往年の大物俳優・大女優の中には、現代から見ると驚くような破天荒&奔放なプライベートエピソードを持っている人がいます。その1人が昭和の大女優である山田五十鈴さんです。
山田五十鈴さんのプロフィールや若い頃の美人画像、経歴や結婚した4人の旦那や子供、隠し子の噂、孫の有無、家系図、晩年の自宅や死因や遺産などをまとめました。
この記事の目次
山田五十鈴は昭和の大女優
出典:nikkei.com
山田五十鈴
生年月日:1917年2月5日
没年月日:2012年7月9日
出身:大阪府大阪市
所属:東宝映画など
活動:女優
山田五十鈴さんは昭和の大女優です。
戦前からトップ女優として日本映画界で活躍し、戦後も映画や舞台で活動し続け、水谷八重子、杉村春子さんとともに「三大女優」と呼ばれています。
1993年には文化功労者を受賞、2000年には文化勲章を女優として初めて受章しています。
山田五十鈴の若い頃が美人
晩年の山田五十鈴さんは、「貫禄がある女優」というイメージが強いと思います。特に、若い世代の人たちは、「必殺仕事人」シリーズのちょっと怖いイメージがあるかもしれません。
でも、山田五十鈴さんは若い頃は美人で可憐な女優でした。
これらの写真を見ると、山田五十鈴さんのイメージが変わるのではないでしょうか?面長で少し下膨れ気味で、なで肩で着物が似合うかわいい女優です。
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この写真の山田五十鈴さんは、とてもチャーミングですよね。
このように若い頃がチャーミングであれば、山田五十鈴さんが恋多き女優・ロマンスが多い女優であることも納得できます。
山田五十鈴の経歴
生い立ち
山田五十鈴さんは大阪府大阪市で生まれました。父親は新派俳優で女形をやっていた山田九州男、母親は北新地の芸者でした。
芸者だった母親の意向で、数え年で6歳の時から常磐津、長唄、清元、日本舞踊の稽古をしていました。父親は俳優、母親は芸者で幼いころから芸事の稽古をしていたとなると、山田五十鈴さんはなるべくして女優になったと言えるでしょう。
父親の俳優の仕事の関係で、1925年には家族そろって上京します。しかし、父親は満州に巡業に行ってしまい、山田五十鈴さんと母親は清元梅吉の内弟子になり、名取になりました。その後、宝塚に引越して、清元の師匠として母娘で生計を立てていました。
映画界で女優デビュー
父親が日活太秦撮影所の所長を知っていた縁で、1930年になると日活太秦撮影所に入社しました。この時の月給は幹部女優並みの100円です。13歳の新人女優なのに、幹部女優並みの月給だったということは、この頃から何かしら光るものを持っていたのかもしれません。
デビュー作は1930年の『剣を越えて』で、大河内傳次郎の相手役でした。
その後も、オールスター特作『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻』に異例の抜擢で出演し、デビュー1年目で15本の映画に出演し、その後も一流監督の作品に「可憐なヒロイン」で出演し続け、日活時代劇のトップ女優になりました。
この時、まだ10代半ば。10代半ばで日活のトップ女優。本当にすごいです。
第一映画社や東宝でトップ女優に
1934年には第一映画社に移籍します。そこで立て続けに映画に主演し、結婚・出産を経て、すぐに女優に復帰します。
復帰後には山田五十鈴さんの出世作とも言える『祇園の姉妹』に主演しました。この『祇園の姉妹』での演技が高く評価され、この時に一生女優を続けていくことを決意しました。
その後、1938年には東宝映画に入社し、『鶴八鶴次郎』や『蛇姫様』『昨日消えた男』『婦系図』などで長谷川一夫と共演したほか、『新篇丹下左膳』シリーズや渡辺邦男監督の『新妻鏡』、成瀬監督の『上海の月』に出演し、トップ女優としての地位を確立しました。
戦後は演技派女優に
太平洋戦争が終わると、1946年には映画「檜舞台」で映画に復帰しました。1950年代にはたくさんの映画に出演し、その演技派高く評価されています。この時期に山田五十鈴さんが出演した映画の一部を見てみましょう。
・亀井文夫監督:『母なれば女なれば』『女ひとり大地を行く』
・関川秀雄監督:『ひろしま』
・成瀬監督:『流れる』
・豊田監督:『猫と庄造と二人のをんな』
・小津安二郎監督:『東京暮色』、
・黒澤明監督:『蜘蛛巣城』『どん底』
・渋谷実監督:『悪女の季節』『もず』
・市川崑監督:『ぼんち』
また、この時期には映画賞を多く受賞しています。1950年代の山田五十鈴さんの映画賞の受賞歴はこちらです。
<ブルーリボン賞>
・1952年:主演女優賞『現代人』『箱根風雲録』
・1955年:助演女優賞『たけくらべ』『石合戦』
・1956年:主演女優賞『母子像』『猫と庄造と二人のをんな』『流れる』
<毎日映画コンクール>
・1952年:女優主演賞『現代人』『箱根風雲録』
・1956年:女優主演賞『母子像』『猫と庄造と二人のをんな』『流れる』
<キネマ旬報ベスト・テン>
・1956年:女優賞『猫と庄造と二人のをんな』『流れる』
・1957年:女優賞『蜘蛛巣城』『どん底』『下町』
<芸術選奨文部大臣賞>
・1958年:『蜘蛛巣城』
山田五十鈴さんは1950年代の活躍で、名実ともに日本を代表する女優としての地位を確立しています。
舞台やテレビの世界でも活躍
1959年ごろから映画出演と並行して舞台出演が増えていき、1962年には東宝演劇部と専属契約を結び、舞台での活動に力を入れていきました。この頃から山田五十鈴さんは杉村春子さんや水谷八重子さんと共に「三大女優」と呼ばれるようになりました。
山田五十鈴さんの舞台の代表作は「たぬき」です。この「たぬき」では1974年の芸術祭で大賞、1982年の第8回菊田一夫演劇賞大賞を受賞しています。
「狐狸狐狸ばなし」、「香華」、「女紋」、「淀どの日記」、「千羽鶴」、「女坂」、「菊枕」、「たぬき」、「しぐれ茶屋おりく」、「三味線お千代」の10作品は五十鈴十種と呼ばれています。
山田五十鈴さんは活躍の場をテレビドラマにも広げ、大河ドラマの「赤穂浪士」や必殺シリーズなどが代表作になっています。
1980年代になるとドラマや舞台、映画の出演本数は少なくなっていき、2002年には脳梗塞を発症して表舞台に出ることは亡くなりました。2001年に「桜の園」の朗読会、テレビは「芸能花舞台」に出演したのが最後の出演となっています。
山田五十鈴の結婚した旦那①:月田一郎
山田五十鈴さんは生涯で4回結婚しています。
1回目の結婚は1936年のこと。山田五十鈴さんは19歳でした。結婚相手は俳優の月田一郎です。
月田一郎は1931年に松竹からは「31年型美男子」と宣伝されて売り出され、準主役~主役として活躍します。1934年からは第一映画社に参加して、そこで山田五十鈴さんと知り合います。
第一映画社の第一回作品の「建設の人々」で山田五十鈴さんと月田一郎は共演し、それ以降も山田五十鈴さんと月田一郎は共演をしました。
そして、山田五十鈴さんは主演作の「折り鶴お千」(1935年公開)の撮影中に妊娠して、1935年3月に長女を出産しました。
Wikipediaなどによると、山田五十鈴さんが月田一郎と結婚したのは1936年のようですから、長女を出産した後に結婚したことになります。
出産後はすぐに、山田五十鈴さんは女優として復帰し、主演作・話題作が続き、女優としての地位を確立していきます。しかし、旦那の月田一郎は結婚後はあまり役に恵まれず、夫婦間に格差が生まれ、夫婦仲に亀裂が入りました。
1940年には別居して、1942年には山田五十鈴さんは月田一郎と離婚しました。長女の親権は訴訟を起こして争われましたが、元旦那の月田一郎が持つことになり、山田五十鈴さんは長女と離れて暮らすことになります。
山田五十鈴の結婚した旦那②:滝村和男
山田五十鈴さんは1942年に最初の旦那の月田一郎と離婚し、その後すぐに映画プロデューサーの滝村和男と再婚しました。しかし、結婚生活は長続きせず、翌年の1943年には離婚しています。
20代半ばにして、2回の離婚歴がある。しかも、まだまだ女性の地位が低かった戦前に2回も離婚に踏み切れたのは、山田五十鈴さんがトップ女優だったからでしょう。
山田五十鈴の結婚した旦那③:加藤嘉
山田五十鈴さんの3回目の結婚は1950年のことです。3回目の結婚相手は、俳優の加藤嘉です。
加藤嘉は1940年に新築地劇団付属研究所に入所し、俳優の道を歩き始めました。戦後は映画やドラマで活躍しました。
山田五十鈴さんと加藤嘉は、1950年に公開された映画『影法師』で共演して知り合います。そして、結婚することになりました。山田五十鈴さんは3回目の結婚でしたが、加藤嘉さんも3回目の結婚。バツ2同士の結婚です。
加藤嘉は共産党員だったため、その影響を受けて、五十鈴さんの思想も左翼化していきました。
51年、民芸に入団、思想的に左旋回し「人民女優」とのレッテルを貼られて苦労した時期もあった。
そのため「人民女優」というレッテルを張られ、GHQによって共産党員や支持者が解雇された「レットパージ」の対象にもなりました。山田五十鈴さんは、意外と交際している男性や旦那の影響を受けやすいタイプなんですね。
しかし、1954年2月に「家庭と仕事の不成立」を理由に山田五十鈴さんと加藤嘉は協議離婚しています。
山田五十鈴の結婚した旦那④:下元勉
山田五十鈴さんの4回目の結婚相手は、下元勉です。下元勉とは、前の旦那の加藤嘉と1954年2月に離婚が成立した直後に再婚しました。下元勉は高知県出身の俳優で、1936年に新協劇団研究所に入所し、戦争が終わり復員した後に1950年に劇団民藝の創立に参加しています。
前の旦那の加藤嘉も劇団民藝の創立に参加していますし、山田五十鈴さんも1951年に劇団民藝に参加しました。ということは、山田五十鈴さんは劇団民藝内で加藤嘉と知り合って結婚・離婚し、その後に同じ劇団内ですぐに再婚したということになります。
加藤嘉との離婚は仕事と家庭の不成立による協議離婚でしたが、もしかしたら劇団内で三角関係があり、その関係で3回目の離婚・4回目の結婚となったのかもしれませんね。
ただ、この下元勉とは正式に結婚していないという情報もあります。
その間、劇団民芸の下元勉との噂が流れ「6度目の結婚?」などと騒がれたが、当人たちは否定も肯定もしなかった。
その後は、加藤と同じ民芸の俳優・下元勉と同棲していたというが、彼にも妻子があった…。
正式に結婚していたのかどうかは不明ですが、山田五十鈴さんと下元勉が夫婦同然の関係だったことは間違いないでしょう。
山田五十鈴は若い頃から恋多き女優
4回の結婚をした山田五十鈴さんですが、若い頃から恋多き女優として有名でした。18歳で出産し、4回も結婚しているのですから、「恋多き女優」であることは間違いないでしょう。
しかも、この4回の結婚以外にもわかっているだけで2回も不倫をしています。
1回目の不倫相手は花柳章太郎です。花柳章太郎は女形の役者で人間国宝になった俳優です。花柳章太郎とは、1943年の共演をきっかけに恋愛関係になりました。
花柳章太郎はこの時結婚していたものと思われますし、山田五十鈴さんは2番目の夫と離婚するかどうかという時期でした。
2回目の不倫相手は、映画監督の衣笠貞之助です。1946年に衣笠貞之助監督の『或る夜の殿様』に出演して、恋愛関係になっています。この時、山田五十鈴さんは独身でしたが、衣笠貞之助には妻子がいました。しかし、山田五十鈴さんと衣笠貞之助は経堂に家を建てて、同棲していました。
「男を食って大きくなった女優」ともいわれた。新派の花柳章太郎氏などとの交流から新派の女形芸を吸収した。
山田五十鈴さんは男性と恋愛関係になり、そこでの経験を自分の芸・演技に結び付けていったと言われています。
山田五十鈴の娘は嵯峨三智子
出典:cinema.ne.jp
瑳峨三智子(嵯峨三智子)
生年月日:1935年3月1日
没年月日:1992年8月19日
出身:京都府京都市
活動:女優
山田五十鈴さんには娘が1人います。女優だった嵯峨三智子さんです。山田五十鈴さんは最初の旦那である月田一郎との子供を妊娠し、1935年3月に出産しました。その子が嵯峨三智子です。
出産後は一緒に生活をしていましたが、月田一郎と1942年に離婚し、親権は月田が持ったために、その後は離れ離れで生活します。
1945年には元旦那の月田一郎がメチルアルコール中毒で死亡しますが、その後も山田五十鈴さんは親権を持たずに、月田一郎の両親(嵯峨三智子の祖父母)が育てました。
山田五十鈴さんが娘の嵯峨三智子さんと再会したのは1952年以降のことです。嵯峨三智子さんが1952年に東映に入社して女優デビューしてから十数年ぶりに会いました。
ただ、娘の嵯峨三智子さんにとっては、「母親に捨てられた」という思いが強かったためか、母親の山田五十鈴さんのことを「山田さん」と呼んだそうです。
ここで初めて母と十数年ぶりに対面した瑳峨は「山田さん」と呼び、「お母さん」と呼ぶことはなかった。
娘の嵯峨三智子さんは艶っぽい妖艶な演技をする女優でしたが、恋愛関係だった俳優の森美樹がガス中毒死亡し、そこから転落人生が始まりました。
俳優の岡田真澄さんと婚約するも結婚せずに婚約解消。さらに金銭トラブルや薬物問題などを起こして、失踪と芸能界復帰を何度か繰り返し、芸能界からも去ることになりました。
一時は、「山田五十鈴を継ぎたい」と言い出したこともあったようです。
その後はホステス、クラブのママをしていましたが、1992年にバンコクでクモ膜下出血を起こし死亡しています。娘の訃報を聞いた山田五十鈴さんは舞台の稽古中だったために、タイには行かなかったそうです。
92年に旅行先タイで瑳峨三智子さんが急死したとき、舞台けいこ中だった山田さんは、「舞台を前に行くことはできません。それが私の宿命です」と女優魂を見せた。
ただ、それでも娘の嵯峨三智子さんと一緒に入るためのお墓を京都市内に用意していたので、娘への愛情がなかったわけではないようです。
山田五十鈴の子供は太地喜和子という噂も・・・
山田五十鈴さんの子供は元女優の嵯峨三智子さん1人だけですが、隠し子がいるのではという噂もあります。その隠し子とは、女優の太地喜和子さんです。
太地喜和子さんは「杉村春子の後継者」と期待されていた女優で、『藪の中の黒猫』や『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』などに出演していました。
この太地喜和子さんは自分の生い立ちについて、「自分はさる事情から、生後すぐ実母との別離を余儀なくされ、養父母の元に引き取られたと高校在学中に知った」と話しています。
また、樹木希林さんに「あたしの母親は山田五十鈴」と言っていたと伝えらえています。
喜和子は文学座の演劇研究所に入った当時、まだ悠木千帆という芸名だった先輩の樹木希林に『あたしを誰だと思ってんの。あたしの母親は山田五十鈴なのよ』と言っていた。喜和子は酔うとよく“母親は山田五十鈴”と口走っていた。
あくまで酔った勢いで言ったことですし、証拠になるものは何もありません。ただ、山田五十鈴さんの奔放な男性関係などを考えると、可能性としてはゼロではないかもと思えてきます。
山田五十鈴に孫はいない
山田五十鈴さんには孫はいません。子供は嵯峨三智子さん1人だけです。嵯峨三智子さんには子供がいません。もし、前述のように太地喜和子さんが隠し子だったとしても、太地喜和子さんにも子供はいないので、山田五十鈴さんには孫はいないことになります。
井上和香が孫というのはデマ
ネット上ではタレントの井上和香さんの母親が嵯峨三智子さんであるという噂があります。つまり、井上和香さんが山田五十鈴さんの孫ということになりますが、この噂はデマです。
井上和香さんの母親は元女優の嵯峨京子さんです。嵯峨三智子さんではありません。同じ「嵯峨」姓で混同した人が、「井上和香は山田五十鈴の孫だ」と勘違いしたものと思われます。
山田五十鈴の家系図
山田五十鈴さんの家系図はこちらです。
この家系図を見ただけで、五十鈴さんが恋多き女優だったことがわかりますね。
同棲相手を加えたら、さらに派手な家系図になりそうですが、「家系図」というよりも山田五十鈴さんの恋愛関係図になりそうですね。
山田五十鈴の晩年の自宅は帝国ホテル
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山田五十鈴さんの晩年の自宅は帝国ホテルでした。
元々は京都に自宅があったのですが、1980年ごろに京都の自宅を引き払い、帝国ホテルの一室を借りて生活していました。
平成24年に95歳で亡くなった女優の山田五十鈴さんは長年、東京の都心にある帝国ホテルで暮らしていた。1人暮らしの山田さんは「意外に合理的なのです」と語っていた。
帝国ホテルを自宅にした理由は安全面が保障されているし、家政婦を置く必要もない。また、帝国劇場がすぐ近くにあるので、舞台人である山田五十鈴さんにとっては都合が良かったのでしょう。「帝国ホテル」はステータスもありますし。
帝国ホテルの一室を自宅代わりにしていたなんて、さすが昭和の大女優。規格外の私生活でカッコいいです。
山田五十鈴の死因
出典:zakzak.co.jp
山田五十鈴さんは2002年4月に脳梗塞を発症して入院し、その後は都内近郊の高齢者病院に移ってリハビリをしていました。最初の頃は、女優復帰に意欲を見せていましたが、晩年は三味線も弾けなくなり、認知症の症状も出ていたとのこと。
そして、2012年7月9日に東京都稲城市にある病院で亡くなりました。死因は多臓器不全です。95歳でした。亡くなった当日の昼には意識があり、三味線のテープを聞きながら楽しそうにしていたとのことですが、夜に容体が急変して、医師と看護師に看取られて亡くなりました。
葬儀は青山葬儀場で喪主を置かずに行われ、山田五十鈴さんを慕う「養子会」のメンバー(市村正親や松井誠、高嶋政伸ら)600人が参列しました。
山田五十鈴さんの一人娘である嵯峨三智子さんは1992年に亡くなり、天涯孤独の身でしたが、多くの俳優に慕われ、子供のような存在の人はたくさんいたんですね。
山田五十鈴の遺産
山田五十鈴さんは2012年に亡くなりましたが、気になるのは遺産の行方です。長年にわたり、帝国ホテルで生活するくらいの財産があった山田五十鈴さんですが、子供の嵯峨三智子さんはすでに亡くなっていますので、遺産を相続する人はいないはずです。
もし、遺産を相続する人がいなければ、国庫に納められることになりますが、両親と娘の嵯峨三智子さんと一緒に入るお墓が京都にあるとのことですので、そこの管理費に充てるように遺言書などを残したり、各種手続きをしていた可能性はあると思います。
山田五十鈴のまとめ
山田五十鈴さんのプロフィールや若い頃の美人画像、女優としての経歴、結婚した旦那や恋愛遍歴、子供や隠し子の噂、孫がいるというデマ、家系図、晩年の帝国ホテル暮らしや死因と遺産をまとめました。
山田五十鈴さんのような大女優は今後出てこないような気がします。まさに「昭和の大女優」という人生だったと思います。