日本を代表するアルピニストである野口健さんですが、最近では娘がタレントデビューしかわいいと話題沸騰中です。
今回は野口健さんのハーフ説などプロフィール、親兄弟や嫁・子供と自宅など家族エピソードをまとめてみました。
この記事の目次
アルピニスト・野口健のプロフィール 【エジプト人とのハーフ】
出典:https://www.sankei.com/
名前:野口健(のぐちけん)
生年月日:1973年8月21日
出身:アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
経歴
日本人の父親と、エジプト人の母親の間に生まれたハーフの野口健さん。
父親が外交官として働いていた頃から、幼少期は赴任先のニューヨークやサウジアラビアなどで過ごしました。
日本へは4歳の頃に来ましたがその頃は日本語が話せなかったそう。
小学6年生の頃に両親が離婚。カイロ日本人学校からイギリスの立教英国学院小学部に転校しています。
その後の学生時代は荒れに荒れていて、「札付きの不良」「落ちこぼれ」だったと本人が語っています。
空気銃で猫や鳩を撃ち殺す、停車中のタイヤをパンクさせる、ベンツのエンブレムをもぎ取るなどの問題行動を繰り返し、高等部在学中には先輩を殴って1ヶ月の停学処分を受けたことも。
停学中に植村直己氏の著書「青春を山に賭けて」に出会ったことをきっかけに登山を始め、登山を自身の存在意義を確認する手段として傾倒していきました。
高校卒業後の進路は、自衛隊やカメラマンなども考えましたが、最終的に七大陸最高峰登頂を目指して亜細亜大学へ進学を決めました。
亜細亜大学に入学してすぐから世界の名立たる山々に挑み、各地で最年少登頂記録を樹立。
8年間大学に在籍して、25歳の時に世界最高峰エベレストに3度目にして初めて登頂に成功し、当時の七大陸最高峰の世界最年少記録を更新しました。
このエベレスト登頂以降、環境保護のために清掃活動を行なっており、エベレストではこれまでに7度、マナスルでは3度、その他富士山や全国各地で清掃活動を行なっています。
最近では、NPO法人「ピークエイド」を立ち上げ、自身が代表となって日本のみならず世界各地に活動の幅を広げています。
例えば、マナスル山麓のサマ村での教育支援・森林再生プロジェクト・農業支援、沖縄での戦没者遺骨収集、被災地での支援活動など幅広く行なっています。
アルピニスト・野口健の家族① 父親は元外交官
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野口健さんの父親は、元外交官の野口雅昭さんという方です。
父・雅昭さんは日本人ですが、外交官という職業柄、世界中を転勤して周り、野口さんもまたボストンに生まれて以来、さまざまな国に行っては現地の公務員宿舎で暮らしたそうです。
雅昭さんは福島県会津若松市の出身で、性格は真面目で優しく実直な方でした。
野口健さんの母親であるモナさんと離婚した後は、日本人女性の容子さんと再婚しています。
元妻のモナさんも離婚後に再婚して子供2人をもうけていますが、生活に困っていることを知ると、自分の子供ではないにもかかわらずモナさんと2人の子供たちに仕送りを送っていたそう。
とても男気があって、優しくて真面目な性格というのが伝わってきますね。
アルピニスト・野口健の家族② 生みの母親・モナさん
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野口健さんは雅昭さんと、エジプト人の母親モナさんの間に生まれたハーフです。
エジプト人と言っても、実はモナさんはエジプト、レバノン、ギリシャ、フランスの4カ国の血が混じったクォーターだったので、野口健さんの日本人離れした顔立ちの理由が分かりますね。
エジプト人女性というのは元々気性の荒いところがあるそうですが、モナさんもまたかなり激しい性格だったそうです。
家族がアメリカに住んでいた頃、野口さんが友達からいじめられたときには、「殴られた」と野口さんがモナさんに伝えると、「一発殴られたら10発殴り返せ」とモナさんは教えました。
「目には目を」「歯には歯を」がモットーだったモナさん。
「相手が大人数で太刀打ちできない」と訴えた幼稚園児だった野口健さんに、「どんな手を使ってもいい」と言って、野口健さんに画鋲を持たせて「相手の靴の中に入れろ」と指示したそう。
やられてもやる返せるだけの強さを持てという教えは、各国を転々とうつり暮らしていかなければならない野口健さんに対して大切な教えだったかもしれませんが、少し度が過ぎていますね。
そんなモナさんの気性の荒さは、夫の雅昭さんとの関係にも影響を及ぼしました。
常にモナさんが一方的に切れて勃発する2人の喧嘩は、エスカレートするとモナさんが夜中に窓を開けて「日本人サイテー!!」と叫び、植木鉢を雅昭さんに投げつけることもあったそう。
次の日に、野口健さんと野口さんの兄が2人で近所を謝って回ったのだとか。壮絶な幼少時代ですよね。
ある頃から、モナさんは絵の勉強がしたいと言って男性の先生を家に呼ぶようになり、気づけば先生はかなり頻繁に家を出入りするようになったそうです。
そしてある日、野口さんが友達と街を歩いていると、その男性と腕を組んで歩くモナさんの姿を目撃してしまいます。
野口健さんは友達に「あれ健の母ちゃんだろ?」と聞かれましたが、「違う」と返事をしたそうです。
その後モナさんは妊娠し、野口健さんは「お腹の子は誰の子だろう?」と疑問に思ったようですが、赤ちゃんは「いさむ」と名付けられ、父・雅昭さんも自分の子供としてかわいがりました。
しかし、大きくなるにつれて「いさむ」くんが日本人ではないことが発覚し、夫婦関係がギクシャクすると、モナさんはいさむくんをつれて家を出たのです。
この時まだ小学生だった野口健さんにとってはこれほどショックな出来事はないはずですが、野口健さんは実はそれほど堪えていませんでした。
むしろ、「母ちゃんは男を作って家を出た。だから親父も女を作れ」と雅昭さんに話したというのです。
小学生のセリフとは到底思えませんが、それだけ荒れた家庭環境の中で身を置いていたため、ちょっとやそっとでは動じなくなっていたのかもしれませんね。
アルピニスト・野口健の家族③ 育ての母親・容子さん
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その後、父・雅昭さんは1990年に日本人女性の容子さんと再婚を果たします。
新たに、野口さんの母親としてやってきた容子さんは、規則正しい生活や言葉遣い、マナーなどを、とても厳しく野口さんに教えたと言います。
外交官という仕事に励む父を守り支える気丈な性格で、その厳しさの中に優しさがあって、野口さんは継母となった容子さんに恋愛の相談をすることもあったそうです。
後妻ではありましたが、家族の中心として優しく強く家族を支えてくれた容子さんは、55歳という若さで逝去されました。病名は癌でした。
生みの母親といい、育ての母親といい、野口さんの2人の母親はとても厳しい人でした。
しかし、容子さんのその厳しさの中にある優しさは、大人になってからの野口さんにも大きな影響を与えました。
野口健さんがエベレストに3度目の挑戦をする際には、「いつまでも登れないようではだめ」「だらだらと挑戦していたらあなたはエベレストのストーカーよ」「決着をつけなさい」と手紙を送ってきたそうです。
25歳という若さでエベレスト登頂に成功した野口健さんでしたが、その成功の裏には容子さんからの厳しくも優しい愛の言葉があったのですね。
アルピニスト・野口健の家族④ 兄弟
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野口健さんには兄が1人と弟が1人いて、兄とは両親が同じですが、弟は異父兄弟です。
兄の名前は野口哲也さんといい、野口健さんより5歳年上だそうですが、野口健さんは両親の離婚後は父と2人暮らしだったので、兄は父親の元にはいなかったようです。
高校生になると哲也さんは日本の学校に通っていたということなので、母親のモナさんと暮らしてはいなかったと思われます。
最近は野口健さんのブログに、兄との2ショットを投稿し、哲也さんがイラン在住の商社マンであることを明かしています。
野口健さんに似て、やはり日本人離れした堀の深い顔立ちをされていますね。
また、弟は母のモナさんの再婚相手との間に授かった子供です。
離婚後はモナさんは弟を連れて家を出たのでほとんど関わりはないのかと思いましたが、野口さんは異父兄弟である弟と山へ登ることもあるのだとか。
複雑な家庭環境の中でも、それぞれに関係を築いているようです。
アルピニスト・野口健の家族⑤ 1人目の嫁【児童婚だった】
1回目の結婚は児童婚だった?!
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野口健さんには意外にも、2度の結婚歴があります。
今の奥様は2人目で、実は1人目の奥様とはいわゆる「児童婚」でした。
野口健さんが1度目の結婚をしたお相手というのは、当時なんと15歳の少女でした。
日本では15歳の少女が結婚することは法律で認められていませんから、お相手は日本人女性ではありません。
1999年、野口健さんが出版した著書「落ちこぼれてエベレスト」の中で、野口さんは自ら過去の結婚について明かしていて、その内容によれば、お相手はネパール人の少女だったそう。
同著書に書かれている内容によると、野口健さんと少女との出会いは1995年2月のことでした。
当時20代、大学生だった野口健さんはメラ・ピークに挑戦するためにネパールを訪れ、現地で15人のシェルパを雇いました。
そして、そのリーダー格の1人であるデンバーという男性の家で、娘であるペンハー・ラムさんに出会いました。
デンバーさんの指示で、ラムさんはその日から野口健さんの身の回りの世話をするようになり、毎晩のように野口健さんはラムさんに会うためにデンバーさんの家に通ったそうです。
その時のことを野口健さんは同著書で「一目惚れだった」と語り、「目と目が合うだけでドキドキした」と、ラムさんに恋に落ちた時のことを振り返っています。
ラムさんは英語が話せなかったため、2人の間には会話は成り立たたなかったものの、ただ一緒にいるだけで野口さんは満たされたといいます。
メラ・ピークの山頂を目指す前に、その恋心をはっきりさせたいと考えた野口さんは、父親であるデンバーさんに、「実はラムさんと結婚したいのです」と伝えました。
どんな答えが返ってくるのか、反対されるのか、そんな思いを巡らせていた野口さんでしたが、返ってきた返事は「OK.OK」というなんとも軽いものでした。
こうしてなんとも呆気なく、2人の結婚が決まったのです。
児童婚とは?
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ユニセフでは、18歳未満での結婚やそれに相当する状態にあることを「児童婚」と定義し、これは子供の権利侵害であるとして世界的にも大きな問題となっています。
国境を超えた純愛のように野口さんは語っていますが、これは誰がどう考えても「児童婚」であることは間違いありません。
英語も話せなかったラムさんにとって、野口さんとの結婚は自身が心から望んだものではなく、明らかに父親からの指示によるものだったと考えられます。
日本では現在女性は18歳にならないと結婚できませんし、ネパールでも20歳にならないと結婚は許されていません。
しかし、現在でもネパールでは37%の少女が18歳未満で結婚しているといい、政府は児童婚根絶を掲げています。
児童婚によって結婚した少女は、妊娠、出産による妊産婦死亡リスクが高まり、暴力、虐待、搾取などの被害にも遭いやすいとされています。
これは、野口さんがラムさんと結婚した約20年前であっても、軽視されていた問題ではなく、当時から廃止されるべき悪しき慣習だとされていました。
ラムさんとの離婚
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それにも関わらず、野口さんはラムさんと結婚し、メラ・ピーク登頂を終えてルクラに戻った後で結婚式も挙げたそうです。
日本にいる母親にも電話で結婚の事実を伝えたところ、母親は猛反対し大喧嘩になったといいます。
そして、ネパールの首都であるカトマンズにラムさんを連れて行き、本来はラムさんを日本に連れて帰ろうと考えていました。
しかし、日本大使館でネパールの法律では15歳の少女との結婚が認められていないことを告げられたため、ラムさんをカトマンズにある親戚の家に預けて、1人で帰国。
野口健さんは日本から、学費や生活費も含めて毎月4万円をラムさんに仕送りをしていたといいますが、この頃から野口健さんはラムさんとの結婚を後悔し始めたというのです。
仕送りを続けていくうちに、ラムさんはそれまでのシェルパとしての生活から、カトマンズでの都会での生活に慣れ、それなりに裕福な生活を送る中で人格も変わってしまったといいます。
結婚から2年が経ち、野口健さんがエベレスト登頂に失敗した後、野口健さんはラムさんの親戚の家で「ラムさんと別れたい」と話したそう。
しかし、すでにラムさんはシェルパの生活に戻ることはできませんでした。
ラムさんの兄は「ラムはもうルクラの村には戻ってこれない。日本にも連れて行ってもらえない。ケンと別れて、彼女はこの先どこで暮らしたら良いのか」と訴えました。
これは当然のことで、あまりに無責任であまりに身勝手な行動と言えます。
15歳という、まだ身体的にも精神的にも発展途上である少女と結婚し、お金だけ与えて、本来の生活から切り離した野口健さん。
それにもかかわらず、嫌になったからと言って急に手放すというのは、ラムさんにとっても、ラムさんの周りにとっても到底受け入れられるものではありません。
親戚たちが猛反対する中で、野口さんの意思は固く、最後は慰謝料を巡って金銭的な交渉になったといい、わずか2年で2人の結婚生活は終わったといいます。
離婚の原因は?
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野口健さんが、ラムさんと頑なに別れたいと思った原因はなんだったのでしょうか。
野口健さんが、ラムさんに惚れたのは、デンバーさんの家に寝泊まりしていた頃、野口健さんが朝目覚めるとラムさんが「甲斐甲斐しく朝の水汲みをしている姿にグッときたから」でした。
シェルパの家では朝早くに女性が水をくみ、火を起こしてお茶を入れてくれるというのが当たり前なんだそう。
野口健さんはそんなラムさんの姿に惚れ、高地で頭がふわふわしている状態で、冗談で「あなたの娘に惚れちゃったかも」などと話していると、それが現実になってしまったというのです。
15歳の少女の人生を左右する大きな出来事を、「冗談」という言葉で片付けるのはあまりに無責任だと言わざるをえません。
そして結婚後に、ラムさんをカトマンズに移した野口健さんは、数ヶ月ごとにネパールに通っていました。
山奥のシェルパの生活に比べるとカトマンズは都会で、それなりの収入を得ることもできたため、ラムさんは会うたびにどんどん「ケバい女になっていた」そう。
そのうち、他の男性の影まで見えるようになり、野口健さんはこの結婚に終止符を打つ決意をしたのです。
ご本人がどのような思いでこの結婚に踏み切り、離婚に至ったのかは分かりません。
しかしやはり、ネパールの貧困な村から15歳の少女を都会へと連れ出して、甘い蜜を吸わせておきながらお金の力で別れた、というのは野口健さんのただの身勝手な行動と言えます。
経済格差を盾にした性的搾取、人権侵害であることには間違いないのです。
アルピニスト・野口健の家族⑥ 2人目の嫁 【結婚しているが自宅は別々だと話題に】
出典:https://hc.nikkan-gendai.com/
ラムさんとの結婚を1度目とカウントするのか、野口さん自身「わからない」と話していますが、ネパールで結婚式も挙げているので、現在婚姻関係にある嫁とは2度目の結婚になります。
野口さんは2003年7月、加藤靖子さんという一般女性と再婚しました。
靖子さんは、野口健さんの友人でライターをしている方の従姉妹で、野口さんが30歳の時に出会ったそう。
靖子さんは仙台に住んでいたそうで、エベレスト遠征が重なる野口さんとは常に遠距離恋愛だったといいます。
月に一度会えるかどうかの交際の中で、限られた時間を大切にし、入籍を果たしました。
結婚してから16年が経ちましたが、なんと15年間「別居状態」。
エベレスト遠征はもちろんですが、嫁と子供は東京の1軒家に暮らしていますが、野口健さんは千葉県で1人暮らしをしています。
さらに最近は、自宅から80Km離れた山梨県の山奥に古民家を借り、嫁には言わず600万円をかけてリフォームしたのだとか。
私たち凡人には、絶対に理解できないこの不思議な夫婦生活に、周りは「なぜ離婚しないのか」と投げかけるほど。
しかし、野口健さんは「離婚したいから別居しているわけではない」そうです。
結婚生活の中で慣れてきて、「家の中でパンツ一丁で歩くようになる」のが嫌で、「お互いにちょっと服装に気を使ったりする関係でいたい」と話しています。
野口健さんには野口健さんなりの結婚観があるのかもしれませんが、嫁である靖子さんの気持ちがどうなのかは不明です。
アルピニスト・野口健の家族⑦ 子供(娘)
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野口健さんと嫁・靖子さんの間には、2004年2月に娘さんが生まれています。
名前は野口絵子(のぐちえこ)さんといい、野口健さんがハーフなので、クォーターのかわいらしい女の子です。
名前の由来は、なんとECOにちなんで絵子さんなんだとか。
野口さんのブログにも度々登場する絵子さんは、小学4年生頃から父・健さんと共に登山をしています。
野口さんがやっているように、絵子さんもまた富士山の清掃活動を行ったり、被災地に同行して支援活動をしたりしています。
また、中学生になる時には野口健さんが通ったイギリスの立教英国学院に進学し、全寮制の同校へ留学しました。
高校からは日本に戻り、現在はテレビ出演などもしているタレントとして活動。「野口健さんの美人すぎる一人娘」として「踊るさんま御殿」などにも出演しました。
英語も堪能な才色兼備な2世タレントとして現在大変注目を集めていて、今後のタレント活動にも期待が集まっています。
まとめ
日本を代表するアルピニストとして知られる野口健さんは、25歳という若さでエベレスト登頂に成功した偉大な功績を持っています。
学生時代は不良で、児童婚していた過去もあるなど知られていない過去に驚かれた方も多いのではないでしょうか。
現在は嫁と娘がいて、娘さんは大変かわいらしくてタレントデビューもしています。
野口健さん、娘の絵子さん共々、今後の活躍も楽しみですね。