奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件は残忍な殺人事件ですが、複雑な犯人の生い立ちが話題です。
今回は奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要や被害者、真相や場所の特殊性、犯人・丘崎誠人の姉など家族や生い立ち、判決などその後を紹介します。
この記事の目次
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件とは 【被害者や事件の経緯を解説】
出典:pool.ist
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件
発生日時:1997年5月4日
被害者:女子中学生(13歳)
加害者:25歳の無職男性
事件内容:殺人
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件は、1997年5月4日に奈良県月ヶ瀬村(現在の奈良市)で起こった殺人事件です。
事件の発生
1997年5月4日、奈良県月ヶ瀬村で女子中学生の浦久保充代さん(当時13歳)が行方不明になりました。
警察や村人が浦久保充代さんを捜索したところ、通学路で彼女のスニーカーを発見。さらにガードレールには血痕が付いていて、道路にはタイヤ痕が残されていました。
さらなる捜索で、西部浄化センターの公衆トイレで女子中学生の切り裂かれたジャージと血まみれのダウンベストが発見されました。
容疑者の逮捕
聞き込みによって、当時25歳で無職だった丘崎誠人が容疑者として浮かび上がり、警察は丘崎誠人をマークします。
丘崎誠人が容疑者になっていることをマスコミがかぎつけたため、丘崎誠人が逮捕前にクローズアップされて、丘崎誠人は報道陣を前に怒鳴り散らしたこともありました。
そして、事件から約2ヶ月半がたった1997年7月25日、丘崎誠人は略取誘拐の容疑で逮捕されました。
逮捕当初は容疑を否認していましたが、丘崎誠人が乗っていた「三菱ストラーダ」から被害者の血痕・DNAが検出され、ジャージからは車のタイヤ痕が見つかり、犯行を認めています。
遺体の発見と殺害の経緯
丘崎誠人の自白によって、被害者の浦久保充代さんの遺体は三重県伊賀市の郊外の山中で白骨化した状態で発見されました。
5月4日、丘崎誠人は車を運転中に帰宅途中の浦久保充代さんを見つけ、「乗っていくか?」と声をかけましたが、無視されました。
これに怒りを覚えた犯人は、浦久保さんを後ろから車で轢き、後部座席に乗せて三重県の山中に連れていきました。
ビニール紐で絞殺しようとしたけれどうまくいかず、近くにあった重さ4.9kgの石を浦久保さんの頭にたたきつけて殺害したとのことです。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の真相 【村八分による恨みだった】
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件は、当時13歳の女子中学生を25歳の無職男性が残忍な方法で殺害した事件です。
報道では、わいせつ行為目的だったのではないかとも言われていました。しかし、事件の真相は、わいせつ目的の犯行ではなく、村八分による恨みが爆発したことでの犯行だったのです。
丘崎誠人とその家族は、月ヶ瀬村で30年以上生活していましたが、村八分にされていました。
ずっとよそ者として扱われ、差別や嫌がらせを近所・集落の人から受けてきました。
村八分の恨みが爆発!
そのようなバックグラウンドがあった状態でしたが、犯人の丘崎誠人は近所に住む顔見知りの女子中学生に親切心から「乗っていくか?」と声をかけました。
しかし、被害者の女子中学生は丘崎誠人を無視します。
普段から村八分状態だったのに、その日に限って親切心が湧いたのは、事件の前日に滋賀県のソープランドに行っていたからかもしれません。
丘崎誠人自身も、なんとなくウキウキした気持ちで車を運転していたと供述しています。
親切心から声をかけたのに無視されたことで、丘崎誠人はの怒りは爆発しました。丘崎誠人は次のように供述しています。
「断り方も知らない奴や。”もうすぐ家やからいいです”、くらいの言い方あるやろう」
引用:奈良・女子中学生殺人事件
○○の者は俺を嫌っており、この女も一緒や等と思うと、それまでの○○の人間から受けていたよそ者扱いの悔しさが爆発寸前になったのです。このようにして自分を無視したAさんとB地区全体の人間に対する憎しみが一緒になり、頭の中がパニック状態になったのです。
引用:哀しき鬼・丘崎誠人に捧ぐ
長年ずっと差別を受けてきて、村人・集落に対する恨みが積み重なっていた丘崎誠人。
そんな中でも、親切心を出したのに無視されてしまったことで、怒りが爆発してしまうのは理解できますね。
その怒りのままに、犯人の丘崎誠人は時速30キロで後ろから被害者の女子中学生を轢いてしまいます。そこで、丘崎誠人は一瞬で冷静に戻りました。
この時点で被害者はまだ息があり、病院に連れていこうと考えたそう。
ですが、「このことが発覚したら、家族がこの村で生活できなくなる」という恐怖に襲われ、「殺して遺体を隠してしまおう」と思い、殺害に至ったと供述しています。
もちろん、犯人を擁護する余地はありません。それでも、生まれてからずっと村人から差別を受け続けてきた背景を知ると、丘崎誠人はわいせつ目的で殺害したのではないことは明らかです。
事件の新たな一面が見えてきて、いたたまれない気持ちになりますね。
奈良県月ヶ瀬村は古い習慣が残る場所だった
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事件の舞台となった奈良県月ヶ瀬村は、「与力制度」と呼ばれる古い習慣が残る場所でした。
与力制度とは簡単に言えば、全体責任・相互監視・よそ者排除の制度です。
さて山添村大字遅瀬では、与力とはと「力を与える」「力を貸す」「力をともにする」ものと考えられている。ここで「カ」とは権力や社会的勢力ではなく、以下に述べる与力の具体的な役割において提供される扶助・協力の意味である。
要は、「なんでも一緒にやりましょう」「みんなでやりましょう」という制度で、その仲間に入れてもらえなければ、ずっとよそ者扱いであり、差別を受け、日常生活に支障が出るのです。
冠婚葬祭などは与力に全部相談しなければならなかったし、税金の申告や支払いも全部まとめてやっていたとのことです。
この与力に区入りするためには地元民2人の推薦が必要で、犯人の丘崎誠人の家族は月ヶ瀬村に30年以上前に引っ越して以降ずっと住んでいるのに、区入りできていませんでした。
区入りできていないと、村八分になります。しかも、区入りはできないのに地区の負担金や労働奉仕への参加は義務付けられるというひどい状態になります。
犯人の丘崎誠人が育った月ヶ瀬村はそのような古い習慣が残る場所であり、丘崎誠人は子供の頃から差別を受けて育ってきたのです。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の犯人・丘崎誠人の姉など家族
奈良県通期が瀬村女子中学生殺人事件の犯人、丘崎誠人について見ていきましょう。
家族構成(両親や姉)について
丘崎誠人の家族は、両親と姉が3人、妹が1人の7人家族でした。
両親とも日本と朝鮮のハーフであり、母親は奈良県の部落出身だったという情報もあります。そのこともあり、丘崎誠人が生まれる前に隣村から月ヶ瀬村に引っ越してきました。
また、両親は正式に結婚していたわけではなく内縁関係で、母親は文字の読み書きができない文盲でした。
月ヶ瀬村はお茶畑が広がるお茶農家ばかりでしたが、区入りでない丘崎家がお茶農家をできるわけはなく、両親は行商や日雇いの仕事をしていました。
2人とも働き者でしたが、不仲であり、父親には愛人がいて、母親は子供たちをよく言えば「放任」、悪く言えば「金だけ与えてネグレクト」の状態でした。
そんな中で、長女が食事を作り、家族はそれぞれ好きな時に勝手に食事をとるような生活をしていたとのことです。
事件当時は次女と三女は独立していて、両親2人、長女とその子供3人、四女と8人で生活していました。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の犯人・丘崎誠人の家は被害者家族の仲介した物件だった
区入りできず、村八分状態だった丘崎誠人と家族は、月ヶ瀬村で掘っ立て小屋のようなボロボロの家に住んでいました。
区入りできないため、誰にも頼れない中、村の民生委員をしていた被害者の祖父が仲介して、家賃1万円程度でボロボロの家を借り、そこに住むことになりました。
ただ、現代の日本ではありえないほどのボロボロの家で、日当たりが悪くて、トタン屋根とベニヤ板の壁ですきま風が吹くような家でした。
また、下水道敷設の分担金が支払えなかったためにトイレはなく、風呂は薪で沸かすようなところだったそうです。
そんな家に住んでいて、生まれた時から差別を受けていたら、心がすさんでしまうのは当然のことかもしれません。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の犯人・丘崎誠人の生い立ち
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犯人の丘崎誠人の生い立ちを見ていきましょう。
月ヶ瀬村で生まれた丘崎誠人は先ほど説明したように、家はボロボロで、家庭的にも恵まれた環境ではなく、今だったら児童相談所が介入してもおかしくないような環境で育ちました。
丘崎誠人が小学3年生の頃には、公民館の放火事件が起こりました。この放火の真相は分かっていませんが、村人が疑ったのが丘崎誠人でした。
そしてそれ以降、盗難事件などの何かトラブルが起こると、丘崎誠人は真っ先に疑われるようになったそうです。
近所の親たちも子供に、丘崎誠人と「一緒に遊ぶな」「近づくな」と言うようになり、子供ながらに丘崎誠人は孤立していきます。
さらに朝鮮とのハーフだったことから、「チョーセン」と馬鹿にされることもありました。母親が文盲だったことで、教師から差別を受けたこともあったようです。
中学生になると不登校になり、友達もおらず、中学の卒業証書は破って燃やしてしまったそうです。
中学卒業後は奈良県内の測量事務所でアルバイトを始め、その後は大阪の専門学校に入学するも中退しています。
その後、大阪や東京で調理師の住み込みで働くようになりましたが、長く続くことはなく、ふらりと月ヶ瀬村に戻ってくるようになりました。
あれだけ忌み嫌っていた月ヶ瀬村に戻ってきてしまった丘崎誠人。故郷の村を捨てられなかったのかもしれません。
そして、土木作業員や警備員、左官見習いなどの仕事をしますが、やはりどれも長続きせず、事件当時は無職になっていました。
無職だったけれど、そこまでお金に困っていなかったのか、事件の2ヶ月前には事件の引き金になった四駆の「三菱ストラーダ」を購入しています。
この車は事件の1ヶ月後には売却してしまうのですが、このわずか3ヶ月の間に走行距離は5300kmにもなっていたとのこと。
やはり、丘崎誠人はこの月ヶ瀬村から逃げ出したくて、遠くに行きたかったのかもしれませんね。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の判決と犯人のその後
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件は犯人の丘崎誠人が自供し、被害者の女子中学生の遺体が発見されたことで、起訴され、裁判となりました。
判決は無期懲役
裁判で、月ヶ瀬村で丘崎誠人が差別・嫌がらせを受けてきたことが明らかになりました。
ですが、「被告人のいう差別感情なるものは、何の咎もない中学二年生の被害者に対する本件の犯行動機として、ほとんど酌むべき事情にはならない」として、情状酌量はされませんでした。
事件の翌年の1998年、一審で懲役18年が言い渡されましたが、検察側がこれ不服として控訴し、二審では無期懲役の判決になっています。
弁護士は上告を勧めましたが、丘崎誠人は上告することなく、2000年に無期懲役で刑が確定しています。
犯人は刑務所内で自殺
無期懲役刑が確定した丘崎誠人は、2001年9月4日、収監されていた大分刑務所で自殺しました。
自分のランニングシャツを独房の窓枠に引っ掛けて、首を吊って自殺したのです。巡回は15分に1回行われていましたが、その隙をついての自殺だったようです。
丘崎誠人は公判中から弁護士に心を開くことはなく、心を閉ざした状態であり、丘崎誠人と接見した人は「罪を深く悔いているようだった」と話しています。
丘崎誠人が自殺した日は、被害者の女子中学生の月命日でした。
まとめ
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要と真相、犯人の家族や家、生い立ちなどのバックグラウンド、判決と犯人のその後をまとめました。
どんな生い立ちがあったとしても、どんな差別を受けていても、犯人の罪が軽くなるわけではありません。13歳の女子中学生の命を奪ってしまったという重罪は消えることは有りません。
ただ、人間の心情として犯人のバックグラウンドを知ると、同情せずにはいられませんよね。
また、事件の概要だけ見た時と、犯人のバックグラウンドを知った後では、事件の印象が全く違ってくるのも驚きの発見です。
私たちは物事を1つの面だけで見てしまうことが多いですが、この奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件は、物事は多角的に見る必要があると教えてくれているのかもしれません。