌で、一般企業を受けることに。
親族から日本郵船を紹介され、俗にいう縁故採用で入れるはずでしたが、なぜか会社都合で取り消しになるという憂き目に遭いました。
そこで浅野セメント(現在の太平洋セメント)に決まりかけましたが、土壇場で鉄道省を選びました。
後に佐藤栄作は、自身が選んだ道について以下のように振り返っています。
あのとき日本郵船に入っていたら、海運不況で苦しい思いもしたろうし、戦争中には郵船の船は全部沈められたので、海の藻屑と消えたかもしれない。
同じ輸送の商売でも鉄道に入ったので、仕事も順調だったし、戦争にも行かなかった。
引用:佐藤栄作 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
就職がなかなか決まらず、焦る思いもあったのかもしれませんが、後から考えると正しい選択だったということになりそうですね。
佐藤栄作の経歴③ 鉄道省の官僚として活躍
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1924年に5月に、鉄道省(現在の国土交通省)に入った佐藤栄作は、しばらく鉄道畑を歩みました。
ここでは、官僚時代の佐藤栄作について紹介します。
鉄道省では左遷も経験
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早くから革新官僚として脚光を浴びていた兄の岸信介と比べ、佐藤栄作は入省後しばらくは地味な生活を送っていたようです。
しかし、1934年から2年に渡り在外研究員として海外に留学。アメリカや欧州を渡り歩き、欧米の運輸についての研究に取り組みました。
1940年に鉄道省監督局総務課長に昇進し、全国の鉄道会社とバス会社の整理統合に取り組み、陸上交通事業調整法の立法、陸運統制令などに尽力します。
東京地下鉄と営団地下鉄の2社の無駄な競争をやめさせて、営団一本にすべきという提案を行い、鉄道大臣から睨まれたことも。
1944年に大阪鉄道局長として大阪に転勤。肩書きからすると栄転のように見えますが、実際には左遷だったとのこと。
何かと削減に努める佐藤栄作の姿を、当時の鉄道大臣・五島慶太から疎ましく思われてしまったそうです。
左遷はラッキーだったかも?
大阪に転勤した翌年の1945年に入ると、大阪は度々空襲の対象になりました。佐藤栄作はその都度、関係者に注意喚起をするなど対応に追われていた記録が残されています。
終戦を迎えると、多くの関係者が戦犯として捕らえられたのですが、佐藤栄作は大阪に左遷されていたことが幸いし、公職免職から逃れることができました。
また、鉄道は大事な国のインフラだったことから、戦争に兵士として徴兵されることもなく、これまで不遇だと感じていた身の上は実はラッキーだったということになります。
戦後の佐藤栄作は、1947年に運輸次官に出世し、政治家になるために1948年に退官しました。
佐藤栄作の経歴④ 政治家に転身し、要職を歴任
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要職を歴任
吉田茂元首相が率いる吉田第二次内閣において、佐藤栄作は議員ではないにも関わらず1948年に内閣官房長官に抜擢されています。
旧友の池田勇人と共に、「吉田学校」というワーキンググループの代表格のような存在にもなっていきました。
その後の1949年には、第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。
自民党に入党し、兄である岸信介の右腕として頭角を現わし、第二次池田内閣では通商産業大臣、第二次岸内閣では大蔵大臣を歴任。
各内閣で要職に就く中で、次第に池田勇人の高度成長路線に異を唱えるなど、次第に自身の政策をブレーンらと共にじっくり練り上げていきました。
佐藤栄作の経歴⑤ 総理大臣に就任
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佐藤栄作は、1964年7月に行われた総裁選で、池田勇人の3選目阻止を掲げて出馬しました。
しかし、党の支持を固めていた池田勇人が有利となり、敗北しています。
対抗馬=政策に反対する立ち位置を鮮明にしたことで、要職を解かれてしまっても文句は言えない状況です。
当面の冷や飯を覚悟していたところ、総裁選から3ヶ月が経過した頃、池田勇人は病に倒れ退陣を表明。
党内調整会談を経て、11月9日に池田勇人から後継者に指名された佐藤栄作は、内閣総理大臣に就任しました。
兄の岸信介も、先代の総理が病気に倒れたことで総理に就任するというプロセスを経ており、兄弟揃って似たような状況で総理大臣に就任したことになります。
当時、佐藤内閣を支えた田中角栄は「努力さえすれば大臣などの職に就くことができるが、総理総裁はそうもいかない。運が大事だ」と語りました。
佐藤栄作の経歴⑥ 長期政権の理由
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池田隼人の代わりとして、急遽発足した佐藤内閣でしたが、2798日という当時の歴代最長の連続在任記録を叩き出す長期政権となりました。
総理大臣在任中に一定の支持率を維持した背景や、政権が長く続いた理由について調査しました。
空前の高度経済成長
内閣支持率を長年維持するというのはとても大変なことです。
佐藤栄作は「待ちの佐藤」と呼ばれる堅実タイプで、無難な選択を行うスタイルで政権運営を心掛けていたようです。
保守的で地味な政治スタイルを貫き、在任中の支持率は大きく上下することはなく推移していきました。
そんな佐藤栄作の無難な政策の他にも、一定の支持率が続いた背景としては日本が好景気の波に乗っていたことが大きいでしょう。
かつて、池田勇人の「国民所得倍増計画」といった経済優先に振り切った施策には反対の姿勢でしたが、証券不況を乗り越えたことで池田内閣時代よりも経済成長率が高くなっていました。
沖縄返還
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第二次世界大戦以降、沖縄はアメリカが所有権を保持してきましたが、佐藤栄作は1965年8月に「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と声明を発表。
アメリカとの交渉を行うために佐藤栄作は、改めて沖縄について勉強会を開き「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねた、という逸話が残っています。
その後、長い時間をかけて交渉を重ねてきました。日本側も非核三原則や米軍基地を沖縄県内に維持するといった条件を飲み、1972年5月15日に沖縄は日本に返還されたのです。
そして2022年、沖縄返還から50年の式典が執り行われ、ニュースや新聞で大きく取り上げられています。
佐藤栄作の経歴⑦ 総理辞任した理由
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佐藤栄作が総理大臣を辞任したのは2022年7月7日です。
それ以前から、1人の総理が長期政権を担い続ける弊害を懸念する声がありました。
これは、佐藤栄作が外交においてベトナム戦争の北爆を支持したことで左翼系の思想の人々から猛反対を浴び、1967年11月に官邸前で焼身自殺事件が起きていたことも影響しています。
また、統一地方選挙における革新陣営の台頭もあり、佐藤内閣の求心力はさらに下がることに。
そして1972年7月5日の国会で、佐藤栄作が力を入れていた国鉄運賃値上げ法案、健康保険法改正案が廃案となった時にようやく辞任する決意を固めたのです。
この時、佐藤栄作は「大事な案件が自分の力で処理できなかったときこそ、辞めるべきものさ。政治家とはそういうもんだ」と周囲に語ったと言われています。
もし、ここで辞任せず10月3日まで総理を続けていた場合、第11代、13代、15代内閣総理大臣を務めた桂太郎の通算在職期間を超えて、当時の歴代1位となっていたはずでした。
佐藤栄作の経歴⑧ ノーベル平和賞を受賞
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1974年のノーベル平和賞の受賞メダル
佐藤栄作は、総理大臣を辞任した後の1974年に日本人初のノーベル平和賞を受賞しました。
まだ総理だった時代に、佐藤栄作が核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」と表明したことが選考委員会から評価されたとのこと。
しかし、2001年にノーベル平和賞の選考委員会が出版した記念誌の中で、「後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と暴露されます。
佐藤栄作が平和主義者ではなかったと報じられたことで、ノーベル平和賞そのものが物議を醸しました。
また、佐藤栄作の次男・佐藤信二は「父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された」と反論しています。
佐藤栄作の死因
出典:https://bookclub.kodansha.co.jp/
佐藤栄作が死去したのは1975年6月3日のこと。
半月ほど前の5月19日、築地の料亭で行われた宴席に財界人らと共に参加した際、トイレに行くために立ち上がったところ、佐藤栄作は崩れるように倒れ込んでしまったといいます。
その後すぐにいびきをかき始めたため、駆け付けた慶応義塾大学や東大の医師団も、嫁の寛子も病院に運び込みませんでした。
これは、症状から脳溢血であることには間違いなく、こういったケースでは患者を動かしてはいけないというのが当時の常識でした。
そのため、家族の強い要望によりその日から4日間、料亭で様子を見て、その後に佐藤栄作は東京慈恵会医科大学付属病院に移送されました。
そのまま昏睡が続いた佐藤栄作は6月3日に死去。享年74歳でした。
佐藤栄作も国葬問題が勃発していた
出典:https://weekly-economist.mainichi.jp/
佐藤栄作の死去を受けて、問題になったのは葬儀でした。
この時の総理大臣だった三木武夫は国葬を検討するも、実現しませんでした。
結果的に国民葬を執り行ったのですが、なぜそうせざるを得なかったのでしょうか。国葬の問題についても紹介します。
そもそも国葬と国民葬の違いとは?
出典:https://www.photo-ac.com/
2022年の安倍元総理の国葬の是非について、日本中で物議を呼んだことが記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。
国葬とは、国家が喪主となる葬儀で国に大きな貢献をした人を称えて、その死を悼むことを趣旨としたものです。
日本において最初の国葬は大久保利通です。大久保利通が暗殺されたことを受け、伊藤博文らによって企画されました。
国葬の最大の特徴は、費用は全て国費という点です。安倍晋三元首相の国葬費用は12億4千万円だったことが発表されています。
かつては国葬の日は学校や官庁が休日となる決まりがありましたが、現在は国葬令が失効しているため、明確な規定がありません。
一方、国民葬は趣旨は国葬と同じですが、国民葬費用の負担を一部、遺族が持つという点が大きな違いとなります。
かつて国葬となった総理大臣経験者は伊藤博文、山縣有明、松方正義、西園寺公望、吉田茂の5人です。
結局国民葬に
佐藤栄作は国民葬だったわけですが、佐藤栄作の国葬を検討した三木内閣では「吉田茂の前例があるので国葬にすべき」という声が、党内を中心に上がりました。
しかし、野党からの反発が大きいことは火を見るより明らかで、国葬に法的な根拠が見出すことができず断念。
当時の内閣官房長官を務めていた井出一太郎は、定例会見で「国民葬というのが最も穏当なところで、今の時代に一番即したやり方であろう」と説明しています。
佐藤栄作の国民葬が令和の現在に注目を集めたのは、岸田首相が安倍晋三元首相の国葬について明確な根拠を示さないまま、強行したことにあります。
2022年9月、各新聞社では佐藤栄作の国民葬を振り返る記事が、多数掲載されました。
まとめ
佐藤栄作の家系図や兄弟である岸信介との関係、嫁の寛子との結婚や子供、孫や子孫、これまでの経歴やノーベル平和賞、死因と葬儀についてまとめました。
総理大臣として長期政権を維持し、日本の好景気を支えてきた佐藤栄作は、安倍晋三元総理の死去後、国葬問題が勃発したことで改めて脚光を集めています。
地道に諦めず、ジックリと政策に取り組んだ佐藤栄作が成し遂げた沖縄返還や非核三原則は、現在の日本の根幹に大きく関わっていると言えます。
大甥の安倍晋三が国葬となったことに、佐藤栄作はあの世でどう思っているのでしょうか。聞いてみたい気がします。