日本最大の暴走族「ブラックエンペラー」の歴史や歴代総長、半グレ集団「関東連合」との関係などが話題になっています。
今回は改めてブラックエンペラーの歴代総長を紹介し、レディースや元ブラックエンペラーの芸能人、関東連合との関係、現在のブラックエンペラーなどについてまとめました。
この記事の目次
- ブラックエンペラーとは
- ブラックエンペラーと半グレ集団「関東連合」との関係
- ブラックエンペラーの歴代総長① 創始者(初代会長)は谷田部氏か
- ブラックエンペラーの歴代総長② 初代(2代目会長)泉輝雄
- ブラックエンペラーの歴代総長③ 2代目(3代目会長)遠藤吉寿(瓜田吉寿)
- ブラックエンペラーの歴代総長④ 3代目(3代目名誉総長)本間優二
- ブラックエンペラーの歴代総長⑤ 4代目・阿部氏
- ブラックエンペラーの歴代総長⑥ 5代目・岩崎隆史(イカンガー岩崎)
- ブラックエンペラーの歴代総長⑦ 6代目・蛯澤賢治
- ブラックエンペラーの歴代総長⑧ 7代目・宇梶剛士
- ブラックエンペラーのレディース初代総長・山田加奈(KANA)
- ブラックエンペラー出身の芸能人や有名人は?
- ブラックエンペラーの現在
- まとめ
ブラックエンペラーとは
出典:https://www.blackemperor.jp/
おそらく日本で最も有名な暴走族であろう「ブラックエンペラー(BLACK卍EMPEROR)」は、1960年代末ごろ(1968年か)に、東京都国立市の不良少年達が中心になって結成されたと言われています。
当初は暴走族というよりは、バイク好きの集まりだったようですが、1970年代頃から人数が増えて規模が巨大化し、他のチームといざこざを起こすようになって今でいう暴走族化していったとされていますが、このあたりの経緯ははっきりしません。
1973年、千葉県茂原市の有力暴走族「赫夜姫」と合併し勢力を拡大し、1975年頃には武闘派の暴走族集団として近隣チームに恐れられたと言われています。
ブラックエンペラーの名前が全国的に有名になったのは1976年に公開されたブラックエンペラーに焦点を当てたドキュメンタリー映画「ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR」がきっかけでした。
この「ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR」は、のちに社会派の映画監督として世界的に有名になる柳町光男監督の第1作目として知られています。この作品は芥川賞作家の中上健次氏も高評価しています。
この「ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR」は最初は小規模劇場で始まりましたが、次第に評判を呼び、全国東映系の劇場で大規模公開されるに至りました。
これによってブラックエンペラーの知名度は爆発的に上昇し、東京都内だけでなく、千葉県、神奈川県、茨城県などの関東一円、さらには、静岡や愛知県にまで勢力を拡大し、全国的にブラックエンペラー支部が乱立する状況を生みます。
「関東連合」を結成
1973年、ブラックエンペラーは、関東一円の有力暴走族チーム「マッドスペシャル」「上町小次郎」「鬼面党」などと連合を結成「関東連合」を名乗ります。これが後に半グレ集団として恐れられる「関東連合」の母体ですが、この頃は純粋に暴走族の連合体として存在していました。
そして、1970年代末頃にブラックエンペラーは全盛期を迎え、メンバー数は2000名を数える大規模暴走族へと成長。この頃に総本部が国立市から新宿区へと移されています。(ブラックエンペラーの本部は、基本的に総長の住んでいる所だった)
ブラックエンペラーが勢力を拡大するにつれて、警察も彼らへの警戒を強め、規制を強化するようになります。1977年11月、ブラックエンペラーに所属する500名が指定団体として取り締まりの対象となり、内23名が、「凶器準備集合・暴力行為」の容疑で検挙されています。
1978年8月26日の夜から翌朝にかけて、世田谷区でブラックエンペラーに所属する58名が「道路交通法・道路運送車両法」違反によって検挙。翌1979年5月27日未明にも、東京杉並区で「公務執行妨害」および「道路交通法」に関わる事件を起こし、その後ブラックエンペラーに所属する43名が摘発されました。
こうした警察による規制の強化はブラックエンペラーをはじめとする暴走族集団のさらなる凶暴化へとつながりますが、警察との激しい攻防の末に次第に衰退化し、1992年、25代目総長の代についに総本部の解散が表明されています。
なお、1982年には「ブラックエンペラー赫夜姫」に焦点を当てたドキュメンタリー映画「俺たちの生きた時間」が公開されヒットしています。
この「ブラックエンペラー赫夜姫」は新宿のブラックエンペラー総本部が解散した後も独自に活動を続けており、1998年の七夕集会での約90人の一斉摘発、翌1999年、初日の出集会での摘発によって現役世代全員が逮捕されるに至り活動停止となりました。元々のブラックエンペラーに深く関係する暴走族集団はこれによって壊滅したと言われています。
ブラックエンペラーと半グレ集団「関東連合」との関係
こうして、解散に至った元々のブラックエンペラーでしたが、1990年代の終わり頃、見立真一、松嶋クロスら後に関東で名を馳せる事になる不良少年らが集まり、「第22代永福町ブラックエンペラー」を勝手に再結成します。
「第22代永福町ブラックエンペラー」は、もはや元々の暴走族「ブラックエンペラー」としての面影はなく、周囲の暴走族やチーマーグループ、有名な不良などを潰して回る暴力集団として暴れまわり、関東の不良達を恐怖で支配するようになり、その過程で「トーヨーボール殺人事件」などの殺人事件まで起こす凶悪集団へと変貌していきます。
そして、彼らは後に「市川海老蔵暴行事件」「六本木クラブ襲撃事件」などを起こして世間を騒がせ、半グレ集団「関東連合OB」と呼ばれるようになるのですが、それは暴走族としての「ブラックエンペラー」とはほとんど関係がありません。
「関東連合」は、暴走族の集合体として半グレ集団化する前から存在していた事は既に触れましたが、1990年代、チーマーグループが勢力を強めている事に危機感を抱いた暴走族チーム「上町小次郎」がこの「関東連合」の復活を呼びかけ、その動きに呼応する形で見立らが創設したのが「第22代永福町ブラックエンペラー」だとする見方もあります。
その後、見立らを中心とする「関東連合」メンバーがチーマーグループと壮絶な抗争を繰り広げる事を考えると、これがより真実に近いと言えそうです。
ブラックエンペラーの歴代総長① 創始者(初代会長)は谷田部氏か
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ブラックエンペラーの創始者については、諸説あり謎が多いのですが、現在有力になっているのは1960年代の末頃、東京都国立市(杉並区出身説も)の「谷田部」という人物が地元のバイク好き達のチームに「ブラックエンペラー」と名付け、それをもってブラックエンペラーの始まりとする説です。
この谷田部氏については謎が多く、1940年代の終わりから1950年始め頃の生まれだとされ、ハーフだったという説なども出ています。
当時のブラックエンペラー関係者の間では現在でもこの谷田部氏が初代会長として伝説的に語られていますが、どういった人物だったのかについてはほとんど情報がなく、その実体は謎に包まれています。
ブラックエンペラーの歴代総長② 初代(2代目会長)泉輝雄
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ブラックエンペラー公式ホームページ(何をもって公式かは不明)で初代総長とされているのが泉輝雄という人物です。創始者谷田部氏とともにブラックエンペラーを立ち上げたと言われています。
この泉輝雄さんは2014年頃、心筋梗塞で65歳の若さで亡くなったとの情報もネット掲示板に書き込まれていますが、あくまで匿名掲示板の情報であり信ぴょう性については微妙なところです。
ブラックエンペラー公式サイトでも泉輝雄さんが死去された事が告知されていますが、このサイトをどなたが運営されているのか不明である以上は完全に信用する事はできません。
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ブラックエンペラーでの活動を卒業した後は右翼団体に所属して政治活動を行なっていたようですが、その活動についてもほとんど情報がありません。
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上の画像は、ブラックエンペラー公式ウェブサイトで公開されている泉輝雄さんの画像です。ブラックエンペラーでの現役時代ではなく右翼活動家時代の写真のようですね。
ブラックエンペラーの歴代総長③ 2代目(3代目会長)遠藤吉寿(瓜田吉寿)
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ブラックエンペラー公式サイトでは、歴代総長の2代目とされているのが、遠藤吉寿という人物です。ただし、関係者の間では、ブラックエンペラー新宿支部(当時)の3代目会長として認識されています。
この遠藤吉寿さんは、後に両親が離婚して瓜田吉寿と名前を改めるのですが、その息子こそが現在は作家、最近はYouTuberとしても人気を得ているアウトローのカリスマ・瓜田純士さんです。
この遠藤吉寿さんも往年のブラックエンペラーOB達からは半ば伝説として語られる存在です。
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1975年には二見書房から手記「俺たちには土曜しかない 暴走族の手記」を発表しています。こちらは1979年には第10版が刷られており、手記としてはかなり売れています。
暴走族引退後は、暴力団に所属してアンダーグラウンドなビジネスを手がけていた事が、息子の瓜田純士さんの著作の中で明かされています。
ブラックエンペラーの歴代総長④ 3代目(3代目名誉総長)本間優二
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公式サイトでは、ブラックエンペラー3代目総長とされているのが本間優二さんです。本間優二さんは、高校中退後に暴走族になってブラックエンペラーに加入。新宿支部長を経て、3代目名誉総長を務めました。
上でも紹介したブラックエンペラーのドキュメンタリー映画「ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR」に現役暴走族として出演したのをきっかけに、監督の柳町光男に気に入られ、1979年公開の映画「十九歳の地図」の主役に抜擢されて俳優デビューしています。
本間優二さんは演技の才能を示し、1980年2月の「第1回ヨコハマ映画祭」で「十九歳の地図」にて最優秀新人賞を受賞しています。
以降も俳優業を続け、1981年公開映画「狂った果実」、同年公開映画「とりたての輝き」でそれぞれ主演。それ以外にも数々のドラマ、映画に出演して人気を博し、1983年公開の映画「戦場のメリークリスマス」、1985年公開の「ビー・バップ・ハイスクール」などの話題作にも出演し話題になっています。
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しかし、本人は元々俳優志望でなかった事から、1989年公開の「極道の妻たち 三代目姐」を最後に芸能界を引退されています。
ブラックエンペラーの歴代総長⑤ 4代目・阿部氏
ブラックエンペラーの4代目総長(会長)とされているのは「阿部」という人物ですが、下の名前は知られていません。
阿部氏は横浜鶴見区の不良で、最初ブラックエンペラー横浜支部の立ち上げに尽力し、その後、前述の2代目会長・泉輝雄氏と3代目会長の遠藤吉寿氏の推薦で4代目会長に就任し、その後2年の間会長を務めました。
ちょうど全盛期のブラックエンペラーを率いていたのがこの阿部氏だとも言われています。
阿部氏は、2003年の「実話ナックルズ」12月号で、「4代目ブラックエンペラー会長A氏」としてインタビューに応じています。
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ブラックエンペラーの歴代総長⑥ 5代目・岩崎隆史(イカンガー岩崎)
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ブラックエンペラーの5代目総長(会長)とされているのが、岩崎隆史さんです。1974年から約3年間、ブラックエンペラー会長を務め、暴走族引退後の1977年からアメリカへと渡り、ニューヨークを拠点にロサンゼルス、ハワイ、インドネシア、グアムなどを渡り歩き国際人脈を構築。
それを活かして、22歳の頃、日本の出版社を相手に、取材・撮影のコーディネート業を営み成功を収めます。
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日本に帰国後は、横浜FMの看板番組「MARUI 24 CLUB」を手がけるなどメディアの世界でも存在感を示し、1988年には「イカンガー岩崎」のペンネームで自伝小説「塀の中の懲りない少年たち」を刊行。この作品は後に「クレージーボーイズ」の題名で映画化もされ、主演に加藤雅也さん、脇を固める俳優陣も、坂上忍さん、竹中直人さん、石橋蓮司さんら錚々たるメンバーが出演しヒットを記録しています。
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岩崎隆史さんは、ライターとしても活躍し、「プレイボーイ」「スコラ」「ホットドッグプレス」など、数々の有名誌で執筆、人気を集めました。
現在は作家業をはじめ、店舗やイベントの企画など、様々な分野で活躍、実業家として成功を収めています。
ブラックエンペラーの歴代総長⑦ 6代目・蛯澤賢治
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ブラックエンペラー総長(会長)の6代目は、暴走族引退後に芸能プロデューサーとして活躍する蛯澤賢治さんです。歴代のブラックエンペラー総長の中でも特に硬派な人物で、彼が率いていた頃のブラックエンペラーがもっとも統制が取れていたとも言われます。
暴走族引退後は、極真空手の師範代となり、芸能プロデューサーとしても活躍し「実録 暴走族 ブラックエンペラー」、「実録 最後のギャング関東連合ブラックエンペラー五代目」、「喧嘩高校軍団 國士義塾(こくしぎじゅく)VS朝高(あさこう)」、「BLUE BERRY 僕の詩・母の歌」などの硬派作品を数々手がけています。
また、元東京都知事の石原慎太郎氏のボディーガードを務めた経歴も持ちます。
そんな蛯澤賢治さんは愛国心が強く、尖閣諸島問題などにも言及されており、1978年には領有権主張のために魚釣島への上陸も敢行されています。
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続く我が国領海に対する中国の侵犯!
尖閣周辺における中国の度重なる日本に対する領土侵犯と挑発行為をこのままほっておく事がどんな結果をまねくかよく考えてもらいたい。
弱腰すぎる政府の対応になんとかして欲しいと思う人は多々いるはずです。
実際に魚釣島に上陸してしまうところなど、歴代のブラックエンペラー総長の中でも特に気合の入った人物です。上陸した1978年の頃、蛯澤賢治さんは未だ20代前半のはずですが、この行動力はさすが数千人もの不良少年らを束ねていた存在だと感じます。
ブラックエンペラーの歴代総長⑧ 7代目・宇梶剛士
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ブラックエンペラーの7代目総長(会長)は、現在は大人気俳優として活躍する宇梶剛士さんです。
宇梶剛士さんは少年時代から野球に打ち込み、拓殖大学第一高等学校の野球部時代には複数のプロ野球球団のスカウトが練習を見に来るほど、将来を嘱望されていました。しかし高校時代に暴力事件を起こして逮捕され、少年鑑別所へ、これが原因で高校を中退する事になり、野球の道も絶たれてしまいます。
それから道を外れた宇梶剛士さんは暴走族の道へ、やがてブラックエンペラー三多摩総本部(当時)の頭(かしら)となります。プロ野球選手への夢を絶たれた鬱憤を晴らす気持ちもあってか、当時の宇梶剛士さんはわざと敵対するチームの縄張りを歩いて挑発し、日々喧嘩に明け暮れていたそうです。
その後、宇梶剛士さんはブラックエンペラー総長の座を狙い、6代目会長の蛯澤賢治さんの本部へ単身殴り込みをかけますが、その時は蛯澤賢治さんになだめられて矛を収めました。
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その後、蛯澤賢治さんが暴走族を引退して会長の座を退く際に、幹部の満場一致で宇梶剛士さんが7代目会長に就任しています。
ブラックエンペラーの総長になってからの宇梶剛士さんはさらに喧嘩に明け暮れ、敵対する1000人以上の暴走族チームに単身乗り込み、幹部ら20人を瞬く間に倒して戦意を喪失させて追い散らしてしまったという信じられないエピソードも伝説的に語られています。
そんな壮絶な過去をもつ宇梶剛士さんでしたが、2003年11月に自叙伝「不良品-オレは既製品じゃない!」を発表して、不良だった過去を初めて明かし話題になりました。
少年院で改心し俳優を志す
ブラックエンペラーの歴代総長の中でも最強の武闘派と言われた宇梶剛士さんは喧嘩に明け暮れますが、そんな日々の中で暴力沙汰で検挙され、少年院送りになります。
その少年院での生活中、宇梶剛士さんは母親が差し入れたチャップリンの自伝を読んで涙を流すほどの衝撃を受けたそうです。
彼は貧しくても役者を目指して努力を続けて、チャンスが巡ってきたときに、その才能を開花させた。『自分は、憧れのプロ野球のスカウトを受けるところまでいったのに、そこから落ちるとこまで落ちて、鉄格子の中で何をしているんだ』と。それが無性に悔しくて、涙をボロボロ流したら、悔しさと恥ずかしさで耳が真っ赤になってね。そのときに、『もう不良はおしまい』だって思った。
そして、宇梶剛士さんは新たな夢として俳優を目指し始めます。少年院から出た宇梶さんはまず、歌手の錦野旦さんの付き人になります。
その頃に俳優の菅原文太さんの目にとまり「お前何者だ?」と尋ねられ、宇梶剛士さんは「俳優になりたいんですが、どうやってなったらいいのかわからないので、錦野旦さんの手伝いをしています」というと、菅原さんはその場で錦野旦さんの事務所に電話し「お前のところの若いのをくれ」と言ってすぐに話をつけ、宇梶さんは付き人として拾われ、これをきっかけにして俳優デビューを果たす事になります。
現在も宇梶剛士さんは、コミカルな役からシリアスな役まで幅広くこなせる存在感のある俳優として絶大な人気を誇り、第一線での活躍を続けられています。
ブラックエンペラーのレディース初代総長・山田加奈(KANA)
出典:https://www.blackemperor.jp/
あまり知られていませんが、ブラックエンペラーにはレディースも存在しました。そのブラックエンペラーレディースの初代総長が、女番長のカリスマこと山田加奈さんです。
山田加奈さんはマハラジャ六本木にて、ディスコイベント「ディスコパーティー ザ・オールドファッション」をKANAの名前で毎年主催されています。
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箱乗りするブラックエンペラーレディース総長・山田加奈さんです。かなりイケイケな感じですね。
上の2枚は、ブラックエンペラーレディースの貴重な写真です。山田加奈さんの姿も見えます。
ブラックエンペラー出身の芸能人や有名人は?
ブラックエンペラーの歴代総長には、宇梶剛士さんや本間優二さんら、芸能界で成功した人物もいました。ここでは、ここまで紹介していないブラックエンペラー出身の芸能人や有名人について見ていきます。
ヤンキー弁護士・金崎浩之
弁護士の金﨑浩之さんは少年時代はブラックエンペラーに所属し、東京都小平地区の幹部でした。これは本人が公表しており「ヤンキー弁護士」を自称されています。
金﨑浩之さんは少年時代は非行に明け暮れて何度も補導され、高校2年生の時に他校の番長と喧嘩して停学処分になり、そのまま中退してしまいます。
しかしその後、一念発起して東京都立武蔵高等学校定時制へと通ってもう勉強し、京都外国語大学の外国語学部英米語学科に合格。
その後も勉強に明け暮れて法律学に目覚め、大学卒業後はアルバイトで生活費を稼ぎながらもう勉強して司法試験に合格し弁護士として活動を開始。過去の経験を生かし、少年事件にも熱心に取り組まれています。
松嶋クロス
1990年代の終わり頃、「第22代永福町ブラックエンペラー」を見立真一らと共に(勝手に)設立した松嶋クロスさんは、後にAV監督としてデビューし、数々の衝撃作をリリースしてAV業界の風雲児として成功を収めています。
また、2011年に元アイドルタレントの小向美奈子さんのAV女優デビューを成功させ話題を集めました。
そのほか、松嶋クロスさんは音楽プロデューサーとしても活躍し、ムーディー歌手「鼠先輩」をプロデュースして「六本木~GIROPPON~」を大ヒットさせます。
しかし2018年から2019年にかけて、松嶋クロスさんは、恐喝や暴力団事務所の違法開設などで立て続けに逮捕され、現在は芸能の世界からは消えてしまいました。
石元太一
半グレ集団としての「関東連合」の悪名を轟かせた「トーヨーボール殺人事件」「市川海老蔵暴行事件」「六本木クラブ襲撃事件」の3つの凶悪事件のいずれにも関わっているとされるのがこの石元太一さんです。
石元太一さんは、「千歳台ブラックエンペラー」の総長を務め、10代のほとんどを少年院で過ごした札付きのワルでしたが、暴走族引退後には、自叙伝「不良録」を発表して話題になり、その後は、俳優、タレントとしてのデビューの道も開けていました。
しかし、それからすぐ後、詐欺事件や「六本木クラブ襲撃事件」の主犯格として立て続けに逮捕されてタレントや俳優デビューの道は閉ざされ「六本木クラブ襲撃事件」の裁判では懲役15年の実刑判決が確定。現在(2020年時点)も服役中です。
ブラックエンペラーの現在
出典:https://www.blackemperor.jp/
暴走族「ブラックエンペラー」は1992年に一度解散し、1990年代の終わりころに、見立真一、松嶋クロスらが「第22代永福町ブラックエンペラー」を(勝手に)立ち上げた事で復活を遂げますが、これも既に解散しており、現在「ブラックエンペラー」を名乗る集団は存在しません。
現在のブラックエンペラーの活動といえるものとしては、今回も度々触れていますが、おそらく当時をよく知る人物らによってブラックエンペラー公式ウェブサイトが運営されており、オンラインショップなども展開されています。
インターネット上では、こうしたウェブサイトをはじめとして度々ブラックエンペラーについての話題が盛り上がっており、人々の記憶の中には未だ「ブラックエンペラー」は存在し続けているようです。
まとめ
今回は、日本で最も有名な暴走族の一つ「ブラックエンペラー(BLACK卍EMPEROR)」についてまとめてみました。
ブラックエンペラーは、1960年代の終わり頃、谷田部という人物と2代目会長泉輝雄さんによって設立されたと伝わっています。
その後は、アウトローのカリスマ・瓜田純士さんの父親である遠藤吉寿さん、俳優デビューを果たす本間優二さん、実業家として成功を収める岩崎隆史さん、歴代総長の中で最も硬派な男として知られる蛯澤賢治さん、現在も大人気俳優として活動を続ける宇梶剛士さんらが総長を務めた時代を経て、1992年にその歴史の幕を閉じました。
その後、1990年代末頃に、見立真一、松嶋クロスらによって「第22代永福町ブラックエンペラー」が(勝手に)設立された事でブラックエンペラーは復活しますが、見立、松嶋らが無茶苦茶な犯罪行為を繰り返したせいでこれも既に解散しています。
したがって、現在「ブラックエンペラー」は存在しません、ただ、ブラックエンペラー公式ウェブサイトをはじめ、ネット上では度々ブラックエンペラーが話題に上っており、現在も人々の心の中では存在し続けています。