「スターどっきり(秘)報告」で知られる小野ヤスシさんですが、実は元ドリフターズです。
今回は小野ヤスシさんの経歴、安倍里葎子さんとの不倫や結婚した嫁と息子・娘、死亡した現在や死因、晩年や最後の仕事、告別式をまとめました。
この記事の目次
小野ヤスシはスターどっきり(秘)報告のキャップ
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小野ヤスシ
生年月日:1940年2月11日
没年月日:2012年6月28日
出身:鳥取県境港市
身長:178cm
血液型:AB型
活動:タレント、コメディアン
小野ヤスシさんは、「スターどっきり(秘)報告」や「11PM」などのテレビ番組で活躍したタレント・司会です。
また、俳優として映画やドラマにコミカルな役で出演することもありました。
2010年にガンを公表しましたが、最後まで仕事を続け、2012年に亡くなりました。
小野ヤスシの生い立ちや経歴
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小野ヤスシの生い立ち
小野ヤスシさんは、実は北朝鮮出身です。しかし、「北朝鮮人」というわけではありません。
まずは、家族構成から見ていきましょう。
・母親
・祖母
・兄
・姉
・小野ヤスシ
小野ヤスシさんが生まれたのは、当時は日本統治下だった朝鮮半島の元山市(ウォンサン=現在の北朝鮮領)です。
父親が元山市で船員学校をやっていた関係で、日本統治下の北朝鮮領に住んでいました。
そして、終戦後に母親の実家がある鳥取県境港市に引き上げてきました。
戦後、主人がまだおしゃべりを覚えたころに引き揚げたそうです。家族を連れての避難は命がけ。避難する際、お父様は主人を残すか、おばあちゃんを残すかという辛い選択に迫られたそうです。結局、おばあちゃんを残し、一家は引き揚げ船に乗って京都・舞鶴港に着きました。後日、おばあちゃんも帰国できたそうですよ
幼少期はかなり苦労されたようですね。
その後はそのまま、鳥取県境港市で成長し、鳥取県立境高校を卒業して、東京の成城大学文芸学部に進学しました。
しかし、大学は卒業することなく、中退しています。
芸能界での経歴
小野ヤスシさんは「ザ・ドリフターズ」の初期メンバーでしたが、脱退してから、1964年にコミックバンドの「ドンキーカルテット」を結成してリーダーとなります。
ドンキーカルテットではボーカル・ギター兼ベースを担当し、グレッチ・ギター演奏の腕前はかなりのものでした。
テレビや演芸、公演などで活躍し、人気を獲得しますが、演芸ブームが去った1970年に解散しました。
ドンキーカルテットを解散した後は、タレントとなり、次のような番組に出演していました。
・11PM
・なるほど!ザ・ワールド
・クイズ年の差なんて
・クイズところ変われば
・クイズとっても偉人伝
・ゲーム・史上最大の作戦
・輝けTVKカラオケグランプリ
・ぶらり途中下車の旅
リポーターや司会として出演することが多く、特にスタードッキリマル秘報告では、10年以上司会を続けて、番組内では「キャップ」と呼ばれていました。
そんな小野ヤスシさんは、「鳥取県が生んだ自称スーパースター」と名乗っていました。
2000年以降は年齢的なこともあり、テレビへの出演は少なくなっていましたが、青汁のPR番組の司会や、ドリフのメンバーとコミックバンドを結成して活動を続けていました。
小野ヤスシのドリフターズ脱退はいかりや長介との確執?
小野ヤスシさんが、伝説のコントグループ「ザ・ドリフターズ」のメンバーだったことを知っていますか?
ドリフターズのメンバーと言えば…
・加藤茶
・仲本工事
・高木ブー
・志村けん
小野ヤスシはドリフターズ初期メンバー
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実は「ザ・ドリフターズ」は初期と後期ではメンバーが全く変わっています。
結成は1956年ですが、現在知られているようなコントグループになったのは1966年のことで、上記の5人にメンバーが固定されたのは、志村けんさんが加入した1974年でした。
「ザ・ドリフターズ」はまるで、現在の「モーニング娘。」とかAKBグループみたいですね。
小野ヤスシさんがドリフターズにいたのは、コントグループになる前のことです。初期のドリフターズはバンドグループだったんです。
小野ヤスシさんは、1959年の夏に「井上ひろしとドリフターズ」に加入しています。
その後、メンバーを変えたり、バンドの方向性を変えたりしながら、いかりや長介(当時の碇矢長一)や加藤茶(当時の加藤英文)が加入して、コミックバンドとして活動していました。
いかりや長介に反発して脱退
小野ヤスシさんは1964年にドリフターズを脱退しています。ドリフターズ脱退の理由は、いかりや長介さんへの反発と言われています。
1963年ごろからドリフターズのリーダーはいかりや長介さんになり、練習量が一気に増えました。
コミックバンドでしたので、コントの練習もかなりやったようで、ドリフターズはいかりや長介のワンマン体制になっていきます。
小野ヤスシさんやほかのメンバー(吉田、飯塚、猪熊)はコントの練習に身が入らず、いかりや長介さんはそれを見て「やる気があるのか!お前らなんか辞めちまえ!」と叱責しました。
いかりやさんの言葉を聞いた小野ヤスシさん達は、「それなら、辞めさせてもらいます」と脱退を決めたとのことです。
いかりやさんが「オレが一生懸命に考えてやっているのにヤル気ねえのか。辞めちまえ」と叱咤した。すると小野さんは「では、お言葉に従って辞めます」と、他の3人(ジャイアント吉田、飯塚文男さん、猪熊虎五郎さん)と脱退を決めた。いかりやさんは「自分が辞めるから留まってくれ」と説得したが、小野さんにも首を縦に振れない理由があった。
小野さんはすでにいかりや長介さんに不満を持っていたようで、脱退する前から一緒に脱退することになったメンバーと「ドンキーカルテット」を組み、仕事も入れていたとのことです。
そんな小野ヤスシさんは、脱退後も加藤茶さんらとはかなり良好な関係を保っていました。
小野ヤスシは安倍里葎子との不倫でも話題に
安倍里葎子は「今夜は離さない」の歌手
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安倍里葎子
生年月日:1948年10月7日
出身:北海道札幌市
所属:オフィス里葎子
血液型:A型
活動:歌手
安倍里葎子さんは北海道札幌市出身の歌手です。
「よこはま・たそがれ」「瀬戸の花嫁」などの作曲で知られる、作曲家の平尾昌晃さんにスカウトされて、1970年に歌手デビューしました。
デビュー曲「愛のきずな」がヒットして、日本レコード大賞新人賞を受賞しましたが、それ以降は低迷期が続きます。
1983年に橋幸夫さんとのデュエット「今夜は離さない」の相手役オーディションに合格し、ようやくヒット曲に恵まれました。
セクシー&色気がある歌手として、「デュエットの女王」と呼ばれています。
芸名をよく変えていて、安倍律子→安倍理津子→安倍里葎子→安倍理津子と変遷しています。2021年時点での芸名は、「安倍理津子」ですね。
安倍里葎子との不倫がきっかけで離婚?
小野ヤスシさんと安倍里葎子さんは、1974年に不倫騒動が起こりました。当時の小野ヤスシさんはすでに結婚していたんです。
2017年に新曲の発表会では、安倍里葎子さんは小野ヤスシさんとの不倫騒動を次のように振り返っています。
「お付き合いしていたのは本当です。結婚も考えてました」と改めて告白。「お付き合いを始めた当時、小野さんはすでに奥様と別居(その後、離婚)していたのですが、『安倍が原因で別居した』とずいぶん書かれました」と苦笑いしながら振り返った。
40年以上前のことですので、不倫関係にあったことははっきりと認めていますね。
ただ、「すでに嫁と別居していたから」というのは、小野ヤスシさんの嫁からすると、納得できないですよね。別居していても、離婚していないのですから。
「別居しているから不倫をしても良い」とはなりません。安倍里葎子さんとの不倫が、離婚の決定打になった可能性は十分に考えられます。
安倍里葎子とは結婚しなかった
安倍里葎子さんは、上記のコメントからわかるように「結婚も考えていた」としています。
小野ヤスシさんは不倫を始めた時にはすでに別居していて、後に離婚していますから、そのまま2人は結婚してもおかしくはありません。
でも、小野ヤスシさんと安倍里葎子さんは結婚することはありませんでした。なお、安倍里葎子さんは生涯独身を通しています。
小野ヤスシの結婚と嫁について
小野ヤスシさんが結婚した嫁は芳子さんです。
芳子さんは2013年時点で55歳、小野ヤスシさんは2012年で72歳でしたから、18歳年下の奥様ですね。
芳子さんは一般人ですので、きちんとした写真はありませんが、小野ヤスシさんのお葬式の時の写真がありました。
小野ヤスシさんの遺影を持っている女性が嫁の芳子さんです。当時54歳ですが、50代とは思えないほどきれいな女性ですね。
お葬式では次のように語っています。
「35年間、主人に見守られ、主人に愛され、本当に幸せでした。息子と娘と手を取り合って、主人に頂いた大きな愛を胸に、強く生きていきます」
「35年間見守られた」ということは、35年前に結婚したということだと思います。お葬式は2012年でしたので、1977年ごろに結婚したと思われます。
小野ヤスシは離婚歴あり
さて、小野ヤスシさんは安倍里葎子さんと不倫をして、別居中の奥様と離婚しています。
安倍里葎子さんと不倫が発覚したのは1974年のことですから、嫁の芳子さんとは再婚であり、不倫時の奥様と芳子さんは別人であることがわかります。
小野ヤスシさんはもともと結婚していたけれど、安倍里葎子さんと不倫をして離婚することになり、その2~3年後に芳子さんと結婚したようです。
この頃の小野ヤスシさんの女性関係はかなり派手だったんですね。
仕事がうまくいっている30代半ばの男性なら、モテるのは当然かもしれませんね。
小野ヤスシの息子や娘とは
小野ヤスシさんには息子と娘が1人ずついます。
・長女:小野菜々美さん
息子の小野泰輔さんは、お葬式で父親の小野ヤスシさんのことを次のように語っています。
「父は全てにおいて天才でした。大好きな仕事も、プライベートも、愛する家族の前でも、天才でした」
お葬式の写真を見る限り、息子さんも娘さんも、小野ヤスシさんよりも嫁の芳子さんに似ていますね。特に、娘さんは母親そっくりです。
小野ヤスシは現在死亡!死因は腎盂がん
小野ヤスシさんは現在は故人になっています。2012年に亡くなりました。死因は腎盂がんです。
2010年3月の芸能生活50周年記念パーティーで、腎盂腫瘍のために2010年に右の腎臓を全摘出したことを公表しています。
その後も治療を続けていましたが、2012年6月28日に腎盂がんで亡くなりました。
小野ヤスシの晩年と最後の仕事
抗がん剤で苦しんだ
小野ヤスシさんの晩年は、抗がん剤などのがん治療でかなり苦んだようです。
嫁の芳子さんが葬儀の時に苦しい治療の様子を語りました。
「人に弱みを見せない主人ですから、皆様に症状は伝えていませんでしたが、12時間に及ぶ大手術や17クールに及ぶ抗がん剤の強い副作用で、本当に大変でございました」
「12時間の手術」というのは、おそらく右の腎臓を摘出した時のものでしょう。そして、抗がん剤治療を17クールというのはかなり大変そうですね。
最後の仕事は加藤茶の披露宴
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2012年6月28日、亡くなった小野ヤスシさんの最後の仕事は、加藤茶さんの披露宴の司会でした。
加藤茶さんと小野ヤスシさんは盟友でした。
加藤茶さんと嫁の加藤綾菜さんの初デートには、小野ヤスシさんが綾菜さんの「品定め」をするために加藤茶さんに付き添ったというエピソードもあるほどです。
綾菜さんによると、初デートどころか、いつもデートには小野ヤスシさんがいたそうです。
2人の披露宴は2012年3月1日でした。小野ヤスシさんは、この時かなり体調が悪く、歩くことすらままならない状態で、移動には車いすを使っていました。
しかし、披露宴会場に入ると、自分の足で歩いたとのことです。
加藤茶さんと長年の親友で、2人の初デートから見守っていた小野ヤスシさんは、披露宴の司会をぜひともやりたかったのでしょう。
披露宴は3時間にも及びました。健康な人でも3時間の司会なんて疲れてしまいますが、末期がんで体調が非常に悪い小野ヤスシさんは見事に司会を務めました。
そして、控室で加藤茶さんと一緒に抱き合って涙を流したとのこと。
体調は悪くても仕事はきっちりやり遂げる、小野ヤスシさんのプロ根性は本当にカッコいいですね。
小野ヤスシの告別式はキリスト教式で行われた
小野ヤスシさんは2012年6月28日に亡くなりました。そして7月2日に通夜、7月3日に告別式が営まれました。
生前の小野ヤスシさんの希望で音楽葬でした。
また、小野ヤスシさんはクリスチャンだったため、キリスト教式の通夜・告別式となりました。
小野さんは、日本聖公会という教派のクリスチャンで、バルトロマイという洗礼名も持っていた。’64年のドリフターズを脱退後、ドンキーカルテット結成に向けて動いていた矢先に、出会った神父に感激し入信したそうだ。そのため小野家は全員がクリスチャンで、たまの週末には一緒に近所の協会へ礼拝に通っていたという。
洗礼名が「バイルトロマイ」なんて、ちょっとカッコいいですね。
告別式には西郷輝彦さん、清水アキラさん、ジャイアント吉田さん、高木ブーさん、仲本工事さん、ミッキー・カーチスさん、松崎しげるさん、多岐川華子さんなど500人が参列。
弔辞は加藤茶さん、左とん平さん、平尾昌晃さんが読んでいます。
出棺の時には、小野さんが大好きだったエルヴィス・プレスリーの楽曲「Help Me Make It Through the Night」が流れました。
小野ヤスシのまとめ
小野ヤスシさんの生い立ちや経歴、ザ・ドリフターズの脱退理由、安倍里葎子さんとの不倫、嫁や子供(息子・娘)、死去した現在と死因、晩年や最後の仕事、告別式などをまとめました。
ザ・ドリフターズを脱退せずにそのまま残っていたら、もしかしたらお笑いの歴史も変わっていたかもしれませんね。
また、テレビでに見せていた明るいキャラクターとは裏腹に、苦しい闘病生活を送っていたことを奥様が告別式で明かされています。
小野ヤスシさんのご冥福をお祈りいたします。