「青森県新和村一家7人殺害事件」は1953年に青森県で発生した大量殺人事件ですが、犯人の無罪判決やその後が話題です。
今回は青森県新和村一家7人殺害事件の詳細や被害者と犯人、裁判の争点や判決、その後や現在をまとめました。
この記事の目次
青森県新和村一家7人殺害事件とは
「青森県新和村一家7人殺害事件」とは、1953年(昭和28年)12月12日、青森県中津軽郡新和村(現:弘前市大字小友字宇田野496番地)にある水木家内でで発生した、大量殺人事件です。
事件を起こした加害者の水木家三男のMは、被害者である父親の水木福三郎や長兄達から激しく疎まれており、家督を相続させてもらえず、実家を追われて極貧生活を送っていました。
Mは足りなくなった味噌を盗むために実家に忍び込んだところ、猟銃をそこで発見します。父親たちに殺されると被害妄想にとらわれ、殺される前に殺そうと犯行に及びました。
Mは殺人罪・尊属殺人罪・住居侵入罪で起訴されたものの、心神喪失状態だったことから刑事責任に問えないとして、殺人・尊属殺人は無罪、住居侵入罪のみ有罪とする判決が下されました。
その後釈放されたMは、地元に残って次兄と一緒にリンゴ農園を営んでいましたが、事件から48年後となる2001年12月に交通事故で亡くなっています。
青森県新和村一家7人殺害事件の犯人は被害者の長男M
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「青森県新和村一家7人殺害事件」を起こした加害者であるMは、当時24歳で、桶職人をしていました。
事件が発生する前年の1952年、父や長兄らに無一文で家を追い出されたことから、その日の食べるものにも困るような極貧生活でした。
青森県新和村一家7人殺害事件の被害者は7人 【その後の火災でさらに1人死亡】
殺害された水木家の大黒柱である水木福三郎(当時57歳)は、広大な農地を所有する地元の豪農でした。
しかし、水木福三郎は怠け者で酒癖が悪く、さらに女癖も悪かったことから、愛人を作っては家を顧みない堕落した生活を送っていました。
そのため、家庭内ではいつも問題が絶えませんでしたが、水木福三郎は自分の非を認めない性格だったため、気にくわないことがあると強権的に妻も追い出しています。
父親の家督を継いだ長兄(当時35歳)も父親に似た利己的な性格をしており、財産の独占を図るために次男や三男など弟たちを邪険にし、家を出ることを強要しました。
「青森県新和村一家7人殺害事件」の被害者は、これら2人に加えて、長男の妻(当時33歳) とその子供2人、祖母(当時80歳)、伯母(当時61歳)も加えて計7人です。
なお、長男の次女は事件直後に発生した火災で亡くなっています。
青森県新和村一家7人殺害事件が起きた場所
「青森県新和村一家7人殺害事件」事件現場となったのは、青森県弘前市大字小友字宇田野496番地で、村の中心部から数十メートル離れたりんご農園の中にある水木家でした。
りんご農園は広大でしたが、自宅は約100平米とそれほど豪邸というわけではなかったようです。
青森県新和村一家7人殺害事件の詳細:時系列に紹介
Mは家を追い出されて桶屋として働く
父親らに家を追い出されたMは、桶職人として生活していましたが、その日食べて行くにもやっとの生活で極貧に苦しんでいました。
Mの母親も追い出されていたようで、水木福三郎に対して離婚訴訟を起こしていた経緯もあり、Mは父親や長兄らとの溝を深めていきました。
祖母は追い出されたMに同情して、少しばかりの米や味噌などを度々与えていましたが、Mはそれ以外の用事で実家に出入りすることはありませんでした。
Mは父親らを殺害したいと考えていた
1953年10月頃、別の家の物置小屋のひさし部分だけ借り受けることができたMは、そこに藁を敷いて生活していました。
しかし、風雨や吹雪などは防げず、吹き晒し状態だったため、寒さに震えて一晩中眠れないこともあり、Mは己の不幸を嘆いて泣き明かすことも少なくありませんでした。
こうしたMの極貧生活を父親や長兄らは知っていましたが、同情するどころか嘲笑するような態度であり、これに対してMは憤りを強めていきました。
1950年秋頃になると、Mは父親を青酸カリで殺害しようと企てています。
また、1953年秋頃には村の駐在巡査に、実家から黙って物を持ってきたら罪になるか、争いになった時の正当防衛の範囲などについて聞いていたと言われています。
Mは父親らに殺されると感じ、犯行を決意
「青森県新和村一家7人殺害事件」発生前日となる1953年12月11日に、Mは桶の修理のために午後に出かけ、19時頃に帰宅してからお酒を7合ほど飲んでいました。
お酒のつまみとして味噌を食べようとしたところ尽きていたため、Mは日をまたいだ12日の深夜1時頃に、実家に味噌を盗みに入りました。
実家に隣接した物置に入ったMは、猟銃と実弾十数発が装填された弾帯が置いてあるのを見つけました。
Mは、味噌を盗みに入ったことが父親らに知られたらこの猟銃で殺されると被害妄想にとらわれ、殺されるぐらいなら先に殺してやろうと決意します。
Mは父親らを猟銃で殺害した
Mは弾帯を腰に着けて、猟銃を持って隣にある実家に侵入しました。
父親らは就寝中であり、Mは父親の頭部を猟銃で打ち抜いて殺害し、その銃声を聞いてびっくりした長兄やその妻と子供らも殺害します。
また、祖母は布団に潜り込んで隠れましたが、Mは布団の中に猟銃を入れて頭部や肩などを撃ち抜いて殺害しました。
叔母は慌てて縁側に逃げ出しましたが、隅のところでMに腰を撃ち抜かれて殺害されました。
実家は火災により全焼した
Mは犯行後、実家の玄関脇に猟銃を捨てて、弾帯を締めたまま勝手口から家を出ます。
そして、近くに住む親類の家の前で「親父を殺してきた」と叫びました。
この声を聞いた親類は、1時半頃に犯行現場となったMの実家を見に行きましたが、外から見た様子では異常は感じられなかったそうです。
しかし、それから約1時間後にMの実家から出火して全焼しました。この火事により、長兄の次女(当時3歳)が家の中で焼死しています。
この火災の原因が、Mによる放火なのか、こたつの掛け布団からなのか、はたまた猟銃を発射した際の火の粉からなのかが捜査されましたが、結局原因は特定できませんでした。
ただ、その後の仙台高裁秋田支部の判決において、Mが至近距離から射殺した際に、銃口から発せられた火花が布団に引火した可能性が高いことが指摘されています。
なお、住み込みの使用人の男性(当時23歳)は、炎から逃れるために2階の窓から飛び降りて無事でした。
Mは親類に頼り自首した
Mは殺害現場の自宅から約1キロメートル離れた親類の家を訪れ、親類の男性に「自首するので一緒についてきてほしい」と頼み込みました。
そして親類の男性とともに、集落の駐在所へ向かい自首しました。その後、国家地方警察弘前地区警察署へ移送されています。
青森県新和村一家7人殺害事件の犯人Mの裁判と判決
Mの初公判が開かれた
Mの初公判は、1954年2月1日に青森地方裁判所弘前支部において開かれました。
Mは罪状認否で、父や長兄に恨みはあったものの、殺害するつもりで実家に侵入したわけではないこと、猟銃を見て父親に殺されると勘違いし、殺される前に殺そうと決意したと語りました。
この殺意の否定に対して、Mの弁護人も、尊属殺人は認めるもののMには殺意がなかったこと、過失致死罪が成立することを主張しました。
第一審の公判は、初公判及び判決公判を含めてのべ11回開かれましたが、その中でMの証言は、途中から変わっています。
捜査段階には「殺されると思って侵入した」という説明していたのに対し、猟銃を見て殺されると思って銃を握ったが、気づいた時には父が足元で倒れていたと供述を変えたのです。
つまり、殺害時の記憶がないとして、殺意及び殺害行為を否認する供述をしています。
Mの精神鑑定が行われた
Mの精神鑑定は1955年6月に、弘前大学医学部精神科の医師・安斎精一によって行われました。
安斎精一は、Mの犯行当時の精神状態について心神喪失状態だったと診断しましたが、検察側はこれに異議を唱えて東京都立松沢病院の院長・林暲に再鑑定を依頼しました。
林暲が翌年1956年2月に提出した鑑定書によると、安斎精一と同様に心神喪失状態であるということに加えて、心神耗弱状態にあったと診断されました。
Mの判決は死刑か無罪かに割れた
1956年3月15日、Mの論告求刑公判が開かれ、青森地検弘前支部の検察官はMに対して無期懲役を求刑しています。
論告において検察官は、焼死した長男の娘と、死因が特定できていない祖母はMの直接的な犯行とは断定できないが、結果的に8人の命が失われたことからMの犯行と言えると語りました。
また、Mは犯行当時、多少の精神障害を起こしていたとはいえ、手際の良い殺害方法から、完全な自己意識下にあったと言えるとしました。
さらにMが事件を起こした後に、小友地区では家族内での殺人が相次いだことから、社会的影響が大きいとしました。
そして、幼い子供や逃げ惑う祖母などを殺害したその犯行は甚だ凶悪であり、情状酌量の余地はないことから、Mには死刑が妥当だと指摘しました。
しかし、林暲の鑑定書を採用し、Mが犯行時に心神耗弱状態だったことを認め、死刑が妥当だとしながらも無期懲役を求刑しました。
これに対し、Mの弁護人は最終弁論で、安斎精一、林暲の鑑定書で心神喪失かそれに近い状態だったと結論が出ていることから、Mの刑事責任は免れるべきだとして無罪を主張しました。
判決では、Mが計画的犯行ではないと認められた
Mが死刑判決を免れる結果となった背景には、計画的犯行ではないことが認められたためでした。
事件前の1953年7月15日頃、長兄の妻が実家に行った際、家人に対して「Mが実家の人達を全員焼き殺してしまおうとしていると聞いたため、小友の家へ帰るのが怖い」と話していす。
この証言から計画的犯行も疑われましたが、Mは犯行直前に飲酒をした際、同席していた人に、深夜に実家に味噌を取りに行くと明かしていました。
また、物置小屋の味噌樽からは味噌が詰まったかめが発見されたことから、計画的犯行だとする証拠はないと認められました。
Mの判決は懲役6か月・執行猶予2年となった
1956年4月5日にMの判決公判が開かれ、青森地方裁判所弘前支部は尊属殺人・殺人は無罪とし、物置小屋へ侵入した住居侵入は懲役6か月(執行猶予2年)とする判決を言い渡しました。
Mに先天的なてんかんがあったことや、犯行直前に大量に飲酒していたことから、猟銃を発見した際に父親に殺されると極度の被害妄想を起こし、意識障害が深くなったためとしました。
しかし、住居侵入行為で有罪となった理由は、猟銃を発見して心神喪失状態に陥る前だったためだとされました。
Mは無罪判決を受けて釈放された
この判決に不服を示した検察側は、殺人罪に関して仙台高等裁判所秋田支部に控訴しましたが、控訴審の精神鑑定でもMの心神喪失状態が認められました。
このことから第1審判決を支持して検察の控訴を棄却、検察は上告を断念したためMの無罪が確定しました。
無罪判決となり、弘前拘置所から釈放されたMは、その時に地元新聞の記者から取材を受けた際に「満足だ」と答えています。
ただその後、Mが起こした大量殺人事件に感化されて、同じ集落で肉親殺しが多発しました。
そのため、朝日新聞は社会的影響を考えると無罪は軽すぎるという声が出ていることを報道しています。
青森県新和村一家7人殺害事件の犯人Mのその後
Mは無罪釈放された後に、出迎えてくれた次兄と妹とともに実家に帰郷します。
そして、父親らをはじめとする被害者の墓参りを済ませ、次兄とともに実家のりんご農園を継ぎました。
経営は安定し、Mは32歳の頃に結婚しました。それからも経営は順調だったようで、晩年には3人の孫にも恵まれて、地区の自治会長野農業協同組合の顔役などを務めるようになりました。
幸せな余生を送っていたと思われるMでしたが、2001年12月20日、西津軽郡鰺ヶ沢町北浮田町外馬屋の県道(青森県道31号弘前鯵ケ沢線)を車で走行中、事故を起こして死亡しました。
享年72歳でした。
青森県新和村一家7人殺害事件についてなんJ民の反応は?
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日本犯罪史上でも稀に見る凶悪事件でありながら、殺人において無罪判決となった「青森県新和村一家7人殺害事件」について、なんJ民の反応を紹介しましょう。
8:なんJゴッドがお送りします2020/11/01(日) 06:11:09.40ID:zPgbR0VN0
殺人に関しては無罪ってヤバない?
マーダーライセンス要らんやん
12:なんJゴッドがお送りします2020/11/01(日) 06:13:06.34ID:2leeZR9i0
>>8
まあ当時は刑法で理性を重視してた近代法学の影響強いからしゃーない
今なら確実に有罪になるし多分死刑や
10:なんJゴッドがお送りします2020/11/01(日) 06:12:44.83ID:T0TzH4CT0
2年足らずで出所した挙げ句孫まで作って21世紀まで生きた化け物
13:なんJゴッドがお送りします2020/11/01(日) 06:13:24.44ID:birKK5zw0
これ今やったらどうなるんや判決は
21:なんJゴッドがお送りします2020/11/01(日) 06:18:44.01ID:FFims7wMp
>>13
死刑やろなぁ
なんJ民の指摘の通り、現在であればMのような犯罪を起こすと間違いなく死刑が確定するでしょう。
なお、Mと次兄が発展させたりんご農園が現在どうなっているかは不明です。
まとめ
日本犯罪史上でも稀に見る肉親殺しの連続殺人事件「青森県新和村一家7人殺害事件」について、詳しくまとめてきました。
被害者の水木福三郎や長男は、自分勝手で強欲な性格だったことから、Mに恨まれて殺されたのは自業自得という気もしますが、閉鎖的な昭和の農村ならではの事件だと言えるでしょう。
この事件に感化されて、肉親から危険だと判断され殺害された方々の無念も想像に絶します。
この事件において亡くなった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。