「附属池田小事件」の犯人で死刑執行済みの宅間守ですが、壮絶な生い立ちや最期の言葉が話題です。
今回は宅間守が起こした事件詳細、生い立ち~父母や兄弟との関係、結婚歴や子供情報、死刑執行時の様子と最期の言葉をまとめました。
この記事の目次
宅間守のプロフィール
プロフィール
名前:宅間 守(吉岡 守)
本名:宅間 守(たくま まもる)
生年月日:1963年11月23日
出生地:兵庫県伊丹市
前科:11犯(前科13犯という説もある)
身長:182cm
体重:75kg
宅間守が起こした凶悪事件「附属池田小事件」とは
出刃庖丁で児童を次々と刺し、8名を無差別に殺害した宅間守
事件が発生したのは、2001年6月8日10時10分頃のことでした。
ちょうど2時間目の授業が終わりかけていた大阪教育大学附属池田小学校に、出刃庖丁を持った宅間守が侵入し、目についた同校の児童を次々に襲撃したという、無残な事件が発生しました。
出典:https://s.webry.info/
2年南組の5人、2年西組の8人、さらに2年東組の4人、最後に1年南組の4人の、合計21人の幼い子どもたちが次々と刺され、結果的に死亡した児童は8名にのぼりました。
その他にも児童13名、教諭2名が大怪我を負いました。
この忌まわしい事件から15年後、当時2年東組で襲撃を受け、重傷を負った生徒は、次のように事件当時の生々しい様子を語っています。
「男が教室に入ってきたのは覚えています。逃げようと思った時にはもう刺されていたっていう感じでした。多分、後ろ向きで刺されたんです。傷は背中に長く、右横腹を貫通していたんです。その時は痛みがすごくてズキズキして、脈が分かるぐらいでした。担架が足りず、長机に乗せられて病院に運ばれました」
引用:大阪池田小の子供たち「恐怖体験」乗り越えて15年・・・「死んだ同級生の分まで本気で生きていく義務に気付いた」 : J-CASTテレビウォッチ https://www.j-cast.com/
同じく、2年東組で脇腹を刺された生徒は…
「何か怖いこと、大変なことが起きた。血が出ているし、さっきの人が戻ってくるかもしれないから隠れた方が良いと考え、友だちと2人で教壇の中に隠れました。それからの時間がとても長く感じましたね」
引用:大阪池田小の子供たち「恐怖体験」乗り越えて15年・・・「死んだ同級生の分まで本気で生きていく義務に気付いた」 : J-CASTテレビウォッチ https://www.j-cast.com/
当時、2年南組で事件に遭遇した生徒は、事件によって直接の被害は受けなかったものの、それからしばらくは次のような恐怖心にさいなまれたと語っています。
「家の近くに塾があって、そこから家に帰るまでがすごく苦痛でした。後ろから誰かついてきているとか、親や弟が殺されているみたいなことを想像したり、それを親に言えないのが一番しんどかった」
引用:大阪池田小の子供たち「恐怖体験」乗り越えて15年・・・「死んだ同級生の分まで本気で生きていく義務に気付いた」 : J-CASTテレビウォッチ https://www.j-cast.com/
出典:https://twitter.com/
犯人の宅間守は、駆けつけた教師にその場で取り押さえられ、現行犯逮捕されました。
宅間守は、最後の1人を刺し終えた瞬間、手に持っていた血まみれの出刃包丁を自ら放り出し、たった一言、「あーしんど!」と呟いたのだとか…。
この事件で子どもたちが受けた恐怖が、心の中に焼き付けられたのはもちろんですが、心の傷はそれだけにはとどまりませんでした…。
例えば、次のような罪の意識を抱え続けている生徒もいるのだとか。
「亡くなった本郷(優希)さんが乗るはずだった救急車に私が乗った話を母から聞いて、自分はその子の犠牲で助かったという気持になったんです。でも、そういう感じで受け止めていたら、優希ちゃんのお母さんに申し訳ないと・・・」
引用:大阪池田小の子供たち「恐怖体験」乗り越えて15年・・・「死んだ同級生の分まで本気で生きていく義務に気付いた」 : J-CASTテレビウォッチ https://www.j-cast.com/
事件後に精神障害を装った宅間守
宅間守は逮捕された当初、精神障害者を装った言動を取っており、彼に対して起訴前と公判中の2度、精神鑑定が行われました。
その鑑定結果は2度とも同じ結果が出ており、次の通りです。
出典:https://twitter.com/
「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」
引用:附属池田小事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
いずれも責任能力を認める鑑定結果が出されました。
また、宅間守は逮捕直後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述し、医師の診察を受けています。
その後、宅間守の通院先の病院を調べたところ、宅間守が飲んだ可能性のある薬は、抗精神病薬「セロクエル」と抗うつ薬「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の3種類だと判明しました。
仮にこれらを大量に服用したとしても、単に眠くなるだけで、奇行の原因にはならないとされています。
さらに、逮捕後に採取した宅間守の血液や尿を鑑定した結果、精神安定剤の成分が検出されず、捜査員がこの事実について宅間守に問いただしたところ…
「すみません。薬は飲んでいません。作り話でした」
引用:附属池田小事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
と、偽証していたことを素直に認めたのだとか…。
公判で暴言の限りを尽くし退廷を命じられた宅間守
特にこの「附属池田小事件」で話題になったのが、公判中の宅間守の暴言の数々なんですよね。
被害者遺族がつめかけた法廷内で、宅間守は反省の弁や謝罪などは一切なく、あろうことか暴言の限りを尽くして退廷を命じられています。
出典:http://www.kyoto-np.co.jp/
その生々しい様子を引用を中心にご紹介しましょう。
「附属池田小事件」の公判は、口笛を吹きながら入廷した宅間守被告の次の言葉によって始まりました。
「 こんな、結果のわかっとる、おもろない裁判に、、ひまなヤツらがようけ来て、、、あほやのお~」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
裁判長の「判決の前に、被告は何か言いたい事はありますか?」との問いかけに、宅間守被告は…
「えー、発言してもよろしいか?・・・なら話すわ。まあ、まだ判決はでとらんのやけども、もうすぐ出るし、わかっとる事やから、最初に言うとく。 どうも死刑にしてくれてありがとう!、裁判長さん。 感謝するわ!わし、もうはよう、死にたい思うてたから、ほんま助かる。やっと死ねるんやなーと思うとほっとしたわ」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
法廷内には、「独りで死ね!」などの怒号が飛び交ったと言います。
裁判長の「これ以上、不穏当な発言を続けると退廷させます」との注意もなんのその、宅間守被告はさらに続けます。
「今のは、誹謗とか批判ではのうて、純粋のワシの心から出たほんまの気持ち。わかってもらわんでもええ。言いたい事はまだある。それは、殺してしもーた子供達にや!」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
この言葉に、法廷内の混乱は一気に収まり、「謝罪するのか?」との期待感が高まったそうです。
が、しかし!次の瞬間、宅間守被告から信じられない言葉が…
「わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!! でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
再び法廷内には怒号が飛び交うことに…。しかし、そんな声にかまわず、宅間守被告は続けます。
「世の中は公平やない!。わしは世の中の不条理をあのくそガキにわからせてやったんや。ワシみたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかったんや、世の中勉強だけちゃうぞ!、とあのくそガキに一撃を与えたんや、死ぬ前に世の中の厳しさが分かってよかったな、感謝せいよ。ワシはいままで散々不愉快な思いをさせられて生きてきた、でも、今日は、ほんまワシは気分がええわ。」
「ワシを悩ませた糞親にも嫁の家族にも迷惑かれてな!親戚に守がいますなんて 千年たってもいえへんな!こんなケッタイなおっさんに一瞬や!ぶすぶす事件は、ほんま!、おもろい!、ほれでも、ワシはまだ満足はしてないで!」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
あまりの暴言の数々に、遺族の中には泣きながら退場する方も出たそうです。さらに、裁判長の制止もかまわず、宅間守被告は続けます。
「人間なんて一瞬で死ぬんやで!。ワシの人生の幕引きの道連れに、 ガキが死んだだけや!、そやからワシには反省や申し訳ない気持ちはないし、 後悔もない!しょうもない貧乏たれの人生やったら今回のこのパターンの方がよかったんや。あるんは自分への後悔だけや!。なんで、幼稚園にせんかったんやろ?、幼稚園ならもっと殺せたと今でもこんなんことばかり考えてしまうんや、なんで、ダンプにせんかったんやろ、その方が数もいけた!。親父を殺しておればもっと違う人生があったかもしれん、○○(元妻)の顔をあの時、ズタズタにしてやればよかった。何でせえへんかったんやろと今でも、ほんま、後悔しとる。まあ、いずれにせよ、こんなひどい人生に終止符を打てられて、ほんま、幸せや!。死刑は、はようにしてな!、そや、裁判長、死ぬ前日はうまいもんでも食いたいが、ワシ、うまいもん、食べれるやろうか!」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
遂に、裁判長が退廷を命じるのですが、宅間守被告は退廷させようとする職員に引きづられながら、なおも続けます。
「おい、こらっ、なにするんじゃ、離せ!、喋りよう途中じゃ、おい コラァ!!くそガキの親ども!○○××△△◇◇!(実際は被害者4人の親の名前を連呼)、おまえらは、ほんなに偉いんか?、おまえらは、7500万円、もらってホクホクやな!。よろしいな。転がり込んだ7500万円よろしいな!。そやけど、おまえらのガキの8人分の命はワシ一人を殺して終わりの程度の価値やったんやぞ!エエ学校に行かせて偉そうにしとったから死んだんや!ガキどもが死んだ原因はおまえらあるんやぞーー!、せいぜい一生反省せいよ!、あの世でもおまえらの子供、追いかけ回して、しばき倒したるからな!あははははは!あははは!、こらおもろい、!こら、傑作や。」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
退廷させられた宅間守被告。しかし、引きづられていく廊下からは、なおも叫び続ける宅間守被告の声が法廷内に届いていたと言います。
「わしが8人を死刑にすんのに10分かかっとらんのに、わし一人の死刑に2年近くかかって随分、ご丁寧な事やのー!!」
引用:宅間守発言集 https://www47.atwiki.jp/
出典:http://itaihanasi.up.n.seesaa.net/
2003年8月28日、宅間守に死刑判決が下される
2003年8月28日、大阪地方裁判所は宅間守に対して死刑判決を言い渡しました。
出典:https://twitter.com/
通常、死刑判決が言い渡される場合、主文を後回しにして判決理由を述べるのが慣例とされています。
その理由は、死刑判決が下される場合、冒頭に死刑を言い渡すと被告人が動揺して、その後の判決理由を聞けなくなるためと言われています。
しかし、今回ははその慣例を破って主文が先に言い渡されました。というのも、宅間守被告は既に退廷を命じられ、職員によって法廷内から連れ出されていたからでしょう。
もちろん宅間守被告は、自らの命を左右する判決(死刑判決)を読み上げる裁判長の声を聞くことはありませんでした。
宅間守の生い立ちと家族① 母親に否定されて誕生
宅間守は、1963年11月23日、兵庫県伊丹市で工員として働く父親の次男として生を受けるのですが、宅間守の妊娠を知った母親は、喜ぶ父親に対してこう言ったと言われています。
「あかんわ、これ、堕ろしたいねん、私。 あかんねん絶対」
母親だからこそ何かを感じたのかも知れませんね。
そんな宅間守の母親は、守が生まれてからも母乳をあげることすら嫌がり、その後もずっと毛嫌いしていたとも言われています。
出典:https://www.jprime.jp/
元々、宅間守の母親は、家事や料理が苦手で、いわゆるネグレクト傾向が強く、母親に代わって父親が家事の大半を担っていたそうです。
母親が宅間守の性分を察知して冷たい態度をとり、大切な幼少期に母親からの愛が得られなかったからか、宅間守は幼少の頃から子供らしからぬ異様な行動をとっていたようです。
宅間守の生い立ちと家族② 物心ついた頃から父親の暴力を受け続ける
宅間守の父親は小学校で学歴を終え、一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた人で、良く言えば昔気質の頑固親父ですが、家族全員に対して激しい暴力を振るう癖があったようです。
出典:https://www.huffingtonpost.jp/
宅間守も物心がつくかつかないうちから、父親に叱責、殴打、時には木刀も折れるほどの激しい暴力を日常的に受けていたと言われています。
しかし、母親が身ごもった時に感じた通り、性根から悪だった宅間守からすれば、そんな父親からの力による押さえつけは逆効果となってしまっていたのかもしれません。
積もり積もったフラストレーションから、さらに酷い行為をするという悪循環に陥っていったようです。
宅間守の生い立ちと家族③ 学生時代のエピソード
そんな宅間守の鬱屈したフラストレーションは、やがて同級生や小動物に向けられるようになりました。
小学校時代は、自分よりも強い児童には手を出さず、自分より弱い児童に対しては徹底的にいじめるような子供だったそうです。
また、燃やしたドラム缶に生きたままの猫を入れたり、布団です巻きにして川に流すなど、動物虐待を楽しんでいるところも目撃されていたと言います。
もちろん、中学生になっても宅間守の弱い者いじめや動物虐待は続いており、また、その頃には些細なことで母親を殴りつけ、家庭内暴力を繰り返すようになっていたそうです。
宅間守の生い立ちと家族④ 転職と犯罪を繰り返す
一方で、宅間守は小学生の頃から自衛隊に強い関心を持っており、「将来は自衛隊に入るぞ!」と大声で叫んでみたり、1人で大声で軍歌を歌っていたのだとか。
そして、高校生になっても、自衛隊に入りたいという希望は持ち続けていたようです。
出典:https://president.jp/
中学卒業後は兵庫県尼崎市の工業高校の機械科に進学するも、2年で中退してしまった宅間守。
その後、数ヶ月間はガソリンスタンドでアルバイトをしてましたが、1981年末、18歳の時に念願の航空自衛隊に入隊を果たしました。
しかし、1983年1月、家出した少女を下宿させて関係をもったことを理由に、除隊処分になってしまうんですよね。
自衛隊という幼い頃からの目標を失った宅間守は、その後、タガが外れたように転職と犯罪を繰り返すことになります。
その後の宅間守は、マンション管理会社、市営バス運転手、ゴミ収集、小学校の用務員、トラック運転手など職を転々とするのですが、いずれも数週間から半年以内で辞職しています。
仕事が長続きしないフラストレーションからか、その頃には数多くの犯罪を犯しており、逮捕歴は15回に及ぶとも…。
出典:https://www.keijihiroba.com/
主なものを挙げてみると、
・マンション管理会社の業務中に、マンションに住む女性宅に上り込み強姦
・車のライトが眩しいと言いがかりをつけ、相手の車を破壊
・検問を突破し高速道路の逆走
・結婚した相手への暴行
・小学校教諭のお茶に精神安定剤を混入など
また、刑罰を逃れるために、たびたび精神病を装って入退院を繰り返していたとも言われています。「附属池田小事件」の時も、これと同じことをしようとしていたわけですね。
宅間守の生い立ちと家族⑤ 唯一の兄弟である兄は自殺していた
宅間守の家族には両親の他に、1人の兄弟(兄)がいました。宅間守の兄は、34歳で結婚するのですが、42歳の時に宅間守が原因で妻と離婚することに…。
その後は、破綻した弟の存在に心を病み、事業の失敗も重なって、1999年2月に自宅マンションで自らの頸動脈を斬り自殺しています。
宅間守のたった1人の兄として、守と同じ家庭環境で育てられたこの人物ですが、どのような人だったのでしょうか?
宅間守の兄に関する情報はほとんど残っていないようですが、後に失敗はするものの少なくとも起業するだけの才覚と、社会性は備えていたと推測できそうです。
宅間守の結婚歴・結婚相手まとめ
宅間守の結婚歴は5回
宅間守は処刑されるまでに5回の結婚をしています。
1回目の結婚は、宅間守が結婚前に「兵庫医大の医者」と詐称して結婚したことがバレ、たった3ヶ月で離婚しています。
出典:http://blog-imgs-75.fc2.com/
さらに宅間守は、その離婚から1ヶ月もたたないうちに2人目の妻と結婚しました。
この2人目の妻とは、約4年の結婚生活を営むのですが、初犯である強姦罪での逮捕がきっかけで離婚しています。
3回目の結婚は、2回目の離婚から数年後のことでした。
この3人目の妻には、宅間守はかなりの執着を見せていたようで、法廷内でぶちまけた暴言の中に出てくる「嫁」は、この3人目の妻を指していると言われています。
3人目の嫁とはなかなか離婚が成立せず、結婚から1年3ヶ月後に調停離婚となっているのですが、その後もストーカー行為を行い、暴力を振るうなどの嫌がらせをしていたようです。
4回目の結婚は、3人目の妻と離婚した4ヶ月後のことでした。しかし、結婚した翌年には、小学校教諭のお茶に精神安定剤を混入する事件を起こし、すぐに離婚になっています。
そして、宅間守の5回目の結婚相手は、「附属池田小事件」の後、宅間守の支援者となった女性で、5人目の妻となっています。
5回目の結婚は死刑廃止運動家の女性と獄中結婚
その経歴や「附属池田小事件」の内容、そして公判での宅間守の態度を見る限り、人間性のかけらもない“ろくでなし”との印象がぬぐえない宅間守。
ですが、それらを全て知った上で結婚に踏み切った女性も存在するんですよね。
出典:https://dot.asahi.com/
それは、宅間守が「附属池田小事件」での拘留中に、獄中結婚した5人目の妻でした。
この女性は、クリスチャンの「死刑廃止主義者」で、宅間守の支援者でもありました。獄中にいる宅間守とは文通を通して知り合い、次第に惹かれ合って獄中結婚に至ったと言います。
ちなみに、宅間守は結婚後、この5人目の妻の姓に改名しており、最終的には“吉岡守”として死刑執行されています。
なお、改名した理由などは明らかにされていませんが、宅間守の生い立ちをさかのぼれば、容易に察することはできそうですね。
なお、この5人目の妻は、あんな凶行を犯した宅間守でも、なんとか更生させ、被害者や残された遺族に対して謝罪の言葉を引き出そうと、終始愛情深く接していたそうです。
なお、宅間守の死刑が執行された時には、次のようなメッセージを残しています。
「私の力足らずで彼を最後まで説得できず謝らせることができませんでした・・・」
引用:無差別殺人犯 宅間守の獄中結婚の裏側 – あの事件の真相 https://convenience.typepad.jp/
宅間守が5回の結婚でもうけた子供とは
5回もの結婚歴のある宅間守ですが、結婚している間に彼の子供が生まれたことはなかったようです。
出典:https://iwiz-chie.c.yimg.jp/
ただ、3人目の妻が1度妊娠したようですが、その時には既に離婚を切望しており、宅間守の意向を無視して中絶する決断を下したようです。
そして、そのことを知った宅間守は、烈火の如く怒ったと言われています。
また、4人目の妻も妊娠したと言われていますが、今度はなぜか宅間守の方が出産に反対したそうです。
4人目の妻とはその後すぐに離婚しており、離婚後にシングルマザーとして子供を出産しているのでは…との噂もあるようですが、真相は今も不明のようです。
宅間守の死刑執行時の様子と最期の言葉とは
宅間守の死刑判決が下された後、すぐさま弁護人は控訴したものの、宅間守自ら控訴を取り下げ、死刑判決を確定させました。
そして、死刑確定から約1年後の2004年9月14日8時16分、異例の早さで宅間守は大阪拘置所にて死刑執行が執り行われました。
出典:http://blog.livedoor.jp/
宅間守は死刑執行直前に刑務官から渡された煙草とリンゴジュースをゆっくり味わった後、拘置所の奧へ静かに消えていったといいます。
宅間守の“最期の言葉”は獄中結婚した妻に対するものだった
宅間守が死刑執行前に残した“最期の言葉”は、獄中結婚した5人目の妻に対する次のような言葉でした。
「『ありがとう、と僕が言っていた』と、妻に伝えてください」
引用:附属池田小事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
宅間守をなんとか更生させ、被害者や残された遺族に対して謝罪させようと、深い愛情をもって接していたという5人目の妻。
その努力によって、妻に対しては感謝の気持ちを表すまでに至ったものの、妻が本当に望んだ言葉は、宅間守の口からは最期まで出ることはありませんでした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
2001年6月8日に発生した、史上稀に見る凶悪事件「附属池田小事件」の犯人・宅間守。
事件の経緯、彼の父親や母親・兄弟との関係などの生い立ち、5度に渡って繰り返した結婚や子供の有無、そして死刑執行直前に遺した宅間守の最期の言葉までを総まとめしてみました。
宅間守を身ごもった時の母親の言葉がなんとも印象的でしたね。
果たして、この母親の直感が当たってしまったのでしょうか?あるいは、幼い頃から母親の愛を受けずに育ったことが、モンスターを生み出してしまったのでしょうか?
最後に、「附属池田小事件」で犠牲になった8名の児童の冥福をお祈りいたします。