ナンシー関さんは世界初の消しゴム版画家であり、鋭い切り口のコラムニストでした。
ナンシー関さんのプロフィールや経歴、若い頃の松本人志さんとの対談、名言集、結婚の有無や体重、タクシー内での病気・死去や死因、死の真相などをまとめました。
この記事の目次
ナンシー関とは消しゴム版画家&コラムニスト
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ナンシー関
生年月日:1962年7月7日
没年月日:2002年6月12日
出身:青森県青森市
職業:消しゴム版画家、コラムニスト
ナンシー関さんは消しゴム版画家やコラムニストとして活躍していた女性です。世界初の消しゴム版画家であり、その素朴な絵柄と一言でそのモデルの人物を根幹・心根を言い表すセンスで、一躍人気となりました。
また、かなりのテレビウォッチャーとして知られていて、「噂の真相(のちの顔面至上主義)」でテレビコラムを連載し、軽妙で辛口で、シニカルで辛辣な切り口・語り口のコラムは読者の心をつかみ、多くのファンに愛されていました。自分も批評されているのに、芸能人にもナンシー関のファンは非常に多かったです。
辛口でシニカルなのに多くのファンを生んだ理由には次の2つがあると推測できます。
・本質をズバッと突いていて、否定や反論をする余地がない
ナンシー関さんは天才と言われた消しゴム版画家・コラムニストだったのです。
ナンシー関の生い立ち
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芸能人・有名人の批評・批判をすることが多かったナンシー関さん。一見すると悪口ともとられかねないものも多いので、「実は育ちが悪いんじゃない?」と思われることも多いですが、そんなことはありません。きちんとしたご家庭の育ちなんです。
ナンシー関さんは1962年に青森県青森市で生まれます。実家はガラス店・食堂を営んでいて、父親はプロボクサーのレパード玉熊の後援会会長を務めていました。ナンシーさんは三人姉弟の長女で、2歳年下の妹と7歳下の弟がいました。
・小学校:青森市立堤小学校
・中学校:青森市立浦町中学校
・高校:青森明の星高校
- 幼稚園と高校はミッション系のところですね。図工・美術の成績は小学生時代から優秀で、小学4年生の時には、東奥児童美術展・図画の部で入選しています。
高校に入ると、サブカル系に興味を持ち、ラジオにはがき職人としてはがきを送ったりしていました。大学受験に挑戦しますが失敗し、早稲田予備校に通って浪人するために、ナンシー関は上京しました。
ナンシー関の経歴
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デビューと消しゴム版画家として
ナンシー関さんは東京で1年間浪人した後、1982年に法政大学第二文学部日本文学科に入学しました。また、広告批評主宰の「広告学校」にも入学します。しかし、大学にはほとんど行かなくなり、広告学校も紹介してくれるわけではないとわかったため、足が遠のくようになりました。
簡単なバイトをしながら、親の仕送りでテレビを見る生活を送っていましたが、高校生の頃に流行った消しゴム版画を再び製作するようになります。そして、広告学校で知り合った友達の手帳に、消しゴム版画を押すようになります。
そして、その版画を広告学校で知り合った友人の手帳に押していたら、その友人の彼氏の目に留まります。友人の彼氏がコラムニストの「えのきどいちろう」だったのです。
それが縁で、ナンシー関さんはライター事務所「シュワッチ」に籍を置き、新人編集者のいとうせいこうを紹介され、「ナンシー関」というペンネームをつけられました。
1985年3月の「ホットドッグ・プレス」でナンシー関はデビューします。萩原健太のコラムに消しゴム版画をイラストとして掲載されたのです。その後もコラムの挿絵・イラストとしてナンシー関の消しゴム版画は使われるようになりました。
コラムニストとして
1988年に「月刊カドカワ」6月号から、「テレビ目抜き通り」というテレビコラムを連載するようになります。この時、ナンシー関の「テレビコラム+消しゴム版画」という形が出来上がります。
そして、1990年に「噂の真相」の連載がスタートしました。噂の真相は、「ナンシー関のチャンネルオフ」→「迷宮の花園」→「顔面至上主義」とタイトルを変更しながら、亡くなるまでつ連載を続けていました。
1990年前後にはテレビ出演することもありましたが、1993年を最後にテレビ出演はやめています。
その後、たくさんの連載を抱える人気コラムニストとして、たくさんの本を出版しています。
・「耳」シリーズ(週刊朝日の連載をまとめたもの)
・「テレビ消灯時間」シリーズ(週刊文春の連載をまとめたもの)
このほかに消しゴム版画集や対談集なども出版されていて、「何」シリーズは合計10冊で発行部数30万部を記録しています。
ナンシー関は若い頃に松本人志に認められた天才
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ナンシー関は若い頃に松本人志に認められた天才です。ナンシー関は1994年に雑誌の「CREA」でダウンタウンの松本人志さんと対談しています。
この対談で松本人志さんは次のように話していました。
この言葉から、松本人志がナンシー関を認めたということが分かります。
当時の松本人志さんは「ダウンタウンのごっつええ感じ」が大人気番組となり、週刊朝日でのちに「遺書」・「松本」の2冊が出版されるエッセイを連載していた時期です。「遺書」と「松本は2冊で合計450万部の超大ヒットした本です。
この時の松本人志さんは今では考えられないほどバリバリに尖っていた時期です。「遺書」を読めばわかりますが、当時の松本人志さんは次にようなことを遺書で言っていました。
・映画は撮りません
・結婚することで何か得するの?
・ガキが出来たらそれこそ最悪やで
この時の松本人志さんにナンシー関さんは、「お笑いの批評がきちんとできる」と認められているんです。ある意味、松本人志が唯一認めた女。天才・松本人志が認めた天才コラムニストと言えるのではないでしょうか?
ナンシー関さんはその視点や切り取り方などが天才的と言われていますが、この松本人志も認めたという事実が加わると、「天才」という評価に信ぴょう性が生まれますね。
ナンシー関さんはこの松本人志さんとの対談で、松本人志さんが「お笑いの批評をきちんとできるのは、ナンシーさんとみうらじゅんのふたり」と言われたことで、テレビ出演者・芸能人もナンシー関さんのことを認める風潮が生まれたと言われています。
「松本人志が認めれば、ナンシー関の批評も受け入れられる」なんて、当時の松本人志さんの影響力がいかにすごいものだったかが分かります。そしてその松本人志に認められたナンシー関が天才だったということも間違いないでしょう。
ナンシー関は結婚していない
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ナンシー関さんは39歳で亡くなっていますが、結婚はしていたのでしょうか?わかっている限り、ナンシー関さんは結婚していません。結婚歴もありませんので、生涯独身でした。
結婚についてはさほど憧れを抱いていなかったのかもしれません。なぜなら、宅麻伸さんと各近くさんの結婚式について、次のように批評しているからです。
1995年ごろからずっと一人暮らしだったようです。
ナンシー関の体重は?
ナンシー関さんはぽっちゃり体型がトレードマークとなっていますが、小学校入学直後からブクブクと太りだしたとのことです。
また、仕事が忙しくなると、太ってきていたようで、いとうせいこうさんいわく、「最初小結だったのが、最後の方は横綱ぐらいになっていた」くらいだったそうです。そのため、1990年代後半からは、少し歩くだけで息切れしていて、20~30mおきに電柱につかまって休んだとのこと。
では、体重はどのくらいなのか?それは本人もわからなかったそうです。体重は高校以来測ったことがないとのことですので、体重は不明です。
身長173cmの松本人志さんと並んだところを見ると、ナンシー関さんの身長は155cmくらいです。それでこの体型だとすると、体重は90kg前後と推測できます。
ナンシー関はタクシーの中で死去
ナンシー関さんは2002年6月11日の夜、友人と東京の中目黒の飲食店で新作の餃子を食べた後、夜10時ごろに1人でタクシーに乗って、祐天寺の自分のマンションに帰宅しようとしました。
そのタクシーの中で、ナンシー関さんは意識を失います。タクシーの運転手がナンシー関さんの異変に気付き、駅前の交番に駆けこんで、救急搬送を依頼しました。近くにある東京医療センターに搬送されましたが、翌12日の0時47分に死亡が確認されています。39歳の若さでした。
ナンシー関の死因は虚血性心不全…死の真相は「不摂生」
ナンシー関さんは行政解剖の結果、死因は虚血性心不全であることが判明しました。つまり、心筋梗塞ですね。
なぜ、39歳の若さで虚血性心不全になったのか?ナンシー関さんの死の真相には何かあるのでしょうか?ナンシー関さんの死の真相は、「不摂生」です。
ナンシー関さんは、次のような生活・状態をしていました。
・極度の運動不足
・肥満
・ストレスは飲み食いで発散
・体重が増加傾向
・体重は高校以来測っていない
ナンシー関さんは命をすり減らしながら、名言・作品を残していたのかもしれません。マツコ・デラックスさんも、ナンシー関さんの書籍の帯で「アタシ、こんなにも命をすりへらして仕事できないな」と文章を寄せていました。
ナンシー関の名言・作品など
ナンシー関さんは消しゴム版画やコラムなどで数々の名言を残しています。今となっては、ナンシー関さんは預言者だったのでは?と思うような名言もあり、ナンシー関さんがいかに物事の本質を見抜く力を持っていたかが分かると思います。
名言①:マルチに小商い
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こちらは秋元康さんの消しゴム版画に書かれた言葉です。この「マルチに小商い」は1999年に作られたものですが、この「マルチに小商い」は秋元康さんを表す上で非常にしっくりくる言葉ですよね。
この名言はセンス抜群ですね。
名言②:ワタシがシアワセ
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名言の2つ目は「ワタシがシアワセ」です。これは、アグネス・チャンさんの消しゴム版画に添えられた言葉です。
アグネス・チャンさんはユニセフ大使を長年務めていて、豪邸に住んでいることで、インターネット上では「何か怪しい」と言われ続けてきました。お金を使い込んでいるわけではありません。
でも、慈善事業をアピールする場所がロココ調の大豪邸であることに不信感を抱く人は少なくありませんでした。
このようなアグネス・チャンさんのイメージをナンシー関さんは1997年の時点で指摘しているんです。しかも、「ワタシがシアワセ」のたった8文字でそれを言い表すなんて、すごい才能です。
名言③:私の道具
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名言の3つ目は「私の道具」です。三原じゅん子さんとコアラさんが結婚した時、ナンシー関さんは「私の道具」という消しゴム版画を作りました。
私の道具というのは次のような意味です。
三原じゅん子の高騰は、コアラの低落が生んだ錯覚なのだ。
コアラは、三原じゅん子を「憧れの女優さん」という位置にキープするための道具だ。
よく凶器などの横に置かれているマイルドセブンと言っていいだろう。
で、このコアラ・マイルドセブンは実物より小さいんだ。
これを「私の道具」と言い表すナンシー関さん。すごいです。
名言④:「だって、アーティストだから、あゆ」
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こちらは浜崎あゆみさんの消しゴム版画です。これは2000年に作られた作品です。2000年といえば、浜崎あゆみさん全盛期です。
全盛期の浜崎あゆみさんを「だって、アーティストだから、あゆ」で言い表すのは名言ですよね。
名言⑤:木村の妻
名言の5つ目は、「木村の妻」です。木村拓哉さんの妻である工藤静香さんを表した言葉です。
キムタクとデキ婚した頃、なんかのコラムで「見える。荒野でキムタクの赤子を抱えて高笑いしている静香の図が」みたいな事書いてて、似合い過ぎて静香に関してはずっとそのイメージに囚われてる。
「荒野でキムタクの赤子を抱えて高笑いしている」。全力で頷いてしまうような表現です。これを名言と言わずなんといえば良いのでしょうか?
名言⑥:生来ふてぶてしいのだ
名言の6つ目は「生来ふてぶてしいのだ」です。これは、有吉弘行さんを表した言葉です。
我々は有吉という人間を、間違えて解釈しようとしていたのかもしれない。有吉は何故かふてぶてしく見える、のではなく生来ふてぶてしいのだ
当時の有吉弘行さんは猿岩石でブレイクし、アイドル的な人気がありました。それなのに、ナンシー関さんは有吉さんの本質を見抜いていたのです。
有吉さんは、2度目のブレイクを果たした後に、「当時、僕の眼の奥が死んでるのを見破ったのは東野さんとナンシー関だけです」と言っています。あの当時、有吉さんの本性を見破れるのは、「さすがナンシー関」と言わざるを得ないでしょう。
名言⑦:社会派バカ
名言の7つ目は「社会派バカ」です。これは蓮舫さんを表した言葉です。これは1992年にナンシー関さんが言い放った言葉です。
1992年の蓮舫さんはまだワイドショー「3時にあいましょう」のメインキャスターをしていて、政治家にはなっていません。でも、ナンシー関さんは「社会派バカ」と言い放ったのです。
己のまぬけに気づくどころか「私がワイドショーを変えてみせる」の寝言と共に、
蓮舫は日一日と自信と実績をつみ重ねているつもりだ。
政治家に転身する前の蓮舫さんを「社会派バカ」と言えるのは、「預言者か!」と言いたくなるほどです。まさに名言と言って良いでしょう。
名言⑧:10年後、ヤワラちゃんは選挙に出ていると思う
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名言の8つ目は「10年後、ヤワラちゃんは選挙に出ていると思う」という言葉です。これも予言ですね。1995年当時、ヤワラちゃんこと田村亮子選手は現役バリバリの頃で、結婚もしていませんでした。
その時に「10年後、ヤワラちゃんは選挙に出ていると思う」と言い放ったのです。そして、ヤワラちゃんは2010年に参議院議員選挙に出馬しました。ナンシー関さんの予想よりも5年遅いですが、本当に選挙に出馬したのです。
ナンシー関、恐るべしですね。
名言⑨:だれと一緒でも芸風が変わらない
ナンシー関さんはほかにも名言を残しています。例えば、明石家さんまさんについては、
共演者が大物だろうが子供だろうが、極端に言えば動物だろうが、だれと一緒でも芸風が変わらない
この名言を読むと「確かに」と思いますが、自分自身でこのように言い表すことは難しいですよね。この表現を見ると、ナンシー関は天才そのものと言えます。
名言⑩:感動的なフレーズを連発する。怪しい
また、島田紳助さんについては、次のような名言を残しています。
「素敵なことやないか」「一緒にやりましょうや」といったような感動的なフレーズを連発する。怪しい」
この名言を残したのは1990年のことです。1990年の時点で、島田紳助さんの本性を見抜いていたのかもしれませんね。
ナンシー関のまとめ
ナンシー関んさんのプロフィールや経歴、若い頃の松本人志との対談、名言集、結婚の有無やタクシー内での死去や死因の病気、死の真相をまとめました。
ナンシー関さんの着眼点は本当に素晴らしいです。もし、ナンシー関さんが今も生きていたら、一体どんな芸能人をどんな風に批評していたのかが気になって仕方がありません。