鮫島純子(渋沢栄一の孫)の現在!旦那と子供・家系図や創価学会との関係・学歴と経歴も総まとめ

渋沢栄一の孫娘という華麗な家系図に連なる鮫島純子さんですが、創価学会の信者ではないかとの噂もあります。

 

今回は鮫島純子さんの家系図と家族、学歴と経歴、旦那との結婚や子供、創価学会との関係や真相、現在の活動をまとめました。

鮫島純子は渋沢栄一の孫&エッセイスト

鮫島純子のプロフィール

出典:https://ab.jcci.or.jp/

鮫島 純子(さめじま すみこ)

生年月日: 1922年

出身地: 東京都北区

 

鮫島純子さんは、1922年生まれで現在の年齢は100歳。大正、昭和、平成、令和と4つの時代を生きる女性です。

 

78歳でエッセイストデビューを果たしたほかにも、70代で水泳、80代で社交ダンス、90代でヨガを始め、毎日を明るく前向きに生きる姿は世の女性を勇気づけています。

 

そんな鮫島純子さんは、日本最初の銀行(その後、第一勧業銀行になり、現在のみずほ銀行)の創業を担った偉人・渋沢栄一の孫にあたる人物なんです。

 

2021年に放送された大河ドラマ「晴天を衝け」で渋沢栄一の半生がテーマとなったことがきっかけで、改めて鮫島純子さんにも注目が集まりました。

 

華やかな親族に囲まれている鮫島純子さんの華麗なる家系図については、この後の章で詳しく解説します。

 

 

鮫島純子の家系図と家族① 父方の祖父・渋沢栄一

出典:https://president.jp/

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)

生年月日: 1840年3月16日

没年月日: 1931年11月11日(91歳没)

出身地: 埼玉県深谷市

 

鮫島純子さんの家系図、まずは渋沢栄一について見ていきましょう。

 

渋沢栄一は父方の祖父になります。

 

2024年の紙幣改定に伴い、新1万円札に渋沢栄一の肖像画が使われることが決定しています。

 

渋沢栄一は江戸時代末期に農民の息子として誕生しました。ただ、一般的な農家とは異なり、藍玉の製造販売も兼営していました。

 

若い頃の渋沢栄一は、交流のあった一橋家の家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えます

 

農兵の募集を円滑に行い、存分に手腕を発揮。1886年には、幕臣としてパリ万博の視察や、ヨーロッパ各国の先進的な技術、制度を見聞きして1年半ほどヨーロッパに滞在しています。

 

帰国後は、西欧風の社会を作るために1869年に商工会議所を設立。その後、国立銀行条例制定に携わり、国立銀行の総監役に就任しました。

 

さらに、抄紙会社(現在の王子ホールディングス)の設立、東京府の瓦斯掛(現在の東京ガス)の事業計画、生糸貿易や秀英舎(現在の大日本印刷)の支援などを次々に繰り出したのです。

 

また、金融に関しては銀行だけではなく、東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)の相談役となり、日本で初の保険会社設立を支援しています。

 

日本鉄道など45の鉄道会社の創立・経営にも関わり、公共交通の基礎も担いました。

 

1909年に数え年70歳となったことをきっかけに、仕事全般から引退を表明。合計で61社の会社役員から身を引いています。

 

その後は、国際親善や教育活動、困窮者の相談にのり生活を立て直すための手伝いなどを行っていました。

 

1931年に老衰が原因で死去。享年92歳(没年91歳)でした。

 

渋沢栄一との思い出

出典:http://www.g-rexjapan.co.jp/

 

鮫島純子さんが9歳の頃、祖父の渋沢栄一が死去しています。

 

当時の鮫島純子さんはまだ幼かったので、祖父が偉大な経済人であることを知りませんでした。

 

祖父の家に遊びに行くと、従兄たちが遊んでくれたそうで、鮫島純子さんの幼少期における楽しみの1つだったんだとか。

 

鮫島純子さんは「祖父はいつも和服姿で大きな籐椅子に腰掛け、孫たちの遊んでいる姿をただ黙ってニコニコと見ていました」と語り、渋沢栄一は穏やかな晩年を過ごしていたようです。

 

また、渋沢栄一はいつも「よう来られたな」と、孫の頭を1人ずつ撫でて、食籠に入った榮太樓飴(えいたろうあめ)を口に入れてくれた、という何とも微笑ましい思い出も明かしました。

 

 

鮫島純子の家系図と家族② 高祖父は上杉茂憲

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

鮫島純子さんの母方の家系も華やかです。

 

高祖父(祖父の祖父)まで遡ると、出羽国米沢藩第13代目当主である上杉茂憲になります。

 

上杉茂憲は生後すぐ嗣子として指名され、1868年に家督を継ぎました。

 

明治時代に入ると米沢藩知事を務めましたが、廃藩置県の施行後は沖縄県令として現地に入りました。

 

上杉茂憲が、沖縄で視察の記録をまとめた「上杉県令巡回日誌」は、当時の沖縄県の風習を知ることができる貴重な資料として今も残されています。

 

1884年には伯爵となり、米沢に移住。その後は、地元の蚕製糸織物の改善に貢献しました。

 

なお、私財を沖縄と米沢の発展に投じたことで、家計は火の車だったそうです。

 

 

鮫島純子の家系図と家族③ 祖父は水戸徳川の池田勝吉

出典:https://www.chichi.co.jp/

 

また、母方の祖父は徳川の血を引く人物であることが判明しています。

 

上杉茂憲の4番目の妻である兼子が産んだ娘・覚子が嫁いだ相手が、祖父の池田勝吉です。祖父は常陸水戸藩の第9代藩主である徳川斉昭の孫にあたります。

 

ただし、池田勝吉の人生について詳細な情報が残っていません。1874年に誕生し、1884年に男爵の地位を得て1941年に死去したことだけが記録に残されています。

 

祖父母の間に誕生した次女の鄰子が、鮫島純子さんの母親です。

 

 

鮫島純子の家系図と家族④ 父親の渋沢正雄

出典:https://pixabay.com/

 

父親の渋沢正雄は、渋沢栄一の三男として1888年11月1日に誕生しました。

 

1906年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学付属中学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。

 

その後、第一銀行(現在のみずほ銀行)に入行するも1917年に退行。渋沢貿易を立ち上げると、第1次世界大戦による軍需拡大の影響を受け、会社は大きく発展しました。

 

ただ、追い風はいつまでも続かず、戦後不況に見舞われて渋沢貿易は1919年に破綻。

 

謹慎期間後に、渋沢財閥の企業である東京石川島造船所取締役に就任しました。

 

その後は富士製鉄、石川島造船所、石川島自動車などの企業において重役を務めた経歴が残されています。

 

渋沢栄一が死去すると、渋沢正雄は1932年に全ての会社の役員から退き、日本製鉄常務取締役と八幡製鉄の所長に就任しました。

 

かなりのハードワークだったようで、訪ねて来た友人が「げっそりやせていたので、なるほど八幡は噂にたがわず、難しいところらしい」と、渋沢正雄の様子を周囲に語っています。

 

そして在任わずか1年程の1942年9月に、名古屋の病院にて54歳で死去。死因は明らかにされていません。

 

嫁の鄰子との間には1男3女の子供に恵まれ、次女として誕生したのが鮫島純子さんです。

 

 

鮫島純子が結婚した旦那は鮫島員重

出典:https://www.photo-ac.com/

 

鮫島純子さんが結婚したのは20歳だった1942年のこと。

 

旦那となったのは、岩倉具視の曾孫で、海軍文官をしていた鮫島員重さんです。

 

2人の結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。

 

旦那とはお見合い結婚だった

出典:https://www.irasutoya.com/

 

残念ながら、鮫島員重さんのWikipediaはなく、1914年生まれであること以外、詳細なプロフィールや顔写真などの情報は公開されていません。

 

鮫島純子さんによると、旦那の鮫島員重さんは三菱重工に勤務し、第二次世界大戦中は横須賀海軍基地の主計長をしていたこともあったそうです。

 

鮫島員重さんとの結婚は家同士が決めたものでしたが、一応お見合いという形が取られ、鮫島純子さんが19歳の時に婚約を交わしました。

 

鮫島純子さんは当時を振り返り、会う前にもらった鮫島員重さんのお見合い写真は、ネイビーブルーの海軍の軍服に白い手袋、腰にはサーベルをさした凛々しい姿だったといいます。

 

なお、1942年の日本は第二次世界大戦が激化しており、大量の成人男性が軍人として招集されている時代でした。

 

この頃よく言われていたのが「女子トラックいっぱい、花婿候補1人」というもので、適齢期の女性が、適齢期の男性と結婚するのが難しかったそうです。

 

鮫島純子さんの父親である渋沢正雄さんも、娘に良い結婚相手を見つけるのに奔走していたのかもしれませんね。

 

 

鮫島純子の披露宴エピソード

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

鮫島純子さんは婚約した翌年に披露宴を挙げましたが、食糧不足で参列者の人数制限を行い、3回に分けて式を行ったそうです。

 

1回目の披露宴は、渋沢栄一が建てた帝国ホテルで親族を中心に。2回目の披露宴は、教師や友人を招きました。

 

3回目の披露宴は目黒の雅叙園で、渋沢家に仕える家人や出入りの業者などを招いたそうです。

 

その雅叙園での披露宴の最中に、米軍機が焼夷弾を川崎の工業地帯に落としました。

 

警報が鳴り、鮫島純子さんは花嫁衣裳を着たまま防空壕の中に。鮫島員重さんは海軍基地に戻っていきました。

 

新婚生活が始まると、海軍基地がある横須賀で新婚生活がスタート。

 

その後、三菱重工に呼び戻された鮫島員重さんは、名古屋の航空機を製造する工場に転勤となり、家族で名古屋に引っ越しています。

 

 

鮫島純子と旦那は老後に趣味を楽しんだ

出典:https://www.irasutoya.com/

 

戦後も鮫島員重さんは三菱重工で勤務を続け、1970年に三菱自動車販売常務に就任し、定年を迎えました。

 

鮫島員重さんが退職後、夫婦で水墨画家の目黒巣雨に師事し、絵を趣味として始めることに。

 

また、1984年の敬老の日に明治神宮で開催されたイベント「防がん宇宙体操」に参加したことがきっかけで、台湾出身の女医・荘淑旂が考案したストレッチ体操も2人で始めたそうです。

 

この頃から、早朝に明治神宮の周囲を夫婦で散歩するのがルーティンになりました。

 

鮫島純子は旦那をがんで亡くしている

旦那は1999年に死去

出典:https://www.photo-ac.com/

 

生活習慣に気を付けてきたこともあり80歳過ぎても夫婦揃って元気そのものでしたが、1988年、旦那の鮫島員重さんにがんがみつかります。

 

鮫島員重さんは「私は手術をしたくありません。84歳になるまで十分楽しませてもらい、幸せで思い残すことはありません」と、積極的な治療を受けることを拒否しました。

 

そのため、鮫島員重さんの希望通り自宅で療養を続けますが、1年が過ぎたあたりから食事が喉を通らなくなり、鮫島純子さんは自宅で最期を看取りました。

 

 

鮫島純子の子供は息子が3人

出典:https://www.chichi.co.jp/

 

鮫島純子さんの子供の人数と、子供を育てていた頃のエピソードについて紹介します。

 

子供は息子が3人

鮫島純子さんは、旦那の鮫島員重さんとの間に3人の子供が誕生しています。

 

結婚してから1年後の1943年に長男の鮫島員昭さんが、1944年に次男の鮫島員允さんが、1946年に三男の鮫島員義さんが誕生しています。

 

3人の息子は成長すると、鮫島純子さんの父親が経営陣に参画していた企業に就職したことが記録として残っています。

 

長男の鮫島員昭さんは新日本製鉄に、次男の鮫島員允さんは石川島播磨重工業に、三男の鮫島員義さんは三菱自動車工業に勤務しました。

 

 

鮫島純子の子育てエピソード

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

次男が誕生した1944年は、在住していた名古屋は空襲が激化しており、旦那は外地に赴いていたので鮫島純子さんは幼子2人を抱えてかなり心細い状態だったそうです。

 

そんな時に救いになったのが、長男を出産した病院の看護師長が紹介してくれた家政婦の少女でした。

 

その15歳の少女は、家事だけではなく子供の面倒もしっかり見てくれて、安心して任せられる存在だったそうです。

 

ある時、少女の父親が心配して迎えにきましたが、少女は「こんなに小さい赤ちゃんたちを残して自分だけが安全なところに帰る気にはなれない」とキッパリと断りました。

 

鮫島純子さんは「彼女が一緒にいてくれたおかげで私たちは空襲を乗り切れました」と、お手伝いの少女に今でも感謝の気持ちがあると語りました。

 

 

鮫島純子の学歴と経歴

出典:https://mainichi.jp/

 

鮫島純子さんの学歴、エッセイストになるまでの経歴について紹介します。

 

最終学歴は学習院卒業

出典:https://www.photo-ac.com/

 

鮫島純子さんは、学習院女学部を卒業しています。

 

もともとは「華族女学校」として、皇族や華族の女子への教育を目的とした宮内省管轄の学校として1885年に設立されました。

 

1918年に学校法人として独立し、現在は学習院に統合されています。

 

質素倹約がモットー

鮫島純子さんは、祖父も父親も経済界の重鎮でしたが、意外にも質素倹約で暮らしていたんだとか。

 

この考え方は結婚後も続き、洋裁や編み物を習い、旦那の私服や子供達の洋服は自身で作ってきたのだといいます。

 

そして、1つの物を長く大事に使うことも心がけてきたそうです。

 

本を出版したきっかけはガングロとヤマンバ

出典:https://www.irasutoya.com/

 

 

鮫島純子さんは、2000年に78歳でイラストメッセージ集『あのころ、今、これから…』で作家デビューを果たしています。

 

本を出したきっかけは、旦那が84歳で食道がんを患い、自宅で看病していた頃に遡ります。

 

この頃の日本は、「ガングロ」、「ヤマンバ」といった色黒メイクが若者の間で流行していました。

 

鮫島純子さんは、自宅にいる旦那に「こんな格好の若い子がいたの」と報告したのですが、鮫島員重さんには上手く伝わらなかったそうです。

 

なんとか旦那に伝えたいと、捨てないで取っておいた障子紙に絵を描いてみたところ、鮫島員重さんが面白がってくれました。

 

それ以降、鮫島員重さんを絵で元気づけていたそうです。

 

旦那の死去後、同級生が有志で集い「偲ぶ会」を開くことになり、鮫島純子さんはこれまで描いた絵を巻物にしてお供えすることに。

 

すると、鮫島員重さんの同級生の息子でテレビ局勤務の男性から「ぜひテレビで放送したい」とオファーが。番組で放送されると、今度は出版社から本にしたいというオファーが来たのです。

 

なんとも味のあるイラストと、前向きなメッセージが評価されて、鮫島純子さんはエッセイストとして活動をスタートすることになりました。

 

新しいチャレンジを続けてきた

鮫島純子さんは、旦那と明治神宮周辺を毎日1時間かけて1周散歩することを習慣にしていましたが、1人になってしまうと半周歩くだけでいっぱいいっぱいになってしまったそう。

 

体力の低下を感じた鮫島純子さんは、水泳を開始。さらに80代に入ると新たに社交ダンスも始めました。音楽に合わせて体を動かすことが、思いのほか楽しいのだといいます。

 

鮫島純子さんは「子供は男の子ばかりです。最後に嫁たちの世話になることは避けなくてはと、散歩は怠れません」と足腰を鍛え、体力をつけることを意識しているようです。

 

 

鮫島純子は創価学会の信者?

出典:https://news.yahoo.co.jp/

 

鮫島純子さんについて調べると「創価学会」という言葉が検索ワードの候補として上がっていますが、どのような関係性があるのでしょうか。真実を調査しました。

 

噂の出所は?

鮫島純子さんが創価学会に入信している証拠はみつかりませんでした。

 

噂となった理由を調べたところ、自身の著書で、宗教を感じさせるような言葉が度々出てくることから、創価学会ではないかと言われるようになったようです。

 

著書内の「人は死なず魂は消滅しない」、「輪廻転生をして再び生まれ変わる」、「今は前世の結果なので、常に感謝をすることが大事」という表現が気になる人がいたようです。

 

確かに、こういった言葉がエッセイで登場したら、何かの宗教を信じている人なのではないか、と疑ってしまう人がいるのも無理はありません。

 

1冊の本との出会いが考えを変えた

もともと鮫島純子さんは宗教に興味があったわけではないようですが、第二次世界大戦が終わり、鮫島純子さん一家が東京に戻った後の生活がきっかけだったようです。

 

三男が幼稚園に通い始め、やっと自分の時間ができるようになると、鮫島純子さんは自身の至らない点ばかりが目につくようになり、「私はダメだなあ」と落ち込むことが増えていったそう。

 

そんな不安定な気持ちを落ち着けるために、キリスト教の教会に通ったこともありましたが、どうにもしっくりこなかったとのこと。

 

そんな中、親族から1冊の本をもらって読んでみたところ、「何か良くないことが現れたということは、前世でクリアできなかった問題が消えるチャンス」と書かれていたそうです。

 

「この本を読んでから、嫌なことが起きてもクヨクヨと悩まないようになった」とインタビューで以下のように語っています。

 

足を骨折したり、自動車事故に遭ったりしたときにも「自分の身辺に起こることは全部自分に縁のあること。誰かのせいで起きたのではなく、すべて自分の過去生から今に至るまでの誤った想いが現れて消え良くなる過程」と捉えるようにしました。

 

引用:エッセイスト 鮫島純子さん Wendy-Net https://wendy-net.com/

 

親族からもらったという本は、白光真宏会という宗教法人を立ち上げている五井昌久氏による『永遠のいのち』。

 

鮫島純子さんはこの本を読んだ後、白光真宏会の本部を訪れて、実際に五井昌久氏と対面したそうなので、創価学会との繋がりはデマのようです。

 

 

鮫島純子の自宅はどこにある?

出典:https://fujinkoron.jp/

 

鮫島純子さんは戦後、東京都に移住しています。

 

明治神宮から徒歩5分の場所に自宅があることをインタビューで明かしているため、現在も近辺に住んでいると思われます。

 

明治神宮は東京都渋谷区にあり、代々木駅から徒歩5分、参宮橋から徒歩3分、明治神宮前から徒歩1分にあり、お正月には多くの初詣参拝者が訪れる場所です。

 

そのため、鮫島純子さんの自宅は渋谷区内にあることは確実で、都内一等地といっても過言ではないでしょう。

 

 

鮫島純子は現在100歳

出典:https://revedemiya.exblog.jp/

 

現在の鮫島純子さんは、2022年現在100歳を迎えました。

 

今も変わらず元気そうで、インタビューに登場したり、エッセイを執筆したりと精力的に活動されています。

 

100歳を記念した新刊を出版

2022年、光文社から新刊『100歳の幸せなひとり暮らし 穏やかな心と健康を保つ100の方法』を出版。

 

人生が後半になるほど幸せになれる方法を100個紹介しており、ファンからは「味がある」と評価される鮫島純子さんのイラストも掲載されて、肩肘張らずに読むことができる1冊です。

 

また、シニア向けの講演会や対談、インタビューを頼まれることも多く、鮫島純子さんは毎日多忙とのこと。

 

年齢が年齢なので、息子の嫁が手伝いに来てくれるそうで、ありがたいと感じつつも、本当は「自分でできることは自分でこなす」という暮らしが快適だと考えているといいます。

 

メディアにも登場している

 

これまでに「アウト×デラックス」、「爆笑THEフライデー」などバラエティ番組に出演してきた鮫島純子さん。

 

2022年7月には、横浜市のローカルテレビで講演中の様子、観客の反応が報じられました。観客は、どうやら鮫島純子さんの年齢と元気すぎる姿に驚いた人が多かったようです。

 

また2022年11月には、渋沢栄一の命日が11月11日ということにちなみ、埼玉県の小学校で講演を行ったことがNHKのニュースで伝えられました。

 

鮫島純子さんが「栄一のように日本のみならず世界に尽くすようお願いします」と、未来を担う子供たちにエールを送る動画が、NHKのサイトにアップされています。

 

鮫島純子さんが隠居生活を送ることはまだまだなさそうですね。

 

 

まとめ

鮫島純子さんの華麗なる家系図と家族、旦那との結婚や3人の子供、学歴や経歴、自宅、創価学会との関係や現在についてまとめました。

 

鮫島純子さんは100歳になりました。渋沢栄一の孫娘として講演会を行ったり、明るくポジティブに生きるヒントを発信したりと、現在も多忙に過ごされているようです。

 

そんな中でも、明治神宮の近くにある自宅に住み、毎日散歩を続けているといいます。

 

これからも元気に活動していただきたいですね。

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