福澤諭吉の曾孫である福澤幸雄さんは日本で一番かっこいい男と言われていましたが、レース事故で死亡しています。
今回は福澤幸雄さんの経歴、彼女(松田和子さん・小川知子さん)と結婚歴、事故原因や死因、その後の裁判を紹介します。
この記事の目次
福澤幸雄は福沢諭吉の孫&日本で一番かっこいい男
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福澤幸雄
生年月日:1943年6月18日
没年月日:1969年2月12日
出身:フランスのパリ
身長:170cm
活動:レーサー、ファッションモデル
福澤幸雄(ふくざわさちお)さんは、フランスのパリ出身のレーサー・ファッションモデルです。
福澤幸雄さんはあの福澤諭吉の曾孫であり、そのファッションセンスや感性の鋭さで注目を集め、「日本で一番かっこいい男」と呼ばれていました。
・フランスのパリ生まれ
・父親は慶應大学教授
・母親はギリシャ人のハーフ
・高校時代からレーサー
・イケメンのファッションモデル
・ファッションセンスが抜群
・日本語、英語、フランス語、ギリシャ語を操る
セレブでイケメンハーフ、しかもファッションセンスが良く、レーサーとしても活躍しているなんて、絵に描いたような「かっこいい男」です。
しかし、福澤幸雄さんは1969年に開発テストでコースを試走中に事故を起こし、25歳の若さで亡くなりました。
福澤幸雄の経歴
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福澤幸雄さんは、1943年6月19日にフランスのパリで生まれました。
当時、父親の福澤進太郎氏はパリ大学に留学していましたが、戦争が始まってからは在フランスの大使館で働いていました。
ギリシャ人のソプラノ歌手である母親の福澤アクリヴィさんも歌の勉強にパリを訪れていて、そこで出会い、1942年3月に結婚しています。
そして、1943年6月19日に福澤幸雄さんが生まれました。
第二次世界大戦が終わると、一家でアメリカに行き、1946年に家族全員で帰国し、東京の白金長者丸に住み始めます。
実家は非常に裕福で、小学校はインターナショナルスクールであるJapan Evangelicas Christian Schoolに入学しています。
4年生になると、港区立白銀小学校に編入し、1956年3月に小学校を卒業しました。その後は、曽祖父が設立した慶應義塾に入学します。
・1956年:慶應義塾中等部入学
・1959年:慶應義塾高等学校入学
・1962年:慶應義塾大学法学部政治学科入学
1964年には半年間ほどフランスに留学しています。福澤幸雄さんは日本語・英語・フランス語・ギリシャ語の4か国語が堪能でした。
レーサーとして活躍
福澤幸雄さんは高校生の頃からレーサーとして活躍していました。
この時代、車を持つこと自体がステータスでしたが、それを大きく飛び越えて、高校生レーサーとは、一般庶民の手が届かないような、福澤幸雄さんが特別な存在だったことがわかります。
高校生の頃は、いすゞファクトリー契約のレーシングドライバーとなり、ベレットGTで船橋のサーキットに通っていました。
1965年7月には、全日本自動車クラブ選手権に初出場を果たします。初戦はリタイアに終わりましたが、同年10月のクラブマン・レースでは総合優勝、鈴鹿300キロでも2位となります。
この活躍がトヨタレースの首脳陣の目に留まり、1966年1月にはトヨタファクトリーの契約レーサーになりました。
・1966年3月:第4回クラブマン・レース富士大会2位
・1966年5月:全日本選手権第2戦3位
・1966年6月:鈴鹿1000キロ・レース初優勝(津々見友彦とコンビ)
・1966年10月:トヨタ・2000GTスピードトライアルに参加(70時間を走りきる)
・1967年7月:鈴鹿12時間レース優勝(鮒子田寛とコンビ)
・1968年5月:日本グランプリに参加
・1968年9月:鈴鹿1000キロ・レース(鮒子田寛とコンビ)
・1968年10月:第10回全日本クラブマン・レース総合2位
・1968年11月:ワールド・チャレンジカップ富士200マイル・レース総合4位(日本勢1位)
愛車もトヨタの2000GTだったそうです。20代前半でこれだけの記録を成し遂げるなんて、レーシングドライバーとして、本当にレーサーとしての才能があったのでしょう。
ファッション&トレンドリーダーとして
福澤幸雄さんはファッションセンスに優れていて、トレンドリーダーとしても活躍していました。
大学在学中の1963年から、メンズの人気アパレルメーカーEDWARD’S(エドワーズ)の取締役兼企画部長を務め、ファッションリサーチに専念していました。
エドワーズ創業者の倉橋一郎氏は福澤幸雄さんのパトロンであり、ヨーロピアン調のファッションだったエドワーズと福澤さんの雰囲気がぴったり一致したようです。
エドワーズの元専務だった畑埜佐武郎氏は次のように述べています。
『幸雄には、新しい商品への意見を聞いたり欧米のファッション誌の情報をいち早く教えてもらったりしました。彼がパリやロンドンに行っているときは、本場の生の情報を送ってもらっていました』『1964年頃、幸雄は欧米のファッション界で活躍していた歳上のモデル、ピーター(松田和子)とパリで暮らしていました。私たちは欧州市場視察のためにパリに行きましたが、その任務の一つに、幸雄に給料を渡すことも含まれてました』
大学生の頃から人気ブランドの取締役として迎えられ、ファッションリサーチをして、そのファッションセンスはエドワーズ経営陣に完全に信用されていたなんてかっこよすぎです。
さらにテレビCMにも出演していて、1967年~1968年には次のようなCMに出演していました。
・ナショナル・パナソニックトランジスタラジオ
・東レ
・トヨタ・パブリカ(初代後期最終型・UP20型系)
ファッションモデルはしていましたが、本業はレーサーとファッションリサーチであり、芸能人ではありません。
それなのに、こんなに一流企業のイメージキャラクターを務めていたなんて、やっぱり福澤幸雄さんはかっこいいんです。
芸能人との交流も
福澤幸雄さんは芸能人との交流もありました。
当時は、東京の飯倉にある「キャンティ」が芸能人・文化人たちが集まるサロンのような役割をしていて、福澤幸雄さんもよく出入りをしていたんです。
当時のキャンティでは、ムッシュかまやつや内田裕也、加賀まりこ、川添象郎・光郎兄弟、杉江博愛(後の徳大寺有恒)らと交流があり、特にムッシュかまやつとは仲が良かったそうです。
福澤幸雄さんはヨーロッパの最新の音楽やファッション、ダンスなどのトレンドをムッシュかまやつに伝授し、それをスパイダースへとフィードバックしていきました。
ムッシュかまやつは福澤幸雄さんのことを「彼はもう1人のザ・スパイダースだった」と話していました。
福澤幸雄の彼女① 松田和子
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松田和子
生年月日:1936年
身長:160cm
活動:モデル
福澤幸雄さんの彼女だった女性は、モデルの松田和子さんです。松田和子さんは福澤幸雄さんの7歳年上でした。
ルイ・フェローの来日ショーの際にモデルとして出演し、フェロー氏からパリコレにも出てほしいとオファーされて、1959年にフランスに渡り、日本人として初めてパリコレに出演。
翌1960年には、ディオールのアトリエで当時のディオールのデザイナーだったイヴサンローランと会い、気に入られたためにクリスチャンディオールと専属契約を結びます。
その後もパリに拠点を置いて、モデル活動を続けていました。
1960代はパリで活躍していましたが、1970年代には引退しています。
日本トップモデルだった松田和子さんと福澤幸雄さんは、六本木にあるキャンティで出会いました。
ある日、福澤幸雄さんがキャンティで食事をしていると、目を引くきれいな女性がいて、その女性が松田和子さんだったのです。
松田和子さんは当時はピエール・カルダンの専属モデルをしていました。
福澤幸雄さんは当時まだ高校生でしたが、松田和子さんの隣の席に座って、そこから会話が始まり、交際するようになりました。
7歳の年の差がありましたが、福澤幸雄さんは老成していたため、松田和子さんは福澤さんを「若じいさん」と呼んでいたそうです。
松田和子さんは1959年からパリを拠点にしていたため、2人は遠距離恋愛でした。
ただ、福澤さんも仕事でパリに滞在することが多く、1964年にはフランスに半年間ほど留学していますので、福澤さんがパリで過ごす時は必ず松田和子さんのアパートに泊まっていたそう。
福澤幸雄さんが事故で亡くなる前日も2人は会っていて、亡くなった当日に松田さんは福澤さんの母親から電話を受けて事故を知ったとのこと。
お通夜には出ていますが、そのあたりの記憶は混乱していて欠落しているそうです。
若く美しい2人の儚い恋だったんですね。
福澤幸雄の彼女② 小川知子
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小川知子
生年月日:1949年1月26b日
出身:広島県広島市
身長:157cm
活動:歌手、女優
小川知子さんは子役として活躍していましたが、1968年にアイドル歌手としてデビューし、デビュー曲はオリコン1位を獲得します。
1970年代に入るとアイドルから脱皮し、女優業に重きを置くようになりました。1991年には幸福の科学の広告塔として活動し、タレント・歌手・女優として幅広く活動しています。
小川知子さんも福澤幸雄さんが事故に遭って死亡した時に、福澤さんと交際していたと公言しています。
小川知子さんが福澤幸雄さんと初めて出会ったのは1967年のこと。
小川さんは親友のいしだあゆみさんとキャンティで食事をしていましたが、そこに福澤幸雄さんが入ってきて、お店のオーナーから福澤さんを紹介されました。
翌日に福澤さんから電話がかかってきて、交際が始まったとのことです。
小川知子さんは福澤さんが亡くなる3日前に青山のレストランで会っていて、事故で亡くなった当日の午後10時頃に、付き人から福澤さんの死を知らされたそうです。
そしてその3日後、フジテレビの生放送番組「歌のスターパレード」に出演しますが、福澤さんの遺品を抱きながら「初恋のひと」を歌っていたのですが、歌っている途中に泣き崩れました。
このことで小川知子さんと福澤幸雄さんが交際していたことは既成事実となり、伝説化しました。
小川が初めて涙を流したのはそれから3日後のフジテレビ「歌のスターパレード」の生放送中だった。「初恋のひと」を歌いだすと、目から涙があふれて止まらなくなった。以降、小川は思い出を封印するかのように福沢のことを口にすることはなくなった。
ただ、小川知子さんは福澤幸雄さんの恋人ではなかったという意見もあります。
小川知子さんが幸雄氏の恋人では無かったことは間違いありません。5年程前のテレビ放送でも小川知子さんは、幸雄氏母上アクリヴィさん公認の結婚を前提とした仲だったと発言していましたが、これは真っ赤な嘘です。松田和子さんのみが恋人でした。個人的に小川知子さんを許せません。
真相はわかりませんが、小川知子さんも福澤幸雄さんの彼女であったなら、福澤幸雄さんは二股をかけていたということになります。
福澤幸雄は結婚していない
福澤幸雄さんは25歳で亡くなりましたが、結婚はしていません。未婚のまま亡くなりました。
事故で亡くなった当時、彼女は2人いたようですが、どちらが本命かはわからないものの、エピソードを聞いた感じでは、松田和子さんとは結婚を見越した交際だったように思います。
2人は福澤幸雄さんが高校生の頃からの付き合いでしたし、松田和子さんは当時32歳になっていましたので、結婚を視野に入れていたのではないでしょうか。
福澤幸雄は事故で死亡
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福澤幸雄さんは1969年2月12日に、事故で死亡しました。
1969年2月12日、静岡県袋井市のヤマハテストコースでトヨタのレーシングカー「トヨタ・7」のテスト走行が行われていて、福澤幸雄さんがドライバーとして乗っていました。
直線区間から1コーナーに向かう途中、福澤さんのマシンは突然コースアウトし、コース脇の芝生に建てられていた標識の鉄柱に激突し、さらに土手に激突して炎上しました。
同僚の細谷四方洋(ほそやしほみ)さんは、炎上する車の中から、自らの腕にやけどを負いつつも助け出そうとしましたが、シートベルトを外すことができませんでした。
そのため、福澤幸雄さんをマシンから救出することができたのは、消火活動が終わった後のことで、すでに死亡していました。
目撃証言によると、マシンは直線部分で突然動きが不安定になり、コースアウトして鉄柱に激突したとのことです。
福澤幸雄の死因
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福澤幸雄さんは25歳の若さで、レースマシンのテスト走行中に亡くなりました。死因は頭がい骨骨折による脳挫傷です。
解剖の結果、コースアウトして標識の鉄柱にぶつかった時点ですでに即死状態だったそうです。
そのため、同僚の細谷四方洋さんが炎上する中で救助しようとした時は、福澤幸雄さんはすでに亡くなっていたということです。
福澤幸雄の事故のその後:原因に関する主張・証言
福澤幸雄さんが死亡した事故のその後、事故の原因に関していろいろな主張・証言が出ました。
福澤幸雄側の主張
まず、福澤幸雄さんの遺族の主張です。
遺族は車両「トヨタ・7」に事故の原因があったと考えていました。空力や強度に問題があったり、マシントラブルが起こったのではないか?と考えていたようです。
また、福澤さんの父親によると、テスト走行前日の2月11日はとてもナーバスだったそうで、「できるなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」と話していたそう。
しかも、福澤さんの彼女だった小川知子さんも次のように証言していました。
事故の前夜、小川の泊まる大牟田の旅館に福沢から電話がかかってきた。福沢は「クルマがスリップするんだ。明日乗るの、イヤだな」と不安を漏らした。
父親にも彼女にも、テスト走行の車に乗りたくないと言っていたということは、よほど「トヨタ・7」に問題があったのでしょうか・・・。
友人の証言
同僚であり、事故を起こしたときに火傷を負いながらも福澤幸雄を救出しようとした細谷四方洋さんは、福澤幸雄さんは自信過剰になっていたと話していました。
「トヨタ7はル・マン24時間レースやカンナムレースも視野に入れていた。ル・マン用マシンは時速300kmを超えるのを目標に僕(細谷)がテストしていた。悪口のように聞こえたら本意ではないが、僕がマシンをテストし『もう少し煮詰めが必要』と述べたら、福澤君が『そのくらい乗れないでプロと言えますか』と言った。福澤君はセンスがあり速かったが、少し自信過剰になっていたかも知れない」
この意見は遺族や彼女の証言と真逆のものであり、自信過剰になっていたことから運転ミスを起こした可能性があると示唆しています。
トヨタ側の主張
トヨタ側はドライバーのミス、つまり事故原因は福澤幸雄さんにあったと主張しました。
トヨタとしては、マシンに原因があるとは認めることはできなかったのでしょう。
ただ、「トヨタ・7」では福澤幸雄さんだけではなく、約1年後の1970年のテスト走行で川合稔さんも死亡していますので、マシン側に何らかのトラブルが起こった可能性は否定できません。
また、トヨタは「企業秘密」を理由にして事故車両をすぐに片づけてしまい、警察に現場検証をきちんとさせませんでした。
また、証拠資料として提出した車両写真も「トヨタ・7」とは違うタイプのものだったそうで、トヨタの陰謀説も一部からはささやかれています。
福澤幸雄の事故の裁判と判決:原因は不明
福澤幸雄さんの事故では裁判が行われています。その判決を見ていきましょう。
不起訴相当で事故原因はわからず
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まず、刑事裁判からです。実は、刑事裁判は行われていないんです。
トヨタはドライバーである福澤幸雄さんに事故の原因はあると主張しており、そのことに怒りを覚えた福澤幸雄さんの父親は、トヨタの関係者を業務上過失致死傷・証拠隠滅で訴えました。
しかし、静岡地方検察庁は起訴するだけの証拠がないとして。浜松検察審査会が不起訴不当判決を出し、再捜査が行われても再度不起訴となっています。
トヨタ関係者が不起訴になっていますので、福澤幸雄さんの事故の直接的な原因がどこにあるのかはわからないままとなっています。
トヨタが見舞金を支払って和解
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この裁判は長引きましたが、事故から12年経った1981年、トヨタが遺族に6100万円を支払う形で決着しました。
しかし、ただ、これはトヨタが事故の原因はトヨタにあると認めたわけではないようですので、原因はわからないままなんです。
福澤幸雄のまとめ
福澤幸雄さんのプロフィールや経歴、彼女の松田和子さん・小川知子さん、結婚の有無、死亡事故の詳細や死因、事故のその後や原因、裁判判決などをまとめました。
福澤幸雄さんがもし、事故で死なずに生きていたなら、どのような活躍をされていたのでしょうか?