非常に陰湿で凄惨極まりない「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」は、日本犯罪史上初めて未成年に死刑判決が下りた事件です。
今回は犯人3人の生い立ちや家族、現場や被害者など事件詳細、死刑執行など犯人らの現在を紹介します。
この記事の目次
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人1人目:小林正人(少年KM)
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人1人目:小林正人(少年KM)の生い立ちや家族
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人2人目:小森淳(少年KA)
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人2人目:小森淳(少年KA)の生い立ちや家族
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人3人目:芳我匡由(少年HM)
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人3人目:芳我匡由(少年HM)の生い立ちや家族
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の概要
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の詳細① 大阪事件
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の詳細② 木曽川事件
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の詳細③ 長良川事件
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の判決とは?
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の現在① 遺族が講演活動をしている
- 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の現在② 犯人たちの死刑執行はまだ行われていない
- まとめ
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人1人目:小林正人(少年KM)
犯行当時19歳だった未成年の少年KMは、本名を小林正人(こばやし まさと)といいます。
生年月日は1975年3月19日で、愛知県一宮市で生まれています。
「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」における小林正人の罪状は、
強盗致傷罪・傷害罪・殺人罪・監禁罪・強盗殺人罪・死体遺棄罪・恐喝罪・暴力行為等処罰ニ関スル法律違反
であり、主犯格の3人の中では第一審、控訴審ともに死刑判決を受けた主犯格中の主犯格です。
他の主犯格2人と同様に、小林正人は最高裁判所で上告棄却の判決を受け、2011年4月1日に死刑判決が確定しました。
2021年8月現在は、小林正人は死刑囚として東京拘置所に収監されていますが、自身の正当性を認めさせるために裁判で争い続けています。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人1人目:小林正人(少年KM)の生い立ちや家族
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前述の通り、小林正人は愛知県一宮市で生まれましたが、実母が高齢出産だったことから出産直後に死亡しています。
実父は男手ひとつで育てる自信がなかったことから、弟夫婦に養子として出しました。小林正人を引き取ってくれた養母の弟3人が暴力団組員でした。
養父はまもなく事業が破産しており、小林正人の不運は生まれた直後から始まっていたようです。
貧困と極端な孤独の中で幼少期を育った小林正人は、性格がひねくれてしまい、幼少期から窃盗を繰り返していました。
しかし、小学3年生の時に身の覚えのない窃盗の罪を着せられてしまい、警察のお世話になったことに強いトラウマを抱え、それ以降の素行悪さはエスカレートしていきました。
当時、小林正人がお世話になっていた児童相談所・教護院の記録では、小林正人は中学2年生の時に精神年齢が小学生中学年程度とみられ、協調性はなくとても弱気と記載されていました。
特に、成人男性の前では萎縮してしまう性格だったようです。
まともな愛情をかけられず精神が未熟なまま育った小林正人は、1989年2月に県立教護院の愛知学園に入所し、卒園した後は稲沢市内の会社に一度就職しています。
しかし、たった1か月で退職してしまい、その後は無職のまま悪友らとシンナーに溺れていきました。
小林正人はたびたび事件起こして少年院入りを繰り返した挙句、少年院の中で知り合った知人のつてで暴力団に所属することとなり、完全に裏社会の人間となりました。
ただ、「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」後に東京拘置所で知り合った、クリスチャンの女性を「おかん」と呼び始めるなど、小林正人は愛情に飢えていたことがうかがえます。
KM本人は「(拘置所内で読書を始めたことで)『家族との愛・友情・夢が核にある人は強い』と知ったが、そういうものは自分にはなかった」と述べているほか[46]、1998年11月から面会を続けているクリスチャンの女性を2006年ごろから「おかん」と呼ぶようになっていた。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人2人目:小森淳(少年KA)
犯行当時19歳だった未成年の少年KAは、本名を小森淳(こもり あつし)といいます。
生年月日は1975年7月21日で、大阪府松原市で生まれています。
「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」における小森淳の罪状は、
傷害罪・殺人罪・監禁罪・強盗致傷罪・強盗殺人罪・死体遺棄罪・暴力行為等処罰に関する法律違反
です。
第一審、名古屋地裁判決では、小林正人に従属的な関係にあったと認定され、芳我匡由とともに無期懲役の判決を受けました。
しかし、控訴審・名古屋高裁判決では、木曽川事件においての殺人罪は小林正人と差異がないとして、芳我匡由とともに死刑の判決を受けました。
小森淳は2021年8月現在、死刑囚として名古屋拘置所に収監されています。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人2人目:小森淳(少年KA)の生い立ちや家族
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小森淳は、小林正人や芳我匡由らに比べて、比較的恵まれた普通の家庭で生まれました。
3人姉弟の末っ子でしたが、両親にとって初めての男の子だったことから、過度な愛情を受けて甘やかされて育ちました。
小森淳は小学校までは普通の生徒でしたが、松原市立松原第六中学校に入学してからは徐々に非行が目立つようになっていきました。
中学2年生の頃に所属していた野球部を辞めて、小森淳は悪友らとつるみ、原付バイクの窃盗やシンナー遊びなどにふけっていました。
その後1991年4月には、小森淳は府立の工業定時制高校に進学しましたが、学校にはあまり行かず同年夏に中退しています。
小森淳は飲食店や自動車整備工場、引っ越しセンター、自転車店などを転々としながら働きましたが、どれも長くは続かなかったようです。
そして、1992年春頃に当時交際していた女性のつてで暴力団の元組員と知り合いました。
小森淳はこの元組員と次第に親しくなって慕うようになり、両親に頼んでこの元組員の下でたこ焼きの露店販売を一緒にするようになりました。
小森淳は元組員と仮の杯を交わして舎弟となり、暴力団に所属してからは恐喝や窃盗などでしのぎを稼ぐようになりました。
1994年4月頃にこの元組員は、山口組系暴力団・山健組の傘下組織、山本組の舎弟となったため、小森淳もその組織に属して構成員として活動し始めました。
その後の小森淳は、同年6月頃から大阪市内にあるクラブでホストとして働いていましたが、ここで少年U(大阪事件に加担し被害者を殺害した少年)と知り合っています。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人3人目:芳我匡由(少年HM)
犯行当時18歳だった未成年の少年HMは、本名を芳我匡由(はが まさよし)といいます。
生年月日は1975年10月23日で、大阪府大阪市西成区で生まれています。
「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」における小森淳の罪状は、
傷害罪・殺人罪・監禁罪・強盗致傷罪・強盗殺人罪・死体遺棄罪
であり、第一審、名古屋地裁判決では小林正人に従属的な関係にあったと認定され、 小森淳とともに無期懲役の判決を受けました。
しかし、控訴審・名古屋高裁判決では、木曽川事件においての殺人罪は小林正人と差異がないとして、小森淳とともに死刑の判決を受けました。
芳我匡由は2021年8月現在、死刑囚として名古屋拘置所に収監されています。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の犯人3人目:芳我匡由(少年HM)の生い立ちや家族
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芳我匡由は元暴力団組員だった父親と、子供を顧みずにタバコをふかしながらゲームセンターに入り浸るような堕落した母親の元に生まれました。
7人兄弟の第4子だった芳我匡由は、家庭は貧困を極めており、小学校時代はボロボロの汚れた格好がいじめの的となり、苦しい子供時代を過ごしていました。
この頃には母親も一切家事をしなくなっていたようです。
そんな過酷な生い立ちを持つ芳我匡由にも、楽しい時代が到来します。小学4年生から大阪市内の少年野球チームで野球に打ち込み始め、優しいコーチを兄のように慕っていました。
ちなみに、芳我匡由の後輩には、後にプロ野球界のパリーグで強打者として活躍したプロ野球選手がいます。
しかし、劣悪な家庭環境が災いして、芳我匡由は小学6年生ぐらいの頃からいじめや家庭の問題を忘れるためにシンナー遊びにふけるようになりました。
1988年3月に小学校を卒業して中学校に進学したものの、すぐに不登校となり、西成区内にあった建設現場で住み込みながら働いていました。
その後、芳我匡由が中学2年生くらいの頃に母親が蒸発したことで、さらに荒れた芳我匡由は窃盗事件起こして警察のお世話になり、教護院に入ることとなりました。
それでも芳我匡由の窃盗癖は治らず、1990年8月に初等少年院に入り、1991年9月に父親と死別すると同時期に少年院から仮退院をして、父親が働いていた建設会社で働き始めました。
ですが長続きせず、その後も犯罪を繰り返しながら職を転々としました。
1992年10月、芳我匡由はいくつかの犯罪で逮捕されて中等少年院送りとなりましたが、少年院に入るまでの間に女性と同棲し、少年院入院中の1992年に長男が誕生しました。
1993年9月に少年院を仮退院した芳我匡由は、兵庫県神戸市内にあるパチンコ店で鉄筋工として働き始め、1994年5月には交際していた女性と籍を入れて子供を認知しました。
しかし、芳我匡由はホストクラブで働き始めると複数の女性と交際を始め、妻子に対する愛情を完全に失ったようで、同年8月に離婚しました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の概要
数多くの少年犯罪事件の中でも、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件ほど後味が悪い事件はそう多くないのではないでしょうか。
今回は、「少年法があるから大丈夫」と高をくくった3人の少年が起こした、凶悪な連続殺人事件について取り上げます。
1994年9月28日から10月7日にかけて、3件の連続殺人事件が発生しました。
合計4人の尊い命を奪った本件は、事件発生場所からそれぞれ大阪事件、木曽川事件、長良川事件とも呼ばれています。
それぞれの事件概要は次のとおりです。
「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」3つの事件概要
【大阪事件】
1994年9月28日、大阪府にて26歳の男性が集団リンチの末に殺害され、その後、高知県の山中に遺棄された遺体が発見された事件。
【事件木曽川事件】
1994年10月6日、愛知県にて22歳の男性が集団リンチを受けた後、木曽川河川敷の雑木林内に放置されて殺害された事件。
【長良川事件】
10月7日岐阜県長良川河川敷にて、20歳の男性2人、19歳の男性1人が集団リンチを受け、3人のうち2人が死亡、1人が負傷した事件。
長良川事件で犠牲になった2人の遺体が翌10月8日に発見されたことで、警察の捜査が開始されました。
付近の防犯カメラ映像やその他の証拠から、これらの事件の犯人は小林正人(当時19歳)、小森淳(当時19歳)、芳我匡由(当時18歳)を中心とした不良少年グループだと判明します。
主犯3人のうち2人は同月内に警察署へ出頭し、残ったもう1人も約3ヶ月後の1月18日に逮捕されています。
公判では、彼らの命に対する粗末な考え方が露呈し、罪をなすりつけあい、ご遺族を罵る姿など醜態を晒しました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の詳細① 大阪事件
小林正人、小森淳、芳我匡由の3人は同じ暴力団に所属しており、恐喝で得た金銭で生活をしていました。
最初の事件は、1994年9月28日に大阪市中央区の繁華街で、26歳の男性2人に恐喝目的で暴行を行います。
被害者2人のうち1人は逃げ出しますが、逃げ損ねた1人をそのまま拉致し、自分たちが寝泊りしている暴力団事務所に監禁しています。
被害者を工事業者に送り込んで給料をピンハネしようと考えた犯人たちは、何件もの工事業者に連絡を取ったものの、承諾してくれる工事業者が見つからなかったようです。
そして、工事業者から断られた事が面白くない3人は、腹いせと称して被害者を暴行しました。
ベルトで殴る、ライターオイルを背中に垂らして着火する、その火傷した背中をボールペンで突き刺すなど、残虐極まりないリンチを加えました。
その後、怪我をした被害者を工事業者に送り込めないと判断した彼らは、殺害を決意します。
そして、うつ伏せになっている被害者の首にベルトを巻きつけると、3人は代わる代わるベルトの両端を強く引っ張りました。
それは約30分間続けられ、被害者が動かなくなったのを確認した彼らは、普段通り近所の中華料理屋で食事をしたと言われています。
その後、3人は事務所を訪ねてきた同じ暴力団所属の先輩に、遺体の処分方法について相談しました。そして、遺体を四国の山中に遺棄することが決定しました。
殺害当日の夜、車を使って高知県安芸郡奈半利町に来た3人は遺体を山中に遺棄しました。
遺体は約2ヶ月後まで発見されることはなく、見つけられた時にはほぼ白骨化していたそうです。
また司法解剖の結果、生前に内臓破裂のほか、左の鎖骨及び肋骨を骨折していたことが判明し、その暴行の激しさを物語っています。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の詳細② 木曽川事件
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事件から2日後の10月1日、小林正人、小森淳、芳我匡由と同じ暴力団に所属する別の仲間が高校生3人組を恐喝します。
しかし隙を見て逃走した被害者の1人が警察に通報し、その結果3人が寝泊りしている暴力団事務所に大阪府警の家宅捜索が入ることになりました。
家宅捜索が入った時、偶然外出していた3人は事務所に帰ったら自分たちも捕まると考え、事務所には帰らず大阪を後にしました。
それから5日後の10月6日、3人は小林の故郷である愛知県に逃亡していました。
小林はかつての仲間を集め、小森淳、芳我匡由を含めた男女10人で、酒とシンナー遊びにふけっていたそうです。
しかし、その10人の中にはシンナーを吸いながら小林正人を睨みつける22歳の男性がいました。
実はこの男性は、過去に交際していた女性を小林正人に奪われたことがあって強い恨みを持っていました。
睨みつけられていることに気付いた小林正人は、腹を立ててこの人物に殴りかかりました。
小森淳もこの男性の体が邪魔でテレビが見えないという理由で、小林正人に続いて暴行に加わり、それを見ていた芳我匡由や他の仲間も加わって最終的に集団リンチに発展しました。
友人宅から木曽川に隣接した駐車場に場所を移した小林正人たちは、そこでも男性に集団暴行を加えました。
7時間以上もの間リンチを続けた結果、男性は既に意識低下を起こしており、シンナーに火をつけて肌に当てられても払いのけることすらできないほどでした。
男性が死ぬと悟った3人は、彼を近くの木曽川に流して処分しようと考え、すぐに男性を河川敷まで運んでいます。
しかし、夏草が生い茂っておりなかなか川に辿り着けなかったようで、川に流すことを諦め、まだかろうじて生きていた男性を木曽川河川敷の雑木林内に放置してその場を去りました。
6日後の10月13日、この男性が物言わぬ姿で発見されました。発見された際には白骨化が進み、死因の特定は困難でした。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の詳細③ 長良川事件
木曽川事件の翌日である10月7日、小林正人、小森淳、芳我匡由と仲間3人を加えた計6人は、愛知県稲沢市にあるボーリング場にいました。
恐喝しようと考えた6人は、ボーリング場にいた男性3人組に因縁をつけて、ボーリング場の外へ連れ出しました。
そして、被害者3人をむりやり2台の車に分けて乗せると、そのまま拉致しています。
暴行、金銭を巻き上げたら被害者を解放するつもりだった小森淳、芳我匡由に対し、小林正人の目的は違いました。
逃がせば通報されて逮捕されることを恐れた小林正人は、殺害を小森淳、芳我匡由に提案し、人通りの少ない場所を求めて岐阜県の長良川河川敷に3人を連れて行きました。
被害者3人のうち1人は運転手として利用したいと考えた小林正人たちは、残る2人を外に連れ出しました。
その2人をアルミパイプと角材で殴って暴行し、動かなくなったのを確認した後にその場を去っています。
翌10月8日、長良川事件の遺体が発見されて警察の捜査が始まりました。警察は現場一帯に多くの足跡が見つかったことから、複数人による集団暴行と断定しています。
その頃の小林正人たちは愛知県内に戻っていました。そして、小林正人は小森淳、芳我匡由に対して1人で別れることを提案したようです。
一瞬戸惑った2人でしたが、この頃の小林正人は仲間を殺す旨の発言をすることが増えており、2人とよく仲間割れを起こしてました。
そのため、2人は小林正人と別れることを選び、長良川事件の被害者1人を連れて大阪に戻りました。
そして、大阪に到着した2人は被害者の身柄の処置に困り、近鉄難波駅付近の路上で解放しました。
2日後の10月10日、この解放された被害者の証言から犯人グループがすぐに特定され、小林正人、小森淳、芳我匡由らが指名手配されました。
これを受けて、12日には小森淳が大阪府警に逮捕され、14日には小林正人が一宮署に出頭し逮捕、翌年1月18日には芳我匡由も逮捕されました。
リンチに加わった他の仲間たちも、その後全員逮捕されました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の判決とは?
「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」犯人3人の第一審・名古屋地裁
1995年5月29日、大阪地裁にて小林正人の初公判が行われ、同年6月8日には小森淳の初公判も開かれました。
そして、1995年6月26日には名古屋地裁にて小林正人、小森淳、芳我匡由の3人が揃った初公判が開かれました。
犯人3人は罪を擦り付け合った
3人の被告が揃った初公判では、3人は口々に首謀者は自分ではないと罪をなすりつけ合いました。
そればかりか、傍聴席に座る遺族を挑発するように笑いかけるなど、反省の色が全くうかがえない異常な態度に、遺族だけではなく世間からも怒りを買いました。
実は、3人がこれほどまでにふざけた態度を示したのには訳がありました。
未成年の自分達は少年法に守られて死刑にはならないと考えていたのです。
しかし、現実は甘くありませんでした。その後の裁判で小林正人には死刑、小森淳と芳我匡由には無期懲役が言い渡されました。
「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」犯人3人の判決は死刑
2005年10月14日に控訴審判決公判が開かれ、検察側の求刑通りに小林正人、小森淳、芳我匡由の3人に死刑に処す判決が言い渡されました。
予想していた以上に重い刑を受けた3人は、慌てて生きて罪を償いたい、反省していると訴え始めました。
しかし、そんな言動は減刑目的としか捉えられず、遺族や世間が同情の目を向けることはありませんでした。
その後、量刑不当を理由に3被告の弁護人は控訴しましたが判決は覆らず、弁護人はさらに上告しましたが、2011年3月10日に全員の死刑が確定しました。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の現在① 遺族が講演活動をしている
被害者遺族が講演を開いて事件について語った
2021年5月18日、小林正人、小森淳、芳我匡由らの凶悪な犯行の犠牲となった被害者・江崎正史さん(当時19歳)の遺族である江崎恭平さん(76歳)が、講演を行いました。
ある日突然、最愛の長男を亡くした江崎恭平さんは、日常の中に犯罪は潜んでいることを、名古屋市守山区の菊華高校2年生約250人に訴えています。
また、小林正人、小森淳、芳我匡由らに極刑が下ったにも関わらず、心は晴れず、むしろメディアやネット上での心ない声などが二次被害となり苦しみ、社会の正しいあり方を問いました。
講演で、江崎さんは事件発生からの日々を振り返った。「被害者は証拠のモノとしか扱われなかった」。当時は被害者支援の考えが浸透しておらず、初公判の日程すら知ることができなかった。公判途中から傍聴を始めると「なぜ息子は殺されたのか」を考え続けた。極刑判決が出ても「釈然としなかった。事件は終わったのか。現実には我が家に家族が一人足りないのは変わらない」。
「二次被害」にも言及した。メディアによる過剰な取材や誤報のほか、「早く忘れなさい。まだ娘も残っている」とも言われた。「悪気がない言葉でも遺族は傷つく」。最近は「(被害者は)誰でも良かった」という事件が起きていることに触れ、「いつ事件に巻き込まれるか分からない。安心して暮らせる社会になるよう切望している」と訴えた。
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の現在② 犯人たちの死刑執行はまだ行われていない
現在も、小林正人は東京拘置所に、小森淳、芳我匡由は名古屋拘置所に収監されています。
2011年6月20日から8月31日にかけて実施された、参議院議員・福島瑞穂氏によるアンケートでは、小林正人、小森淳の2人は以下のように答えていました。
死刑囚KM – 「こちらの主張に真剣に向き合って判断してくれる裁判官に出会いたい。その人に出会えるまで戦い続ける。弁護人・支援者には感謝している。(東京拘置所職員の)一部はいい職員だが、ほとんどは態度・口の礼儀を弁えないダメな職員だ。自分は動物園のサルではない」
死刑囚KA – 「『裁判所は事件の真実を分かってくれるのではないか』と思っていたが、その考えが甘かったことを実感した。大罪を犯した者は『事件の事実に沿った裁きを受けたい』と思ってはいけないのだろうか?(+支援者・弁護人への感謝の言葉)」
このアンケートの答えからうかがえるのは、小林正人、小森淳、芳我匡由らはおそらく死刑が執行されて死んでも反省することはないということでしょう。
遺族の心情を考えると、だらだらと裁判を続けることに意味があるのかと疑問でいっぱいですが、鬼畜である3人が今も生かされているのは、何か社会的な意味があるのかもしれません。
まとめ
未成年犯罪の中でも特に凶悪性が強いとされてきた「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」についてまとめてきました。
事件がエスカレートした根本的な原因は、小林正人の突出した凶悪性ですが、仲間内で虚勢を張り合ううちに止まらなくなった、というのが未成年犯罪の恐ろしい面かもしれません。
犠牲となった方々はそれまで普通に生活していたにも関わらず、ある日突然地獄のような暴行を受けて亡くなり、本人はもちろん、遺族も想像を絶する屈辱・苦しみを味わっています。
犠牲者の方々に対して、心からご冥福をお祈りいたします。