「恐縮です!」で有名な芸能リポーターの梨元勝さんは、肺がん発見からわずか2ヶ月で亡くなりました。
今回は梨元勝さんのプロフィールと経歴、結婚した嫁や娘(梨元麻里奈)など家族、死因、最後の言葉や葬儀、遺書騒動も紹介します。
この記事の目次
梨元勝のプロフィール
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梨元 勝(なしもと まさる)
生年月日: 1944年12月1日
没年月日:2010年8月21日
出身地: 東京都中野区
職業: 芸能リポーター、タレント
梨元勝さんは、「恐縮です!」で知られる日本初の芸能リポーターです。テレビ朝日や日本テレビのワイドショーで活躍しました。
また、イギリスのダイアナ妃や、元ソ連(現ロシア)の大領領を務めたゴルバチョフ氏に突撃取材を敢行したこともあります。
梨元勝の「恐縮です!」は焼き肉屋で誕生
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取材時やテレビ出演の際に梨本勝さんがよく使っていた「恐縮です!」は、リポーター業を開始して2年目に入った頃に誕生しています。
日刊スポーツの記者だった小林秀夫さんと焼肉に行った際、店員から飲み物を受け取り、「恐縮ですー」とお礼を言った梨元勝さん。
すると、小林秀夫さんが「それ良いね」とほめたことからヒントを得て、「恐縮です!」が生まれたのです。
この「恐縮です!」は、梨本勝さんのブログタイトルにもなっています。
梨本勝さんのブログはこちら→「ブログで恐縮です!」
梨元勝の経歴① 寂しい生い立ち
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梨元勝さんは芸能リポーターという華やかな職業に就いていましたが、それとは裏腹に幼少期は寂しい思いを抱えていたようです。
梨元勝さんのルーツとなる生い立ちや家族、幼少期の苦労について振り返ってみましょう。
実の両親とは暮らせなかった
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梨元勝さんは、終戦の前年である1944年に都内で誕生しました。日本の勝利を願い付けられた名前が「勝」だったのです。
父親は梨元勝さんが誕生する前に戦死していました。ただ、両親は入籍していなかったそうで、戸籍上は母方の祖父の五男ということになっています。
戦後、母親が働き始めたことで祖父母の家で育ち、やがて母親は離婚歴がある男性と再婚(戸籍上では初婚)、本格的に母親と離れて暮らすことになりました。
母親は梨本勝さんを思い、再婚先の家族と会わせてくれたそうですが、梨元勝さんは母親を取られたような気持ちになり素直になれず、義理の兄弟と上手く関係を築けなかったといいます。
また、可愛がってくれた祖母はとても心配症で、近所の子供たちと遊んでいると「危ないからやめなさい」と止めに来てしまい、いつしか同性の友人がいなくなってしまいました。
そのため、当時の遊びと言えば女の子とのままごと遊びで、おもちゃ屋に行くと、ままごとセットを買ってほしいと祖父母にねだっていたそうです。
梨元勝の経歴② 高校を留年していた
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ままごと遊びで育ったおとなしい男の子だった梨本勝さんでしたが、高校生の頃に人生が大きく変わったそうです。
高校を留年してしまった経緯や学生時代のエピソードを紹介します。
生徒会と演劇に明け暮れすぎた
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中学までは真面目で大人しい性格だった梨元勝さんは、埼玉県立浦和高校に入ったことでがらりと生活が変わったといいます。
校則は全て生徒会で決めることができ、教師も生徒の自主性を応援するというリベラルな校風だったそう。
すっかりその自由さの虜になった梨本勝さんは、日々演劇と生徒会に全てのパワーを注ぎ込んで、高校生活を思いっきりエンジョイしました。
その結果、全く勉強をせず、高校2年生の前期試験において数学で0点、さらに後期も同じく0点で、英語も落第点を取ってしまい、留年してしまいました。
大学受験はカンで乗り切る
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4年間の高校生活を終えて進学した大学は、法政大学です。
ただ、補欠入学で、試験はカンで乗り切ったのだといいます。
例えば英文和訳の設問はチンプンカンプンで、理解できた単語は「兵士」、「私」、「戦い」、「花」の4個だけ。
ここから意味が繋がるように組み立てた文章が「私は兵士だ。戦いで死んだならば勇敢に戦って死んだということで、柩の上には花を飾るのではなく剣を置いてくれ」でした。
ほとんど大喜利の世界だったのですが、それがパーフェクトだったんです。
こんな形で、どうにか法政大学にすべりこむことができたといいます。
ある程度の学力が無ければ到底入学できない大学ですので、全部が全部勘で答えたわけではないでしょうが、梨元勝さんは驚異的なラッキーボーイだったようですね。
梨元勝の経歴③ 大学卒業後は講談社に入社
先輩に叱咤されて講談社に就職
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梨元勝さんの大学生活は、学生運動とアルバイト、マージャンそして最低限の授業への参加と、あっという間に過ぎ去ったといいます。
卒業が近づいてもなかなか進路を決めることができず、「もう一回大学生活をやり直せないか」なんて考えていた梨元勝さん。
松竹に入社した大学の先輩に相談すると、「おまえがここまでくるのにおじいちゃんがどれだけ苦労したと思ってるんだ。一日でも早く孝行するのがおまえの役目だろ」と一喝されたそう。
さらに先輩は「就職先は俺が紹介してやるから、早く卒業しろ」と就職先をあっせんしてくれたのです。
こうして、講談社の『ヤングレディ』という週刊誌を作っている部門に就職することになりました。
取材をしても文章が書けない
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講談社に入社した梨元勝さんでしたが、さっそく仕事につまづいたといいます。
記者として取材をすることころまでは問題なくできるものの、文章を書くことに慣れておらず、原稿用紙を前に頭を抱える日々。
梨元勝さんによると、卒論すら文学部の友人に代筆してもらっていたくらい、文章を考えることが苦手で、どうやって取材内容を原稿に落とし込むのかがイメージできなかったそう。
周囲からは「全部平仮名でいいから早く書け。それも無理なら見てきたことをここで話せ」と言われ、同僚に取材内容を口頭で伝えて原稿を作成してもらっていたそうです。
梨元勝の経歴④ 日本初の芸能リポーター爆誕
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梨元勝さんが四苦八苦して記者活動をしていた中、かつてテレビ朝日で放送されていたワイドショー番組「アフタヌーンショー」で1本の企画が立ち上がりました。
週刊誌の取材記者をスタジオに呼び、1年間を総括して芸能ニュースを語らせるというもの。
そして、テレビ朝日から相談を持ち掛けられた当時の編集長の「取材してきたことを面白おかしく話すなら梨元しかいないだろう」という鶴の一声で、梨本勝さんの出演が決定。
文書を書き起こすのは苦手だったものの、口頭で取材内容を同僚に語っている梨元勝さんの姿を何度も見て来たからこその白羽の矢だったのでしょう。
放送が終わると想像以上に大好評で、一躍梨本勝さんの知名度はアップしました。
ただ、梨元勝さん本人は、普段編集部でしているのと同じことをテレビ局でしただけで、視聴者の反応については意外と感じたそうです。
テレビ朝日からのオファーが
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初回の登場が好評だった梨本勝さんは、「面白かったから、またスタジオに来て芸能ネタをしゃべって欲しい」との依頼が次々に舞い込み、テレビ出演が増えていきました。
そしてついに、テレビ局から「専属契約を結びたい」というオファーが。梨元勝さんはかなり悩んだそうですが、以下のように考えて芸能リポーターへの転身を決意。
「取材した人間ドラマを人々に活字で伝えるか,自分の全身を使って伝えるかの違いで、芸能ジャーナリズムとしての本質は同じだ。だったら未知の世界に挑戦してみよう」
格好良くいえばこうなんですが、もともと目立ちたがり屋の性格だったんです(笑)。
引用:第26回芸能リポーター梨元勝さん – あの人に聞きたい私の選んだ道 https://www.j-n.co.jp/
こうして、「芸能リポーター梨元勝」が誕生しますが、最初のうちは失敗だらけ。
マイクの向け方も立つ位置も分からず、スタッフからは怒られてばかりで、もう辞めてしまいたいとクヨクヨ悩んだ時期もあったそうです。
しかしあと3日、あと3週間、あと3ヶ月頑張ろうと続けるうちに、仕事のコツをつかみ、芸能リポーターの先駆けとして活躍するようになりました。
梨元勝の経歴⑤ 過激すぎて干されたことも
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梨元勝さんの直球リポートは視聴者に大受けで、テレビ局側は視聴率アップに大きな期待を寄せていましたが、梨本勝さんはテレビ局が触れてほしくない内容についても忖度しませんでした。
例えば、「芸能事務所からこの件はNGと言われている」とテレビ局から依頼されることもたびたびあったそうですが、生放送で確信犯的にコメントするということもありました。
そのため、テレビ局から見ると梨元勝さんは諸刃の剣のような存在だったようです。
また、2006年6月には、レギュラー出演していた静岡朝日テレビ放送のワイドショーで、前日に「ジャニーズに関する話題を取り上げないで欲しい」と求められたことに激怒し、自ら即降板。
梨元勝さんは降板理由として、「視聴者が最も興味があることを、局の自主規制で止めようとすることに納得できないので降板を決意した」とブログで語っています。
テレビ局が自主的に放送内容を規制してしまったら、視聴者を裏切ることになり、ジャーナリズムの危機感だとし、「ワイドショーは一回、解体しなさいということですよ」とも述べました。
ただ、この件が影響したようで、2006年以降はキー局のワイドショー出演がパタリと途絶え、いわゆる「干された」状態になりました。
梨元勝の経歴⑥ 地方局やネットに活躍の場を移す
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キー局の仕事が激減した梨元勝さんは、NTTドコモのケータイサイト「梨元 芸能!裏チャンネル」を立ち上げ、インターネットに活路を見出します。
サイトでは、記事と写真、そして1分弱の編集動画をアップし、月額315円を支払う有料会員に情報提供をスタート。すると、あれよあれよと会員数は増加し、7万人を獲得。
その他にも、地方局でのワイドショーに出演したり、雑誌の原稿を書いたりと、幅広い仕事を請け負い、月に100万円程度のギャラになっていたそうです。
今でこそネットで情報を得ることは当たり前ですが、当時はスマートフォンも発売されておらず、ガラケー時代であったにもかかわらず、梨元勝さんは先見の明があったと言えますね。
梨元勝の家族:結婚した嫁は梨元玲子さん
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ここからは、梨元勝さんのプライベートについて紹介します。
梨元勝さんは1975年に結婚しています。嫁のプロフィールや夫婦エピソードをみていきましょう。
嫁の名前は玲子さん
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嫁の梨元玲子さんが出版した本『愛という名のスクープ』
梨本勝さんの嫁は、梨元(旧姓は福田)玲子さんといいます。1946年生まれで埼玉県出身です。
2011年に出版された玲子さんの著書『愛という名のスクープ』では、生前の梨元勝さんとの結婚生活を明かして話題になりました。
著書によると、2人が出会ったのは高校生の頃で、玲子さんは梨元勝さんが通っていた高校の隣の女子校に通っていたそうです。
演劇のサークルを通して2人は出会い、交際に発展。つまり、梨元勝さんが高校で留年し、大学でもあまり勉強をしていなかったということも全部知っていたことになりますね。
インタビューを受けた際の「旦那が芸能リポーターで心配にならないか」との質問には、次のように語りました。
「私の家族は公務員が多いので、ひとりくらい変わってる人がいてもいいかなと思ったんですが、まさかこんなに波乱万丈だとは思いませんでした」
梨本勝さんとの結婚生活は苦労もあったようですね。
今でも「帰るコール」を思い出す
梨元勝さんは芸能リポーターとしてスクープを求めて駆け回っていたため、一般的なサラリーマンのように定刻にな帰宅ということはあり得ませんでした。
ただし、帰宅する時には必ず「これから帰るよ」と電話をくれるなど、不器用ながらも家族を愛してくれていることを実感していたそうです。
梨元勝さんは2010年に死去していますが、玲子さんは「今でも仕事で飛び回っていて、いつか帰るコールがかかってくるのでは」とふと思うことがあると言います。
梨元勝の家族:子供(娘)は梨元麻里奈
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梨元勝さんと嫁の玲子さんとの間には、タレントやコラムニストとして活躍する梨元麻里奈さんが誕生しています。
梨元麻里奈のプロフィール
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梨元 麻里奈(なしもと まりな)
生年月日: 1980年1月31日
出身地: 埼玉県
血液型: O型
身長: 153cm
趣味: 舞台鑑賞
梨元麻里奈さんは、1998年に「スター千夜一夜」で芸能界デビューして以降、テレビなどのメディアでタレントとして活躍。
2010年に梨元勝さんが死去した後は、梨元勝さんの個人事務所「オフィス梨元」の代表取締役に就任しました。
また、芸能界だけではなく、自信で取材した様々な分野についてコラムを発表しています。
反抗期の頃は最悪の親子関係だった
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梨元麻里奈さんが物心付いた頃には、すでに父親の梨元勝さんは日本中を飛び回り多忙な生活を送っていましたが、参観日や運動会には必ず駆け付けてくれていたそうです。
しかし、小学校の高学年頃ぐらいから、梨元麻里奈さんは父親・梨元勝さんと上手く接することができなくなりました。
反抗期は誰でも大なり小なり経験するものですが、梨本勝さんに「学校はどう?」と聞かれても、どう答えて良いのか分からず「別に」とつっけんどんな態度になってしまったといいます。
梨元勝さんも、反抗的な娘の態度を見過ごすことができずに「なんだその態度は」と、親子喧嘩になることもしばしば。
過去には、梨元勝さんが喧嘩中に投げたクッションを避けようとした梨元麻里奈さんが、ガラスのテーブルに額をぶつけてしまい、額から勢いよく流血したこともあったそうです。
大人になってから喧嘩が減った
反抗期真っ最中に、母親から「お父さんは戦争で自分の父親を若くして亡くしているから、家庭での父親というものが分からなかったんじゃないかしら」と言われたことがありました。
大人になった現在であれば「それもそうだ」と納得できるものの、多感な中学生にはピンと来ず、「仕事のストレスを私にぶつけているんだ」と余計に素直になれなかったそうです。
そんな梨元麻里奈さんの反抗期は中学1年生の頃がピークで、18歳で芸能界に入り、父親の大変さが理解できるようになると、自ずと喧嘩は減り、尊敬できる父親に変わっていったんだとか。
梨元勝の死因は肺がん
がん発見時にはすでにステージ4
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梨元勝さんにがんが見つかったのは亡くなる数ヶ月前でした。
咳が止まらなくなり、病院に行くと肺炎と診断され、2週間の入院生活を送りました。
しかし、退院後も容態があまり変わらず、あまりにも胸が苦しかったため、再度病院を訪れて精密検査をしたところ、肺がんの告知を受けたのです。
しかもステージ4という、すでに手術を受けることはできない状態まで病状は進行していました。
肺がんには幾つか種類があるのですが、梨本勝さんの場合、腺がんと大細胞がんを同時に引き起こしており、進行速度がとても速いタイプだったようです。
梨元勝さんは告知を受けて「どうしてタバコを吸わないのに肺がんになるんだ」と困惑していたといいます。
そして2010年6月から抗がん剤治療を開始しますが、「病室内であれば仕事をしても良い」という医師の承諾を得て、病室にパソコンや携帯電話を持ち込んで仕事をし続けました。
梨本勝さんは、病院でとても楽しそうに仕事をこなしていたそうです。
梨元勝の最後の言葉は「ありがとう」
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7月に入ると、梨元勝さんの病状は悪化していき、嫁の梨元玲子さんは亡くなる日まで病室に泊まり込みで看病し続けました。
激しい咳が止まらなくなり、呼吸を自身でコントロールできなくなると、家族はいやがおうにも梨本勝さんの死を意識せざるを得ない状況になったといいます。
さらに、ぼんやりと夜中にテレビを見ていた梨元勝さんに向かって「テレビ消してもいい?」と玲子さんが話しかけると、「怖いんだ、怖いんだ」と訴えてきたそうです。
玲子さんが「大丈夫よ。ずっとそばにいるからね」と返すと、「ありがとうね。ありがとうね」と安心した様子で眠りについた梨本勝さん。
しかし、この「ありがとうね」が最後の言葉となり、2010年8月21日午前5時19分、家族に見守られながら梨本勝さんは旅立ちました。
享年65歳と、まだまだ芸能リポーターとして最前線で戦える年齢でした。
嫁の梨元玲子さんは、今でも「なぜ最初の入院でがんを発見できなかったのか」と疑問に感じているといいます。
梨元勝の葬儀に友人が苦言を呈す
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梨元勝さんの葬儀は、近親者のみの密葬で行われることが発表されています。
娘の梨元麻里奈さんは「なかなか家族だけで過ごす時間が取れなかったから、最後は家族だけで」とその理由を明かしました。
しかし、都内で行われた通夜や葬儀にはテレビ局が殺到。これに対し、梨元勝さんと生前交流の深かった友人が以下のように語り、メディアに苦言を呈しました。
前出の友人はテレビ局に対し「まさに手のひら返しです。
梨元さんも、自らの死を盛大に報じられることより、生きてる間にチャンスをもらえることの方がうれしかったはずなのに……」と憤る。
引用:梨元さんを干しておきながら – NEWSポストセブンhttps://www.news-postseven.com/
どこまでも真っ直ぐな取材で、「真実を伝えたい」という姿勢を貫いた梨元勝さん。
テレビ局から干されても腐ることなく、自身でコツコツと道を切り開いてきた梨本勝さんの努力を傍で見守ってきた友人だからこそ感じた悔しさだったのではないでしょうか。
梨元勝の遺書騒動とは?偽物だった?
出典:https://killy.biz/
梨元勝さんが死去した翌月である2010年9月、突如、梨本勝さんの遺書が出てきたという騒ぎが起こりました。
各マスコミメディアに「遺言書第一弾 芸能関係者各位殿 梨元勝」と書かれたファックスが送られてきたのです。
まず前置きとして「私の死後、某人物に私のメッセージを、芸能・テレビ各社に送っていただくことを依頼した」と、生前信頼できる友人にこの文書を託したことが説明されていました。
そして本文には、バーニングや吉本、エイベックスなど大手芸能プロダクションが実名で挙げられ、これらの会社は長年暴力団と癒着関係にあると暴露されていたのです。
梨元勝さんの跡を継いで「オフィス梨元」を経営している梨元麻里奈さんは、「全く心当たりがない。いたずらではないか」とコメント。
梨元勝さんの友人も「文体が梨元さんのものではない。だって『恐縮です!』が入ってないじゃないですか」と、梨元勝さんによる声明であることを否定しています。
このことから、この文書は梨元勝さんによる遺書ではなく、愉快犯の偽物の遺書だとする説が有力視されています。
まとめ
梨元勝さんは、日本初の芸能リポーターとして知られ、「恐縮です!」という決め台詞と独特のトークで視聴者を楽しませてきました。
小中学校では大人しく成績の良い子供でしたが、高校生の頃に演劇と生徒会活動にのめり込み、大学はギリギリ入学。
その後、先輩に紹介された講談社に入社し、週刊誌の記者として就職します。
しかし、取材で得た情報を文書化する作業が苦手すぎて、同僚に言葉で語り原稿を書いてもらっていたそうです。
そんな梨本勝さんの転機は、芸能記者を集めたテレビの企画でした。芸能ネタを持ち前の軽妙なトークで語ったところ大受けしたのです。
これをきっかけにテレビ出演が増えたことで、梨元勝さんは思い切って芸能リポーターに転向。真実を伝えるという真面目な性格から、一時は干されたこともありました。
プライベートでは、学生時代から交際していた玲子さんと結婚し、娘の梨元麻里奈さんが誕生しています。
多忙ながらも家族は仲良く暮らしていたのですが、2010年6月に梨本勝さんに肺がんが見つかり、わずか2か月後の同年8月に死去。享年65歳という若さでした。
死後、梨本勝さんを語る遺書がメディアに送りつけられるなど、謎の事件が起きていますが、この遺書は本物の可能性は薄そうです。
日本の芸能リポーターの先駆けとして、道を切り開いてきた梨元勝さん。ご冥福をお祈りします。