1990年に起きた「長崎屋火災」は放火の可能性が高いものの犯人は逮捕されておらず、2005年に時効が成立しています。
今回は長崎屋火災の場所、被害者数や死者の死因、原因、社長の遺族弔問や跡地などその後や現在もまとめました。
この記事の目次
長崎屋火災の発生場所と概要
「長崎屋火災」とは、1990年(平成2年)の3月18日12時30分頃、兵庫県尼崎市神田中通4丁目にあったスーパーマーケット「長崎屋尼崎店(Big-Off尼崎店)」で発生した火災です。
同店舗の入った建物は鉄筋コンクリート造りで、地下1階を含む地上5階建てのビルでした。
この火災では、死者15人、負傷者6人という大惨事となりました。
現場検証をした警察の発表では、何者かが建物に放火した可能性が高いとされ、「長崎屋尼崎店放火殺人事件」とも呼ばれています。
この事件をきっかけに、スプリンクラーの設置基準および適正マーク交付基準が見直されました。
長崎屋火災の被害者数・死者の死因
出典:https://imagelink.kyodonews.jp/
長崎屋火災では、「長崎屋尼崎店(Big-Off尼崎店)」の5階にいた従業員や客15名が亡くなりました。
死亡した15名の死因は、5階従業員食堂や同階ゲームコーナーで煙に巻かれたことによる一酸化中毒でした。
また、6名の重軽傷者のうち、4人は5階の事務室と従業員食堂の窓からそれぞれ救出され、5階の窓から隣の建物屋上に飛び移った2名がケガを負ったものの、消防隊に救助されました。
長崎屋火災の犯人は現在もつかまっていない
警察の現場検証の結果、出火元は火の気がないカーテン売り場と特定されたことから、何者かによる放火の可能性が高いと断定されました。
「長崎屋火災」の発生から2ヶ月後には、現場での目撃証言などから、放火に関与した疑いのある6名の似顔絵が公開されました。
しかし、犯人逮捕につながる有力な情報は現在までに出ておらず、犯人不明の未解決事件となっています。
長崎屋火災の経緯など詳細
「長崎屋火災」の発生
1990年3月18日12時30分頃に、田中通4丁目(中央四番街)にある「長崎屋尼崎店(Big-Off尼崎店)」において、4階のインテリア売り場で販売されていたカーテンから出火しました。
カーテンから火の手が上がっているのを発見したのは同階にある寝具売り場にいた女性で、他の店員らと一緒に消化器を使って消火活動にあたります。
しかし、可燃性の商品が多かったことから火の手が広がり、消火は不可能だと判断しました。
そして、この火災を知った5階事務室の従業員が119番通報をし、出火から10分後に消防隊が現場に到着しました。
すでに4階のフロアはすべて炎に包まれている状態で、4階よりも下の階にいた従業員や客らは建物の外に避難しています。
しかし、5階にいた従業員や客22名が逃げ遅れ、フロアに取り残されてしまいました。
この時、4階と5階の間にある防火扉は正常に作動しておらず、ほどなく黒煙は5階にも回り始めたのです。
「長崎屋火災」の時系列
長崎屋火災の発生から鎮火までを、わかりやすく時系列で紹介します。
12:40…火が激しく燃え広がり、黒煙でフロアが覆い尽くされて5階の従業員が119番通報した後に窓から救助を叫び始めた。
12:41…初動の消防隊が到着し、隣接ビルからハシゴを掛けて救助活動を行い始めた。その直後に5階の食堂の窓から2名が飛び降りて重傷を負った。
12:46…5階の休憩室南側にあった事務室の窓から3名、食堂の窓から1名が救出された。
14:03…5階の食堂付近で15名の遺体が確認された。
15:52…炎はほとんど鎮火された。
16:00…尼崎中央署が捜査本部を設置した。
17:06…完全に鎮火 。
長崎屋火災の原因
原因① 火災対策の不備
長崎屋火災の現場となった「長崎屋尼崎店」は、1970年(昭和45年)に開業した大型商業施設でした。
1988年(昭和63年)11月にはディスカウントショップに転向し、「Big-Off尼崎店」と名前を変えて営業をしていました。
「Big-Off尼崎店」は火災のあった前年に2度の消防訓練を実施していましたが、建物の老朽化により火災報知器が正常に作動しておらず、その状態が放置されていました。
そのため、火災が起きた時に初動の遅れにつながり、鎮火に失敗していました。
火災報知機を始め、防火扉、避難通路といった設備は消防法に基づいて一応設置されていましたが、スプリンクラーは設置されていませんでした。
また、火災が4階から5階に燃え広がった大きな原因は、防火扉が全て閉まらなかったからです。
通路が倉庫のように使用されていて、階段や防火扉、避難通路の前にテレビなどが入った段ボール箱が多数積み上げられていたのです。
これにより、黒煙が5階に充満するきっかけとなってしまいました。
原因② 何者かによる放火
前述の通り、火災の根源は何者かによる放火だとみられています。
火の気のないカーテン売り場から火災が発生したことから、店内や店の外などでの目撃証言などにより、不審人物6人の似顔絵が公開され、約1900人が捜査対象となりました。
しかし、規模の大きい店内で不特定多数の客が出入りしていたことから、犯人の特定は困難を極めます。
また、犯人像や犯行動機などにつながる遺留品なども発見されませんでした。
原因③ 大量の有毒ガスが発生
長崎屋火災では、4階には出火元であるカーテンを始め、化学繊維商品が多数陳列されており、それらがすべて燃えています。
これにより、大量のニ酸化炭素やシアン化水素など有毒ガスを含む煙が大量に発生しました。
そのため、火の手が上がった4階では死傷者は1人も出ておらず、さらに炎に直接巻かれた焼死者は1人もいません。
死傷者を出した5階にはほとんど火の手が回っておらず延焼被害は全く受けていませんでしたし、死亡した15名全員の死因は有毒ガスを吸い込んだことによる中毒死でした。
5階の従業員食堂やゲームコーナー、放送室などは小さな区画に分かれており、密閉された空間だったことから、あっという間に黒煙が5階に流入し、多くの死者を出してしまったようです。
長崎屋火災の救助にあたった消防士の無念
長崎屋火災が発生した当時、消火活動にあたっていた消防士の小野廣幸さんが、15名の亡くなった方々を助け出せなかったことを今でも後悔していることがインタビューで語られました。
兵庫県尼崎市で平成2年、15人が犠牲になったスーパー「長崎屋尼崎店」の火災の際、現場に一番乗りして4人を救助した市東消防署主任、小野廣幸さん(60)が、今月末で定年を迎える。火災は18日で発生から20年。「あのとき助け出せなかった人のことを忘れたことはない。ちゃんとした防火対策がとられていれば…」。救えなかった命への無念を抱えながら、防災訓練の指導などに精を出し、任務を終えるまでの日々を過ごしている。
42年間の消防士生活の中でも、長崎屋火災の時ほど悔しいことはなかったと小野廣幸さんは語り、今でも亡くなった方々の無念に思いを馳せているようです。
長崎屋火災のその後:長崎屋社長の遺族弔問と判決
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長崎屋火災が起きた同日夜、長崎屋社長の岩田文明は謝罪会見を開き、さらにその後に犠牲者の遺体が安置された妙光寺を訪れ、遺族を弔問して頭を下げました。
そして「全社挙げて誠意ある対応をとる」と約束しています。
その後の1993年(平成5年)9月13日、神戸地方裁判所尼崎支部において、元店長ら管理権原者および防火責任者の裁判が開かれました。
この元店長ら2名の被告は、防火対策や避難誘導訓練を怠ったとして業務上過失致死傷罪に問われ、両被告人ともに禁固2年6月・執行猶予3年の有罪判決が下され、刑が確定しました。
なお、長崎屋火災の発生をきっかけに、尼崎中央商店街では毎年3月18日を防災の日に設定して、消防訓練が行われています。
また、2002年12月に消防法施行令が改正されて、スプリンクラーの設置基準が強化されました。
長崎屋火災のその後:時効が成立・跡地はマンションに
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「長崎屋尼崎店放火殺人事件」として警察は犯人の手がかりを追い続けましたが、2005年についに公訴時効を迎えてしまいました。
「長崎屋尼崎店」は火災の発生から無期限の休業となり、営業を再開することなく1990年11月に閉鎖されました。
そして1993年にはビルが解体されて長らく更地となっていましたが、2004年にマンションが建てられました。
まとめ
1990年に兵庫県尼崎市のスーパーマーケット「長崎屋尼崎店(Big-Off尼崎店)」で発生した「長崎屋火災」について、被害者や死者、犯人や原因、判決や跡地などその後をまとめました。
2022年現在までに、身も凍るような恐ろしい火災事件は度々発生していますが、老朽化したビルが現場となることが多いようです。
防火設備の見直しや避難経路の確認など、火災対策を今一度見直してもらいたいものです。
最後に、亡くなった15名の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。