暴力団・山口組組長田岡一雄を銃撃した鳴海清ですが、悲惨な殺され方をした最期や映像化された作品も話題です。
今回は鳴海清の生い立ちや刺青、起こした事件詳細、殺され方や死の真相、女や子供の有無、伝説化した現在など紹介します。
この記事の目次
鳴海清(なるみ きよし)とは?天女の刺青あり
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鳴海 清(なるみ きよし)は1952年生まれの日本のヤクザで、暴力団・二代目松田組系大日本正義団の組員です。
山口組組長田岡一雄を銃撃した実行犯として知られています。
1952年に大阪府で生まれ、大衆食堂を営む実家で育ちました。両親の他に兄弟もおり、姉が何人かいる大家族の息子でした。
鳴海清が生まれたのは高度経済成長期が始まる少し前で、朝鮮戦争の真っ只中で経済特需が起き、日本が潤っていた時代です。
実家は大衆食堂のため特需景気の大きな恩恵は受けませんでしたが、家庭環境も経済面も問題はなく、ごく普通の家庭で育ちました。
鳴海清は中学校を卒業後、東大阪の印刷工場に就職します。
この印刷工場に2年ほど勤務して退職しましたが、ここから鳴海清の人生が変わっていくのです。
印刷工場を退職後、当時17歳だった鳴海清は西成区の喫茶店で偶然居合わせた客と口論になり、殴り合いの喧嘩に発展しました。
喧嘩だけでは終わらず、相手を殴り殺してしまいます。
未成年にして殺人事件の犯人となった鳴海清は、その後1年半を浪速少年院で過ごしました。
少年院を出所した鳴海清は19歳になっており、出所後に暴力団・二代目松田組系大日本正義団の組員となり、背中に天女の刺青を彫ったのです。
天女の刺青は鳴海清の代名詞となり、ヤクザとして名前を上げていく日々を送ります。
そんな時、大阪戦争と呼ばれる暴力団同士の抗争が始まり、そこで鳴海清は抗争相手の山口組組長、つまりトップの命を狙ったのです。
鳴海清が起こした「ベラミ事件」詳細
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1978年7月11日、京都府の京阪三条駅前に店を構えるクラブ「ベラミ」で、当時山口組の三代目組長だった田岡一雄が銃撃される事件が起きました。
山口組三代目組長・田岡一雄はこちらの人物です。
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事件現場のクラブの名前をとって「ベラミ事件」と呼ばれるようになったこの事件ですが、この銃撃の実行犯が当時26歳の鳴海清だったのです。
事の発端は、1975年に勃発した「大阪戦争」と呼ばれる暴力団同士の抗争です。
三代目山口組・佐々木組、そして鳴海清が所属する二代目松田組との抗争でしたが、鳴海の直属の組長である松田組・村田組大日本正義団組長がこの抗争で射殺されました。
1976年10月、大阪日本橋の路上で佐々木組組員に射殺されたと言われている日本橋事件。この事件で“親”を奪われた鳴海清は、報復として山口組組長・田岡の狙撃を計画します。
田岡が京都市の京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」に通っているという情報を入手した鳴海清は、襲撃を実行する数ヶ月前からベラミに通い詰めて田岡が来店するのを待ちました。
1978年7月11日、ついに鳴海清と田岡がベラミで顔を合わせます。
田岡は、中島貞夫監督の映画「日本の首領 完結篇」を製作していた太秦の東映撮影所を訪れた帰りで、映画関係者や傘下の組長とベラミを訪れました。
当時は暴力団と芸能界は密接に繋がっていたため、そのような光景は珍しくなかったそうです。
ベラミでのダンスショーが終わった直後、鳴海清は田岡に銃口を向けて引き金を引きます。
銃弾は田岡の首筋を貫き、流れ弾で一般人の客2人が負傷しました。
銃撃後、この銃撃事件の指揮をとっていた松田組系大日本正義団の会長に「手応えがあった」と伝え、殺害を確信している報告を述べました。
しかし、田岡は首を貫通したにもかかわらず、一命を取り留める奇跡を起こしました。
鳴海清ら松田組の報復計画は失敗に終わったのです。
ベラミに残されていたグラスや目撃情報から、田岡を銃撃した犯人が鳴海清であることは2日後には判明しました。
しかし銃撃直後に大阪方面へ逃げて逃走体制に入っていた鳴海清は、すぐに逮捕されることはなく、山口組を挑発する文章を新聞社に送り付けては逃走を続けていました。
このベラミ事件で組長が襲撃されたことにより、山口組・佐々木組は松田組への報復に乗り出します。
激しい抗争は結果として山口組・佐々木組の組員280人以上が摘発されることとなり、松田組側は組長、幹部など上の人間を含めて7人が殺害される結果になりました。
暴力団同士の抗争、暴力団が関わる事件はベラミ事件以外にも数多くありますが、その中でもベラミ事件の影響は指折りと言われています。
山口組というのは当時1万人以上の組員を抱える日本最大規模の指定暴力団で、その山口組で組長を務める田岡は日本トップクラスのヤクザと言っても過言ではありません。
その田岡を銃撃するという事件は、暴力団関係者はもちろん警察関係者も肝を冷やすような一大事件だったのです。
鳴海清の悲惨な殺され方と死の真相とは?刺青により身元が判明
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クラブ「ベラミ」で山口組組長の田岡を銃撃した後、大阪方面へ逃走した鳴海清でしたが、事件から約3ヶ月が経った頃、六甲山で鳴海清の遺体が発見されました。
事件後逃走を続けていた鳴海清に何が起きたのか。死の真相、殺され方について迫ります。
1978年9月17日、六甲山中の瑞宝寺谷で腐乱死体が発見されました。
死体はガムテープが何重にも巻きつけられ、拘束されていました。猛暑の影響で腐乱してウジがわいており、顔は白骨化している状態だったようです。
さらに、指先はボロボロに崩れて指紋採取は不可能で、手指の爪は右手の三本以外すべて剥がされ、前歯も四本折られているという状態でした。
誰かに酷い拷問を受けて遺棄されたと見られる死体は、上記の理由により身元確認が難航しました。
赤外線による科学捜査で、背中に天女の刺青があることが分かり、死体発見から10日後にやっと鳴海清本人の遺体であることが確認されたのです。
鳴海清の遺体には、お守りとして子供の写真と吉田会長の遺灰も残っていました。
誰もが田岡銃撃の報復に山口組に殺されたと考えた鳴海清の殺害事件ですが、殺害容疑で逮捕されたのは、なんと同じ松田組系・忠成会の組員5人でした。
忠成会は兵庫県三木市に本拠地を置く暴力団で、ベラミ事件後に同じ松田組系の組員である鳴海清を匿っていたようです。
しかし、山口組・佐々木組による松田組への報復が激しさの一途を辿る中、次第に鳴海清を匿うことに不安や危険を感じた忠成会の組員が殺害したというのが警察による見解です。
逮捕された幹部や組員5人のうち3人が殺害を認めましたが、供述が異なる点があるなど疑問の残る逮捕でした。
そして裁判では、殺人罪について無罪が確定しています。
事件から12年が経った1990年、忠成会の組員らは逮捕監禁罪、同幇助罪でのみ有罪判決を受けました。
殺人に関しては無罪判決となり、その後も鳴海清を殺害した真犯人や殺害の真相については明らかにならないまま、公訴時効を迎えました。
鳴海清の遺体はかなり激しい損傷を受けており、明確な悪意と殺意を持った殺され方で、拷問を受けたような跡が残っていました。
報復の巻き添えを受けるのを怖れて殺害を決行したとしても、同じ松田組系の組員がそこまでするかは疑問です。
すでに時効を迎えているため真相は闇に葬られました。
鳴海清の身に何が起きたのか、誰にどんな殺され方をしたのかは今後も明らかにはならないでしょう。
鳴海清の女や子供とは?
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暴力団組員として抗争の真っ只中に身を置き、逃走の末殺された鳴海清。
実は彼には本妻と愛人がいたようです。
本妻の間には子供はおらず、愛人との間に2人の子供が生まれています。
本妻も愛人の子供をかわいがっていたという話もあり、お互いに「極道の女」として鳴海清を支えていたのかもしれません。
ベラミ事件前日、鳴海清は本妻と愛人を呼んで3人で食事をしたことが分かっています。
襲撃を前にし、自分が帰らなかった場合も協力して生きていって欲しいと、2人の愛する女性に伝えたそうです。
暴力団組員として生きる以上、明日何が起きてもおかしくはない世界です。
組員たった500人程の小規模な松田組に所属する鳴海清が、日本トップクラスの山口組組長の田岡を襲撃するというのは、二度と愛する女性に会えない覚悟を持ってもおかしくありません。
愛する女性、愛する子供と別れることになろうとも、会長を殺された仇への復讐は、鳴海清にとって必ず成し遂げなければならないことだったのかもしれません。
それでも子供を愛していた鳴海清は、お守りとして子供の写真を身に付けていました。
六甲山中で発見された遺体の衣類の中に、子供の写真が入ったお守りがしまってあったのです。
死体の身元確認の際、指紋や歯が損傷していた鳴海清には、遺留品は重要な証拠になりました。
鳴海清の愛人も、写真に映る子供が自分と鳴海清の子供であることを認めたようで、愛する人の死に泣き崩れたと言われています。
逃走している間も肌身離さず子供の写真を身に付けていた鳴海清。子供への愛情が深かったことが感じ取れます。
現在、その子供達がどこで何をしているかは分かりません。一般人として普通の生活を送っているのではないかと言われています。
鳴海清の伝説は現在も語り継がれている 【作品を紹介】
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ベラミ事件後、鳴海清に襲撃された山口組の田岡は、ベラミのママや従業員を料亭に招待し、迷惑を掛けたことを謝罪しました。
ベラミは元々田岡の行きつけだったのですが、「自分を含めて暴力団関係者は今後一切ベラミに行かない」と出入禁止を約束しました。
ベラミは事件後も人気クラブとして営業していましたが、ママの逝去で現在は閉店しています。
また、日本の極道を牽引してきた田岡を撃った男として、鳴海清は現在も伝説として語り継がれています。
山口組三代目組長の田岡は、33人の賭博集団に過ぎなかった山口組を日本最大規模の組員1万人という巨大組織に拡大させた重要人物です。
芸能界や海運業にも手を広げ、労働者の生活環境を整えるなど、世間的な暴力団のイメージとは違う、昔ながらの任侠の世界に生きた男でもあります。
そんな山口組を大きくした立役者である田岡に牙をむき、実際に殺害する一歩手前までいった鳴海清は、後世に語り継がれる伝説となりました。
名のある監督がメガホンを取り、数々の作品が鳴海清を題材として制作されています。
中島貞夫監督の映画「総長の首」。
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哀川翔主演の映画「獅子王たちの夏」。
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など、監督から出演者までそうそうたる顔ぶれが揃っています。
時代背景や事件の内容をそのまま映画化するのは、山口組を刺激する恐れがあったため、時代や設定を変更しての映画化でした。
しかし、名だたる監督や俳優が鳴海清モデルの作品に携わりたいと思うほど、山口組組長襲撃の事件は暴力団関係の世界では異例の出来事だったのです。
映画化のみならず小説化もされており、1996年に山田勝啓が小説「ドンを撃った男」を出版し、1999年に的場浩司主演で映画化もされました。
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1982年公開の映画「TATTOO<刺青>あり」は、鳴海清の愛人と1979年の三菱銀行人質事件の犯人の梅川昭美の愛人が同一女性だという新聞記事に着目して映画化された作品です。
劇中には、鳴海清をモデルにした暴力団組員が登場します。
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この「TATTOO<刺青>あり」をプロデュースした井筒和幸が監督した1979年のピンク映画「暴行魔真珠責め」も鳴海清が題材となっており、タイトルも鳴海清を意識しています。
このように死後もさまざまな作品でその生涯が描かれた鳴海清。
現在まで伝説として語り継がれてはいるものの、暴力団同士の抗争で銃撃事件を起こしたというのはただの犯罪です。
銃撃の末に自身も殺されており、その人生は悲劇と言えるでしょう。
まとめ
山口組の組長・田岡一雄を銃撃したことで、現在まで映画化されるほどの伝説の男として語り継がれている鳴海清。
酷い殺され方で最期を迎え、愛する女性や子供とも永遠に会えなくなった鳴海清、彼にとって本当に良い人生だったのでしょうか。
近年は再び暴力団同士の抗争が過激化しているようですが、今後このような事件が起きないことを祈るばかりです。