当時中学3年生だった少女が自動車修理工の男に殺害されバラバラにされた「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」が話題です。
この記事では鈴鹿市ベルシティ殺人事件の詳細な経緯、被害者の少女や異常すぎる犯人の樋田康則について、また事件の現在などについてもまとめました。
この記事の目次
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の詳細
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「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」とは、1992年8月25日の朝に犬の散歩に出たまま行方不明になった三重県鈴鹿市在住の中学3年生女子のA子さん(当時14歳)が、約2年後の1994年8月11日に、三重県伊賀町の竹谷池でビニール袋に入れられたバラバラ遺体となって発見された事件です。
発見された遺体は胴体部分だけで、竹谷池に釣りに訪れていた男性によって発見されています。遺体には重りがつけられており、発見されたのは渇水によって池の水位が低下したためでした。
被害者は遺体の歯の治療痕などから2年前から行方不明になっていた女子中学生A子さんである事がすぐに判明し、警察はバラバラ殺人事件として捜査を開始しました。
警察の聞き込みにより、「知人に頼まれて、伊賀方面の池に犬の死体を捨てた」という男が見つかり、その証言から、新潟県燕市に住む自動車修理業の樋田(といだ)康則(当時29歳)が犯人として逮捕されました。
警察の取り調べに、犯人の樋田康則は、被害者の女子中学生のA子さんを目撃して強姦する目的で車で轢いたが、思った以上に怪我の具合が酷かったため強姦することを断念し、犯行の発覚を恐れてA子さんをもう一度車で轢いて殺害したと供述。
さらに、犯人の樋田康則は、その後、A子さんの遺体を三重県亀山市にある渓谷・石水渓へと運び、ノコギリで遺体の手足を切断し、胴体と手足を別々に黒のビニール袋に入れてコンクリートブロックの重りをつけて、伊賀町(現在の伊賀市)の鴉山池に遺棄したと供述。
しかし、1週間後に再び様子を見に行ってみると、胴体部分だけが浮かび上がっていたため、友人に「犬の死体を池に捨てたが浮いてきた。気持ち悪いので手伝って欲しい」と頼み、遺体の袋をいったん引き上げ、今度は伊賀町の竹谷池にコンクリートブロックの重りをつけて遺棄したと供述しました。
真偽不明ですが、事件を起こす当日の朝、犯人の樋田康則はアリバイ作りのためか勤務先に一度出勤して8時10分にタイムカードを押した後に、再び自家用車によって出掛け、8時20分頃に被害者の女子中学生を車で轢いて襲撃したという情報もネット上で出ています。
また、こちらもあくまでもネット情報ですが、事件が発生した場所は町の中心部で、付近には近鉄鈴鹿線の平田町駅や鈴鹿市役所がある場所でしたが目撃者はいなかったという事です。
以上が「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」の経緯の詳細となります。
なお、この鈴鹿市の女子中学生が被害者となったバラバラ殺人事件と、ショッピングセンター「ベルシティ」との関連性はいくら調べても全く発見できず、この事件が何故「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」という名称で呼ばれているのかはよくわからないのですが、ネットではこの通称で呼ばれているため、便宜上このまま「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」の名称でまとめていきます。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の被害者の当時14歳の女子中学生について
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「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」の被害者は、当時14歳の中学3年生の女子で、実名や顔写真は公開されていません。
当時の報道によると、この被害者の女子中学生は将来宝塚歌劇団に入団してタカラジェンヌになる夢を持っており、宝塚歌劇団の予備校に通って宝塚音楽学校への入学を目指していたそうです。
被害者の女子中学生は犬の散歩を日課にしており、事件の日も朝の犬の散歩に出掛けた時に犯人の樋田康則に襲われ殺害されました。
被害者の家族はこの女子中学生が家出をする理由は全く思い当たらないとしてすぐに警察に捜索願を出し、警察による捜索が続けられていましたが、その2年後に変わり果てた姿で発見されたのでした。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人・樋田康則について
「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」の犯人は、自動車修理業の樋田康則という当時29歳の男です。当時の報道では樋田康則の顔写真も公開されています。
この樋田康則は鈴鹿市ベルシティ殺人事件の被害者の女子中学生を強姦目的で襲った当時は、鈴鹿市内の自動車工場に勤務しています。当時はレーシングチームにメカニックとして所属し「鈴鹿8耐」にも出場していたという事です。
この犯人の樋田康則は逮捕後に数々の余罪が発覚しており、また、その後の報道などでその異常な性癖なども明らかになっています。
続けて、この犯人・樋田康則について見ていきます。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人・樋田康則の少女を狙った余罪が多数発覚
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「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」の犯人・樋田康則には、この事件以外にも未成年少女を狙った多数の余罪を犯している事が発覚しています。事件が発生した時系列順に見ていきます。
犯人・樋田康則の余罪① 女子中学生へのわいせつ目的略取・強姦致傷・窃盗
犯人・樋田康則は、鈴鹿市ベルシティ殺人事件を起こす約2年前の1990年7月10日に、千葉県の流山市内で、下校途中だった当時14歳の女子中学生を背後から車で轢いて転倒させ、車のトランクに入れて茨城県結城郡に拉致して強姦しようとしています。
樋田康則は被害者の女子中学生に殴るなど暴行しますが、被害者は隙を見て逃げ出す事に成功して未遂に終わっています。この時、被害者の女子中学生は生徒手帳を落とし、樋田康則はそれを盗んでいます。
犯人・樋田康則の余罪② 女子高生へのわいせつ目的略取未遂・傷害・窃盗
鈴鹿市ベルシティ殺人事件を起こした翌年の1993年5月25日には、犯人の樋田康則は、転居先の新潟県にある西蒲原郡内にて、自転車で下校中だった当時16歳の女子高校生に道を尋ねるフリをして話しかけ、その女子高校生がメモに道順を書いている隙ににプラスチックハンマーで何度も殴りつける事件を起こしています。
女子高校生が逃亡したため略取は未遂に終わりましたが、被害者が落とした学生手帳などを盗んでいます。
犯人・樋田康則の余罪③ 女子中学生へのわいせつ目的略取未遂・傷害・窃盗
さらに、樋田康則は1993年6月21日に、新潟市内で自転車で下校途中だった当時15歳の女子中学生にわいせつ目的で自動車で追突して転倒させています。被害者は逃走したため略取は未遂に終わりましたが、被害者が落とした生徒手帳を盗難しています。
犯人・樋田康則の余罪④ 女子高生への住居侵入・強姦致傷・窃盗
さらにそれから1ヶ月後の1993年7月28日の深夜、樋田康則は今度は新潟県西蒲原郡内の当時16歳の女子高校生の自宅へと侵入し、ケガキ針という工具で自室で寝ていた女子高校生の右目内眼角付近を突き刺し、その場で強姦しようとしますが失敗して逃亡しています。
この被害者は、この時の怪我で脳に損傷を負って左半身不随になって車椅子生活になり、右目失明と言語障害の後遺症も負っています。
樋田康則は、この女子高生宅にこの事件の2ヶ月前と1ヶ月後にも侵入しており、学生服などを盗んでいます。
犯人・樋田康則の余罪⑤ 女子中学生へのわいせつ目的略取・傷害・強姦未遂・強盗
樋田康則は1993年12月1日には、福島県麻邪郡内で、下校途中だった当時13歳の女子中学生に後ろから追突して転倒させ、後部座席に乗せて新潟県東蒲原郡まで連れ去り、車内で強姦しようとしたものの失敗。被害者が着ていたセーラー服などを奪って、裸のまま山の中に放置しています。
犯人・樋田康則の余罪⑥ その他にも女子中高生の制服を盗む窃盗9件
これ以外にも犯人の樋田康則は、女子中学生や女子高校生の住む自宅へと侵入して制服などを盗むという窃盗事件を少なくとも9件起こしています。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人・樋田康則には制服への異常執着があった
「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」の犯人・樋田康則は上で紹介した余罪を見てもわかるように女子中学生や女子高校生の制服に異常な執着を示していたようです。
樋田康則は盗んだ制服を交際相手や妻に着用させてセックスをしたり、自分も着用したりしていたという事で、こうした異常な性癖が犯行につながったと見られています。
裁判記録には、樋田康則は1984年に高校を卒業後、オートバイ整備の仕事につき、その年に同僚女性と交際して初めてセックスをした。その後も樋田康則は複数の女性と関係を持ったが、当時から女子中高生の制服に異常に執着していたと記されています。
さらに、裁判記録によれば、樋田康則は、交際相手に女子中高生の制服を着せてセックスをしていたが、次第に本物の女子中高生とセックスをしたいと思うようになり、1989年11月に交際していた女性と2人で車に乗って制服姿の少女を物色し、追突して車に連れ込んだ上、交際相手に運転させた車の後部座席で少女のせ制服を脱がせた上で体を触るなどしたという事です。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人・樋田康則は結婚して子供が2人いた
裁判記録によれば、鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人の樋田康則は、1990年4月に結婚して2人の子供を儲けています。樋田康則の結婚相手は、上で触れた、1989年に樋田康則と一緒に車に乗って少女を物色したという交際相手でした。
樋田康則はこの妻に、盗んできた女子中高生の制服を着せてセックスを繰り返していたという事です。
この樋田康則の妻は樋田が女子中高生の制服を盗んだり、強姦未遂などを犯している事に薄々感づいていたものの、過去に別の男に強姦される被害にあっており、その事を樋田康則に告白した時に樋田が態度を変える事なくむしろ優しく接してくれたため、樋田の望む事はなんでも叶えてやりたいという心情になっており、樋田の犯行を問い詰める事がなかったという事なども裁判記録に残されています。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人・樋田康則への裁判と判決
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人・樋田康則の裁判では、検察側かが死刑を求刑していますが、1997年6月に名古屋高裁にて無期懲役刑が確定しています。
被害者の1人が証人として出廷
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の裁判には、犯人の樋田康則に1993年7月28日に自宅で襲われ、左半身付随と右目失明、言語障害などの後遺症を負った被害者が証人として出廷しました。
この被害者は、事件以来後遺症に悩まされて薬を飲み続けている事や、将来の夢であった保育士になる夢も諦めざるを得ず、将来になんの希望も持てなくなった事、左目の視力も低下してきている事などを訴えて、樋田康則が死刑になる事を望みましたが、裁判官は、樋田康則に殺意が認められない事などを理由に受け入れませんでした。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人・樋田康則の現在は既に自殺により死亡
鈴鹿ベルシティ殺人事件の犯人の樋田康則は現在既に死亡しています。
樋田康則は、裁判で無期懲役判決が下されてから、約1年半後の1999年2月12日に、収監されていた岡山刑務所で、窓の取手にシーツのカバーを紐状にしてかけて首吊り自殺を図り死亡しています。
樋田康則は刑務所内で規律違反を犯して独居房に移されていたところで自殺を図ったようです。
独居房内には、「申し訳ない」などと書いた家族宛(被害者遺族宛ではない)の遺書が2通残されていたそうです。
まとめ
今回は1992年8月25日から行方不明となっていた三重県鈴鹿市の当時14歳の女子中学生が、樋田康則という男に強姦目的で襲撃されて殺害され、その後遺体をバラバラにされて遺棄された「鈴鹿市ベルシティ殺人事件」についてまとめてみました。
鈴鹿市ベルシティ殺人事件の犯人の樋田康則は、女子中高生の制服に異常な執着を見せ、制服姿の女子中高生を強姦するのを目的に次々と少女を襲っており、その犯行の中で被害者の少女は殺害されました。
被害者の少女の遺体が発見されたのは1994年8月のことでしたが、逮捕されるまでの間に犯人の樋田康則は制服姿の少女を狙った犯行を繰り返していました。
裁判では無期懲役刑が確定しましたが、それから約1年半後に樋田康則は刑務所内で首を吊って自殺しています。