「飛びます、飛びます」のギャグで知られる昭和を代表するコメディアンで、コント55号として人気を博した坂上二郎さん。
今回は坂上二郎さんの経歴、学校の先生のヒット、結婚した嫁や子供(息子と娘)、死因や現在をまとめました。
この記事の目次
坂上二郎はマルチな才能を発揮したコメディアン
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坂上 二郎
生年月日: 1934 年4月16日
没年月日: 2011年3月10日
出身地: 鹿児島県鹿児島市
血液型: AB型
身長: 160cm
坂上二郎さんは、かつてお笑いコンビ「コント55号」で社会現象を巻き起こした売れっ子コメディアンとして知られています。
その他にも、歌手としてヒットを飛ばしたり、ドラマの主演を張るなど俳優としても活動し、芸事に関して高い評価をされてきました。
2011年3月10日に死去した際には、数多くの哀悼メッセージが届き、令和になった現在も尊敬してやまないという声が多数寄せられています。
坂上二郎の経歴① 苦労した下積み時代
ここからは坂上二郎さんの経歴を振り返ってみましょう。
実はかなり下積み時代が長く、売れるまでに多くの苦労と共に過ごした苦労人でした。
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坂上二郎さんは鹿児島県鹿児島市出身。2歳の時に家族で満州国に渡り、4年間を北京で暮らした経験を持っています。
6歳で鹿児島県に戻り、そのまま芸人になるために上京する日まで地元で暮らしています。
デパートで勤務していたことも
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地元の鹿児島市立清水中学校を卒業すると、市内に所在する丸谷呉服店に就職しています。
丸谷呉服店は坂上二郎さんが就職後しばらくして業種転換をして、丸屋デパートへと名称変更。現在は「マルヤガーデンズ」という名前の商業施設に変化を遂げています。
マルヤガーデンズのホームページには、坂上二郎さんが死去した際に哀悼のコメントをアップして、その死を悼んでいます。
そんな坂上二郎さんはデパートに勤務していた時、偶然出場した「のど自慢素人演芸会」で鹿児島代表に選抜されます。
これをきっかけに一念発起し、歌手の道を模索するために会社を退職、上京しました。
上京後は様々な職業に就きながら、当時の人気アイドル青島光一さんの付き人や、島倉千代子さんの専属司会を務め、歌手としてデビューできる機会をうかがう日々でした。
芸能事務所に所属するもリストラ
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その後、紆余曲折を経て「獅子てんや・瀬戸わんや」の門下生として、お笑いの基礎を学び、「内藤ロック・安藤ロール」というコンビを結成。
コンビはすぐに解散してしまい、安藤ロールを名乗った坂上二郎さんはストリップ劇場でピン芸人として活動します。
1963年頃になると中川プロダクションに所属が決まり、これから売り出してもらえる目途が付いたものの、その後大々的なリストラが行われました。
せっかく決まった所属事務所からリストラ要員になったことを告げられ、失意のうちに事務所を去りました。
坂上二郎の経歴② 萩本欽一とコント55号結成し、国民的芸人に
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事務所からリストラされた坂上二郎さんは、再び歌手を目指すも上手くいかず、芸能界を諦めかけていた頃、萩本欽一さんと組んだ「コント55号」が爆発的な人気コンビへと成長。
坂上二郎さんが「生涯相方」と信頼を置いていた萩本欽一さんとの関係性や、コンビを組んだ経緯が大きな話題を呼びました。
萩本欽一のプロフィール
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萩本 欽一(はぎもと きんいち)
生年月日: 1941年5月7日
出身地: 東京都台東区
血液型: A型
身長: 164cm
欽ちゃんの愛称で親しまれる萩本欽一さんは、日本を代表するコメディアン。萩本欽一さんの番組で育った芸能人は、今でも「欽ちゃんファミリー」と呼ばれています。
1970年代から80年代のお笑いを牽引し、「欽ちゃん走り」や「なんでそーなるの!」のギャグで一世を風靡しました。
現代でも使われる「ウケル」「天然ボケ」を初めて使ったのは、萩本欽一さんだと言われています。
お笑いの他には、野球の茨木ゴールデンイーグルスの創設者兼初代監督も務めました。
コンビを組んだきっかけとは?
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若い頃の坂上二郎(左)と萩本欽一(右)
そんなスーパースターの萩本欽一さんとコンビを組むことになった坂上二郎さん。2人はこれまで仕事のお笑いの舞台で一緒になることがありました。
2016年に公開された、萩本欽一さんへのインタビュー記事からコンビ結成の経緯を知ることができます。
萩本欽一さんは当時、CMで19回もNGを出してしまい落ち込んでいたそう。そして友人に勧められるままに、熱海にある温泉へリフレッシュしに出かけました。
温泉宿専属のお笑い芸人の仕事を紹介してもらい、熱海でノンビリしていたところ、ある日雷に打たれたようにネタを思いついたという萩本欽一さん。
新たに出直そうと急ぎ東京に戻ったその日に、麻雀でもやらないかと偶然電話を掛けてきたのが坂上二郎さんでした。
これまでの失敗談や思いついたネタについて坂上二郎さんに話をすると、坂上二郎さんから「一緒にやらないか?」と提案。
丁度作ったネタは、1人ではなく2人いた方がストーリーが進めやすいと気が付いた萩本欽一さんはその誘いを受けることに。
こうして2人で結成したコンビ「コント55号」は、たちまち人気になったのです。
なぜ萩本欽一を選んだの?
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2人が売れっ子コンビとして活躍するようになった後で、萩本欽一さんがふと気になったのが、なぜ坂上二郎さんが自分を選んだのか?という理由。
坂上二郎さん本人に問いただしてみると、当時はリストラされて歌手の夢を再び追いかけるも失敗。もう大型免許を取得して、普通にサラリーマンとして出発することを考えていたようです。
しかし、浅草のフランス座でコントをやっていた頃を思い出した時、一緒に頭に浮かんだのが萩本欽一さんのコントでした。
坂上二郎さんは、「俺も頑張ってはいたけど、あいつはもっと凄かった。懐かしいな。照れくさいけど電話してみるか」と思い立ったそう。
萩本欽一さんも「もし思い立ったのがもっと早かったら電話連絡はつかずに終わっただろうし、帰宅日に電話が来なかったら結成していなかった」と、偶然が重なった結果だったようです。
坂上二郎の経歴③ 歌手としても成功
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コント55として売れっ子になった後、次第に2人は単独で活動する機会も増えていきました。
そして1974年、坂上二郎さんは念願だった歌手デビューを飾りました。
学校の先生が30万枚売上の大ヒット
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坂上二郎さんは、1974年に「学校の先生」をデビュー曲として歌手活動を開始。レコードは30万枚の売上を叩き出して大ヒット。
その後リリースした「風まかせ」は、フジテレビで放送されていた旅番組「風まかせ新・諸国漫遊記」のテーマソングとして起用されました。
美しい歌声と独特の節回しに特徴があり、かつて付き人を担当した青木光一さんに声が似ているとよく言われていたのだとか。
坂上二郎の代表ギャグ「飛びます飛びます」
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坂上二郎さんがコント55号として活躍していた際、数多くのネタが作られました。
その中でもやはり有名なのが、飛行機ネタの「飛びます、飛びます」ではないでしょうか。
飛びます飛びます
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両手を広げて片方の腕を飛行機A、もう片方を飛行機Bとして、それぞれで「飛びます」を伝える必要がある、というところから生まれました。
坂上さん自身は沢山あるギャグのうちの1つという意識でしたが、片岡鶴太郎さんが坂上二郎さんのモノマネをする際にこのギャグを使い、代表ギャグとして認知されるようになりました。
また、コント55号のコントのスタイルとして、萩本欽一さんが「ドSなツッコミ」、坂上二郎さんがボケ担当でした。
そのため、坂上二郎さんに不器用キャラを思い浮かべる人が多いようです。
しかし実際には、歌も踊りも喋りも上手で芸のスキルはオールマイティに高いんです。このギャップが面白いと言われています。
坂上二郎が結婚した嫁は一般人
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坂上二郎さんは結婚しており、子供も誕生しています。嫁はどのような人なのでしょうか。
嫁は一般人
坂上二郎さんは1958年に結婚しています。嫁となった女性は「瑤子さん」という名前で、一般人です。
まだコメディアンとして成功する前に結婚し、坂上二郎さんのリストラに始まり、迷走していた時代に見捨てることなく支え続けました。
坂上二郎の子供(息子・娘)とは
息子と2人の娘がいる
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坂上二郎さんと嫁の瑤子さんの間には、3人の子供に恵まれました。
長男と長女、次女の1男2女です。かつては、息子も娘も芸能界で活動していたそうです。
長男は芸能人だった経歴を持つ
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息子の坂上大樹
長男の名前は大樹さん。タレントとして一時期活動していたことが判明しています。
出演したのは、1975年に放送された坂上二郎さんの冠番組「二郎さんのOH!マイおやじ」。
番組の司会を担当していたようですが、現在は芸能活動から身を引いているようですね。
長女は有沙美希
長女は、女優として松竹歌劇団(SDK)で「有沙美希」という名義で活動していました。
1996年には劇団自体が解散しており、その後の活動については確認されていません。
既に芸能界からも引退している可能性が高いでしょう。
次女の亜樹も女優だった
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娘の坂上亜樹
次女の亜樹さんは1968年に誕生。10代の頃は女優として活動していました。
出演していたドラマは、1984年に放送された「スクールウォーズ」、1985年に放送された「スタア誕生」など、大映ドラマが多いようです。
1985年以降、ドラマや映画で出演している様子が見られません。時期は不明ですが、映画監督の井上慎介さんと結婚していた時期もありました。
現在の様子は伝わってこないので、一般人女性として生活しているのかもしれませんね。
坂上二郎の死因は脳梗塞だった
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ここからは、2011年3月10日に死去した坂上二郎さんの死因や、亡くなる前の様子を紹介します。
脳梗塞を起こし麻痺状態に
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坂上二郎さんの死因は脳梗塞です。2003年、ゴルフをしている時に突如倒れて、救急搬送されました。
すでにこの時点で脳梗塞を起こしていたのですが、ゴルフ場に医師がいたのですぐに適切な処置が行われ、2ヶ月に及ぶ入院とリハビリで復帰しています。
時が流れ、2010年8月13日、自宅で再び脳梗塞の発作を起こして倒れています。
この時、頭を強打したことで、首から下に強く麻痺が残ってしまいました。そのため、入院し治療を受ける日々を送ることになったのです。
そして2011年3月10日午前、体調が悪化し、治療も虚しく死去。享年76歳でした。
2011年3月10日の午前中には訃報が流れ、相方の萩本欽一さんは移動中に知ったそうです。
到着した羽田空港で報道陣に囲まれると「悲しい、淋しい、二郎さんのばか」と振り絞るようにコメントを発表しています。
死去した日は東日本大震災が起こる1日前のこと。テレビ局では、坂上二郎さんの追悼番組やコーナーを設ける予定でしたが、震災の特別報道態勢の関係で各局は見送っています。
坂上二郎死去後の現在① 萩本欽一の書籍に登場
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2011年に坂上二郎さんが死去してから、2021年3月で10年が経過しましたが、死去後も坂上二郎さんは多くの人々の心の中に住み続けています。
萩本欽一さんは、2020年に出版した書籍「マヌケのすすめ」において、坂上二郎さんとの思い出を語っています。
若い頃は坂上二郎が苦手だった
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著書で語られているのは、2人がコンビを組む前の若い頃で、当時の赤裸々な気持ちが明かされています。
コンビを結成する前の坂上二郎さんとは、何度かお笑いの舞台で一緒になったのですが、どうにもやりにくいと感じていた萩本欽一さん。
相手の反応にお構いなしで、どんどんギャグをぶつけてくるスタイルにペースが掴みにくかったそう。劇場の支配人に「できれば一緒に仕事したくない」とやんわり伝えていたのです。
坂上二郎さんにも苦手意識は伝わっていただろうと考えていました。
このことから、コンビを組もうと言われた時に「どうして自分を選ぶのか」と、モヤモヤが残って、その理由を尋ねた萩本欽一さん。
「あんなに笑いにしつこいのは、欽ちゃんが初めてだった」って。
「えっ、しつこいのは二郎さんでしょ!」って思ったんだけどね。
でも、芸がしつこいっていうのは悪いことじゃない。
お互いのマヌケの意地みたいなのがぶつかりあって、何かが生まれたのかもね。
引用:マヌケのすすめ – DIAMONDonline https://diamond.jp/
仕事を一緒にやりたくないと言いつつもコンビニなってしまったということは、やはり坂上二郎さんに特別な魅力を感じていたということになるのでしょう。
坂上二郎死去後の現在② 吉本興業最速で売れたと称賛された
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2020年12月に放送された「カズレーザーの図図図~秒で腑に落ちる鬼まとめ」において、過去から現在に至るまで、吉本興業のお笑い芸人の売れるまでのスピード図が公開されました。
ランキング形式で紹介された芸人の中に「コント55号」が入っています。
EXITを越えている
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これまでに結成から売れるまでの年月が早いランキングの3位が「オリエンタルラジオ」で3年1ヶ月、2位が「EXIT」で2年10カ月。
そして堂々の1位は「コント55号」で1年9ヶ月と発表されました。
この圧倒的なスピードは、令和の現在でも抜かれておらず、後輩達から尊敬の念を寄せられています。
まとめ
出典:https://www2.nhk.or.jp/
坂上二郎さんは昭和を代表するコメディアン。
デパート勤務を経て歌手を目指し上京したものの、長い下積み生活を送りました。
しかし、萩本欽一さんと「コント55号」を結成すると、爆発的な人気を誇るコンビとなりました。
特に「飛びます!飛びます!」は、片岡鶴太郎さんがモノマネのネタとして披露したことで、さらに有名に。
1970年代中盤には、歌手として「学校の先生」をリリースし、30万枚売上の大ヒットを叩き出すなどマルチな才能を発揮しています。
2003年に脳梗塞を発症し、その7年後に再発。この発作で入院生活に切り替わり、2011年3月10日に76歳で死去。死因は脳梗塞でした。
現在も「コント55号」は、売れたスピードが圧倒的だと後輩芸人達から称賛されています。「コント55号」を越えるお笑い芸人は出てくるのでしょうか。
坂上二郎さんのご冥福をお祈りします。