大瀧詠一さんは「幸せな結末」で有名なミュージシャンで、2013年に亡くなり、りんごとの関係も話題です。
今回は大瀧詠一さんの経歴、結婚した嫁や子供(息子と娘)など家族、死因、自宅が聖地化している件や実家との縁を紹介します。
この記事の目次
- 大瀧詠一はJ-POP界に大きな影響を与えたミュージシャン
- 大瀧詠一が日本の音楽界に与えた影響
- 大瀧詠一は大のメディア嫌いだった
- 大瀧詠一の経歴① 歌が好きな母親と暮らした幼少期
- 大瀧詠一の経歴② 小学校~中学時代はアメリカンポップスにドハマり
- 大瀧詠一の経歴③ 高校は音楽が原因で退学に
- 大瀧詠一の経歴④ 大学受験に失敗、会社もすぐに辞めていた
- 大瀧詠一の経歴⑤ 「はっぴいえんど」の活動
- 大瀧詠一の経歴⑥ 低迷期からの脱却
- 大瀧詠一の家族① 結婚した嫁は静子さん
- 大瀧詠一の家族② 子供は息子と娘が1人ずつ
- 大瀧詠一の死因
- 大瀧詠一が亡くなった時の状況:自宅でりんごの皮をむいていた
- 大瀧詠一の自宅がある瑞穂町がファンの聖地に:実家に雰囲気が似てる説も
- まとめ
大瀧詠一はJ-POP界に大きな影響を与えたミュージシャン
大滝詠一のプロフィール
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大滝 詠一(おおたき えいいち)
本名: 大瀧榮一
生年月日: 1948年7月28日
没年月日: 2013年12月30日
出身地: 岩手県奥州市
大瀧詠一さんは、1969年にバンド「はっぴいえんど」を結成し、ギターとボーカルを担当。解散後はソロとして本格的に活動を開始します。
歌手活動の傍ら、太田裕美さん、松田聖子さん、森進一さん、薬師丸ひろ子さんなど、著名人に楽曲も提供しており、マルチな才能でJ-POP界を盛り上げてきました。
2013年に65歳の若さで急逝しましたが、日本の音楽界に大きな影響を与え続けており、令和になった現在もその楽曲は多くのファンに愛されています。
実家の先祖は仙台藩の武士
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大瀧詠一さんは岩手県出身です。
実家の先祖を辿ると、江戸時代の本家は農家で、後継ぎの長男以外は仙台藩の下級武士として、南部藩との藩境を警備することを生業としていました。
明治以降も、先祖代々そのまま岩手県で暮らしていたようです。
大瀧詠一が日本の音楽界に与えた影響
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長い歴史を持つJ-POPですが、大瀧詠一さんは、当時の音楽界では考えられなかった行動を取り、ミュージシャンの選択肢を増やすことに成功しました。
例えば、ミュージシャンが自らレーベルを立ち上げたり、音楽を提供した先でクレジットを入れたり、シングルにカラオケバージョンを入れたりなどが挙げられます。
これらは、現在では当たり前のことですが、大瀧詠一さんが先駆けだったんですね。
大瀧詠一は大のメディア嫌いだった
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大のメディア嫌いとして知られていた大瀧詠一さん。
若い頃に結成していた「はっぴいえんど」時代はテレビに出演したこともあったようですが、ソロになってからはほとんどメディアに登場していません。
これまでに出演したテレビ番組を調べたところ、1983年3月放送の「笑っていいとも!」での電話出演、1986年10月の「第6回日本作曲大賞」では音声コメントでの参加。
ただし、ラジオでは自身のレギュラー番組を持っていましたので、顔出しに抵抗があったのかもしれませんね。
テレビ出演は断わり続けていましたが、テレビで野球と相撲観戦をするのが大好きで、自宅にはビデオデッキを20台も保有していたそうです。
ドラマには一切興味がなかったようで、初めてまともに全て観たのは、1997年10月から3ヶ月間放送された、木村拓哉さんと松たか子さん主演の「ラブジェネレーション」とのこと。
このドラマは、大瀧詠一さんが12年ぶりに発表した楽曲「幸せな結末」がエンディング曲として起用されていました。
「幸せな結末」のレコーディングはギリギリまでかかり、ドラマの1回目のオンエア直前まで収録を行っていたそうで、事前の番宣では「恋するカレン」が流されていたそうです。
「ラブジェネレーション」は大ヒットドラマとなり、相乗効果で「幸せな結末」も大ヒット。
当時のオリコンで2週連続2位となり、これまでの売上枚数は97万枚の快挙となりました。
大瀧詠一の経歴① 歌が好きな母親と暮らした幼少期
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大瀧詠一さんの生い立ちについて紹介します。ミュージシャンとして大成した背景には、幼少期にあったと言われています。
母子家庭で育った
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大瀧詠一さんは岩手県奥州市で生まれ育ちました。本名は「菊池榮一」さんといいます。
「大瀧」は母親の旧姓だそうで、小学校の養護教諭だった母1人、子1人の母子家庭だったそうです。
母子家庭なのに、本名が母親の旧姓ではなく、おそらく父親の苗字であろう「菊池」なのは、あくまで推測ですが、両親は離婚ではなく死別だったのかもしれません。
母親は幼い大瀧詠一さんを職場に連れて出勤することも多く、大瀧詠一さんは職員室のアイドル的な存在だったそうで、職員室ではよく「めだかの学校」をリクエストされたといいます。
後年、この「めだかの学校」の作曲者・中田喜直さんの甥と仲良くなり、さらにその友人の細野晴臣さんとバンドを組むことになることを考えると、不思議な運命を感じますよね。
そんな幼少期の大瀧詠一さんは、歌うことが好きな母親と一緒に歌の練習をすることが日課で、音楽は物心つく前からずっと身近な存在だったようです。
大瀧詠一の経歴② 小学校~中学時代はアメリカンポップスにドハマり
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本格的に大瀧詠一さんが歌にハマったのは、小学校5年生の頃。
ラジオで流れたコニー・フランシスの楽曲を気に入り、母親にねだってレコードを買ってもらったそうで、擦り切れるまで聞き続けたといいます。
さらにのめり込むきっかけになったのは、短波経由の軍極東放送を聴いていた時に流れてきたエルヴィス・プレスリーの音楽でした。衝撃を受け、アッという間に虜になってしまったのです。
大瀧詠一さんは後に、自身の初アルバムのタイトルを「大瀧詠一」としているのですが、これはプレスリーのアルバムタイトルが「エルヴィス・プレスリー」だったからと明かしています。
アメリカンポップスに傾倒した大瀧詠一さんは日々ラジオを録音し、アメリカンヒットチャートを毎日記録するだけではなく、独自のランキングまで作って楽しんでいたそうです。
お小遣いはレコードに全振り
小学生でアメリカンポップスにハマった大瀧詠一さんは、中学生になるとますます音楽にのめり込みました。
中学校の修学旅行で東京に行った時には、皆がお土産を買っている中、大瀧詠一さんは日本橋のレコード屋に行き、旅用のお小遣いを全部使い果たしてしまったそう。
また、口を開けば音楽の話ばかりで、周囲から「変人」扱いをされていたのだといいます。
ただし、周囲から浮いた孤独な存在だったわけではなかったようです。
中学校3年生の時は、クラスメイトの前で「想い出のサンフランシスコ」をアカペラで歌ったところ、拍手喝采を受け、歌手になる自信をつけることができたといいます。
大瀧詠一の経歴③ 高校は音楽が原因で退学に
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1964年に地元の岩手県立花巻高校に入学した大瀧詠一さんでしたが、学校に支払うべき授業料を全てレコードに費やしてしまい、1年生で退学。翌年、岩手県立釜石南高校に編入しました。
この頃から友人にギターを借りて練習を重ね、上手く弾けずにイライラしてドラムにシフトしたこともありましたが、高校3年生頃にやっと納得のいく演奏ができるようになったといいます。
初めてのバンド結成も高校生の頃で、完全に音楽に全部のパワーを注いでいたようです。
大瀧詠一の経歴④ 大学受験に失敗、会社もすぐに辞めていた
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高校3年生の冬に上京し、大学受験をしますが、志望校に落ちて予備校生活となります。
しかし、いつものごとく学費をレコードに費やしてしまったので、諦めて就職しています。
小岩にある鉄工所で働き始め、3ヶ月経過した頃に会社の慰労会に参加した際、アカペラでビートルズの「ガール」を披露。
すると上司から「君はこんな場所にいてはいけない」としみじみと言ってくれたそうです。
その言葉に背中を押された大瀧詠一さんは、すぐに会社を辞め、同郷の友人とバンド活動を開始しました。
この頃に、バンドメンバーの1人でロックシンガーの布谷文夫さんと交流の深かった中田佳彦さんから、後に一緒にバンド活動をする細野晴臣さんを紹介してもらうことに。
前述の通り、この中田佳彦さんは大瀧詠一さんが幼少期に職員室で披露していた「めだかの学校」の作曲を手掛けた中田喜直さんの甥にあたる方です。
大瀧詠一の経歴⑤ 「はっぴいえんど」の活動
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若い頃に所属していたバンドの「はっぴいえんど」
大瀧詠一さんが、中田佳彦さんから細野晴臣を紹介してもらった丁度その頃、細野晴臣さんは友人の松本隆さんとバンド結成を控えていました。
そのため、2人から要請をされる形で大瀧詠一さんもバンドメンバーに加入し、1969年に「はっぴいえんど」が結成。
「はっぴいえんど」は、1969年から1972年までの約3年間活動したバンドで、リリースしたシングルは2枚のみ。
そして、解散後の1973年に最後のシングル「さよならアメリカさよならニッポン」をリリースしています。
解散理由は本人たちは明らかにしていませんが、グループに所属しながらソロ活動を始めたことで険悪になったとか、メンバーの結婚が相次ぎ、関係性が崩れたという説が浮上しています。
大瀧詠一の経歴⑥ 低迷期からの脱却
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はっぴいえんどが解散する少し前から、ソロ活動を開始した大瀧詠一さん。
グループ解散後は、新たにアイドルのプロデュース業とCMソングの制作なども手掛けるようになり、若手ミュージシャンとは思えない活躍を見せました。
この人気を受けて、1974年に自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立。
当時、ミュージシャンが自主的にレーベルを立ち上げるというケースが珍しいことも手伝い、さらに音楽業界から注目を集めました。
しかしその後、契約していた「エレックレコード」は事業縮小によって契約破棄。
「日本コロムビア」に移籍しましたが、人気が低迷し、1978年にはレコード会社との契約も解消されてしまい、ナイアガラ・レーベルは休業の危機に直面しました。
そんな苦しい最中だった1979年、太田裕美さんに提供した「さらばシベリア鉄道」がヒット。
さらに、1981年に自身のアルバム「A LONG VACATION」が売上を伸ばしたことで、次第に大瀧詠一さんは脚光を集めることに。
いつしか、元バンドメンバーの松本隆さんとタッグを組んで、アーティストへの楽曲提供を行うようになり、作曲家としてもプロデューサーとしても一流だと呼ばれるようになったのです。
大瀧詠一の家族① 結婚した嫁は静子さん
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ここからは、大瀧詠一さんのプライベートについて深掘りしていきます。
嫁の名前は静子さん
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大瀧詠一さんは1972年7月、当時看護師をしていた「静子」さんと結婚しました。
残念ながら、嫁とどのようにして出会い、プロポーズはどんな言葉だったかなどは明かされていないようです。
結婚したばかりの頃は、まだ「はっぴいえんど」として活動中で、その後の不遇の年月も嫁は見捨てることなく、大瀧詠一さんを支え続けたということになりますね。
大瀧詠一の家族② 子供は息子と娘が1人ずつ
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大瀧詠一さんと嫁の静子さんの間には、息子が1人、娘が1人誕生しています。2人の子供は、どのような人物なのか調査しました。
息子は大瀧詞巧
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大瀧詠一さんの息子の名前は「大瀧詞巧(しこう)」さんといいます。
1975年発売のアルバム「NIAGARA MOON」の中の楽曲「三文ソング」には、「サッチモォ、アハッ」という子供の声が入っているのですが、当時2歳だった大瀧詞巧さんの声なんです。
大瀧詠一さんは若い頃から住み続けていた東京都西多摩郡の自宅を改造し、レコーディングができるようにしていましたから、もしかしたら偶然入ってしまったのかもしれません。
けれど、そのままリリースするところが微笑ましいですよね。
そんな大瀧詞巧さんは現在、大瀧詠一さんの原盤管理に携わっていることが判明しています。
娘婿は坂口修
大瀧詠一さんの娘については、名前や年齢、顔写真など一切情報がありません。
ただ、娘は既に結婚していて、旦那は音楽プロデューサーの坂口修さんです。大瀧詠一さんから見ると、坂口修さんは娘婿という関係になりますね。
大瀧詠一さんの死去後の2014年、坂口修さんはベストアルバム「Best Always」を息子の大瀧詞巧さんと共に手掛けています。
大瀧詠一の死因
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大瀧詠一さんの訃報は2017年に突然訪れ、多くのファンから悲しみの声が寄せられました。
ここでは、死因を調査しました。
死因は解離性動脈りゅう
大瀧詠一さんが死去したのは2013年12月30日、死因は解離性動脈りゅうでした。
大動脈解離とは、何らかの原因で、大動脈を構成する内膜・中膜・外膜のうち、内膜に裂け目ができ、血液が中膜に入り込んで大動脈が割けてしまう病気です。
この病を発症すると、突然胸に激痛が走り、ショック状態に陥る人も少なくありません。
大瀧詠一さんは亡くなる1週間前に、「風邪をひいた」と2日程寝込んでいたそうです。
ただ、実際には風邪症状は見られず、「足腰に力が入らない」、「脳が疲れた」と訴えていたといいます。
嫁の静子さんは病院を受診するよう勧めましたが、アルバム制作に多忙で「アルバム発売の3月までは、どこにも行けないし病院に行く時間ももったいない」と拒否されてしまったそうです。
大瀧詠一さんは、亡くなる直前まで普通に仕事をしていましたが、夕方に自宅で突然発作を起こして死去しました。
大瀧詠一が亡くなった時の状況:自宅でりんごの皮をむいていた
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亡くなる当日である2013年12月30日は、大瀧詠一さんは午後5時頃にスタジオから帰宅したそうです。
そして、新聞を読み終えると「りんごでも食べようかな」と、自身でりんごの皮をむき始めました。
すると突然、大瀧詠一さんは「ママ、ありがとう!」と大声で叫んだそうで、静子さんは驚いて大瀧詠一さんを見ると、その時はすでに椅子にもたれてグッタリしていたのです。
すぐに救急車の手配をして、以前看護師だった経験がある静子さんは待っている間に心臓マッサージをして蘇生を試みましたが、大瀧詠一さんはそのまま帰らぬ人になりました。
翌年3月に開催されたお別れ会では、大瀧詠一さんの最期の言葉「ありがとう」について「主人を見守って下さった方々にお礼を述べて欲しいということだと思う」と静子さんは語りました。
大瀧詠一の自宅がある瑞穂町がファンの聖地に:実家に雰囲気が似てる説も
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大瀧詠一さんの死去後、大瀧詠一さんが亡くなるまで住んでいた自宅がある、東京都西多摩郡瑞穂町を「聖地」として訪れるファンが多いようです。
瑞穂町とはどのような場所なのか、大瀧詠一さんがなぜここに住んでいたのか、その理由を紹介します。
大瀧詠一ライブラリー
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瑞穂町図書館に設置された大瀧詠一ライブラリー
大瀧詠一さんが暮らしていた東京都西多摩郡瑞穂町は、新宿駅から1時間15分程離れた郊外に位置しています。
最寄りの駅はJR八高線の箱根ヶ崎駅で、東京都でありながら人口密度が低く、狭山茶やシクラメンの名産地として知られていて、どこかのどかな雰囲気が特徴です。
大瀧詠一さんが住んでいた自宅の傍には横田基地があることから、今でも元・米軍住宅が残っていて、大瀧詠一さんも、元米軍ハウスを自宅兼スタジオにして音楽活動に取り組んでいました。
瑞穂町の図書館では、大瀧詠一さん死去のニュースを受けて、追悼コーナーを設置したところ、次々にファンが訪れるように。
2020年に図書館は増築改築を行い、2022年3月にリニューアルオープン。大瀧詠一さんコーナーは、「大瀧詠一ライブラリー」として生まれ変わりました。
今では大瀧詠一ライブラリーを目当てに、日本全国はもちろん、海外からもファンが訪れ、聖地になっています。
そして、同じく瑞穂町に住む大瀧詠一さんの熱烈なファンの1人である栗原勉さんが「大瀧詠一さんを語る会」を発足。
また、郷土資料館では、2年おきに大瀧詠一さんのグッズを飾った特別展が開かれているそうです。
瑞穂町を自宅に選んだのは実家の関係?
大瀧詠一さんは、1973年に瑞穂町に移り住んでいます。
一時期こそ低迷期があったものの、それ以外は売れっ子ミュージシャンだったので、都内一等地で暮らしていてもおかしくありません。
「大瀧詠一さんを語る会」を発足した栗原勉さんは、訪れたファンから「どうして瑞穂町に住んだのでしょうか?」と聞かれることが多いそうです。
同じ疑問を感じていた栗原勉さんは、大瀧詠一さんの死後、大瀧詠一さんの実家がある町を訪れて、その理由にピンときたといいます。
それは、瑞穂町と故郷の雰囲気がとても似ているということでした。
大瀧詠一さんは18歳で岩手県から単身上京しており、その後に出会った「はっぴいえんど」のメンバーはみんな都会育ち。
栗原勉さんは、「ふるさとの雰囲気を感じることができる町を選んだ可能性がある」とコメントしています。
まとめ
出典:https://www.amazon.co.jp/
大瀧詠一さんは、「はっぴいえんど」のメンバーとして活動後、ソロ活動を本格化。自身の代表作品とも言える「幸せな結末」は97万枚のヒットを記録しています。
数々の有名アーティストへ楽曲の提供を行ったり、レーベルを自ら主導で設立したり、カラオケバージョンのCDを作るなど、日本の音楽業界に多くの影響を与えました。
プライベートでは、嫁の静子さんと1972年に結婚し、息子1人・娘1人が誕生。
子供たちは一般人なので詳しい情報は判明していないものの、息子は原盤管理やベストアルバムの選定を担っているそうです。
まだまだこれからという2013年12月30日、大瀧詠一さんは65歳の若さで死去。死因は「解離性動脈りゅう」だったことが発表されました。
現在、自宅が所在する瑞穂町に設営された「大瀧詠一ライブラリー」には、ファンが多数訪れる聖地になっています。
これからも大瀧詠一さんがこの世に送り出した名曲たちは、時を超えて多くの人に愛され続けることでしょう。ご冥福をお祈りします。