2005年に塾講師が塾生の小6女児を殺害した「宇治学習塾小6女児殺害事件」の犯人の萩野裕が話題です。
この記事では萩野裕の生い立ちや親などの家族、経歴、事件の経緯や動機、被害者の切断された指が落ちていた凄惨な事件現場、判決や現在は既に出所の可能性などについてまとめました。
この記事の目次
- 萩野裕は宇治学習塾小6女児殺害事件の犯人
- 萩野裕の生い立ち① 両親が厳しくスナック菓子やテレビゲームは禁止
- 萩野裕の生い立ち② 中学頃からは奇行が目立ち学校でいじめられていた
- 萩野裕の家族…父親は会社役員、母親はヨガや太極拳の講師、兄弟はいない
- 萩野裕の経歴① 同志社香里高校から学内推薦で同志社大学法学部へ進学
- 萩野裕の経歴② 2003年に強盗致傷容疑で逮捕され執行猶予付き有罪判決
- 萩野裕の経歴③ 逮捕や停学を隠して京進宇治神明校のアルバイト講師に
- 萩野裕の宇治学習塾小6女児殺害事件の経緯や現場の凄惨な状況
- 萩野裕の犯行動機は一方的で理不尽な恨み
- 萩野裕の判決はわずか懲役15年であまりにも軽すぎるという声が多数
- 萩野裕の現在…既に出所している可能性があり
- まとめ
萩野裕は宇治学習塾小6女児殺害事件の犯人
萩野裕(はぎの・ゆう)は2005年12月10日に京都府宇治市内の学習塾「京進 宇治神明校」で発生した、「宇治学習塾小6女児殺害事件」の犯人です。
荻野裕は当時23歳の同志社大学4年生で、事件のあった「京進」で塾講師のアルバイトをしており、被害者の小学6年生女児(堀本紗也乃さん)に一方的に恨みを募らせて計画的に殺害に及びました。
被害者の堀本紗也乃さんは、首や顔、頭などを刃物で10数回にわたって切り付けられており死因は失血死でした。事件現場には被害者の切断された指が落ちていたとの情報も一部で報じられており、あまりにも残虐な犯行でした。
ここでは、この「宇治学習塾小6女児殺害事件」の犯人である萩野裕についてまとめていきます。
萩野裕の生い立ち① 両親が厳しくスナック菓子やテレビゲームは禁止
萩野裕の生い立ちについては、両親が異常なほど厳しい家庭で育った事が明らかにされています。
萩野裕は母親が30歳を過ぎてから生まれた子供で、兄弟はおらず一人っ子として育ちました。
両親は非常に躾に厳しい事が近所でも知られており、スナック菓子はテレビゲームは完全禁止され、小遣いも一切なし、友人が自宅に遊びにきても「勉強の邪魔になる」などと言われて追い返されていたという事です。男女交際も禁止されていたそうです。
同容疑者の近所の男性は「小学生時代は親が厳しく、おやつや小遣いをもらえなかった。
萩野裕の生い立ち② 中学頃からは奇行が目立ち学校でいじめられていた
両親の異常なほど厳しい教育方針が影響したのかはわかりませんが、萩野裕は中学校へ進学した頃から奇行が目立つようになったとの情報が明かされています。
萩野裕は両親に叱られた際にトイレに閉じ込められる事があり、その度に「出せ〜。出してくれ。救急車を呼んで〜」などと叫ぶ声が近所中に響き渡っていたという事です。
また、突如自宅の窓を開けて、「X二乗プラスYは!」などと大声をあげたり、深夜に「ウオー、オラー」と奇声を発したりもしていたようです。
他にも、近隣住民が家の中に聞こえるほど激しい音で、萩野裕の叫び声や食器が割れるような音が響いていたと証言しています。
萩野容疑者は宇治市内の自宅で両親と3人で暮らす。かつては、周囲に「家庭内暴力」で知られていたという。
近所の人によると、萩野容疑者が中学生のころ、自宅で大きな声を上げて騒ぐ姿を覚えている。食器の割れる音が響くこともひんぱんにあり、ある住民は「(近所の)家の中にいても聞こえるほど激しい音だった」という。
萩野裕は中学時代は成績は優秀でソフトテニス部にも所属していたという事ですが、交友関係は狭く、奇行も関係してかいじめを受けていたとの情報も出ています。
中学時代に同じソフトテニス部で1学年下だった男子学生(22)は「普通の人だったが、どちらかというと暗い印象。友達も特定の人しかいなかったようだ。家庭はしつけが厳しいと聞いたことがある」と話した。
中学時代はいじめられていたらしい
萩野裕の家族…父親は会社役員、母親はヨガや太極拳の講師、兄弟はいない
事件当時の報道によると、萩野裕の家族構成は両親と本人のみの3人家族で、父親は大手電気メーカーの子会社役員、母親はヨガや太極拳の先生をしていたという事です。萩野裕には兄弟はおらず、ひとりっ子として育っています。
近所の話などによると、萩野容疑者は一人っ子。
萩野裕は「宇治学習塾小6女児殺害事件」を起こした直後、犯行現場から携帯電話で父親に連絡し「女の子を刺した」などと伝えていた事もわかっています。
犯行直後には携帯電話で110番する前に「女の子を刺した」と自分の父親に電話していたことも分かった。
事宇治学習塾小6女児殺害事件後、萩野裕の両親や家族は特に何のコメントも発表していません。
萩野裕の経歴① 同志社香里高校から学内推薦で同志社大学法学部へ進学
続けて、萩野裕の経歴についても見ていきます。
両親の異常に厳しい教育スタイルもあってか萩野裕は小・中学時代は成績優秀だったようです。
高校は大阪の私立「同志社香里高等学校」(現在の偏差値は63)に進学し、2001年4月に学内推薦で同志社大学法学部法律学科(現在の偏差値は60)に進んでいます。
萩野裕は同志社大学進学後、法学部で人気の高い「犯罪と刑罰」のゼミに入っています。また、京都府内の学習塾で塾講師のアルバイトを始めています。これは事件当時働いていた「京進」とは別の学習塾でした。
中学時代、優秀な成績で、同志社香里高から学内推薦で2001年4月に同志社大法学部に入学。すぐに「京進」と別の京都府内の学習塾でアルバイトを始めた。ゼミでは犯罪学が専門だった。
同志社大学に入学した頃から家族に対して暴力を振るい母親が救急搬送された事も
事件を報じた「新潮45」(2006年11月号)や当時の新聞記事などによると、同志社大学に入学した頃より萩野裕は家族に対して暴力を振るうようになり、母親が救急車で運ばれた事もあったという事です。
萩野裕の経歴② 2003年に強盗致傷容疑で逮捕され執行猶予付き有罪判決
同志社大学入学から2年後の2003年6月、萩野裕は同志社大学図書館で、女子学生の財布を盗み、それに気がついた警備員を突き飛ばすなどした強盗致傷容疑で逮捕されています。
萩野裕は動機を聞かれ「自分も窃盗被害にあったからやった」などと幼稚な説明をしていたようです。
萩野裕はこの逮捕により、同志社大学から1年半の停学処分を受けています。
03年6月、同大図書館にいた女子学生の財布を盗み、取り押さえようとした警備員を負傷させ、強盗致傷容疑で逮捕された。起訴の時点で窃盗と傷害の罪に切り替えられたが、学校の事情聴取では犯行の動機を「自分も窃盗の被害に遭ったから」と説明していた。
同年10月、1年半の停学処分に。
さらにその後、萩野裕はこの事件で懲役2年6ヶ月執行猶予3年の有罪判決を受けています。
また、萩野裕はこの逮捕の後の2003年9月に、被害者の女性に充てて謝罪の手紙を送っていました。
女性に手紙が届いたのは同年9月。その中で、「自分勝手で卑怯(ひきょう)で浅はかだった。今回つかまらなければ、ゆがんだ人間のままだったと思う」と自己を評したうえで、「留置場で深く反省し、しっかり償っていく覚悟です。申し訳なく、胸が詰まる」と反省の弁を述べている。そして「自分の利益を求めるのではなく、周りの幸せのため、努力し勉強し働いていく」と決意を述べ、「どんな困難や誘惑にも負けない強い人間になる」と宣言している。
萩野裕の経歴③ 逮捕や停学を隠して京進宇治神明校のアルバイト講師に
萩野裕は、強盗致傷容疑で逮捕されて執行猶予付きの有罪判決を受け、同志社大学も停学処分になったわずか1ヶ月後の2003年11月に事件や停学の事を隠して「京進」のアルバイト面接を受けて採用され、「京進 宇治神明校」のアルバイト講師として働き始めました。
萩野裕はそれから約2年後の2005年12月に「宇治学習塾小6女児殺害事件」を起こす事になりますが、塾生や保護者からの評判は「熱血で一生懸命な先生」、「優しいいい先生」などの良い評判がある一方で、「ロリコンっぽいところがあり、女子生徒の服装や髪型に異常に詳しい」、「手を握ったり体を触ったりしてきて気持ちが悪い」といった悪い評判も多く出ていたようです。
萩野裕の宇治学習塾小6女児殺害事件の経緯や現場の凄惨な状況
萩野裕の起こした「宇治学習塾小6女児殺害事件」の経緯やベテラン捜査員も思わず目を背けたほどという凄惨な事件現場の様子などについても見ていきます。
宇治学習塾小6女児殺害事件① 元々、萩野裕には小児性愛者的な言動があった
萩野裕は事件の約2年前の2003年11月に「京進 宇治神明校」でアルバイトの塾講師として働き始めました。
塾講師の仕事自体は真面目にこなしていたようですが、周囲は萩野裕の小児性愛者的な行動に気が付いていたという事です。
萩野裕は、塾に通う女子生徒の髪型や服装に異常に詳しく、ロリ系のアイドルやアニメにも強い興味を示していたそうです。気に入った女性生徒に対しては、「この問題わかるかな?〇〇ちゃん」などとしつこく声をかけ、手を握ったり、身体に触れたりし、授業が終わってからも気に入った女子を呼び出して、世間話をしながらさりげなくボディタッチをしていたそうです。
また、幼稚な言動もあったようで、黒板に書いた字が間違っている事を塾生に指摘され
ると、突如激昂して「ファイヤー!」と奇声を張り上げた事があったそうです。
一部の塾生からは「キモい」、「ちょっとおかしい人」という印象を持たれていたとの証言も事件後の報道で出ていました。
宇治学習塾小6女児殺害事件② ハラスメントを受け被害者が萩野裕の授業を拒否
「宇治学習塾小6女児殺害事件」の被害者の堀本紗也乃さん(事件当時12歳、小学6年生)は、2005年3月から「京進 宇治神明校」に通い始めました。
被害者の堀本紗也乃さんの国語の授業を担当したのが萩野裕で、当初は親しげに接しているように周囲からは見えていたようです。
ところが、同年5月11日の授業終了後、萩野裕は国語の個別指導をするとして堀本紗也乃さん1人だけを教室に残して約1時間20分にもわたって「学校は楽しいか?塾は楽しいか?お父さんは好きか?」などと質問を重ねました。
被害者の堀本紗也乃さんは「学校も塾も、お父さんも好き」と答ますが、萩野裕は「僕は心理カウンセラーの勉強をしているから紗也乃ちゃんが嘘をついているのはわかる」などと執拗に問い詰めるなどしたという事です。
その後、帰宅した堀本紗也乃さんは迎えに来た母親の顔を見るなり泣き出し、その夜には堀本紗也乃さんの両親から塾に「萩野先生に不安を感じる」と訴える電話がありました。
しかしその後の7月下旬以降も、萩野裕の堀本紗也乃さんに対する異常な行動は続けられ、個人面談の時に異常に顔を近づけてきたり、側によってきたりしたという事です。
堀本紗也乃さんの両親は塾側に何度も抗議し、京進宇治神明校の校長と堀本紗也乃さんの母親が面談し、同年10月には萩野裕と他の講師、堀本紗也乃さんの3人で話し合う場も設けられています。
しかし、萩野裕の行為は収まるどころかエスカレートしていき、同年11月21日にはついに堀本紗也乃さんが「もう国語の授業に出ない」と萩野裕の授業を拒否しました。すると萩野裕は堀本紗也乃さんを職員室奥へ連れ出し、「なんで?」などとしつこく問い詰めたそうです。
萩野裕と堀本紗也乃さんの関係は修復不可能となり、12月になってようやく堀本紗也乃さんは萩野裕の国語の授業の受講を取りやめる事が決定しています。
宇治学習塾小6女児殺害事件③ 一方的に恨みを募らせた萩野裕が計画的に犯行
堀本紗也乃さんに授業を拒否された萩野裕はそれを逆恨みして一方的に恨みを募らせたと見られています。
萩野裕は堀本紗也乃さんに殺意を抱き、事件から見て1週間前に包丁を購入し、事件直前にはハンマーも購入しています。また、教室内の様子を確認するためのカメラの主電源プラグも事前(前日9日の23時以降)に抜くなどの工作も行っていました。
事件が発生した2005年12月10日、「京進 宇治神明校」では午前9時から模擬試験が予定されていましたが、萩野裕は試験監督から外されていました。しかし、萩野裕は勝手に出勤し「国語の受験に関するアンケートをとりたい」と試験監督役の講師に申し出ました。
事件現場となったのは2階の106号教室で、室内には13名の生徒がいましたが萩野裕は午前8時55分頃に「国語のアンケートを取りたい」などと言い、堀本紗也乃さんを除く12人と試験監督の講師(事件当時22歳)を別の教室(校舎内で反対側に位置する101号室)に移動させました。
萩野裕は、106号室で堀本紗也乃さんと2人きりになった後、教室に内側から鍵をかけてすぐに襲いかかったと見られています。
宇治学習塾小6女児殺害事件④ 現場は切断された指が見つかる程の凄惨な状況
萩野裕は午前9時2分に携帯電話を使って自ら「子供を包丁で刺した」と110番しています。通報を受けた京都府警宇治署の署員と消防隊員3名が現場に到着。ここでようやく他の講師と事務員も事件に気がついています。
萩野裕は106号室に鍵をかけたまま立てこもっていましたが、「開けなさい」と言われた数十秒後にドアを開錠し、消防隊員と警察官が現場を確認しました。
萩野裕は、血だらけで携帯電話を手にしたまま無言で立っており、警察官に現行犯逮捕されています。
現場の奥には被害者の堀本紗也乃さんが血だらけの状態で仰向けに倒れておりすでに心肺停止の状態でした。近くには刃渡り17cmの血のついた出刃包丁と、同じ長さのもう1本の包丁、長さ30cmのハンマーも落ちていました。
また、事件後の一部報道によれば、現場はベテランの警察官でも目を背けるほど凄惨な状態で、被害者の堀本紗也乃さん周りには大量の血溜まりがだけ、切断された指が2本落ちていたという事です。また、堀本紗也乃さん首の左右にはほぼ同じ幅の傷があり、左から包丁が突き刺され頚動脈を切りそのまま右へ貫通していたとの情報も報じられています。
萩野裕の犯行動機は一方的で理不尽な恨み
萩野裕の犯行動機については、裁判で、検察側が「紗也乃さんの言動などから一方的に不信感と憎しみを募らせた」と指摘しています。
一方、萩野裕の弁護士らは、裁判後の記者会見で、萩野裕が「女児が剣を持って正面から突き上げてくる姿が頭に浮かぶようになった」などとし、「このままでは自分が乗っ取られてしまうと感じて殺害を決意した」などと話しているとして、「女児との関係の悪化は動機ではない」と検察側の指摘に反論し、精神病による妄想の末の犯行だと主張しました。
萩野裕の判決はわずか懲役15年であまりにも軽すぎるという声が多数
裁判では、検察側が無期懲役の判決を求刑した一方、弁護側は萩野裕の動機は被害者の堀本紗也乃さんとの関係悪化ではないと主張し、精神疾患による妄想の末の犯行と主張。事件当時、萩野裕は心神耗弱か心神喪失状態だったと主張して減刑または無罪を求め、精神鑑定も実施されています。
2007年3月、京都地裁は萩野裕が事件後に自ら110番している事から自首の成立を認め、また、萩野裕の完全責任能力を認める一方で「犯行時は精神病のような状態」などと指摘し、求刑より軽い懲役18年の実刑判決を言い渡しました。
一審判決を不服として双方が控訴し、控訴審でも弁護側が萩野裕の心神耗弱を主張したため、2008年8月に再度の精神鑑定が実施され、大阪高裁は萩野裕の心神耗弱状態を認定し、一審判決を破棄して減刑され懲役15年の実刑判決が言い渡されました。
2009年4月、検察側、弁護側ともに上告せず、懲役15年の判決が確定しています。
この判決に対しては、あまりにも軽すぎるという声が多く上がりました。
萩野裕の現在…既に出所している可能性があり
「宇治学習塾小6女児殺害事件」の犯人・萩野裕は2009年に懲役15年の判決が確定しています。
萩野裕は強盗致傷での逮捕の執行猶予期間中に「宇治学習塾小6女児殺害事件」を起こしているため、こちらの判決の懲役2年6ヶ月も合算され、懲役17年6ヶ月の服役が決定しています。
判決が確定した2009年4月からであれば2026年10月の出所予定という事になりますが、未決勾留期間が算入された可能性があるため、2024年7月の現在は既に出所して野に放たれている可能性があります。
出所している可能性がある萩野裕ですが、現在どこで何をしているのかについての情報が今のところ出ていません。
まとめ
今回は、2005年12月10日に京都府宇治市内の学習塾「京進 宇治神明校」で起きた、「宇治学習塾小6女児殺害事件」の犯人・萩野裕についてまとめてみました。
萩野裕は事件当時23歳の同志社大学4年生で、アルバイト講師として「京進 宇治神明校」で働いていましたが、塾生だった当時12歳の小学6年生の被害者・堀本紗也乃さんに一方的な恨みを募らせ、刃物で十数回も首や顔、頭などを突き刺して殺害しました。
萩野裕の生い立ちについては、以上に厳しい両親に育てられ、スナック菓子やテレビゲームは完全禁止、遊びに来た友人は追い返され、男女交際も禁止され、その抑圧からか中学生の頃から奇行が目立ち始め、大学進学後には家族に対して暴力を振るうようになった事などがわかっています。
萩野裕の経歴については、「同志社香里高校」から「同志社大学法学部」へと進学。同志社大学在学中、女子学生の財布を盗もうとし、それに気がついて抑止しようとして警備員に体当たりして怪我を負わせる事件を起こし、強盗致傷で逮捕され執行猶予付きの有罪判決を受けています。
しかし、萩野裕はこの前科を隠して京進の面接を受けて採用され約2年後に「宇治学習塾小6女児殺害事件」を起こしました。
萩野裕は、計画的に被害者の堀本紗也乃さんと教室で2人きりになる状況を作り、事前に用意していた刃物で滅多刺しにして殺害しました。現場は血の海のようになっており、切断された被害者の指が2本落ちていたとの情報も一部で報じられています。
萩野裕の犯行動機は、堀本紗也乃さんに執拗にハラスメントを働いた結果、授業を拒否された事を逆恨みしたというあまりにも身勝手なものでしたが、裁判では弁護側は妄想があったなどと精神耗弱や精神喪失を主張し減刑を求めました。
裁判では、検察側は無期懲役を求めましたが、大阪高裁は事件当時萩野裕が心神耗弱状態にあった事を認め懲役15年という判決を言い渡しています。
萩野裕は現在、既に刑期を終えて出所している可能性がありますが、どこで何をしているのかといった情報は現在の時点では出ていません。