日本で初めて犠牲者を出した茨城県東海村の臨界事故ですが、衝撃的な被爆者の写真も話題です。
今回は東海村JCO臨界事故の概要、被爆者の大内久さんと篠原理人さんと生存者、被爆者の写真、原因やその後と現在をまとめました。
この記事の目次
東海村JCO臨界事故とは
出典:reikaidaisimao.hatenablog.com
東海村JCO臨界事故とは、1999年9月30日に茨城県東海村にある株式会社JCOの核燃料加工施設で発生した原子力事故(臨界事故)です。
この事故によって作業員3名が至近距離で被爆し、2人が死亡、1人が重傷、さらに事故の収束に当たった従業員や救急隊員、施設の近くにいた近隣住民など合計で667名が被曝しました。
この東海村JCO臨界事故は、原子力事故による被爆で死者を出した日本で初めての事故です。
事件の発生
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1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で作業員が硝酸ウラニル溶液を沈殿槽にバケツで流し込む作業をしていました。
そして午前10時35分ごろ、沈殿槽内で硝酸ウラニル溶液が臨界状態になり、警報が鳴りました。作業員の証言によると、この時、青い光が見えたとのことです。
臨界状態になった沈殿槽は、むき出しの原子炉のようなもので、中性子線が放出され、作業員3人が至近距離で大量の中性子線を浴びたことになります。
通報と近隣住民の避難
警報が鳴ったJCO施設では臨界状態が起こったのは明らかでした。ここからの動きを時系列で見ていきましょう。
・11時52分:3名の被爆者のために救急車が出動
・12時30分:東海村から住民に屋内退避の呼びかけ
・12時40分:小渕恵三総理大臣に臨界事故の一報が入る
事故現場であるJCO施設から半径350m以内の住民に避難要請、半径500m以内の住民に避難勧告、半径10km以内の住民(31万人)には屋内退避と換気装置停止が呼びかけられています。
そして、現場周辺の常磐自動車道・国道・県道は閉鎖、常磐線(水戸~日立間)や水郡線(水戸~常陸大子・常陸太田間)は運休となり、自衛隊には災害派遣要請が行われました。
現在改めて見ると、こんなに大変な臨界事故なのに対応が遅いように感じます。
おそらく、当時は臨界事故がどれほど危険なものなのか実感がなかったためだと思われます。それまで日本では、重大な原子力事故はありませんでしたから。
決死隊のおかげで収束
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事故後も臨界状態はずっと続いていました。つまり、中性子線はずっと放出されていたということです。この臨界状態を収束させないと臨界事故は終わりません。
そのような中、現場に派遣された原子力安全委員会の委員長代理・住田健二氏の呼びかけにより、JCO社員たちが2人1組で決死隊を作りました。
そして事故翌日の10月1日午前2時35分から現場に出動し、事故を収束させるための作業が行われました。
その後、臨界が収束したのは作業開始から約4時間が経った午前6時30分ごろでした。
作業を行った従業員の中で、7名は年間許容線量を越える計画被曝をすることになりましたが、命の危機に瀕するような被曝はありませんでした。
東海村JCO臨界事故の被爆者① 死亡2名:大内久さんと篠原理人さん
東海村JCO臨界事故では、作業員3人が多量の放射線を浴びた被爆者となりました。
急性放射線症候群になり、病院に搬送されましたが、3人の被爆者のうち2人が死亡しています。
大内久さん
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被爆者の1人目は大内久さん(当時35歳)です。
大内さんは臨界事故当時、バケツで硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込むための漏斗を支えていました。
そして7杯目のバケツを流し込んだ時に、大内さんはバシッという音と共に臨界に達した時に発生する青い光(チェレンコフの光)を見ています。
大内さんは至近距離で大量の中性子線を浴びました。大内さんが浴びた放射線量は推定16~20シーベルト以上とされています。
人間は一度に8シーベルトの放射線を浴びた場合の死亡率は100%です。つまり大内さんは致死率の放射線量の2倍以上を浴びたことになります。
大内さんは救急車で国立水戸病院に搬送されましたが、急性放射線症候群の症状が出ていたため、千葉県にある放射線医学総合研究所にヘリコプターで搬送されています。
そして、造血幹細胞移植の必要があることから、東京大学医学部附属病院に転院しました。
大内さんは中性子線を大量に浴びたことから染色体がバラバラになり、新たな細胞を生成するために必要な核型が完全に破壊された状態になっていました。
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つまり、大内さんは新しい細胞を作り出すことができなくなっていたのです。
白血球が作れないため、無菌室に移された後、妹から造血幹細胞移植を受けた手術は成功するものの、移植後の染色体にも異常が認められました。
さらに、皮膚が新しく生成されないため体液がどんどん染み出し、事故から59日後の11月27日に心停止に。必死の蘇生処置や治療が続けられましたが、事故から82日目に死亡しました。
大内さんは新しい細胞が生成されず、事故から59日目には心停止を起こしました。それから約20日も治療を続けたのは、ある意味人体実験だったとも言われています。
これだけ大量に放射線を浴びたケースは他になく、今後の医療のためにデータを取る必要があったため、無理にでも延命措置が続けられたという噂があります。
篠原理人さん
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東海村JCO臨界事故の被爆者で犠牲者2人目は篠原理人さん(当時39歳)です。
篠原さんは事故当時、バケツで硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込む作業をしていました。
被爆量は推定6~10シーベルトです。大内さんよりは被爆量は少ないですが、致死量の放射線を浴びています。
篠原理人さんも、大内さん同様に中性子線によって染色体を破壊され、造血幹細胞移植を受けています。
移植後は一時的に容態は回復し、警察の取り調べにも応じていましたが、徐々に容態が悪くなり、11月10日には皮膚の70%が剥がれ落ち、体液が流れ出るようになります。
さらに、MRSA感染から肺炎、そして多臓器不全を起こして、臨界事故から211日後に死亡しています。
篠原理人さんも、1月4日の時点でDNAの損傷により皮膚の再生能力は失われていましたが、延命処置が施され、4月27日まで生きていました。
これも被爆後のデータを取るため、医学の発展のために、生かされていた状態だったと言われています。
東海村JCO臨界事故の被曝者② 生存者1名:横川豊さん
東海村JCO臨界事故では作業員3人が被爆し、急性放射線症候群になり、千葉県の放射線医学総合研究所に搬送されています。
3人のうち、大内久さんと篠原理人さんは死亡しましたが、生存者が1人いました。その生存者とは横川豊さんです。
臨界事故当時、横川さんは隣の部屋にいたため、被爆者2人と比べて浴びた放射線量は少なく、3シーベルト程度と推定されています。
唯一の生存者の横川さんは、一時的に白血球がゼロになりましたが、治療の成果が出て回復し、臨界事故から約3ヶ月後に退院しています。
東海村JCO臨界事故の被爆者の写真がヤバイと話題に 【閲覧注意】
東海村JCO臨界事故の被爆者である大内久さんと篠原理人さんは、懸命の治療にも関わらず、死亡しました。原子力事故での被爆での日本初の死亡者でした。
日本人は広島・長崎の原爆体験により、被爆後は想像を絶する辛い状態になることはなんとなく知っていますが、やはり具体的にはよくわからない人が多かったと思います。
そんな中、大内久さんと篠原理人さんの治療の様子の写真がインターネット上に流出し、多くの日本人が衝撃を受けました。
出典:detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
被爆すると皮膚の再生能力が失われてしまいます。皮膚が剥がれ落ちれば、体液がどんどん流れ出ていきます。
そして皮膚に摩擦が起こると、さらに皮膚が剥がれ落ち、状態が悪化します。そのため、上記のような少しでも摩擦を軽減する体勢になっていると思われます。
出典:mayama-hirofumi.hatenadiary.org
ほかにも、インターネット上には被爆者2人の写真があります。かなり衝撃的な写真ばかりですので、閲覧したい人は覚悟の上で見てください。
東海村JCO臨界事故の原因とは
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東海村JCO臨界事故の原因は、ずばり「ずさんな作業」です。
JCOには臨界を防ぐための正規のマニュアルがありました。しかし、実際に行われていたのは、作業効率・作業時間短縮を重視した裏マニュアルです。
しかも、臨界事故当時は裏マニュアルすら守られず、臨界に達しやすい形の容器(沈殿槽)に硝酸ウラニル溶液を流し込んでいました。
沈殿槽に流し込む手順は被爆者3人が考え出し、事故当日に初めて行われたそうです。
普通に考えて、「ウランをステンレスバケツで手作業で注ぐの?」と思いますよね。でも、実際にステンレスのバケツで手作業で行われていたんです。
しかも、作業をしていた大内久さんと篠原理人さんはその危険性・臨界が起こるリスクは把握していなかったとのこと。
放射性物質を扱う作業員がそのリスクを把握していなかったのは、JCOの管理体制が問われるのも当然のことでしょう。
東海村JCO臨界事故のその後
東海村JCO臨界事故は、臨界自体は事故発生から約20時間後に収束しました。
作業員2人は死亡したものの、国際原子力事象評価尺度 (INES) ではレベル4であり、近隣住民の被爆は少なく、健康被害もなかったことから、そこまで重大な事故と周知されませんでした。
マスコミも比較的早くこの事故を報じなくなりましたので、この東海村JCO臨界事故のその後はどうなったのか知らない人も多いのではないでしょうか。
裁判では有罪判決
出典:sankei.com
この東海村JCO臨界事故では、JCOの刑事責任が問われることになりました。
JCOは原子炉等規制法違反および労働安全衛生法違反の罪で罰金刑となっています。また、被害者への賠償額は約154億円になっています。
また、JCOの東海事業所所長とその他現場責任者など合計6名も起訴され、執行猶予付きの判決が言い渡されています。
生存者である横川豊さんも現場責任を問われ、有罪判決となりました。
東海村JCO臨界事故の現在
JCOと住友金属鉱山は事業縮小
日本初の原子力事故による死亡者を出した東海村JCO臨界事故。
その原因を作ったJCOは、加工事業許可取り消し処分を受け、ウラン再転換事業を廃止せざるを得なくなりました。そして、親会社の住友金属鉱山は倒産寸前まで追い込まれています。
現在でも、JCOと住友金属鉱山は存続し、JCOは低レベル放射性廃棄物の保管管理や施設の維持管理などを行っていますが、事故前と比べると事業は縮小しています。
茨城県・東海村は風評被害
東海村JCO臨界事故が起こり、その後は茨城県や東海村は風評被害に苦しめられることになりました。これは、福島第一原発事故のその後と同じですね。
東海村はもちろん、茨城県全体で観光関係のキャンセルが相次ぎ、農作物や水産物は返品や値崩れなどを起こしています。
ヨウ素の配布が始まる
東海村では、このJCO臨界事故をきっかけにヨウ素の備蓄を始めました。
そして、平成27年度から東海第二原子力発電所から半径5キロ以内に住む住民に、安定ヨウ素剤の配布をスタートしています。
この東海村JCO臨界事故で、東海村と住民は原子力への意識が高まったと言えるでしょう。
東海村JCO臨界事故のまとめ
東海村JCO臨界事故の概要、被爆者として死亡した大内久さんと篠原理人さん、生存者の横川さんについて、衝撃的な被爆者の写真、さらに原因やその後と現在をまとめました。
この東海村JCO臨界事故は絶対に忘れてはいけない原子力事故です。
原子力は私たちの生活を豊かにしてくれるものですが、その危険性は必ず覚えておかなくてはいけませんね。