イタリアに拠点を置くファッションブランドのアンテプリマ。このアンテプリマを立ち上げたのが日本人の荻野いづみさんです。
荻野いづみさんのプロフィールや生い立ち、若い頃の結婚や離婚後の経歴、現在の旦那や子供、自宅と現在をまとめました。
この記事の目次
荻野いづみはアンテプリマのデザイナー
出典:nikkei.com
荻野いづみ
生年月日:1954年12月30日
出身:東京都
職業:クリエイティブ・ディレクター
荻野いづみさんは、イタリアのミラノに拠点を置くファッションブランドのANTEPRIMA(アンテプリマ)のクリエイティブ・ディレクターです。1993年にアンテプリマを立ち上げ、1998年にはミラノコレクションに参加するようになりました。
その後、アンテプリマの象徴になったワイヤーバッグが大人気になり、ハローキティやNTTドコモとコラボするなどアンテプリマを成長させ、現在ではアンテプリマは世界に80店舗以上を抱える有名ブランドになりました。
荻野いづみさんは60代になっても第一線で活躍しているなど、そのセンスや生き方、世界で活躍する日本人女性として注目を集めています。
荻野いづみの生い立ち
出典:wirebag.jp
荻野泉さんは1954年に東京都で生まれました。
実家は新宿の一等地にあり、父方は銀座で帯屋・帯吉を営んでいたので、裕福な子供時代を送りました。父方が「帯屋」をやっていたこともあり、とても日本的な家だったとのことです。
中学からは成城学園に進学し、高校もそのまま成城学園に進学しました。学生時代は実家の帯屋でアルバイトをして、日本の伝統美に触れたり、ビジネスセンスを培ったとのことです。
大学もそのまま内部進学をして、成城大学文芸学部に進学しました。中学から大学まで一貫して成城学園というのは、荻野いづみさんは本当にお嬢様だったんですね。
荻野いづみは若い頃に国際結婚
20歳で結婚して渡米
成城学園文芸学部に進学した荻野いづみさんですが、なんと3年生の時に20歳で国際結婚をしています。20歳で国際結婚ってすごいですよね。結婚したことで、荻野いづみさんは成城大学を中退しています。
旦那さんはイギリスと日本のクォーターでした。
対照的に結婚相手はクオーター。義父との朝食にはホットケーキが出てきて、義父はガウンを着て葉巻を嗜んでいるんです。真反対の世界に足を踏み入れてしまった! と思いました。
結婚した時は日本にいましたが、その後旦那さんの仕事がアメリカでしかできないという事情があり、アメリカに移住しました。アメリカでは専業主婦でしたが、旦那さんの仕事のサポートのために現地の人と交流する必要があり、料理やお花などを習っていたとのことです。
帰国後は出産&習い事
20歳で結婚して渡米した荻野いづみさんは、その後帰国して、24歳で長男を出産しました。子供が3歳になるまでは育児に没頭していたとのことです。
日本に戻って24歳で長男を出産すると、3歳までは育児一筋でした。
ただ、家にこもって子供とずっと一緒にいるというわけではなく、いろいろな習い事もしていました。
・英文タイプ
・英会話
・料理
・ヘアメイク
・フラワーアレンジメント
・ジュエリーデザイン
子供のインターナショナルスクールのPTA副会長もしていたとのことですので、荻野いづみさんはとにかくいろいろなことにチャレンジするパワフルでエネルギッシュな女性であることがわかります。
29歳で離婚
出典:numero.jp
日本で子育てをしていた時期、日本はバブル経済がやってきて、荻野いづみさんの旦那さんは仕事が忙しくなり、夫婦間ですれ違いが出てくるようになりました。そして、離婚することになります。
すれ違いというよりも、荻野いづみさんは専業主婦が向いていないタイプだったのかもしれません。
でもひとりだけ、広告代理店の方に、「いづみちゃん、20年後に旦那さんに別れてくれって言われたらどうするの?」と言われて、ハッとしたんです。「今はいいかもしれないけれど、このままただお金だけがある生活はやめたほうがいいかもしれないね」って。
引用:(2ページ目)20歳で結婚→離婚後、6歳の息子と香港へ→38歳でアンテプリマ設立 荻野いづみ(69)が語った“決断”
29歳の時に、荻野いづみさんは離婚して、息子との2人の生活が始まりました。
荻野いづみの旦那は荻野正明
出典:senken.co.jp
荻野いづみさんは29歳で離婚しましたが、34歳~35歳で再婚しました。再婚相手は、実業家の荻野正明さんです。
荻野正明さんは1941年・大阪生まれで、神戸外国語大学を卒業すると、中堅の繊維商社に入社しました。香港駐在などを経験し、1970年に独立して、パートナーたち4人でフェニックス・香港を立ち上げ、順調に事業を拡大させていきました。
日本からメリヤス糸を輸入し、香港のニット・メーカーに売りさばく事業をゼロから作り上げました。4年後に独立し、セーターの日本向け輸出額では香港トップの会社になった。
その後、荻野いづみさんと出会い、プラダのアジア市場での独占販売権契約を結び、1992年にはアンテプリマを立ち上げます。
その後、1996年に高級志向のシティスーパーを立ち上げ、現在はフェニックスグループの会長を務めていると共に、香港とのつながりを大切にして香港で起業する日本人を支援し相互扶助の場でもある香港和僑会の会長を務めています。
華僑に学び、海外で起業する日本人たちの相互扶助の場として生まれた和僑会。香港和僑会と和僑総会の会長を兼務する荻野正明さんに聞いた。
この荻野正明さんが経営するフェニックスグループがアンテプリマの経営母体ですので、夫婦二人三脚でアンテプリマを成長させてきたということになります。
荻野いづみと旦那の馴れ初め
荻野いづみさんと旦那の荻野正明さんの出会いは、友人を介したパーティーです。荻野いづみさんが離婚後に宝石や毛皮のセールスの仕事をするようになり、その関係で開いたパーティーに荻野正明さんが来ていて知り合いました。
知り合った後に、荻野いづみさんにプラダのアジア代理店経営の話が来て、荻野正明さんに出資を頼み、ビジネスパートナーになりました。
そこで、パーティに来ていた今の主人に「こういうブランドを立ち上げたいのですが、出資にご興味ありませんでしょうか?」と声をかけて、一緒にやることになりました。
引用:(2ページ目)20歳で結婚→離婚後、6歳の息子と香港へ→38歳でアンテプリマ設立 荻野いづみ(69)が語った“決断”
最初はビジネスパートナーだったようです。このプラダのアジア代理店がうまくいったことも関係したのか、知り合ってから5年後に荻野いづみさんと荻野正明さんは結婚しました。
荻野いづみさんも荻野正明さんも再婚でした。
荻野いづみの離婚後の経歴
29歳で香港移住
出典:senken.co.jp
29歳で離婚した荻野いづみさんは宝石や毛皮のセールスの仕事に携わるようになり、そのタイミングでプラダの極東代理店経営の話が舞い込みました。
この頃のプラダはまだイタリアのミラノにお店があるだけで、現在のような世界的なハイブランドというわけではなく、今後成長してアジア展開・出店を見込んでいる状態でした。
後の夫となる荻野正明さんに出資してもらって、荻野いづみさんは息子と共に香港に渡り、プラダのショップを香港のラグジュアリーホテルである「ザ・ペニンシュラ香港」に第一号店をオープンさせます。
その後、香港島のセントラルビルやシンガポールの伊勢丹にもオープンさせ、プラダのアジア進出を成功させました。
その後、1992年にプラダがMIUMIUを立ち上げることになると、自身が経営する代理店の株をプラダに売却するなど少しずつプラダから離れ、1994年に代理店契約が終了のと同時に完全にプラダから離れる事になりました。
アンテプリマ設立
出典:asahi.com
このプラダから離れる事になった時期に立ち上げたのが、アンテプリマです。荻野いづみさんはデザイン経験はありませんでしたが、プラダでの経験や主婦時代のジュエリーデザインなどの経験を生かして、自身がクリエイティブ・ディレクターに就任して、靴とバッグのブランドとしてスタートしました。
1995年には拠点を香港からイタリアのミラノに移し、1998年からはミラノコレクションに公式参加を続けています。ミラノコレクションに公式参加をしている日本人女性が手掛けるブランドはアンテプリマだけです。
また、この時期にアンテプリマの代名詞にもなったワイヤーバッグを発表し、大人気になりました。ワイヤーバッグは今までに累計100万個を販売しているとのことです。
これを編んだのが、累計100万個を販売した「ワイヤーバッグ」です。98年からはミラノコレクションにも参加し始めました。
その後、アンテプリマは成長を続け、10カテゴリーのライセンス展開を行い、世界中に店舗をオープンさせています。
それまでの功績が評価されて、2016年にはイタリアで「TAOMODA AWARDS」を受賞しています。
そのようなことがイタリアで認められて、今年7月にはファッションを通して文化貢献をしたと「TAOMODA AWARDS」をいただくことになっています。
引用:「アンテプリマ」荻野いづみさんに聞く 30周年機にアーティストとの協業強化 物だけでなくカルチャーを伝える | 繊研新聞
このTAOMODA AWARDSを受賞した時には、シチリア島の古代円形劇場でコレクションステージを披露しています。
荻野いづみの子供は1人
荻野いづみさんには子供が1人います。24歳の時に息子を出産しています。香港やミラノでバリバリ仕事をして、アンテプリマを立ち上げた荻野いづみさんですが、子育てに関してはいろいろ大変な思いをしたようです。
3歳まで100%の愛情を注ぐ
24歳で出産した時には、荻野いづみさんは前の旦那さんと結婚していて専業主婦をしていました。
そのため、子供が3歳になるまでは子育てにすべてを注いだそうです。育児書をたくさん読んで、息子とは24時間いつも一緒。1歳半からはインターナショナルスクールに入れて、とにかく話しかけ続けたとのこと。
息子さんが3歳になるまではとにかく全力で子育てをして、しかも楽しんでいたという自信があると語っていました。
3歳までは心身をなげうって、しかも楽しんで子育てをしたという自信があります。だから、今までやってこられたのだと思います。
子供が小さい頃は子育てに全力を注いだ荻野いづみさんでしたが、離婚後にその生活は一変することになります。
香港移住後は子育てがうまくいかなくなる
香港でのプラダ代理店経営のために離婚後に息子と香港に移住した荻野いづみさんは、仕事にまい進することになります。夜に仕事の付き合いで家を空けることも多くなり、息子さんはフィリピン出身のお手伝いさんに任せることが増えました。
フィリピンのお手伝いさんだったこともあり、息子さんはすぐに英語を覚えたし、勉強も頑張っていたのですが、環境の変化にストレスを感じていたようです。
離れて暮らすことに
荻野いづみさんは仕事と子育ての両立がうまくいかなかったのか、香港に移住して1年後には息子さんを前の旦那に預けることになりました。それでも息子さんはその生活に適応できなかったようで、その後は日本に住んでいる荻野いづみさんのご両親と一緒に暮らすことになりました。
香港に移住したのは荻野いづみさんが29歳~30歳の頃。息子さんは5~6歳です。香港移住1年後には息子さんと離れて暮らすことになったのですから、息子さんが小学生の頃はあまり一緒に生活していないのかもしれませんね。
息子は留学したが・・・
出典:fujingaho.jp
15歳になった息子さんはアメリカのボストンに留学しました。しかし、ここでも息子さんはうまく適応できなかったようです。イタリアにいた荻野いづみさんのもとに、息子さんが入院したという連絡が入ります。
「3カ月はホームシックになるから、あまり連絡しないように」。そう言われて、電話を控えていました。それがいけなかったのかもしれません。息子は私に捨てられたと思ったようです。自分のルーツにも苦しんだようでした。
そのような状態になった息子さんを日本に連れて帰りましたが、その後も交通事故に遭ったり、病気になったりと母親としては不安な日々だったとのことです。
荻野いづみさんはこの状況を少しでも打破しようと、カウンセリングにも通っています。
17歳になった時、息子さんはまた海外に留学し、パリでアートとコンピュータを学んで、現在はデジタル・エージェンシーを経営しているそうです。
荻野いづみの自宅
出典:nikkei.com
荻野いづみさんの自宅の1つは東京にあります。この自宅には荻野いづみさんの父親と息子さん夫婦、孫3人で暮らしています。おそらく、実家のある新宿に自宅があるのではないでしょうか。
また、ミラノに拠点を持つアンテプリマのクリエイティブ・ディレクターをしていますから、ミラノにも自宅を持っているはずです。
香港を拠点にビジネスをしている荻野正明さんが夫ですから、香港にも自宅があるかもしれませんね。
荻野いづみの現在:ワイヤーバッグがまた人気に
荻野いづみさんはアンテプリマで1998年に発表したワイヤーバッグが人気になりましたが、発表から約25年経った現在、ワイヤーバッグがまた再び人気になっています。
ワイヤーバッグが今、再ブームとなり、23年春夏では、20~30代がワイヤーバッグ購入客全体の46%を占め、そのうち92%が新規客だとうかがいました。
母娘でワイヤーバッグを持つケースもあり、アンテプリマの人気が再燃しています。
また、荻野いづみさんは成功した経営者として、ファッションの才能がある若者をスポンサーとしてサポートする活動にも取り組んでいます。これに関しては、旦那の荻野正明さんと同じですね。
荻野いづみのまとめ
アンテプリマの荻野いづみさんのプロフィールや生い立ち、若い頃の結婚や離婚後の経歴、再婚した旦那や子供、自宅と現在の活動をまとめました。
荻野いづみさんの生き方は本当にカッコいいですし、2024年に70歳を迎えるとは思えないほど若々しくてきれいですよね。2022年に30周年を迎えたアンテプリマと荻野いづみさんのこれからに注目していきたいです。