昭和の時代の伝説的女優の1人、太地喜和子さんの生き様が話題です。
この記事では太地喜和子さんの若い頃の画像や経歴、身長やスタイル、大女優の隠し子説もある家族、華麗な彼氏遍歴や、結婚、死因となった事故や、葬儀にまつわるエピソードなどについてまとめました。
この記事の目次
- 太地喜和子のプロフィール
- 太地喜和子の若い頃の経歴や画像① 日活映画「花を喰う蟲」に主演
- 太地喜和子の若い頃の経歴や画像② 「藪の中の黒猫」で話題に
- 太地喜和子の若い頃の経歴や画像③ 「男はつらいよ」のマドンナ役
- 太地喜和子の若い頃の経歴や画像④ 「白い巨塔」で財前五郎の愛人役
- 太地喜和子の身長やスタイルは?
- 太地喜和子の家族について大女優の隠し子説も
- 太地喜和子の彼氏① 昭和のスター俳優・三國連太郎
- 太地喜和子の彼氏② 歌舞伎役者・18代目中村勘三郎
- 太地喜和子の彼氏③ 尾上菊五郎、志村けん、伊丹十三と交際の噂も
- 太地喜和子は俳優・秋野太作と短期間だけ結婚していた
- 太地喜和子の死因は事故による溺死
- 太地喜和子の葬儀について
- まとめ
太地喜和子のプロフィール
太地喜和子
別名義 :志村妙子(デビュー時の芸名)
生年月日:1943年12月2日
没年月日:1992年10月13日(享年48歳)
出身地 :東京都中野区
身長 :非公開
太地喜和子さんは主に、1960年代から1980年代にかけて活躍された伝説的な女優です。
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その妖艶さと清純さを合わせ持ったような特別な雰囲気で人気を集め、映画やドラマ、舞台に数多く出演しました。
太地喜和子さんはその奔放な男性関係や、その死に様でも話題を集めました。今回はこの太地喜和子さんについてまとめていきます。
太地喜和子の若い頃の経歴や画像① 日活映画「花を喰う蟲」に主演
太地喜和子さんの若い頃の活躍を画像と共に紹介していきます。
太地喜和子さんは1967年に劇団「文学座」に入団し、その年の日活映画「花を喰う蟲」の主演女優に抜擢されています。
太地喜和子さんはこの「花を喰う蟲」で、新人の若手女優とは思えない妖艶な演技を見せ、ベッドシーンも見事に演じ高い評価を得ました。
太地喜和子の若い頃の経歴や画像② 「藪の中の黒猫」で話題に
太地喜和子さんは、「花を喰う蟲」での演技が、日本におけるインディペンデント映画の先駆者として知られる新藤兼人監督に認められ、1968年の同監督作品「藪の中の黒猫」で物語の軸となる重要な役に抜擢されました。
太地喜和子さんはこの「藪の中の黒猫」でも一糸纏わぬ姿で大胆な艶シーンを演じ、また、2面性を持つ難しい役柄を見事に演じて話題になりました。
太地喜和子さんはこの作品をきっかけに人気を上げ、1969年に「弾痕」、1970年には「触角」、「無頼漢」、「裸の十九才」、1971年に「顔役」、「日本一のショック男」、「人間標的」、「告白的女優論」、1972年に、「新座頭市物語 折れた杖」、「喜劇 泥棒大家族 天下を盗る」など、当時の大作映画にって続けにメインキャストとして出演(ヒロイン役も多数含む)。
また、舞台女優としての格も上がり、「文学座」の看板女優だった杉村春子さんの後継者とも目されるようになります。
太地喜和子の若い頃の経歴や画像③ 「男はつらいよ」のマドンナ役
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一流女優となった太地喜和子さんは、1976年の「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」にマドンナの芸者のぼたん役として出演されています。
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山田洋次監督は「寅さんシリーズ最高の傑作」と太地喜和子さんの演技を絶賛されました。
太地喜和子さんはこの「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」での演技で、「キネマ旬報助演女優賞」、「第一回報知映画賞助演女優賞」に輝いています。
この年には、NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」にも出演。この作品も若い頃の太地喜和子さんの代表作の一つとなっています。
太地喜和子の若い頃の経歴や画像④ 「白い巨塔」で財前五郎の愛人役
太地喜和子さんはその後、1978年放送の名作ドラマ「白い巨塔」にも出演し、主役の1人財前五郎の愛人の花森ケイ子の役を演じています。
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この1978年版は「白い巨塔」シリーズの中でも特に人気が高く、シリーズごとに演技力と美貌を兼ね備えた女優が演じている花森ケイ子役の中でも、太地喜和子さんバージョンが一番好きという声も多く見られます。
田宮二郎版『白い巨塔』は、太地喜和子の花森ケイ子がそれはもう素晴らしくて。大人の女性の色気ってこれか〜と思ったもんだった。でも田宮二郎のアクの強さがあってこそ生きたのかも。この後の唐沢・村上・岡田財前は相手にされなさそうだ。 pic.twitter.com/Ih7LzHKR3C
— sail (@hysknttnkk) May 22, 2019
花森ケイ子はやっぱり太地喜和子じゃないとなあ…(白い巨塔美終わった人
— じょろきあ (@johnjohn5798) January 21, 2020
太地喜和子の身長やスタイルは?
太地喜和子さんの身長やスリーサイズなどのスタイルは非公開です。
身長もスタイルについても詳細に検証できそうな全身の画像が発見できないのですが、若い頃の太地喜和子さんについて、「取り立ててスタイルが良いわけではないが、全体のプロポーションがよく、グラマーというよりは全体的にスラリとして、まるで少年のような体つきををしていた」との仕事関係者からの証言が残っています。
太地喜和子の家族について大女優の隠し子説も
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太地喜和子さんは、土木局に勤務する父親の家族に生まれました。
太地喜和子さんは後に、自身の家族について、「自分はある事情から生後すぐに実母と引き離され、養父母の家族の元で育てられた」と話された事があります。
そして、太地喜和子さんは酒に酔うとよく「私の本当の母親は山田五十鈴なのよ」と話されていたとの逸話が残されています。山田五十鈴さんといえば戦前から戦後にかけて活躍された大女優ですが、結局この話の真偽は確認できなかったそうです。
太地喜和子の彼氏① 昭和のスター俳優・三國連太郎
太地喜和子さんは19歳の頃、妻子持ちで当時41歳だった昭和のスター俳優・三國連太郎さんと愛人関係でした。
当時、三國連太郎さんが立ち上げたプロダクションの自主制作映画「台風」に太地喜和子さんが出演したのをきっかけに2人は大恋愛に発展。
三國連太郎さんは太地喜和子さんの実家を訪れ、「10年経ったら倅が自立できるようになるので、結婚させてほしい」と太地喜和子さんの両親に挨拶されたという逸話が残っています。そのまま2人は同棲生活になりますが、それから3ヶ月後に「疲れた」という手紙を残して三國連太郎さんは太地喜和子さんの元を去ってしまいます。
後年、太地喜和子さんは三國連太郎さんと対談し、「何故あのとき自分の元を去ったのか?」との質問をぶつけました。三國連太郎さんはこの問いに「あなたの体にひれ伏すのが嫌だった」と答えられています。三國連太郎さんはさらに、「僕は臆病だから、のめり込む危険を避けたかったのです」と説明されています。
また、三國連太郎さんは1981年6月の「週刊読売」のインタビュー記事で「今までで惹かれた女優さんは太地喜和子さんだけ、僕は男に影響を与えられる女性が好きです」と話されていました。
太地喜和子の彼氏② 歌舞伎役者・18代目中村勘三郎
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太地喜和子さんは、歌舞伎俳優の故・18代目中村勘三郎さんとの恋もよく知られています。
太地喜和子さんは1975年に舞台「桜吹雪 日本の心中」に主演。当時19歳だった中村勘三郎(当時は中村勘九郎)さんがこの舞台を観劇に訪れました。舞台に感激した中村勘三郎さんはその翌日にも同じ舞台を観に行かれたそうです。
すると、それに気がついた大地喜和子さんは、最後の決めでのセリフ「女は桜、日本です」を最前列に座っていた中村勘三郎さんの目を見ながら言ってくれたのだそうです。
中村勘三郎さんは恥ずかしくなって終幕後に足早に立ち去ろうとしますが、太地喜和子さんは後ろからその手を掴むと「また観に来てくれたのね。すぐ化粧を落として行くから待っててちょうだいね。」と声をかけられたのでした。
これをきっかけに2人は酒を飲みながら演劇論について語り合うようになり、次第に男女の仲に発展します。
若い頃の中村勘三郎さんは、魅力的な大人の女性であった太地喜和子さんにのめり込み、その奔放な男性関係にも嫉妬するようになります。
交際から3年後、中村勘三郎さんの歌舞伎役者としての将来を心配した太地喜和子さんが自ら身を引く形で2人の恋は終焉を迎えています。
太地喜和子の彼氏③ 尾上菊五郎、志村けん、伊丹十三と交際の噂も
太地喜和子さんは恋多き女性だったようで、三国連太郎さんや中村勘三郎さんの他にも、l尾上菊五郎さん、志村けんさん、伊丹十三さん(いずれも故人)らとの恋愛が噂されました。
太地喜和子は俳優・秋野太作と短期間だけ結婚していた
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時系列は前後しますが、太地喜和子さんは、中村勘三郎さんと交際する前の1974年に「俳優座」で同期だった俳優の秋野太作さんと結婚されています。しかし、わずか2ヶ月で離婚しています。2人の離婚理由は明らかにされていません。
太地喜和子さんの結婚はこの1度きりで、その後は独身を貫かれています。
なお、秋野太作さんはその後、元宝塚女優の温碧蓮さんと結婚されています。
太地喜和子の死因は事故による溺死
太地喜和子さんは、1992年10月に48歳の若さで死去されています。太地喜和子さんの死因は不慮の自動車での転落事故でした。
太地喜和子さんは1992年10月、舞台「唐人お吉物語」の巡業で静岡県伊東市訪れていました。公演が終わった12日の晩、太地喜和子さんは男優2人を連れて街へと繰り出しました。
何軒か飲み屋を回った後、太地喜和子さん一行は「ランジェリースナック志づ江」という店を訪れ、一頻り酒を飲んだ後、海を見に、この店のママの車で港の方へと出かけました。
そして、その時にその車で海への転落事故を起こしたのです。同乗していた男優2人と、車を運転していたスナックのママは自力で脱出したものの、太地喜和子さんは脱出できずにそのまま溺死しました。
太地喜和子の葬儀について
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48歳という若さで急逝された太地喜和子さんでしたが、亡くなる約1年前に自身の葬儀を予言するような発言をされていました。
太地喜和子さんは「季刊サントリークォータリー」という雑誌の1991年36号で、作家の椎名誠さんと対談しているのですが、その中で太地喜和子さんは、自分の葬儀について考える事があると明かし、出かける前には「今日死ぬかもしれない」と考える事があると話されていました。
それから約1年後に太地喜和子さんは亡くなり、その葬儀は文学座の稽古場で営まれたそうです。棺の横には舞台で使用された三味線が並べられていたそうなのですが、葬儀に参列した俳優の勝新太郎さんは、寂しそうにその三味線をいつまでも弾いていたのだとか。
まとめ
今回は、1960年代から1980年代にかけて、妖艶さと清純さが同居したようなその他にいない魅力で人気を集めた伝説的女優・太地喜和子さんについてまとめてみました。
太地喜和子さんは若い頃、映画「花を喰う蟲」、「藪の中の黒猫」などで見せた若手離れした演技が高く評価され、一躍大人気女優となり「男はつらいよ」や「白い巨塔」にも出演しました。
太地喜和子さんの身長は非公開ですが、若い頃の太地喜和子さんのスタイルついての「取り立ててスタイルが良いわけではないが、全体のプロポーションがよく、グラマーというよりは全体的にスラリとして、まるで少年のような体つきををしていた」というコメントが残されています。
太地喜和子さんは奔放な男性関係でも知られ、彼氏遍歴は三國連太郎さんや中村勘三郎さんなど錚々たる顔ぶれでした。また、1度だけ結婚をされており、相手は俳優の秋野太作さんでしたが、わずか2ヶ月で離婚されています。
そのドラマティックな生き様が魅力だった太地喜和子さんでしたが、1992年10月に48歳の若さでこの世を去っています。死因は、車での海への転落事故による溺死でした。