アニマル浜口さんは元プロレスラーでタレントとしても活躍していましたが、最近は露出が減っており、現在の活動が話題です。
今回はアニマル浜口さんの若い頃の経歴、結婚した嫁や子供(息子・娘)、現在の活動をまとめました。
この記事の目次
- アニマル浜口のプロフィール
- アニマル浜口の若い頃の経歴① 9人兄弟・中学生の頃から働く苦労人
- アニマル浜口の若い頃の経歴② 大人に囲まれた職場で度胸を養う
- アニマル浜口の若い頃の経歴③ ボディビルダーからプロレスの道へ
- アニマル浜口の若い頃の経歴④ アニマル浜口としてプロレス界を牽引
- アニマル浜口の若い頃の経歴⑤ 新日本プロレス・ジャパンプロレス等を経て引退
- アニマル浜口の若い頃の経歴⑥ 道場を開設、指導者に
- アニマル浜口の若い頃の経歴⑦ 娘への応援が話題になりタレントとしても活躍
- アニマル浜口が結婚した嫁は浜口初枝
- アニマル浜口の嫁・浜口初枝は最高の応援団
- アニマル浜口の子供① 娘は女子レスリングメダリストの浜口京子
- アニマル浜口の子供② 息子もレスリング選手・現在は道場の指導者に
- アニマル浜口の現在① テレビやイベントにも度々出演・娘と共演も
- アニマル浜口の現在② 今も週3回×1日4時間はトレーニングを指導
- まとめ
アニマル浜口のプロフィール
生年月日:1947年8月31日
出身地:島根県
所属事務所:不明
アニマル浜口さんの本名は「濱口平吾」で、かつてプロレスラーとして活躍。ボディビル指導者でもあり、近年はタレントとしての活動も目立ちます。
現役のプロレスラー時代は国際プロレスや新日本プロレスなどに所属し、ニックネームは「闘将」でした。
また、武蔵野学院大学で日本総合研究所の客員教授を務めているほか、「アニマル浜口レスリング道場」を主宰。
娘は、女子レスリングの銅メダリストでタレントの浜口京子さんであることでも知られています。
アニマル浜口の若い頃の経歴① 9人兄弟・中学生の頃から働く苦労人
アニマル浜口さんは9人兄弟の1人として誕生。
父親は事業を営んでいましたがうまくいかず、生活が困窮したことを理由に小学校5年生の時に、妹や母親とともに親戚の住む大阪府へと移住しました。
父親が大酒飲みでね。僕が生まれる前はたいそう羽振りがよかったらしく、大きな甕(かめ)にお札をぎっしりと詰め込んで、芸者遊びをしていたそうです。ところが、事業に失敗してからは酒を呑んだらよく暴れていました。母はもちろん、僕も小さいころから苦労させられました。貧乏生活でね、学校に弁当を持っていけず、昼休みになると水を腹いっぱい飲んで空腹を我慢したり。
中学2年生になると、1番上の兄のもとへ身を寄せ、牛乳配達のアルバイトをしつつ通学。
母親の勧めで再び大阪に戻って中学を卒業すると、家計を助けるために働かざるをえなく、高校進学を断念したといいます。
アニマル浜口の若い頃の経歴② 大人に囲まれた職場で度胸を養う
その後は、愛知県・東京都・神奈川県の工事現場で転々と働くも、酔っぱらって電車を止めてしまった先輩の姿を見たことで「いつまでこんな生活を続けるのか」と考え始めます。
そして16歳の時に一念発起して、大阪へと戻り、製鉄所へと就職しました。
アニマル浜口さんは若い頃から工事現場の先輩たちが酒で失敗してきたのをたくさん見てきたため、当時は「大人になっても酒は飲まない」と決めていたのだとか。
また、当時の経験がプロレスラーになってからも役立っているとも語っています。
下を見たらクルマがマッチ箱ぐらいにしか見えない高いところで、30cm幅の狭い板に乗って、35kgもあるドリルを使って作業したりしていました。落ちたら間違いなく死にますよ。そういう危険な仕事を転々としていました。周りにいる連中も荒くれ者ばっかり。そんななかに僕は一番若い16歳でいたんですから、知らず知らずのうちに度胸だってつきますよ。
アニマル浜口の若い頃の経歴③ ボディビルダーからプロレスの道へ
アニマル浜口さんは17歳の時にボディビルを始めます。
1969年には「ミスター兵庫コンテスト」で準優勝。同年、当時ボディビル界と深い繋がりがあったプロレス団体「国際プロレス」へと入団し、グレート草津さんの付き人となりました。
プロレスラーとしてのデビュー戦は、岡山県で行われた本郷清吉さんとの試合で、結果は反則負けに。
しかし、当時の国際プロレスには、のちに名コーチとなるカール・ゴッチさんやビル・ロビンソンさんといったレスラーが在籍。
そんな人たちから基礎を学ぶことで、アニマル浜口さんはレスラーとしての基盤を作り上げていくのです。
アニマル浜口の若い頃の経歴④ アニマル浜口としてプロレス界を牽引
出典:https://sportiva.shueisha.co.jp/
1970年には、レスリング金メダリスト・渡辺長武さんから、渡辺長武さんの代名詞であった「アニマル」を授けられ、「アニマル浜口」というリングネームに。
1972年・1976年には、アメリカでの海外修行も経験します。
ミスター・ヒトさんとのタッグを組んでからは、「インターナショナル・タッグ」で王座を獲得したほか、グレート草津さんとのタッグでも「IWA世界タッグ」で王座を獲得しています。
以降、アニマル浜口さんは国際プロレスの中心選手として華々しく活躍しました。
1979年に行われた「プロレス夢のオールスター戦」では、のちに盟友となる長州力さんと参戦し、話題に。
しかし翌年からは欠場が続き、新日本プロレスとの対抗戦では、木村健吾さんから技を受けた際に、観客が床にこぼしたビールが原因で足を滑らせ、後頭部を強打してしまいます。
失神したうえ、右足首を捻挫して長期欠場を余儀なくされました。
さらにその翌年の1981年も肝臓疾患を患い、欠場。国際プロレスが活動停止となった際も、アニマル浜口さんは当時欠場中だったといいます。
アニマル浜口の若い頃の経歴⑤ 新日本プロレス・ジャパンプロレス等を経て引退
アニマル浜口さんは、1981年に国際プロレス時代から一緒だったラッシャー木村さん・寺西勇さんとともに「国際軍団」を結成。
同年に開催されたプロレス団体「新日本プロレス」との対抗戦に出場しています。
国際プロレス時代とは打って変わり、以降はヒールとして活躍。1982年にはアントニオ猪木さんと国際軍団の3人というハンディキャップマッチが開催され、話題となりました。
そんなアニマル浜口さんは、過去に1度だけアントニオ猪木さんに褒められたことがあるのだとか。
ある日の試合前、猪木さんは新日本プロレスの選手を全員集めて檄(げき)を飛ばしたそうです。『俺はもう我慢がならない。お前らは俺と一緒にいながら何も盗んでない。アニマル浜口を見習え! アイツは俺の弟子でもなければ、新日の選手でもない。それなのに、俺が持っているものをみんな盗みやがった』うれしかったですね。
アニマル浜口さんは当時を振り返り、以下のようも語っています。
僕は国際プロレス時代、吉原功(よしはらいさお)社長や先輩たちに育てられましたが、レスラーとしてはまだ蕾(つぼみ)だった。それが少しずつ成長して、吉原社長にいただいたリングネームのとおり段々と”アニマル”となって、国際軍団のときに開花した。お客さんからの野次にエクスタシーさえ感じていて、もうノリにノッてましたからね。僕は自分のプロレス人生で、国際軍団の時代が最高だったと心の底から思います。
アニマルは浜口さんはその後、国際軍団から離脱。長州力さんらが率いる「維新軍」に合流しました。
維新軍では、副将格・参謀として活躍し、この頃から長州力さんとの深い交流が始まります。
その後の1984年、アニマル浜口さんは維新軍のメンバーらとともにプロレス団体「ジャパンプロレス」を創立。
全日本プロレスへと参戦し、翌年の1985年には、寺西勇さんとのタッグで「アジアタッグ」の王座を獲得しました。
しかし、1987年にジャパンプロレスが分裂。長州力さんらは新日本プロレスへと復帰しましたが、アニマル浜口さんはその流れに乗らず、引退を決意。
同年8月に「新日本プロレス両国国技館大会」で引退セレモニーを開催し、プロレス界を後にしました。
アニマル浜口の若い頃の経歴⑥ 道場を開設、指導者に
アニマル浜口さんはプロレスラーを引退後、アマチュアレスリング・柔道の経験者はもちろん、未経験のプロレスラー志望者なども対象とした「アニマル浜口レスリング道場」を開設。
プロレスラーの小島聡さん・大谷晋二郎さん・大森隆男さん・小原道由さん・SUWAさん・本間朋晃さん・TAJIRIさんなどを輩出し、日本有数のプロレスラー養成所として知られています。
また、アニマル浜口さんは指導者になるにあたり、自らも体を鍛え上げており、ボディビル大会である「ミスター東京」のシニア部門で優勝を果たしました。
1990年には、かつての精彩を欠いていた長州力さんの試合会場を訪れ、試合に乱入。
長州力さんを叱咤激励の上、何度も張り手を見舞ったほか、長州力さんを再び奮い立たせるために、対長州力さんのタッグマッチ戦限定で現役に復帰しました。
その際はビッグバン・ベイダーさんなどとタッグを組んでおり、今やアニマル浜口さんの代名詞とも言える「燃えろー」「気合いだー」といった掛け声は、この頃から発せられています。
その後、長州力さんとは一騎打ちを経て和解。タッグ復活なども果たしましたが、しばらくはセミリタイアの状態に。
1994年にプロレス団体「WAR」で再度の現役復帰を果たすと、翌年の1995年に天龍さん・北原光騎さんと「WAR6人タッグ」で王座を獲得。
王座を譲り渡して以降はリングからは遠のいているものの、再度の引退表明はされていません。
アニマル浜口の若い頃の経歴⑦ 娘への応援が話題になりタレントとしても活躍
アニマル浜口さんの娘・浜口京子さんは、2004年開催の「アテネオリンピック」に出場。
自身がプロレスラー時代から発している「気合いだー」という声援が話題となり、同年の「流行語大賞」でトップテンにも選出されました。
迷惑行為にもとらえられかねない、あまりにも派手な応援は、日本だけでなく世界各国から注目を集め、日本国内における同オリンピックの盛り上げに貢献したとも言われています。
また、その4年後の2008年開催の「北京オリンピック」でも、アニマル浜口さんの応援に対する姿勢は変わらず、浜口京子さんが連続でのメダル獲得となった瞬間に大歓喜。
大声で喜ぶ姿が日本だけではなく、世界各国のメディアで報じられたのだとか。
なお、開催国である中華人民共和国の公安当局からは要注意人物だとマークされていたらしく、行動や発言に制限があったとも報じられています。
アニマル浜口が結婚した嫁は浜口初枝
アニマル浜口さんは、1977年に嫁である初枝さんと結婚。
国際プロレス時代に、ラッシャー木村さんと酒を飲みに訪れた小料理屋で看板娘として働いていた初枝さんに一目惚れしたのだそう。
一方の初枝さんは、アニマル浜口さんを見た時に「ヤクザが来た」と身構えていたようで、ラッシャー木村さんと一緒だったことで安心したといいます。
アニマル浜口さんはやがて、初枝さんの店に通い詰めるようになったそうですが、ほどなくしてアメリカに遠征することに。
アニマル浜口さんは毎日のように海外から手紙を送ったほか、当時高額だったという国際電話も頻繁にかけていたそうです。
距離は離れていたものの、どんどんと心を近づけていった2人。
初枝さんもアニマル浜口さんが寂しい思いをしないようにと、毎日のようにレトルトのカレーやインスタントラーメン、日本の歌を入れたカセットテープなどを送っていたといいます。
アニマル浜口さんはそんな初枝さん優しさに触れ、「こんな女性、手放したら二度と現れない!」と思ったのだとか。
アニマル浜口の嫁・浜口初枝は最高の応援団
出典:https://img.sportsbull.jp
嫁の初枝さんは、結婚して娘の浜口京子さんを出産した後も、アニマル浜口さんの応援にプロレス会場へと足を運んでいたそう。
乳飲み子だった浜口京子さんをおんぶしながら喉がつぶれるまで声援を送り、アニマル浜口さんへ罵声を浴びせる客には哺乳瓶を投げつけることもあったそうです。
娘の浜口京子さんがプロレスラーを志していることを知った時には、けがなどの心配から反対したそうですが、父娘で頑張る姿に心を打たれて応援することに。
浜口京子さんが通っていたアマチュアレスリング道場を見つけてきたのも、実は初枝さんだそうで、毎朝ランニングする浜口京子さんの横を自転車で伴走するなどして支えました。
アニマル浜口の子供① 娘は女子レスリングメダリストの浜口京子
生年月日:1978年1月11日
出身地:東京都
所属事務所:ジャパンビバレッジホールディングス
アニマル浜口さんの娘である浜口京子さんの本名は「濱口京子」で、女子レスリング選手として活躍。
学生時代より女子プロレスラーになることを志望しており、父親のアニマル浜口さんが主宰する「アニマル浜口レスリング道場」でボディビルのトレーニングを開始しました。
レスリングを始めたのは14歳の時。1993年に「レスリング全国大会」でデビューを果たし、1996年には「全日本選手権」の70kg級で優勝しています。
翌年の1997年に「世界選手権」で優勝を飾るなど実績を重ね、2004年に開催された「アテネオリンピック」に女子レスリング72kg級で出場し、銅メダルを獲得しました。
2006年の「世界選手権」では女子72kg級決勝で対戦相手のスタンカ・ズラテバさんから頭突きを受け、鼻骨を4か所骨折。全治4か月と診断されました。
その後、2008年に開催された「北京オリンピック」でも銅メダルを獲得。2011年には「全日本選手権」で15度目の優勝を果たし、男女ともに歴代最多となる優勝回数を記録しました。
現在、引退宣言はしていないものの、レスリングからは遠のいており、数多くのバラエティ番組にも出演するなどタレントとしての活躍が目立ちます。
特に、2020年に放送されたフジテレビのバラエティ特番「まっちゃんねる」内の企画「女子メンタル」に出演したことが大きな話題を呼びました。
アニマル浜口の子供② 息子もレスリング選手・現在は道場の指導者に
生年月日:不明
出身地:東京都
所属事務所:不明
アニマル浜口さんの息子・浜口剛史さんは、社会人レスリング選手として活動しつつ、アニマル浜口さんが主宰する「アニマル浜口レスリング道場」で道場長(トレーナー)を務めています。
また、生年月日などの詳細はわかりませんが、浜口京子さんの弟にあたるのだそう。
2019年には「全日本マスターズ選手権」でA(35~40歳)78kg級で2度目の優勝を果たす実力派ですが、意外にも学生時代はレスリングをしていなかったといいます。
姉の浜口京子さんの練習相手を務めるうちに、「全日本社会人選手」や「全国社会人オープン選手権」などの社会人大会に出場するようになったのだとか。
プライベートでは2人の男児の父親で、息子の浜口京太郎くんは過去に、TBS系バラエティ番組「水曜日のダウンタウン」にも出演。
「おじいちゃんによる孫笑わせ選手権」という偽企画で孫が一切笑わない、というドッキリに協力していました。
アニマル浜口の現在① テレビやイベントにも度々出演・娘と共演も
アニマル浜口さんは、現在もタレントとしてテレビやイベントなどに多数出演しています。
フジテレビ系トーク番組「ジャンクSPORTS」や、TBS系バラエティ番組「炎の体育会TV☆スポーツ仰天図鑑!とんでもない衝撃ネタ40連発SP!」などスポーツ関連番組に多数出演。
また、前述にもあるTBS系バラエティ番組「水曜日のダウンタウン」への出演も多めです。
日本テレビ系列「うわっ!ダマされた大賞 2021年末スペシャル」、TBS系列「ニンゲン観察モニタリング★呪術廻戦コラボオーデションで衝撃結末SP」といったドッキリ番組にも出演。
娘である浜口京子さんとの共演も多く、2021年に行われたPOLAのイベントにも親子で出席。
「思いやりのある男性と結婚してほしい」と、結婚願望は強いが良縁に巡り合えていないという浜口京子さんの成婚を願う一面もありました。
アニマル浜口の現在② 今も週3回×1日4時間はトレーニングを指導
アニマル浜口さんは2021年、あまり姿を見かけなくなった?と心配する「週刊女性PRIME」の取材に対し、以下のように元気に対応しています。
ちょっと待て、ちょっと待て。日課として、道場で声を出しながら走り回るトレーニングを30分やり、その後ウエイトトレーニングも1時間やっています
今年74歳になるんだけれど、元気ですよ。俺は1億歳まで生きようと思ってます。ワッハッハー!
また、アニマル浜口さんは取材に対し、自身の主宰する「アニマル浜口レスリング道場」で週3回・1日4時間の指導をしていると語りました。
ただし、新型コロナウィルス感染拡大が懸念されている状況のため、密を避けてスパーリングはしていないそう。
生徒やコーチはマスク着用で発声しないようにしているが、アニマル浜口さんだけは距離をとりながらも声を出しているといいます。
テレビ出演に関してもロケを終えたばかりだと語り、あふれんばかりの元気っぷりを伝えていました。
まとめ
アニマル浜口さんは父親が事業を失敗して以降は、9人兄弟だったことから、家計を助けるために高校進学をあきらめ、若い頃から働きに出ていました。
その後、ボディビルダーを経てプロレスラーとなったアニマル浜口さんは、その才能を開花。
国際プロレス、新日本プロレス、ジャパンプロレスといったプロレス団体で活躍したほか、遠征先のアメリカでも活躍を見せます。
ラッシャー木村さんらとの「国際連盟」ではヒールとして活躍し、長州力さんとのタッグでも活躍。
引退後は「アニマル浜口レスリング道場」を開設し、何人ものプロレスラーを輩出してきました。
プライベートでは、一目惚れしたという嫁の初枝さんと結婚。
そんな初枝さんもまた、アニマル浜口さんの試合で罵声を浴びせる観客に娘の哺乳瓶を投げつけたというエピソードがあるほど熱いパッションの持ち主です。
2人は浜口京子さん・浜口剛史という2人の子供にも恵まれ、浜口京子さんは女子レスリングでメダリストにまで上り詰めました。
そんなアニマル浜口さんは現在も多数のテレビに出演しているほか、運営する道場でトレーニングの指導も継続しています。
今後も、末永くお元気でいてほしいものですね。