1999年に起こった池袋通り魔殺人事件。犯人の造田博は通行人を次々に襲った凶悪犯でしたが、その生い立ちや経歴は壮絶なものでした。
池袋通り魔殺人事件の概要や犯人の造田博の家族や生い立ち・経歴(両親の蒸発や高校中退後)、結婚の有無や事件の動機と死刑判決、現在と死刑執行についてまとめました。
この記事の目次
- 池袋通り魔殺人事件とは
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の家族
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴①:生い立ち
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴②:高校進学と両親蒸発
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴③:高校中退で職を転々
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴④:犯罪行為で逮捕
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴⑤:アメリカに渡航
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴⑥:新聞配達
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博は結婚していない
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の動機
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の判決は死刑
- 池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の現在:死刑執行はまだ
- 池袋通り魔殺人事件と犯人の造田博のまとめ
池袋通り魔殺人事件とは
事件前
犯人の造田博は1999年9月4日に自宅を出ると、池袋に行き、東急ハンズで犯行に使った包丁と金づち、さらに店員に怪しまれないように一緒にまな板とドライバーを購入してました。しかし、必要のないまな板とドライバーは近くのビルのごみ箱に捨てています。
そのまま池袋周辺で過ごし、その日から事件を起こす9月8日までは赤坂のカプセルホテルに宿泊していました。
9月5日~7日の3日間も池袋界隈に行って犯行に及ぼうか考えていましたが、無差別に人を襲うと兄などに迷惑がかかることから躊躇していました。
無差別通り魔殺人
9月8日、造田博はとうとう犯行を決意します。11時35分ごろ、池袋の東急ハンズ前に包丁と金づちを持って現れます。そして、「アー!むかついた。ぶっ殺す」と叫び、目についたカップルを襲おうとしますが、若いカップルには逃げられてしまいます。
その時、エスカレーターで高齢夫婦が上がってきました。造田博は66歳の妻の左胸を一刺しし、その後71歳の夫を金づちで殴って切りつけました。
それを見た通行人が池袋駅方向に逃げ出すのを見ると、そのまま追走し、すれ違った29歳の女性の左腰を包丁で刺しました。刺された女性は夫に支えられ、パチンコ店に助けを求め、病院に救急搬送されますが、出血多量で死亡しました。この女性への輸血は13,000mlにものぼったとのことです。
搬送先の病院で29歳の女性の死亡が確認されたのは、午後4時20分だった。輸血された血液は1万3千cc。全身の血液が3回入れ替わる量に相当する。
女性の左腰を刺した後、造田博は池袋駅方向に走り、私立高校1年生の4人グループのうち3人を切りつけ、さらに2人を襲います。
・66歳女性:死亡
・29歳女性:死亡
・71歳男性:全治3ヶ月の重症(66歳女性の夫)
・16歳男性:全治2週間
・15歳男性:全治2週間
・15歳男性:全治10日
・45歳男性:全治2週間
・52歳女性:全治10日
この方々が池袋通り魔殺人事件の被害者になります。
犯人・造田博は現行犯逮捕
池袋駅方向に逃げた犯人の造田博は、追いかけてきた通行人たちに取り押さえられました。そして駆けつけてきた警察官に現行犯逮捕されています。
造田博は事件当時23歳で、仕事を辞めたばかりの無職でした。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の家族
池袋通り魔殺人事件の犯人の造田博は、4人家族で育ちます。
・父親:腕の良い大工
・母親:ミシン裁縫、保険の外交員
・兄
・造田博
この家族構成を見ると、造田博はごく普通の家庭で育ったと言えるでしょう。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴①:生い立ち
造田博は、1975年11月29日に岡山県倉敷市で生まれます。3歳の時に児島郡灘崎町(現在の岡山市南区)に引っ越して、そこで育ちました。
造田博は活発ではないけれど、問題を起こすわけでもないごく普通の少年でした。
しかし、造田博が小学校高学年になった頃から、状況は変わってきます。まず、父親が肝臓を悪くして、病気がちになりました。そのため、仕事を休むようになります。
そんな時、造田博の祖父が亡くなります。祖父は兼業農家だったため、父親は土地を相続して大金を手にします。すると、ギャンブルにハマってしまったのです。
働かなくなった父親の代わりに、母親は保険の外交員となって家計を支えます。しかし、外の世界に触れたことでパチンコに手を出すようになり、パチンコにハマっていきました。
父親の病気と祖父からの土地の相続で、造田博の両親はギャンブルにハマっていき、家族は崩壊していきました。造田博の両親はパチンコのほかにも、パチスロ、競艇、競輪など様々なギャンブルにのめり込んでいきます。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴②:高校進学と両親蒸発
犯人の造田博は中学の成績はそれほど良いものではありませんでした。しかし、両親がギャンブルにのめり込んでいる状況を見て、必死に勉強をして、岡山県立倉敷天城高校に進学します。
倉敷天城高校はキー局のアナウンサーを輩出したこともある県内屈指の進学校で、この高校に入学できたことを誇りに感じていました。勉強ができたということが、造田博にとってのアイデンティティを形成する重要な部分だったようです。
「私は学歴社会はないのがいいと思っています。日本みたいに受験勉強やるのは無駄に点が上がるだけで私はいいと思っていません」と主張する一方で、「5教科で中学3年の時と高校に入った頃のテストの点は学校で一番だったかもしれません」と自分の学業成績へのこだわりを見せているというのだ。
良い高校に進学した造田博に対して、ギャンブルにハマっていた両親はギャンブル狂がさらに悪化していきます。祖父の遺産はそこをつき、消費者金融や闇金からも借金を重ね、造田博が高校2年生になった頃には借金の総額は4,000~5,000万円に達していました。
自宅には毎日のように借金の取り立てが来たことで、両親は日中には家に帰って来なくなりました。兄はすでに大学に進学していて一人暮らしをしていたので、借金の取り立ての対応は全て造田博がすることになりました。
両親は最初の頃はわずかばかりのお金を渡しに来ていましたが、それも来なくなり、造田博は弁当屋でアルバイトを始めます。しかし、それでは生活が成り立たずに、高校2年生の1993年5月31日に高校を退学することになりました。
高校中退後、アルバイトをしながら一人で何とか生活をしていましたが、ある日両親が家財道具を全部持ち去って、蒸発しました。これ以降、造田博は、両親に会っていないとのことです。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴③:高校中退で職を転々
高校を中退した造田博はアルバイトをしていましたが、両親が完全に蒸発し、家財道具がなくなったことで、実家に住むこともできなくなりました。広島にいた兄のところに一時的に身を寄せ、それから住み込みのパチンコ店で働くことになります。
しかし、そこも2ヶ月で辞め、兵庫、岡山、愛知、京都、そして東京と各地で職を転々とします。
・清掃員
・造船所の塗装工
・住宅美装会社
・照明器具工場
・自動車部品工場
わかっているだけでも、造田博は14回の転職をしています。最初は真面目に働き、人間関係にも気を使っていたのですが、次第に「給料が不満」、「体力的にきつい」などを理由に無断欠勤をして辞めるなど、1つの仕事が長続きすることはありませんでした。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴④:犯罪行為で逮捕
造田博は17歳で両親が蒸発し、一人で生活することを余儀なくされましたが、そこで心のバランスを失ってしまったのか、池袋通り魔殺人事件の犯人の造田博は問題行動・犯罪行為を犯すようになります。
万引きや無賃乗車
造田博は1996年に上京するのですが、この時は所持金が底をつき、野宿生活を送るようになります。そして、スーパーマーケットで食料品や衣類を万引きしたことがありました。
また、無賃乗車も繰り返しています。
無賃乗車は岡山や兄の自宅近く、さらに東京でも繰り返していました。造田博の無賃乗車が繰り返されるたびに、兄は鉄道会社等に謝罪し、乗車料金を支払って尻拭いしていました。
そのため、無賃乗車では刑事事件に発展することはありませんでした。
銃刀法違反容疑で逮捕
1996年12月に上京してスーパーマーケットで万引きをした時には、店員に取り押さえられ、交番に連行されました。そして、交番で所持品検査をされた時に、ナイフが持ち物から出て来たんです。
造田博が「護身用に持っていた」と証言したことから、銃刀法違反容疑で逮捕されることになりました。
この時は略式起訴され、罰金10万円の略式命令をうけています。
小学校の同級生にストーカー
1994年~1995年ごろ(造田博が18~19歳の頃)、造田博は小学校の同級生だった女性にストーカー行為をしていたことがあります。
1994年~1995年ごろ、造田博は小学校の同級生の女性に5回手紙を出していました。郵便ポストではなく、自宅ポストに直接届けたこともあり、「会いたい、一緒にいたい」という内容だったそうです。
造田博は裁判で「小学生の頃にこの女性から告白されたことがある」と証言していましたが、この女性は「仲が良い同級生ではないし、親しく話したこともない。自分の好きなタイプではないし、告白したこともない。自分から好意を告げたことなんて絶対にない」と供述していました。
ということは、造田博の完全な思い込み&勘違いであり、自分に都合の良いように記憶を改ざんしていたのでしょう。
ある日、造田博はその女性の自宅を訪ねます。造田が「会わせてほしい」と頼みますが、「うちの娘はあんたのことを知らないし、本人も嫌がっているから帰れ」と父親が対応したため、造田は彼女と会うことはできませんでした。
しかし、彼女への想いはずっと途切れることなく持ち続けたのか、1996年に電気工事会社の採用試験では、「彼女との結婚資金を貯めたい」と話していました。
この採用試験で話した「彼女」は、ストーカー行為をしていた小学校の同級生の女性だった可能性が高いです。妄想が止まらなくなってしまったのでしょうか。もちろん、本当にこの時結婚を考えていた実在の恋人がいた可能性はゼロではありませんが、そのような情報はありませんので、妄想彼女だった可能性が高いです。
外務省や警察庁への手紙
池袋通り魔殺人事件の犯人である造田博は、1997年夏に外務省や警察庁、国連に手紙を書いています。手紙を書くこと自体は問題行動ではありません。でも、その内容が支離滅裂で、やや「電波」のようなものでした。
世界中で見られる、生まれながらの精神障害者、奇形児の方々はすべて、歌舞伎町で会ったことが原因で患者になっています。だから私は日本で生まれることにしました。
私と関係があるという理由で、この小汚い者達はA子さんという女性を世界中の人達、私の目の前でレイプしようとしています。
助けて下さい。造田博にレイプされました。僕の彼女も造田博にレイプされました。造田博が僕の彼女のお腹に子供を作りました。世界中の人たちに助けてもらいます。国際裁判をします。僕達にはどうすればいいのかわかりません。お知えて下さい。国連の親父たちに言ってもらいたい。
この小汚い者達は60年後、2057年にはすべて存在しなくなります
これまでの人生の不満が蓄積し、そのストレスが屈折した方向に言ったため、このような支離滅裂な手紙を出すことになったのでしょうか。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴⑤:アメリカに渡航
1997年3月~4月にかけて、造田博は愛知県岡崎市で教会の日曜礼拝に出かけ、アメリカ人やキリスト教に対して憧れのようなものを強くしていきました。
そして、1998年6月、造田博はわずか200ドルを持って、アメリカのオハイオ州ポートランド市を訪れました。アメリカへの憧れがあっただけでなく、オハイオ州の隣にあるシアトルにストーカーをしていた女性が住んでいたということも関係していたのかもしれません。
しかし、所持金はわずか200ドル。しかも就労ビザではなかったため、仕事を探すこともできなかったため、すぐに所持金は底をつき、野宿生活となりました。公園で野宿をして行き倒れていたところを、日本領事事務所に保護されました。この時、造田博の体調は非常に悪く、さらに精神的にも錯乱状態になっていました。
そして、日本領事事務所から日本人の牧師・マイク横井さんに、造田博の世話をしてもらえるように依頼が行き、造田博は教会の仕事をする代わりに食事と寝る場所を与えてもらったのです。
造田博は山で仕事をしながら、日曜礼拝に通う生活を続けていて、充実した時を過ごします。
造田はアメリカでの日々を「アメリカはみんな努力している人ばかりで意味なく騒いだり、ちゃかしたり、笑っている人なんていない。ずっとここにいたい」と記していたという。
しかし、ビザを持っていなかったため、3ヶ月で帰国を余儀なくされました。航空券を買うお金もなかったために、造田博の日本への航空券はマイク横井さんの教会が負担したそうです。また、日本に帰った後に仕事に困らないように、マイク横井さんに日本での就職先も紹介してもらいました。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の経歴⑥:新聞配達
アメリカから帰国した造田博は、すぐにマイク横井さんに紹介してもらった職場に連絡しますが、うまくコミュニケーションが取れずに、そこで働くのをすぐに諦めてしまいました。また、日本に帰国した後すぐにパスポートを破り捨てています。
一時は働きながら大学に行くことも考えていましたが、経済的な理由でそれも断念しました。
それからは、アメリカに行く前のように職を転々とします。1999年4月24日、東京都足立区にある読売新聞販売店に電話をかけて、求人募集がないかを尋ねます。そして、翌日の4月25日からこの新聞販売店で住み込みで働くようになりました。
この販売店の寮は販売店から徒歩5~6分の場所にある木造1軒家の2階の一室で、ここに入居した時の造田博の荷物は携帯用CDプレーヤーと黒いデイパック1つ、少しの着替えしか持っていませんでした。あまりの荷物の少なさを見かねた家主は、造田に布団一式を提供しています。
ここで造田博は午前3時に出勤し、午後8時半には仕事が終わるという生活を送ることになります。勤務態度は真面目で、人付き合いもしていました。
「欠勤もなく仕事ぶりはまじめで、配達漏れもほとんどなく、優秀と言ってもいいほどだった」
「同僚ともプライベートの話はせず、物静かなタイプで仕事に打ち込む男だった」
「仕事や人間関係のトラブルはなかった」
職場での評判は上々でしたが、この新聞販売店に務めて、約半年後には池袋通り魔事件を起こしてしまうのです。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博は結婚していない
池袋通り魔殺人事件の犯人の造田博は、結婚していません。
14回も職を転々として、アメリカに行って行き倒れて日本に戻ってきたという経歴を見ると、30歳前後のおじさんというイメージを持つかもしれませんが、造田博は池袋通り魔殺人事件を起こした時にはまだ23歳でした。だから、結婚していなくても全くおかしくない年齢です。
経歴の詳細を見ても、結婚できる環境ではありませんでしたよね。
・両親蒸発
・万引きや無賃乗車
・銃刀法違反で逮捕歴あり
・同級生にストーカー行為
・アメリカに所持金200ドルで渡航するも行き倒れて、領事館と教会のお世話になる
このような経歴の23歳は、なかなか結婚できないと思います。また、アメリカのポートランドに行ったのは、ストーカーしていた同級生の女性が隣の州のシアトルに住んでいたからという説もありますので、ほかの女性と結婚するとは思えません。
死刑が確定した後に、死刑囚と支援者が結婚するケースもありますが、造田博が結婚したという報道はありませんので、造田博はまだ未婚で結婚していない可能性が高いです。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の動機
出典:twitter.com
池袋通り魔殺人事件の犯人の造田博の動機は、世の中への不満を屈折させた形で爆発させたことでしょう。取り調べに対して、造田博は事件の動機を次のように語っています。
ただ、造田博は高校生の頃から人生に絶望していたはずです。頑張って進学校に入学したのに、親の借金で中退して、さらに両親が蒸発したのですから。なぜ、あのタイミングで事件を起こしたのか?その動機は携帯電話への無言電話です。
事件の1週間前の9月1日、造田博は寝坊で仕事に遅刻しました。それまで造田は携帯電話を持っていなかったため、店長から携帯電話を持つように勧められて、携帯電話を購入しました。
そして、事件の5日前である9月3日、造田博は店長だけに携帯電話番号を教えるつもりでしたが、同僚の1人にしつこく聞かれて、仕方なく電話番号を教えます。そして、その日の夜勤中の22時過ぎ、携帯電話が鳴りました。出てみたところ、無言電話ですぐ切れてしまったのです。
番号を教えた同僚は造田博が嫌いな「努力しない人」であり、造田は軽蔑し、嫌悪を抱いていました。そんな人物にいたずら電話をされたことに、造田博は激しい怒りを覚えました。
そして、その怒りは同僚だけでなく、世間の人たちにも向けられます。
その日の深夜、造田博は次のような手紙を部屋のドアの前に貼り付けました。
わし以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお。
わしボケナスのアホ全部殺すけえのお
そして、そのまま職場の部屋を出ます。職場には何も言わず、携帯電話の電源も切っていたため、無断欠勤となり、9月6日に解雇となりました。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の判決は死刑
出典:twitter.com
池袋通り魔殺人事件の判決は死刑です。
犯人の造田博は殺人罪および殺人未遂罪・銃砲刀剣類所持等取締法違反・傷害罪、暴行罪で起訴されました。弁護側は造田博の心神喪失・心神耗弱状態を主張しました。
・凶器の包丁・金づちを購入する時に、怪しまれないようにまな板とドライバーを一緒に購入していること
・刃先の欠けた包丁を捨てていること
これらのことから犯人の造田博は責任能力に問題はなかったとして、責任能力を完全認定しています。
一審では死刑判決、二審は控訴棄却、最高裁では上告棄却で2007年に死刑が確定しました。
池袋通り魔殺人事件の犯人・造田博の現在:死刑執行はまだ
犯人の造田博は2007年に死刑が確定していますが、現在はまだ死刑執行されていません。
週刊新潮の報道によると、東京拘置所に収監されているようです。
「造田は何もしゃべらず、下を向いて一日過ごしています。”お茶要りますか?”と聞いても、やや間をおいて手でバッテンの合図をする位で、私は彼の声を一度も聞いたことがありません。
また、汚くてどうしようもない人間で、シャツも洗濯しないから、白いシャツが真っ黄色になってしまっているのです。トイレも絶対に流さないので、房は臭くて仕方がない。一言で言えば”廃人”同然の人物で、扱いにくさでは、フロアで屈指でした」
引用:池袋通り魔事件
これが本当なのであれば、造田博は精神的に病んだ状態になっていると言って良いでしょう。だから、死刑が執行されないのかもしれません。
刑事訴訟法第479条には、次のように明記されています。
第四百七十九条 死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。
一般的に死刑判決から死刑執行までは平均5年とされています。造田博は2007年に死刑が確定していますので、15年以上が経過しています。それなのに、死刑が執行されないのは、「心神喪失状態にあるから」なのかもしれません。
池袋通り魔殺人事件と犯人の造田博のまとめ
池袋通り魔殺人事件と犯人の造田博の家族や生い立ち、経歴と事件の動機や裁判での死刑判決と現在についてまとめました。
死刑確定から15年以上死刑執行がないのは、何か大きな理由があるのかもしれませんね。