ワイルドな風貌に渋い声、卓越した演技力で数々の映画賞を受賞し、当時の若手俳優たちに多大な影響を与えた名優・原田芳雄さん。
今回は原田芳雄さんの若い頃の活躍、結婚した嫁や子供(息子と娘)、がん闘病と死因、葬儀を紹介します。
この記事の目次
- 原田芳雄のプロフィール
- 原田芳雄の若い頃の経歴① 俳優座に在籍
- 原田芳雄の若い頃の経歴② デビュー後しばらくは純朴な青年役ばかりだった
- 原田芳雄の若い頃の経歴③ 「反逆のメロディー」のアウトローキャラで大ブレイク
- 原田芳雄の若い頃の経歴④ 俳優座を辞めた後もテレビドラマで活躍
- 原田芳雄の若い頃の経歴⑤ 「竜馬暗殺」が絶賛・生涯の盟友となる石橋蓮司と共演
- 原田芳雄が結婚した嫁は一般女性・2人の馴れ初めエピソードも紹介
- 原田芳雄の子供:息子・原田喧太のプロフィール
- 原田芳雄の子供:娘・原田麻由のプロフィール
- 原田芳雄のがん闘病① 2008年に大腸がんが発覚するも1ヶ月で仕事復帰
- 原田芳雄のがん闘病② 家族にはすでに余命宣告が伝えられるほど実は重篤だった・・・
- 原田芳雄は死去の8日前に舞台挨拶に登壇していた
- 原田芳雄は2011年7月19日に死去…死因は?
- 原田芳雄の葬儀には2000人の弔問客が参列
- まとめ
原田芳雄のプロフィール
原田 芳雄(はらだ よしお)
・本名: 同じ
・生年月日: 1940年2月29日(公称)
・没年月日: 2011年7月19日(71歳没)
・出生地: 東京府東京市足立区
・死没地: 東京都
・身長: 175cm
・血液型: A型
・職業: 俳優、歌手、タレント
・ジャンル: 映画・テレビドラマ
・活動期間: 1967年 – 2011年
原田芳雄の若い頃の経歴① 俳優座に在籍
高校卒業後、ただただ“銀座で働きたい”一心で農業機械の会社に就職するも、そもそも機械が苦手だった原田芳雄さんは約1年半で挫折し退社。
高校時代に演劇部だった経験から、1962年に入団した俳優座養成所を経て、その後の数年間は俳優座で活動することになります。
その当時の原田芳雄さんについて、俳優座での先輩である市原悦子さんは、後年に次のように述べています。
「言葉は多くないけど、男性的ですっきりとして、わが道を行く人。人柄も近寄りがたさがあったけれど、頼もしくて、仲間になりたいと思わせる人だった」
出典:https://www.nikkansports.com/
原田芳雄の若い頃の経歴② デビュー後しばらくは純朴な青年役ばかりだった
ここからは、原田芳雄さんの若い頃の活躍を、たっぷりの画像で振り返ってみたいと思います。
原田芳雄さんはこのドラマで俳優デビューを果たしました。
残念ながら表情が確認できるスクリーンショットはありませんでした。ちなみに…左は佐久間三雄(佐久間亮)さんです。
この時のクレジットは「原田芳男」となっていたそうです。
原田芳雄さんはこの作品で銀幕デビューを果たしました。
ちなみに…この当時の原田芳雄さんの写真がこちら。
刑事役を好演する原田芳雄さん。でも、何かも物足りない…。
このようにデビュー当時は、純朴な青年役を演じることが多かったようです。
原田芳雄の若い頃の経歴③ 「反逆のメロディー」のアウトローキャラで大ブレイク
しかし、1970年に公開された映画「反逆のメロディー」での主人公、“塚田哲”役でそのイメージを一新するんですよね!
長髪サングラスで、口にはくわえタバコ、素肌にGジャン&ジーンズ姿でジープを乗り回し、バーボンをボトルごとラッパ飲みする…。
そんなワイルドなアウトロー役が話題になり、原田芳雄さんは一躍大ブレイクを果たしました。
その後も、1970年の映画「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」、翌1971年には「野良猫ロック 暴走集団’71」や「関東流れ者」、「関東幹部会」などで次々とアウトロー役を演じています。
右は主演の渡哲也さんです。若いですね~。
左から渡哲也さん、原田芳雄さん、青木義朗さんですね。
そんな原田芳雄さんのワイルドな風貌と渋い声で魅せる芝居は、松田優作さんなど、当時の若手俳優たちに大きな影響を与えたと言われています。
原田芳雄の若い頃の経歴④ 俳優座を辞めた後もテレビドラマで活躍
そして1971年には、俳優座での先輩である市原悦子さんや中村敦夫さんらとともに、当時の俳優座の体制を批判し、退団する騒ぎを起こしています。
俳優座退団後は、中村敦夫さんが市川崑監修のテレビ時代劇「木枯らし紋次郎」の主役に抜擢され大ブレイク。
原田芳雄さんも脳腫瘍に冒されたテストドライバー役を演じた、1972年のドラマ「冬物語」で大変な人気を博しました。
このドラマを観た女性視聴者から、大量の助命嘆願がテレビ局に殺到した…なんていう逸話も残っているようです。
原田芳雄さんは、俳優座時代からの盟友・中村敦夫さんの出世作である「木枯らし紋次郎にも出演しています。
原田芳雄の若い頃の経歴⑤ 「竜馬暗殺」が絶賛・生涯の盟友となる石橋蓮司と共演
さらに、1974年に公開された映画「竜馬暗殺」では、主役の“坂本竜馬”役に抜擢された原田芳雄さん。
それまでにないワイルドで大胆不敵な竜馬像を熱演し、「竜馬役の新境地を開いた」と絶賛されました。
なお、この映画「竜馬暗殺」で初共演した石橋蓮司さんとは、その後も生涯を通しての飲み友達であり、互いにその才能を認め合う一番の役者仲間となりました。
左から“幡”役の中川梨絵さん、“坂本竜馬”役の原田芳雄さん、幡の弟“右太”役の松田優作さん、そして竜馬の盟友“中岡慎太郎”役の石橋蓮司さんです。
後年、石橋蓮司さんは、“役者・原田芳雄”について次のように評しています。
「芳雄は役者仲間の中でも抜群の感性を持っていた。だからどんな役でも自由に演じることができた。そこには計算などは微塵もなく天性の才能だった」
出典:https://ja.wikipedia.org/
一方の原田芳雄さんも、長女・原田麻由さんから「お父さんにとって一番凄い役者は誰?」と質問された際、「石橋蓮司」と即答してたと言います。
その後も、その圧倒的な存在感と卓越した演技力は、有名無名問わず多くの映画監督を魅了し、その結果、生涯で出演した映画は実に100本を超え、数々の映画賞を受賞。
さらに、そんな原田芳雄さんの俳優としてのキャリアが讃えられ、2003年には紫綬褒章が授与されています。
原田芳雄が結婚した嫁は一般女性・2人の馴れ初めエピソードも紹介
原田芳雄さんは、1970年に章代(あきよ)さんという一般人女性と結婚しています。
そんな嫁・章代さんとの馴れ初めについて調べていくうちに、原田芳雄さんのWikipediaに次のような記述を見つけました。
1968年に芝居の中で狂人の役を演じることになったが、役作りにのめり込むあまり苦悩した。
その頃出会った俳優座制作部の1人の女性職員から「狂ったっていいじゃないの」とアドバイスをされたことで、とにかく思い切って演じることの大切さに気付かされた。
この出会いがきっかけで彼女と親しくなり、1970年に長男・喧太ができて結婚(今で言う“できちゃった婚”)した。
出典:https://ja.wikipedia.org/
で、原田芳雄さんと章代さんが結婚するきっかけとなった芝居についても調べてみたのですが、恐らく俳優座の舞台「狂人なおもて往生をとぐ」だと思われます。
原田芳雄さんは、後に自身のエッセイの中で、この作品について次のように語っています。
圧倒的な影響を受けたのは、清水邦夫さんの『狂人なおもて往生をとぐ』ね。気狂いの青年の役をつけてくれたんです。自分は大体、論理的な組立てのできないたちの人間だからね。 とにかく稽古に入ったら、本当に発狂しなきゃいいな、発狂するんじゃないかって、恐れてたくらい、ショックだった。
出典:https://geolog.mydns.jp/
やはりこの作品で間違いなさそうですね!
いずれにしてもこの舞台への出演がきっかけとなり、俳優座の職員として働く章代さんと親しくなった原田芳雄さんは、彼女の妊娠が発覚した1970年に結婚しています。
その時、章代さんは妊娠7ヶ月だったそうで、いわゆる“できちゃった婚”ってやつですね。
しかし、俳優座時代の原田芳雄さんの給料はかなり安かったそうで、2人の新婚生活は慎ましやかに、3畳1間のアパートからスタートしたそうです。
そして前述のように、結婚した翌年である1971年には、俳優座と衝突した原田芳雄さんは、市原悦子さんや中村敦夫さんらとともに退団してしまうことに…。
幸い、退団後すぐにドラマ「冬物語」で当たり役を引き当てて、家族を路頭に迷わすことはありませんでしたが、こういった無鉄砲なところも、原田芳雄さんらしいっちゃらしいですね~。
この映画で原田芳雄さんは、キネ旬の助演男優賞を受賞しています。
その後、原田芳雄さんと嫁・章代さんの間には、第1子となる息子と、第2子となる娘という2人の子供が誕生しています。
原田芳雄の子供:息子・原田喧太のプロフィール
原田 喧太(はらだ けんた)
・出生名: 原田 けん太(※)
・生誕: 1970年3月3日
・出身地: 東京都
・身長: 172 cm
・血液型: A型
・職業: ミュージシャン、俳優
・担当楽器: ギター
・活動期間: 1985年 –
・所属事務所: 株式会社H3
(※)「喧」が人名用漢字ではなかったため戸籍上はひらがな表記とのことです。
原田芳雄さんの息子である原田喧太さんは、1990年にバンド「Paradise Jam」でメジャーデビュー、1994年にはアルバム「Glorious Colours」でソロデビューを果たしたギタリストです。
その後は、デーモン閣下や吉川晃司さん、及川光博さん、大黒摩季さんなど様々なアーティストのレコーディングやライブのサポートギタリストとしても活動。
出典:https://ameblo.jp/
そんな原田喧太さんは、かつては、俳優や声優として活動したこともあったようですが、現在は音楽分野のみに専念しています。
また、精力的な音楽活動を続ける傍ら、京都造形芸術大学でギター講師も務めているそうです。
ただ、父親・原田芳雄さんは、子供達が幼い頃から家庭を顧みることがなく、家族よりもスタッフや役者仲間と過ごすことの方が多かったそうです。
そんなこともあり、一時期は息子・原田喧太さんとの関係が相当悪化したことも…。
原田芳雄の子供:娘・原田麻由のプロフィール
原田 麻由(はらだ まゆ)
・生年月日: 1976年9月1日
・出生地: 東京都
・身長: 154 cm
・血液型: A型
・学歴: 早稲田大学
・職業: 女優
・特技: 英語、日舞
原田芳雄さんの娘・原田麻由さんは、女優として活動しているようです。
主な出演作には、2019年「一度も撃ってません」、2018年「半世界」や「日日是好日」、2016年「団地」、2014年「まほろ駅前狂騒曲」や「バンクーバーの朝日」などがあるようです。
原田芳雄のがん闘病① 2008年に大腸がんが発覚するも1ヶ月で仕事復帰
元々、大の病院嫌いだった原田芳雄さんは、定期健診などは受けていなかったのだとか。
しかし2008年10月、急に胃の調子が悪くなり、翌11月に診察を受けたところ早期の大腸がんが見つかり、そのまま入院してがんの摘出手術を受けました。
出典:https://lp.p.pia.jp/
約1ヶ月間静養した後、同年末から無事仕事に復帰しています。
原田芳雄のがん闘病② 家族にはすでに余命宣告が伝えられるほど実は重篤だった・・・
その後は抗がん剤治療を受けながら、翌2009年にはNHKドラマ「火の魚」に、2010年には自身が企画した映画「大鹿村騒動記」にと、精力的に俳優活動を続けていた原田芳雄さん。
しかし、2011年のドラマ「高校生レストラン」出演中、突如として病状が悪化し、途中降板。
これは原田芳雄さんの死後明らかになるのですが、実は、最初に受診して大腸がんが発覚した時、既にがんはかなり広がっており、ご家族には余命2年との宣告がなされていたそうです。
原田芳雄は死去の8日前に舞台挨拶に登壇していた
結局、原田芳雄さんの遺作となったのは、彼が自ら企画し、映画化を進めた「大鹿村騒動記」で、なんと原田芳雄さんが死去する3日前の、2011年7月16日に封切られたと言います。
つまり、原田芳雄さんは、自身が最期の力を振り絞って創り上げた作品の一般公開を待つように逝ったことになるんですよね。
そして、一般公開の5日前である2011年7月11日、同作品のプレミア試写会で、長女で女優の原田麻由さんが押す車椅子で登壇した姿が、原田芳雄さんの公の場での最期の姿となったのです。
そのシーンがこちら。
傍らには娘の原田麻由さんと、生涯の盟友だった石橋蓮司さんの姿も確認できます…。
この試写会では、車椅子での登壇について、参加直前に腸閉塞と誤嚥性肺炎を発症していた上に、腰部脊柱管狭窄症が悪化したため、車椅子での参加となった…との説明がありました。
しかし、実際には腰部脊柱管狭窄症ではなく、大腸がんの転移により既に歩行困難な状態で、既に話すことすらままならない状態だったそうです。
そのため原田芳雄さんのメッセージは、盟友である石橋蓮司さんが代読。観客からの拍手や声援に、原田芳雄さんが涙を流す一幕も…。
この最期の舞台挨拶について、原田芳雄さん主演の作品を5本手掛けた若松孝二監督は次のように述べています。
(最後の舞台あいさつは)お客さんに『ありがとう』という気持ちを言いたかったんじゃないですか。普通の俳優さんは出てこないでしょう。昔のまんまの顔を見せたいとか思うもんだけど、やっぱり最高の役者じゃないですか」
出典:https://mantan-web.jp/
確かに往年の原田芳雄さんの姿からすると、見る影もありませんねぇ…。
ですが、若松孝二監督がおっしゃっているように、これまでの感謝を伝えたい、ありのままの今を見せたいという鬼気迫る役者魂を感じます。
原田芳雄は2011年7月19日に死去…死因は?
そんな原田芳雄さんは、遺作となった「大鹿村騒動記」の一般公開を見届けるようにして、2011年7月19日午前9時35分、東京都内の病院で死去されました。享年71歳でした。
出典:https://shins2m.hatenadiary.jp/
なお、原田芳雄さんの直接の死因は「肺炎」で、亡くなる1週間ほど前に食べ物や唾液が気管に入り、主に口の中の細菌が肺に入ることで発症する「誤嚥性肺炎」を患っていたそうです。
一度は回復しかけたそうなのですが、その後再び悪化し、そのまま帰らぬ人に…。
原田芳雄さんの死因となった「肺炎」は、特に、高齢者や原田芳雄さんのように、他の疾患で体力が弱っている人の死因になりやすい病気なのだとか。
原田芳雄の葬儀には2000人の弔問客が参列
息子・原田喧太さんが喪主を務めた原田芳雄さんの葬儀は、死後3日後の2011年7月22日、東京都港区の青山葬儀所で営まれ、約2,000人の弔問客が原田芳雄さんの死を悼みました。
「原田芳雄に向かって自分が弔辞を言う。こんなバカげた悪ふざけがあるだろうか」
出典:https://www.sponichi.co.jp/
親友に先立たれた怒りと悲しみをぶつけるように、石橋蓮司さんが弔辞を語り始めると、多くの人の涙を誘いました。
告別式では原田芳雄さんが生前愛飲していた長野県の地酒が、蔵元の協力により参列者に振る舞われたそうです。
また、出棺の際には原田芳雄さんの“門下生”である佐藤浩市さん、江口洋介さんらによって棺が担ぎ出されたと言います。
息子・原田喧太さんによると、原田芳雄さんは時折激しい痛みに見舞われる病床にあっても、「まだまだやりたいことがいっぱいあるんだ」「時代劇がやりたい」と語っていたと言います。
そして、遂に「もうだめだ」と初めて弱音を吐いたのが、亡くなるほんの2日前だったとも…。
出典:https://ciatr.jp/
まとめ
いかがでしたでしょうか。
かつて、ワイルドな風貌に渋い声、圧倒的な存在感と卓越した演技力で、数々の映画賞を受賞するとともに、松田優作さんなど当時の若手俳優たちに多大な影響を与えた名優・原田芳雄さん。
今回、そんな原田芳雄さんの若い頃の活躍をたっぷりの画像で振り返るとともに、結婚した嫁や子供(息子と娘)、がんの発症と死因、2,000人が見送ったと言う葬儀の様子をまとめました。
出典:https://m.facebook.com/
最期の瞬間まで俳優であり続けた原田芳雄さん。そんな原田芳雄さんの役者魂は、今後も出演した多くの作品の中に延々と生き続けることでしょう。
最後になりましたが、原田芳雄さんのご冥福を心よりお祈りいたします。