昭和のスター俳優で「必殺シリーズ」「太陽にほえろ!」などで人気を博した沖雅也さんは、衝撃的な飛び降り自殺でこの世を去りました。
今回は沖雅也さんの経歴や京王プラザホテルからの衝撃の飛び降り自殺について、残された遺書や恋人と噂の日景忠男や坂口良子との関係についてをまとめました。
この記事の目次
沖雅也のプロフィール
沖雅也のプロフィール
生年月日:1952年6月12日
没年月日:1983年6月28日
出身地 :大分県別府市(大分市)
身長 :183cm
血液型 :B型
沖雅也さんは、名作刑事ドラマ「太陽にほえろ!」や大人気時代劇「必殺」シリーズなどへの出演で人気を博した昭和の時代を代表するスター俳優のひとりです。
沖雅也の経歴① 中学時代に家出して単身上京
沖雅也さんは1952年6月12日、父親は石油の卸売業者を経営。祖父は東京帝国大学医学部出身のエリート医師で大病院の経営者という大分県別府市の裕福な家庭に誕生しました。しかし、沖雅也さんが幼少の頃に父が事業に失敗した影響で同県大分市に転居して以降、市内を転々とする生活を余儀なくされます。
小学生時代の沖雅也さんは手に負えないほどわんぱくな少年で、中学2年生だった1966年12月頃に両親が離婚。沖雅也さんは父に引き取られるものの親子仲は悪く、中学校卒業を前に家出してしまいます。
沖雅也さんは全財産10万円とバッグひとつで東京へ、名前や年齢を偽り、ラーメン屋やカステラ工場の配送員など様々な職を転々として生計を立てました。
沖雅也の経歴② ゲイバーでの勤務中にスカウトを受け俳優の道へ
そんな生活の中、ある頃から沖雅也さんは池袋のゲイバー「げれえ」でバーテンダーとして働き始めます。元々美形で高身長だった沖雅也さんは、客からファッション雑誌のモデルの仕事などを紹介されて、バーテンの仕事を掛け持ちしますが、それでも生活は苦しく、毎日の食事にも困るような日々を送ったそうです。
1968年16歳になった沖雅也さんは、「げれえ」から浅草のゲイバーへと移籍し、そのバーのママと愛人の関係になって月給8万円ほどで働いていました。そして、その店に客として訪れた、後にオスカープロモーションを設立する事になる古賀誠一氏の目にとまりスカウトを受けます。
これをきっかけにして沖雅也さんは、映画製作会社大手の「日活」に所属して俳優デビューを果たしました。デビュー作は丘みつ子さん主演の青春映画「ある少女の告白・純潔」で、「丘みつ子の相手役募集コンテスト」に応募して合格した事で手にしたチャンスでした。
なお、俳優デビューに先立って、芸能界入りを祝う形でレセプションが開かれ、その場には卒業できていなかった中学校の校長や大分市長も出席し中学校の卒業証書を手渡されています。その後、沖雅也さんは通信制の高校も卒業しています。
翌1969年には「エランドール新人賞」にも選ばれ、沖雅也さんは注目の若手俳優として一気に売り出されます。芸名「沖雅也」が、当時の日活の社長の堀雅彦氏から「雅」の字をもらって名付けられたというエピソードからも、沖雅也さんが日活からどれほどの期待を受けていたかが窺い知れます。
沖雅也の経歴③ アイドル俳優として注目を集める
その後、沖雅也さんは数年の間売れない下積み時代を送り、1971年8月公開の映画「八月の濡れた砂」の主演に抜擢されるも、タイミング悪くバイク事故に見舞われて降板。大きなチャンスを逃してしまいます。
しかし、1971年10月から放送されたテレビドラマ「さぼてんマシュマロ」で主人公・伊藤仁役(吉沢京子さんとダブル主演)に抜擢された事でアイドル俳優的人気を獲得し注目を集める事になります。
沖雅也の経歴④ 「必殺シリーズ」「太陽にほえろ!」で国民的スター俳優へ
沖雅也さんは、1972年に映画製作大手「松竹」へと移籍し、アイドル俳優から本格俳優へとシフトチェンジを果たしています。
沖雅也さんは、1973年から放送の、時代劇「必殺シリーズ」の第2作目「必殺仕置人」で弱者の恨みを晴らすため悪を裁く裏稼業「仕置人」の1人で、主人公の1人でもある「棺桶の錠」役に抜擢され、ストイックでクールなキャラクターを好演し、演技の幅を見せつけました。
その2年後。1975年から放送された「必殺シリーズ」第6作目、「必殺仕置屋稼業」でも、仕置屋のひとり、竹細工師・市松役としてレギュラー出演しています。
「必殺シリーズ」での好演によって、人気と共に俳優閉じての実力も示した沖雅也さんは、1976年9月、国民的人気を誇っていた刑事ドラマ「太陽にほえろ!」のレギュラーキャストの1人として、スコッチ刑事こと滝隆一役に抜擢され、これをきっかけにして爆発的人気を獲得。国民的スター俳優の座へと駆け上がりました。
以降、沖雅也さんの人気は衰えることを知らず、ドラマや映画を中心に様々な作品に出演を続けます。1979年放送のアクションコメディドラマ「俺たちは天使だ!」では、陽気な伊達男の主人公・麻生雅人役を演じ、1980年には視聴者からの熱烈な要望を受けて「太陽にほえろ!」へと復帰(スコッチ刑事は本人希望によって1977年に一旦降板していた)するなど活躍。
沖雅也の経歴⑤ 過密スケジュールで精神的に不安定に
しかしこの頃から、沖雅也さんはあまりにも過密なスケジュールによって精神的な不安定さを見せるようになります。
1983年に公開された大島渚監督の大ヒット映画「戦場のメリークリスマス」の重要な役柄・ヨノイ役にも、沖雅也さんが抜擢される見込みになっていましたが、この精神的不安定さが問題視され、この役柄候補からあえなく辞退しています。
また、1981年4月には東名高速で愛車のキャデラックの運転中に事故を起こし、その際に病院で軽い捻挫のほか、「躁うつ病」の診断を受け、2週間の入院となり、同年6月に現場復帰したものの精神安定剤を手放せなくなり、その副作用によって体がむくみ、肥満がちになったことでさらに精神病が悪化してしまいます。その結果、復帰からわずか3ヶ月後には、沖雅也さんは再びの休業を余儀なくされています。
そして、1983年6月28日、沖雅也さんは宿泊していた「京王プラザホテル」の最上階47階から飛び降り自殺するという衝撃的な最期を迎えます。
次の見出しからは、沖雅也さんのこの衝撃的な自殺について詳しく紹介していきます。
沖雅也は京王プラザホテルの47階から飛び降り自殺
沖雅也さんは1983年6月26日から、東京都新宿区の京王プラザホテルにチェックインしています。この時、何故か沖雅也さんは少し前にテレビ版「蒲田行進曲」での演技指導を受けた劇作家で演出家のつかこうへい氏の名前でチェックインしています。
沖雅也さんはその夜、京王プラザホテルの部屋に女子大生のホテトル嬢(派遣型風俗サービス)2名を呼び、それから2日間にわたって性交渉に没頭します。この時の沖雅也さんはかなり激しく女性の身体を求めたようで、ホテトル嬢のうちの1人に「男として物凄い」と感想を言われるほどでした。
そして、沖雅也さんは6月28日、京王プラザホテル本館の最上階、47階のバルコニー(地上から178メートルで、当時の新宿ではもっとも高いビルだった)へと出て、まずタバコを一服し、それからフェンスによじ上り、しばらく腰掛けるようにしていたという事です。
その様子を見つけたホテルの警備員が「危ない!」と声をかけたところ、沖雅也さんはその声に反応して振り返るようにし、そのままこちら側を向いたままの格好でビルからつき出るような構造で作られている7階屋上部分に向かって落下していきました。
背中から落ちたこともあって顔は無傷だったということでしたが、地上178メートルもの高さから落下した衝撃は凄まじく、身体は大きな損傷を受け、一部報道によれば上半身と下半身が完全に分断されるほど損壊していたという事でした。沖雅也さんは全身を強く打って即死。まだ31歳の若さでした。
国民的大人気俳優・沖雅也の突然の死に社会は大きな衝撃を受け、しばらくの間テレビのワイドショーはそのニュースで持ちきりとなります。沖雅也さんの葬儀はまず自殺の2日後の1983年6月30日に密葬が執り行われ、それから1ヶ月後に、所属事務所の主催で葬儀と告別式が行われました。
この葬儀・告別式には、当時の大人気俳優の勝野洋さんや柴田恭兵さん、女優の坂口良子さん、歌手の美輪明宏さんら、錚々たる顔ぶれが参列し、沖雅也さんの突然の死を悼みました。弔辞は柴田恭兵さんや坂口良子さんが読み、沖雅也さんとは仲の良い友人関係だった柴田恭兵さんは涙を流しながら弔辞を読まれていました。
「必殺シリーズ」を手がけた名プロデューサー・山内久司氏は、沖雅也さんの自殺について後に「やったなと思った。あの男は大人の世界で汗臭く生きる事はできない。歳食ってどうすんのかなと思っていたから案の定だった。ある種、三島由紀夫的だなと思っていた。」と述懐されています。
また、その「必殺シリーズ」で沖雅也さんと長く共演した俳優の藤田まことさんは「話が突然飛ぶ事があり、精神的に不安定な様子に見えた」と、新聞社の取材に答えています。
俳優の山下真司さんは、沖雅也さんは冗談がうまく笑わされっぱなしだったとしつつも、それはナイーブさの裏返しだったのかも知れないと評し、常に仕事に情熱的で真剣だった、ストイックになり過ぎたのではないかとコメントしています。
その他にも、多くの共演した俳優や関係者が「真面目すぎるくらい真面目」「研究熱心」といった印象を口にしています。
このように、沖雅也さんをよく知る人々の当時のコメントを総合すると、沖雅也さんには繊細でピュアなところがあり、それで思い悩んで躁鬱病を患い、自殺に至ったように感じられます。
沖雅也の遺書「おやじ 涅槃で 待ってる」が話題に
京王プラザホテル最上階から飛び降りるという衝撃的な自殺を遂げた沖雅也さんは、ホテルの部屋の備え付けの便箋を使って遺書を残していました。
この遺書ではまず、京王プラザホテルに迷惑をかけた事とチェックインの際に名前を無断で使った事をつかこうへい氏に詫びる内容がしたためられていました。
今……プラザホテル様へ 大変申し分けなくおゆるし下さいませ。つかこうへい様 あなたの名、つかを使いし僕をゆるせるものならおゆるし下さい。
これに続けて以下の内容が綴られていたとされます。
人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることが、正しいものを求めることと思うが、今の私は誤ったものの方を求めている者。
沖雅也さんは、老いて死に近づいていく事を恐れ、生きていることに意味を見出せなくなったのかも知れません。事実、沖雅也さんは晩年には老いていく事を極端に恐れ、菜食主義に徹するなどの行動も見られたといいます。
そして、沖雅也さんの遺書はこの言葉で締めくくられていたとされます。
おやじ 涅槃で まってる
「涅槃」とは仏教用語で、ごく簡単に言えば、一切の煩悩から解放された状態、悟りや解脱、安らぎの境地を指す言葉です。沖雅也さんは、「おやじ」に一足先に涅槃に行って待っているとこの遺書で伝えました。
この「おやじ 涅槃で まってる」の一文はその後話題になり、一時は流行語のようにもなりました。
この「おやじ」とは、沖雅也さんの養父で、当時沖雅也さんが所属していた芸能事務所「JKプランニング」の社長だった日景忠男さんの事を指しているとされます。次の見出しでこのおやじこと日景忠男さんとの沖雅也さんの関係についても紹介します。
沖雅也の「おやじ」こと養父・日景忠男は恋人?同性婚関係の噂とは
沖雅也さんは、上京したばかりの頃に働いていたゲイバー「げれえ」で客として訪れていた日景忠男さんに声を掛けられ、その後に一緒に住むようになりました。日景忠男さんは同性愛者で、沖雅也さんを見初め、俳優になりたいという沖雅也さんの夢を叶えるために芸能事務所「JKプランニング」を設立し、そのデビューに尽力しました。
また、沖雅也さんの実父が1975年に亡くなると、沖雅也さんと養子縁組を結んで養父になっています。
この養子縁組については、同性婚が認められていないために、その代わりにこうした形をとったとも言われていますが、本当のところは謎に包まれています。
ただ、沖雅也さんと日景忠男さんが親密な間柄であったのは間違い無いようで、沖雅也さんはホテルに残した遺書の他に日景忠男さんと同棲していた自宅マンションにも日景忠男さん宛の遺書を残しています。その遺書には、日景忠男さんへの感謝と謝罪が綴られていたそうです。
なお、2人が同棲していたというマンションの部屋は、日景忠男さんの趣味で、壁が紫色で床照明がついておりまるでゲイバーのような雰囲気だったとある元芸能記者が明かしています。
沖雅也さんは日景忠男さんと毎年正月には2人きりで海外旅行をするのが定例だったそうで、フランスのパリで2人が腕を組んで歩いているのを見たという目撃情報もあったようです。
日景忠男さんは、沖雅也さんから誕生日プレゼントとして贈られたという指輪を日沖雅也さんの死後、沖雅也さんのお気に入りの場所だったというセーヌ川に「数百年後の恋人達に拾ってもらえるように」との願いを込めて投げ捨てた事なども明かしています。
沖雅也は死の直前に日景忠男への手紙をホテトル嬢に託していた
沖雅也さんは自殺の直前まで、京王プラザホテルの部屋に呼んだお気に入りのホテトル嬢と性交に及んでいたと言われていますが、そのホテトル嬢に沖雅也さんは日景忠男さんに宛てた手紙を託しています。
日景忠男さんによれば、その手紙には「ホテルに迎えに来て欲しい」といった内容が綴られていたのだそうです。こうした手紙の内容もあってか、日景忠男さんは「沖の自殺は、事故みたいなものだった」と知人に話していたのだそうです。
これを裏付ける情報として、沖雅也さんの最後の姿を見た京王ホテルプラザの警備員は、フェンスに腰掛ける沖雅也さんの姿を見つけ「何をやってるんだ!と声をかけたところ、沖雅也さんが驚いたように振り向き、その時にバランスを崩して落ちたたように見えた」といった証言をしていたというものがあります。
真相はわかりませんが、少なくとも日景忠男さんは、沖雅也さんは「本気で死ぬつもりはなかった」と考えていたようです。
沖雅也は日景忠男との関係に悩んでいた?
沖雅也さんはその衝撃的な自殺や残した遺書の内容から、日景忠男さんと恋愛関係が噂になり、週刊誌やワイドショーで盛んに報じられました。
しかし、当時の2人の関係をよく知るというある関係者は「沖雅也さんは女好きの普通の男だった」と証言しているのです。
この関係者によれば、日景忠男さんは沖雅也さんに想いを寄せるあまり束縛を激しくし、沖雅也さんはそれに嫌気が差していた。そして自殺の直前に日景忠男さんの財布から現金50万円を盗んで家出し、京王プラザホテルに2日間滞在した後に自殺に至ったというのが一連の事件の真相だと言うことでした。
この話が真実であれば、沖雅也さんが精神的に病んでいったのは、日景忠男さんとの関係に悩んだ事が根本の原因だったとも考えられます。
日景忠男は沖雅也の生命保険金3億円を受け取っている
沖雅也さんは大人気俳優だった事もあって、1億円の生命保険金がかけられていました。そして、その保険金の受取人は所属事務所である「JKプランニング」でした。
当初は1億円だった保険金ですが、日景忠男さんの知らないうちに保険会社の担当者が3億円に設定し直していたとされていますが、どうしてそのような経緯になったのについては明らかにされていません。
これにより、沖雅也さんの突然の自殺で日景忠男さんは莫大な保険金を手にしました。沖雅也さんの実母とその取り分について揉めた事や、新たに新宿2丁目に「シンドバッド」というゲイ喫茶を開店させるなどし、日景忠男さんの手元には約2億円が残ったと言われています。
そして、日景忠男さんはこの金を湯水のごとく使い、一泊17万円の海外のホテルに1ヶ月連泊したり、高級外車や高級ブランド品を買いあさったりなどし、沖雅也さんの死からわずか3年ほどでこの大金を使い果たしてしまったとされます。
沖雅也の死後、日景忠男は無茶苦茶な人生を送っている
その後の日景忠男さんにはいい話はなく、2003年に知人の立ち上げた会社で専務に就任するも、2005年12月には覚せい剤取締法違反で逮捕されて役員を解任され、2008年に再び同容疑で逮捕されて懲役1年2ヶ月の実刑判決を受けています。
さらに、その会社から2億円もの金を横領していた事なども明らかになるなど、沖雅也さんの死後の日景忠男さんの人生は無茶苦茶なものだったようです。
そんな日景忠男さんでしたが、2015年2月、肝硬変が原因で78歳の生涯を閉じています。沖雅也さんとは涅槃で再び会えたのでしょうか?
沖雅也は異性愛者で恋人は坂口良子の噂も
日景忠男さんとの同性愛関係が噂になっていた沖雅也さんですが、本当は女性が恋愛対象のノーマルな男性だったとされ、事実、美人女優や外国人女性との熱愛の噂が出た事もありました。
また、恋人とされた日景忠男さんも、養父としての立場から、親しくしていた女優の坂口良子さんや、家族ぐるみの付き合いのあった女優の吉沢京子さんを、沖雅也の婚約者にと望んだ事もあったとされます。
特に、沖雅也さんとの共演が多かった坂口良子さんは恋人と噂れていましたが、坂口良子さんは沖雅也さんの葬儀時にその噂を否定し「事実ではない事を言われて沖くんがかわいそう」とコメントされています。
沖雅也さんと坂口良子さんの関係については、恋人というよりは「兄と妹のような関係」だったと言われています。
まとめ
今回は、昭和のスター俳優で人気絶頂のころに突如として京王プラザホテルの最上階から飛び降り自殺をし31歳の若さでこの世をさった俳優・沖雅也さんについてまとめてみました。
沖雅也さんは15歳で家出をして上京し、その後俳優デビュー。時代劇の名作「必殺シリーズ」や、当時大人気を誇った刑事ドラマ「太陽にほえろ!」などでブレイクし、若くして国民的スター俳優の座へと上り詰めました。
しかし、次第に沖雅也さんは精神を病み、躁鬱病と診断され、その後突然の飛び降り自殺でこの世を去ります。残されていた遺書には、所属事務所社長で養父だった日景忠男さんに宛て「おやじ 涅槃で まってる」と書かれており、その文面や関係者の証言から2人は同性愛関係にあったとの噂が流れました。
こうして沖雅也さんの自殺はセンセーショナルに報じられましたが、近年になってからの週刊誌報道で沖雅也さんは異性愛者であり、同性愛者である日景忠男さんとの関係に悩んでいたとの情報も明らかにされ、再びその死は注目を集めたのでした。
しかし、その日景忠男さんもすでに他界されており、この真相については永遠に謎のままでしょう。「おやじ 涅槃で まってる」の言葉通り、2人は再開できたのでしょうか?最後に沖雅也さんと日景忠男さんの冥福を祈りたいと思います。