「火垂るの墓」の作家でタレントの野坂昭如さんは、大島渚さんや浜田雅功さんとの殴り合いや石橋貴明さんへの暴力など破天荒エピソードが話題です。
今回は野坂昭如さんの経歴や家族、結婚した嫁や子供(娘2人)や死因をまとめました。
この記事の目次
野坂昭如は火垂るの墓の作家&タレント
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野坂昭如
生年月日:1930年10月10日
没年月日:2015年12月9日
出身:神奈川県鎌倉市
芸名:阿木由起夫、クロード野坂、立川天皇
活動:作家、タレント、歌手
野坂昭如さんは作家・タレント・シャンソン歌手・政治家・作詞家・落語家など、広い分野で活躍しました。
童謡の「おもちゃのチャチャチャ」を作詞し、名作「火垂るの墓」で直木賞も受賞しています。
しかし、その一方で編集長を務めていた雑誌に永井荷風の「四畳半襖の下張」を掲載して、「猥褻文書販売」違反で書類送検され、最高裁まで争って敗訴しています。
また、大島渚さんやダウンタウンの浜田雅功さん、とんねるずの石橋貴明さんを殴る・ビンタするなど破天荒な人物としても知られています。
野坂昭如の経歴
ここからは、野坂昭如さんの破天荒で波乱万丈な経歴を見ていきましょう。
生い立ちと戦争
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野坂昭如さんは1930年に鎌倉市で生まれました。
両親は野坂昭如さんを妊娠中に別居、さらに母親は野坂昭如さんが生後2か月の時に病死しています。そのため、生後半年で母方の親戚である神戸の張満谷家の養子になりました。
1945年の大空襲で養父を亡くし、養母も大けがを負いました。また、血のつながらない上の妹は病死、下の妹は疎開先の福井県で栄養失調で亡くなっています。
この時の経験から、後に「火垂るの墓」を執筆しています。
終戦後は親戚を頼って生活していましたが、17歳の時に養母の実家を頼って上京します。しかし、上京翌月に窃盗を働き、多摩少年院東京出張所に入ることになりました。
この時、実の父親(野坂相如)が保証人となって釈放されたため、張満谷の姓から野坂姓に戻りました。
それからは、実父がいる新潟に行き旧制新潟高校・新潟大学に進学しますが、大学は3日で退学しています。
1950年、シャンソン歌手を目指して上京し、早稲田大学第一文学部フランス語学科に入学しました。
芸能界関係の仕事に
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1955年になると、写譜屋を開始し、さらに三木鶏郎音楽事務所の事務員に採用されます。
三木鶏郎氏は、日本で初めてCMソングを作ったり、ディズニーアニメの日本語版音楽監督などを務めた人物です。
しばらく三木鶏郎氏のマネージャーをしていましたが、事務所のお金を使い込んでいたことがバレて、野坂昭如さんはクビになりました。
しかし、三木鶏郎氏のマネージャーをしていたことで、業界へのつながりを作ることができたのです。
幅広い活動
マネージャーをクビになった後も、放送作家やCMソングの作詞家などの仕事をしていた野坂昭如さんは、ほかにも雑誌でコラムを執筆したり、小説家デビューもします。
さらに、「焼跡闇市派」を名乗って、右翼・左翼の両方を批判する活動も行っています。
代表作はこちらです。
・火垂るの墓(小説)
・アメリカひじき(小説)
「おもちゃのチャチャチャ」では第5回日本レコード大賞童謡賞を受賞し、「火垂るの墓」と「アメリカひじき」では直木賞(直木三十五賞)を受賞しています。
そのほかにも野坂さんはたくさんの賞を受賞しています。
・直木賞
・講談社エッセイ賞
・吉川英治文学賞
・泉鏡花文学賞
・安吾賞新潟市特別賞
このほか、シャンソン歌手や落語家としても活動しています。
・放送作家
・作詞家
・落語家
・エッセイスト
・シャンソン歌手
・評論家
・タレント
これだけたくさんの才能を持っていて、それぞれの分野でしっかりと実績を残していたのです。
さらに、ヤクザへの取材などアウトローな活動もしていました。
晩年はテレビなどメディアへの出演はなくなりましたが、エッセイ・コラムなどの執筆活動は続けていました。
政治家としても
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野坂昭如さんは政治家としての顔も持っていました。参議院議員として活動していたこともあるんです。
・1983年6月:参議院選挙に第二院クラブ・比例代表で出馬→当選
・1983年12月:衆議院選挙に出馬→落選
・2001年:参議院選挙に自由連合・比例代表で出馬→落選
1983年には参議院選挙で当選しますが、新潟3区の田中角栄がロッキード事件で有罪判決になったために、参議院選挙に当選した半年後に参議院議員を辞職して衆議院選挙に出馬します。
しかし、選挙運動中に暴漢に刃物で切りつけられて、その後の選挙活動ができなくなったこともあり、落選してしまいました。
野坂昭如の実家・養子先の家族
野坂昭如さんの家族情報を見ていきましょう。
・実母:野坂ぬい
・兄:野坂恒如
・姉(?)
・野坂昭如
野坂昭如さんの父親は野坂相如さんです。
東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した秀才で、戦中は内務省の官僚として都市計画事業を担当しました。戦後には新潟県副知事を務め、1978年に亡くなりました。
実母の野坂ぬいさんの実家は、台湾で金貸し業を営むなど羽振りが良かったようです。
母親は昭如さんを生んですぐに亡くなっていますが、二男一女を生んでいますので、野坂昭如さんには兄姉が1人ずついると思われます。
なお、兄の野坂恒如さんはジャズ評論家として活動しています。
・養母:張満谷愛子
養子に入った張満谷家は、実母の実家と親戚関係にありました。実母のぬいと養母の愛子は実の姉妹でした。つまり、叔母の家に野坂昭如さんは養子に入ったことになります。
養父は石油を扱う貿易商でしたが、空襲で死亡しています。また、同じく養子に入った2人の妹は1人は病気、1人は栄養失調で死亡しています。
野坂昭如さんは東京で少年院に入れられる時に実父が保証人となり、野坂姓に戻りましたので、張満谷家は断絶することになりました。
野坂昭如が結婚した嫁は野坂暘子
野坂昭如さんは1962年に結婚しています。
野坂暘子は元宝塚女優
野坂昭如さんが結婚した相手は野坂暘子さんです。野坂暘子さんは、宝塚歌劇団の女優として活動していた女性です。
1941年に東京都で生まれた野坂暘子さんは、宝塚歌劇団45期生であり、「藍葉子」の芸名で娘役として活動しました。
タカラジェンヌとして駆け出しだった19歳の頃、知人の紹介で当時30歳だった野坂昭如さんと知り合います。
舞台女優を目指していた野坂暘子さんですが、六甲山での野坂昭如さんからのプロポーズを受けました。
そして、交際から2年後の1962年に結婚することになり、結婚を機に宝塚歌劇団を退団。
それからはシャンソン歌手として活動しています。
仲が良い夫婦
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野坂昭如さんと野坂暘子さんは、仲が良い夫婦でした。
野坂昭如さんは破天荒で毎日のように飲み歩いていましたが、毎日必ず家に帰ってきたとのことです。
それでも家庭では、本当に丁寧な人でした。私は、名前を呼び捨てされたり「おい」なんて言われたことは一度もなく、結婚当初からずっと「あなた」と呼ばれていました。
野坂との会話は、娘たちから「まるでコントだよね」とよく笑われたものです。
破天荒な人物でも、もともとの育ちが良いこともあって、家庭は大切にしていて、夫婦仲は良かったんですね。
野坂昭如の子供は娘が2人
野坂昭如さんの子供は2人、どちらも娘です。
・次女:野坂亜未(1972年10月27日生まれ・芸名は愛耀子)
年が離れた姉妹だったんですね。
野坂昭如さんは嫁が元タカラジェンヌというだけでなく、野坂さん自身も宝塚歌劇団のファンだったこともあり、娘2人はどちらも宝塚歌劇団に入団しました。
長女の麻央さんは、1984年に宝塚歌劇団70期として入団し、星組娘役として活動し、1986年に退団しています。その後は本名で、エッセイストとして執筆活動などを行っています。
次女の亜未さんはお姉さんの麻央さんが退団した後、1990年に宝塚歌劇団79期として入団し、雪組娘役として活躍しました。
2006年に宝塚歌劇団を退団しますが、その後も芸名である愛耀子として女優・シャンソン歌手としての活動を続けています。
この次女の亜未さんは2007年、歌舞伎囃子方の十三代目田中傳左衛門と結婚します。
野坂昭如さんは脳梗塞の後遺症で右半身のマヒがありましたが、娘の結婚式でバージンロードを杖なしで歩くために、必死にリハビリをしたそうです。
野坂昭如が大島渚と殴り合いをした理由 【動画あり】
野坂昭如さんと言えば、「大島渚さんとの殴り合い」を思い浮かべる人は多いと思います。
何かと言えば、この殴り合いは話題になりますし、2ちゃんねるなどの掲示板に動画が貼られることが多いんです。
その殴り合いの動画はこちらです。
大島渚との殴り合い事件が起こったのは、1990年10月23日、映画監督の大島渚さんの真珠婚式(結婚30周年)のパーティーでした。
もともと、野坂昭如さんと大島渚さんは「朝まで生テレビ」などで共演していて、友人関係にありました。
この日のパーティーで野坂昭如さんはスピーチをする予定で、大島渚さんと奥様の名前を織り込んだ和歌を用意していました。
しかし、進行役の大島渚さんは野坂昭如さんが帰ってしまったと勘違いして、スピーチの順番を飛ばしてしまいます。
その間に、野坂昭如さんはしこたまお酒を飲んで、足元がおぼつかない状態になりました。
パーティー終盤、ようやく野坂昭如さんのスピーチの順番が回ってきて、和歌を読み上げたところまでは良かったのですが、野坂さんは怒りが湧いてきて収まらなくなってしまったようです。
なごやかに進行したパーティーも終宴間際の午後9時。引き揚げようとする約1500人の招待客の耳に飛び込んできたのは野坂氏のば声だった。「わざと、おれを忘れただろう」。
「わざと、おれを忘れただろう」と怒った野坂昭如さんは、「ありがとうございました」と話す大島渚さんの左ほほに右フックをお見舞いします。
大島渚さんはその渾身のパンチに足元がふらつきよろけますが、すぐさま持っていたマイクで野坂さんを2回殴りました。
60歳前後のいい年をした初老の著名人2人が、1500人の招待客の前で殴り合う光景はあまりにも衝撃的ですよね。
主催者でもあり気を取り直した大島監督は、武器にもなったマイクで「悪いのは僕です。悪いのは……」と場内に向かって呼び掛けた。が、野坂氏は「何を言ってんだ」とわめき散らしておさまらず、関係者に引きずられるように場外へ。残されたのは、殴られた時に口を切り、メガネが吹っ飛んだ大島監督と野坂氏の酔虎伝だけだ。
この時の殴り合いは映像が残っていたこともあり、ワイドショーで大きく取り上げられましたが、野坂昭如さんも大島渚さんもお互いに謝罪文を送って和解しています。
また、野坂昭如さんは大島渚さんの奥様である小山明子さんに謝罪としてブラウスを送ったそうです。
この映像で、小山明子さんの立ち振る舞いが手馴れていてすごいですよね。
夫が殴られたのに笑っているし、殴り合いの止め方が慣れていて、普段から野坂昭如さんと大島渚さんはこんな感じだったのかなと思えてきます。
野坂昭如は浜田雅功とも殴り合いをしている 【動画あり】
野坂昭如はダウンタウンの浜ちゃんこと浜田雅功とも、殴り合い・どつきあいをしています。
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」で、野坂昭如さんは「野坂昭如が人生を語る」というコーナーに出演。
ただ、このコーナーは実は「チキチキ野坂昭如たたいてさぁ何点!?」というコーナーで、ダウンタウンの2人が野坂昭如を何回叩けるかという内容だったんです。
浜田雅功さんが野坂昭如さんの頭を小突く感じになり、野坂昭如さんはそれから浜ちゃんにやり返しています。
動画を見る限り、そこまで険悪な雰囲気ではなさそうでしたが、後に松本人志さんが語ったところによると、収録後まで野坂昭如さんと浜田雅功さんはピリピリしていたとのことです。
一方、「浜田はそういうところがあるから、意外と強めにイッたら、野坂さんがバーン!殴って、浜田が野坂さんの腹バーン!野坂さんまたバーン!…」と、壮絶な乱打戦が繰り広げられたと説明。
こんなコーナーが成立していたなんて、時代を感じますね。
野坂昭如は石橋貴明に平手打ちをくらわしている
野坂昭如さんは大島渚さん・浜田雅功さんだけでなく、とんねるずの石橋貴明さんにも暴力をふるいました。
事件が起こったのは1986年。フジテレビの生放送番組「オールナイトフジ」でのことです。
「オールナイトフジ」と言えば、「女子大生ブーム」の火付け役となり、とんねるずの知名度を大きく上げた番組です。
この番組に、野坂昭如さんはゲストでもないのに酔っぱらった状態でフラッと現れ、とんねるずなど若者世代に「浮かれた気分でいると世相が悪化する」と説教を始めます。
そして、いきなり石橋貴明さんを平手打ちしたんです。
出典:twitter.com
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とんねるずの2人はこの時は黙って耐えていましたが、その後に野坂昭如さんに挑戦状をたたきつけました。
野坂昭如は「あの時は酔っていたし、若者には勝てない」として手打ちになり、この平手打ち騒動は収束しています。
また、番組の放送作家だった秋元康さんが間に入って、この騒動を収束させたとも言われています。
ちなみに、「オールナイトフジ」では1985年に石橋貴明さんが1500万円のカメラを破壊する事件が起こっていますし、とんねるずの2人も血の気が多くてイケイケの時でした。
一歩間違えば、生放送中に大乱闘が起こっていたかもしれません。
野坂昭如はアルコール依存症だと自覚していた
野坂昭如さんは若い頃から酒乱であり、精神病院に入院したこともあったようですが、仕事が忙しくなってからは酒量が増えていきました。
結婚して6年目、昭如氏は直木賞受賞で多忙になり、酒量も増え、肝臓を悪くして入退院を繰り返すように。でも「僕は依存症ですから、決してアル中ではない」と開き直り、戒める暘子さんから逃げ回るが、2003年の5月に悲劇がやって来る。
アルコールだったら何でもよく、酒瓶を隠したら台所の料理酒まで空になっていたこともあります。「ぼくは依存症だ」と自分で認めるのですが、やはり気が弱いということなのだと思います。
ただ、後述の脳梗塞を発症してからは、きっぱりお酒も、そしてたばこも止めたとのことです。
野坂昭如の晩年は脳梗塞で介護が必要だった
2003年には脳梗塞
出典:bunshun.jp
野坂昭如さんは2003年5月26日、脳梗塞を発症しました。
この日は朝8時ごろに朝帰りをしましたが、廊下を壁にぶつかりながらヨロヨロと歩いていたそうです。
その様子を見た妻の野坂暘子さんは、野坂さんに声を掛けますが、野坂さんは「アー」、「ウー」というだけで会話になりませんでした。
その様子を見た暘子さんは「おかしい」と感じて主治医に電話をしたところ、すぐに病院に連れてくるように指示されます。
この時点では野坂さんは自分で歩いて車に乗ることができましたが、病院に着いた時には足取りがおぼつかなくなり、さらに主治医に会ってすぐに意識を失いました。
診断は脳梗塞の一種である心原性脳塞栓症であり、右半身のマヒと構音障害の後遺症が残ってしまったのです。
介護・リハビリを続けていた
出典:j-cast.com
脳梗塞の後遺症が残ったものの、必死にリハビリをして、翌年には仕事復帰をします。
ただ、メディアへの露出はなくなり、妻の野坂暘子さんと一緒に口述筆記という形をとって、エッセイ・コラムなどを執筆していきました。
そして、野坂暘子さんは自宅で野坂さんの介護を13年間し続けました。
確かに脳梗塞発症後も、右手の骨折、誤嚥性肺炎、尿路感染症による発熱で入院など数多くの困難な事態に遭遇しました。しかし、暘子さんにいわせると、いまの2人の生活はかつてないほど健やかな日々なんだそうです。
引用:脳梗塞コラム 第2回 脳梗塞で倒れたけれど、精神に衰えなし 直木賞作家・野坂昭如のリハビリ・ダンディ|NO!梗塞.net-脳梗塞ネット|脳梗塞の前兆から対策、診断、症状、治療など
ただ、淡々と毎日介護をするのではなく、面白さを取り入れていたとのことです。
ところがあるとき「野坂二等兵!」と声をかけたらスッと立ち上がり、「敬礼!」と号令を飛ばせば背筋を伸ばし敬礼した。それからは「名前は?」「野坂…」「声が小さい!」「野坂であります!」「歳は?」「38!」「嘘をつくな!」と、楽しく飽きさせないような工夫を盛り込むように。「二等兵は上官の言うことを聞かねばなりません。それがミソです」と暘子さんは会場の笑いを誘った。
ステキな奥様ですね。
野坂昭如の死因は心不全
自宅で意識がないのを発見
マヒが残りながらも、自宅で生活していた野坂昭如さんですが、2015年12月9日の午後9時過ぎ、妻の野坂暘子さんは野坂昭如さんの意識がないことに気づき、119番通報します。
病院へ救急搬送されましたが、同日午後10時37分に死亡が確認されています。死因は心不全とのことです。
2003年に発症した脳梗塞も心原性だったので、そのころから不整脈は出ていたのでしょう。
また、85歳という年齢を考えても、野坂昭如さんの心臓は限界だったということであり、大往生と言えると思います。
葬儀では妻が悪口を言って話題に
野坂昭如さんの葬儀は、2015年12月19日に青山葬儀所で行われています。
生前に親交があった永六輔さん、五木寛之さん、小林亜星さん、檀ふみさん、横山剣さんなど約600名が参列していますが、喪主の野坂暘子さんの挨拶が感動的でした。
「飲んべえ。目立ちたがり。せっかち。ウソつき。いいかげん…まだまだいっぱいあります。野坂昭如さん」
とても愛がある悪口ですよね。
このような葬儀を見ると、野坂昭如さんは破天荒ですが、周囲から、そして奥様から愛されていたことがわかりますね。
野坂昭如のまとめ
野坂昭如さんのプロフィールや経歴、家族情報や結婚した嫁・娘2人、大島渚さんや浜田雅功さんとの殴り合い、石橋貴明さんへの平手打ち、アルコール依存症や死因などをまとめました。
野坂昭如さんの幅広い才能と破天荒な人生は、人を惹きつけるものがありますが、あの時代だったからこそ受け入れられたとも言えますね。